05.酒と郷愁と男と男
“30”の数字を右上から赤ペンで斜線を引く。去年の末に買った赤い布張りのスケジュール帳は本日から新しい月へとページを変えた。
気付けば三つの月が流れ、雛菊がラキーアに来て二ヶ月半を迎えようとしていた。
季節の流れは地球と同じくらいと見ていいのだろう。夏へと向かう青々とした空と白く雄大な入道雲を見上げ、雛菊は息を零す。
「もう期末テストも終わった頃かなぁ」
雛菊が入学したばかりの高校は地元でも有名な公立の進学校だったが、大型連休を迎える前にはラキーアに来た為、あまり学校生活を満喫していない。
気付けばこんなに時が経ち、中間テストもやっていなければ高校の授業すら最初の二週間だけしか受けていない事実まで思い出す。
「うーん、普通に戻ったら留年確実だろうなぁ」
などとぼやくが鞄の中にしまってある教科書を開いて勉強をする気にはなれなかった。勉強したところでテストはないし、しかも数学に至っては異世界人のシャナの方が飲み込みが早いとあっては面白いとも思えなかった。
(大体反則なんだよね。私がやっとラキーアの絵本を読めるようになったら、シャナは高校教科書レベルの漢字まで覚えるんだから)
元々研究熱心のシャナは雛菊の教科書も読書代わりに借りたことがあった。最初の内は雛菊に文字を教わったりもしたが、ひと月も経てば雛菊の力を借りず地球から持参した電子辞書を拝借して活用し、今では全てを読み終えた現国の教科書は学生鞄へと戻ってなりを潜めている。本来雛菊が使う筈達の教科書達は、早々と閑職に就いた訳だ。
「今ごろ皆何してんのかなぁ」
期末も終わって夏休みを待ち遠しくしてる時期だろうか。
懐かしみながら、雛菊はスケジュール帳の一ページに貼っていた写真シールをなぞる。
中学からの友達と高校で出来た新しい友達とで撮ったプリクラ。もしラキーアに来ていなかったらこの夏は彼女らと何処かに遊びに行っていたんだろう。そう考えると雛菊は今、自分がこの世界にいることをとても不思議に感じた。
普通ではありえない経緯を経て、時空を越え、世界を越え、不思議な力を持つ少年と、鼓動のない心臓を持つ特異な身体の青年と奇妙な共同生活を送っているのだから。
おまけに、雛菊自身はセラフィムという不思議な花の力を持つ者とされている。
その力には何も目覚めてはいないが、そんな物語のような現実が身に起ころうなどとこの時の自分は本気で信じていただろうか。
雛菊はプリクラに映る自分の姿を眺める。
これを撮っていた時の彼女は、シャナの夢を見続けていただけのごく普通の女子高生だったのだ。
本当はその時も今も雛菊自身の中身は何も変わっていない筈なのに、何故かその瞬間が遠い思い出のように見えた。
「……さ、洗濯物でも干そうかな」
誰に言うでもなく声に出し、雛菊はスケジュール帳を鞄の奥にしまった。
異世界での生活は雛菊が想像したものより穏やかなものだった。
例えば物語の主人公のように現代から別の世界にトリップしても魔物や盗賊に襲われるといった危険に見舞われる。或いは「ある物」を求めて危険を顧みずに冒険の旅に出るなどといった波乱と勇気のアドベンチャーの類は雛菊の身に置き換えると無縁だ。
雛菊の立場としてから言えば政争などに巻き込まれたりする危険がない可能性もゼロではないらしいのだが、現状としてはそんな兆候はなく日がな一日家事活動に勤しむ毎日である。
(あまりに穏やか過ぎるから重ねちゃうんだろうなぁ)
空になった洗濯籠を抱え、雛菊は欠伸を噛み殺した。最近、夜中に目が覚めてばかりで、あまり深く睡眠を取れていなかった。眠い目を擦り視線を上げれば、今しがた干し終えたシーツやタオル、シャツがはためいていて、元の世界でも見られた同じ光景が映る。
なんら珍しい光景でもないのにそれが雛菊には物凄く懐かしいものに見えた。胸に湧き上がるじんわりとした切なさ。不意に湧き上がった気持を雛菊は知っていた。
無意識に零れる溜息。足下では心配そうに赤い聖獣が体を擦り寄せて来た。
「大丈夫だよ、ルビさん」
己を案じる聖獣を鼻筋から額にかけて撫で、雛菊はそのままルビを抱き上げる。ルビは雛菊の胸元で満足そうに一声鳴くと、ゴロゴロと喉を震わせた。
日向でまったりと寛ぎ、雛菊はそよそよとそよぐ木立ちの音に耳を澄ませる。
穏やかな空気。この世界だからこそ自然体に溢れている緑の中なのに、都会の喧騒を懐かしく思う自分がそこにいた。
「ホームシックなんて、情けな……」
情けなく肩を竦めていると、風が吹いた訳でもないのに木の葉が急にざわついて雛菊の頬を何かが撫ぜながら横切る。驚いて視線を動かすと、森の奥からシャナが頭に草や枝を数本刺し、鳥の巣のように乱した髪をそのままのっそりと姿を現していた。
「珍しい、日向の下にシャナがいる」
ぼろぼろな容貌と、予想外の人物の登場に雛菊はつい正直な感想を零す。
「随分な言い様だけど、僕は君の知らないところで色々な場所に行くんだよ」
雛菊の言葉に気を悪くしたのか、むすっと言葉を返すとシャナは懐を探り、青い筋が目立つ星のような形を成した葉を取り出す。
「クバ草。これをお茶にして飲めば安眠出来るんだ」
そう言って、シャナは星型の草を押しつけるように雛菊に渡した。
「飲めば? そのみっともない目の下の隈も目立たなくなるかもね」
素っ気ないシャナの指摘に雛菊は慌てて自分の目許を押さえる。ここ最近の遅いホームシックから不眠症気味だったのは筒抜けだったようだ。ただ、そんな事を悟らせまいとしていただけに雛菊の動揺は予想より案外大きい。
雛菊は手渡された星型のクバ草とシャナを交互に見つめ返す。
「これは、私の為?」
「別に。ただ、最近夜中に何度も寝起きする君の為になるやつを取って来いって、アサドに頼まれたからそうしただけだよ。こういう薬草類は精霊師の専門だしね」
ふいと顔を背ける仕草は照れ隠しだろう。シャナの不器用な優しさを知っているのですっかり嬉しくなった雛菊は、彼の手を引いて近くの切株に二人ならんで腰を下ろした。
最近の少年は以前より雛菊に対して少し角の取れた対応をするようになった。それは雛菊がセラフィムと判明したからか、彼がそのことに対して事実を認めたからかは定かではない。だが此処最近、彼が外出をよくするようになったのは良い傾向だと思っている。
「今度、薬草を取りに行く時は声をかけてね」
「嫌だよ。お守りは面倒だ」
「でもシャナは私を守ってくれるって言ったよ? だから私が無理にでもついて行けば放っては行かないよね?」
飄々と反論をし、シャナを見やる。確かに以前そう宣言したシャナは息を飲むように閉口した。口をへの字に曲げるその顔は不機嫌と言うより、やはり照れ隠しの表情に近い。
雛菊はその顔を満足げに眺め、口許を緩める。子供らしい顔をするシャナを見るのが何気に好きな事に最近気付いたのだ。
少年は年上であるらしいが、弟がいたらこんな感じなのだろうと雛菊は思い、ふわりとスカートの裾を翻して立ち上がった。
「今夜は特別にプリン・ア・ラ・モード作ったげる。アサド君には何にしよっかなぁ。市場でワインでも買ったげよっかなぁ。それで夕食はミートローフにしちゃって――」
うきうきと頭にレシピを浮かべる雛菊の明るい顔に郷愁の念が薄れたのを見て、シャナがこっそり安堵の息を漏らしたのだか、無論少女は微塵も気付かなかった。
* * * * *
「今日ってなんかめでたい日だったっけか?」
不定期に舞い込む賞金稼ぎの仕事を終えて帰宅したアサドが、鼻先をくすぐる香ばしい匂いを前にぼやいた。
「アサド君、おかえり~。どうだった賞金首は捕まった?」
「おう、報酬も貰ったから食費の足しにしてくれ――じゃなくて、どうしたんだよ。今日はやけに豪勢で」
テーブルに並ぶのは沢山のゆで卵で周りを固めたミートローフに、焼きたてのパン、青菜のサラダ、黄金色のポタージュスープに、フルーツポンチが並んでいる。
普段よりいくらか賑やかな食卓に、シャナは心なしか嬉しそうに席に着いて読書中。アサドはシャナを見やり、頭の中の暦の日付を数えていた。
自分の誕生日ではないのはよく知っているので、シャナの誕生日かと考える。しかしそもそもこの少年の誕生日を知らない。
「ヒナの誕生日か?」
「違うよ。強いて言うなら“なんでもない日”かな。私が作りたかったから作ってるだけ」
アサドの問いに、樽から取った赤紫色のグレフ酒を入れた水差しを抱え、雛菊はニコリと答えた。
「もういつでも食べられるから、アサド君は手を洗って席に着いてね」
てきぱきとテーブルに人数分のグラスと取り皿、ナイフとフォークを並べ、雛菊は腰に結んだ白いエプロンのリボンを解く。シャナさえいなければまるで新婚夫婦みたいなやり取りだなと、雛菊に言われた通りに手を洗いながらアサドは思った。
「一体なにごと?」
こっそりシャナに尋ねるとシャナは意味深に肩を竦め「やりたいようにやらせれば」と言う。
まるでシャナだけが理由を知っているようで、取り残されたアサドは面白くない。少し拗ねて席に着くアサドの気持を知ってか知らずか、雛菊はにこやかに一緒の席に着いた。
「シャナ、アサド君、今日は私からのささやかなお礼です」
ニコリと言われる言葉に、アサドはきょとんと首を傾げた。
「お礼?」
「心配してくれたお礼。私、元気だから安心してね」
何の話をしているのか始めは分からなかったアサドだが、キッチンの傍、粗い目の籠に積まれたクバ草を見て理解した。
「成程、だからお礼ね」
頷いてアサドは切り分けられたミートローフを口にする。たっぷりの肉汁が口の中に広がり、舌鼓を打つ。
「うん、美味い」
隣りではシャナも黙々と食べ続けている。彼は物を食べる時は動物的にそれに集中する癖があった。それ以上にそこまで夢中になれるくらい真心の籠った手料理が美味しいだろう。
スープを飲んでいる時、ふと雛菊と目が合えば、少女はアサドに柔らかく微笑んだ。アサドも笑みを返しながらほっこりと胸の暖かさを感じる。
不思議な話、雛菊と出会ってからの食卓は今までにないくらいに温かなものだった。
長い間シャナを追って旅をしていたアサドの今までの食事は質素なもので、息抜きに贅沢もし、横に美女を侍らせては高価な食事も楽しんだものだが、どちらがいいかと問われれば今がいい。
シャナと一緒の食卓を囲んでいるのも信じられないくらいだ。
これも一重に雛菊の力なのかと思うとアサドはつい顔が綻んでしまい、当の本人が不思議そうに目を丸くするので余計に和んでしまった。
豪勢な夕餉はあっという間に過ぎていった。
シャナはデザートのプリンを満足げに頬張り、アサドは手酌でグレフ酒を堪能する。雛菊はシャナが摘んで来たクバ草のお茶をクッキーと一緒に味わっていた。
「この茶葉、ほんのり甘くて美味しー」
野草茶は癖がありそうというイメージを覆されたか、満足の味に口許を緩ませ、もう一口とお茶を飲む雛菊をアサドは観察していた。
こうしてお茶を啜りながらクッキーを啄む姿は、何処にでもいるごく普通の少女に見える。
「アサド君、どうかした?」
「あ、いや別に、元気が出たんだなって思って」
「おかげ様でね」
少女はにっこりとアサドの金色の目を見つめ返して微笑む。漆黒の瞳が真っ直ぐに光を帯びて輝いていた。
此処最近、自身の笑顔が曇っていたなど気付いていなかっただろう。むしろ、気取らせないように隠そうとしていた。同居する男二人が元気のない少女をどうしたものかと頭を悩ませていたのも知らないのだろう。
今ではすっかり元の快活さを取り戻した少女は二杯目のお茶を飲み終えた所でゆっくりと息を吐いた。
「プリクラがね、悪いんだ」
「――は?」
一瞬、何の話を始めたか分からなかったシャナとアサドの二人は揃って目配せして確認しあう。そんな二人の頭上に浮かぶはてなマークも気にせず雛菊は続けた。
「プリクラが今回のきっかけなの」
何故か頬を赤らめて俯く雛菊を、二人は何処かドキドキしながら固唾を飲む。
「この前、私にセラフィムの力があるかもって判明したでしょ? だから私、やっと自分の役割が持てた気がして嬉しかったの。それで、気持の整理をつける為に元の世界の荷物を整理してたらスケジュール帳に貼っていたプリクラが出て来て……」
「ヒナギク、その前にその“ぷりくら”って、何?」
同意見のシャナの質問に隣りでアサドが頷いた。
雛菊もまずは始めなければならない説明に気付いて、慌ててロフトへ上がり暫しがさごそと鞄を探ってからお目当てのものを取り出してすぐに戻って来た。
「これがね、プリクラ。写真撮ってらくがきしてシールにした物なの。写ってるのは私と私の友達だよ」
「すっげー精密画。これ全部手描きか?」
「絵じゃないよ。何って言ったらいいのかな。画像の焼付けみたいなものかなぁ」
最小で人差し指の第一関節サイズからなるプリクラを前に、シャナは興味津々と眺める。
「凄い……。こんな小さい紙に君と他の人がはっきりと写ってる。君達の世界の技術は聞いていたけど、面白い。実に面白いよ……!」
「そう? でも私はその原理については全く分からないから、技術的な説明は無理だよ?」
「……そういえば暗い部屋に出来た小さい穴から漏れ出た光が反対の壁面に外の風景を映し出す現象があるとか読んだな……それを応用したらヒナギクの世界の技術に辿り着くのかも知れない」
雛菊の話もそっちのけで、シャナはブツブツと呟き始めた。どうやら少女の一冊の思い出が少年の探求心に火を着けたらしい。
気持がよそを向いた少年に対し、隣りでアサドが肩を落とす。
「――で、その友達らを見てたら懐かしくなったんだ」
「そうだね。簡単な話、ホームシックだったんだよ」
別のことに興味を移したシャナはさて置いて改めて話を戻すと、雛菊はあっさりとお茶を飲みながら頷いた。
「多分、急に役割らしいものが見えて私なりに不安だったのかも」
苦笑する少女を前に、アサドはその不安要素が何かは問わずとも分かる気がした。
まだそれらしい能力に目覚めてはないのに、既に現段階で人二人の願いがその細腕にかかっていると慣れば重荷に感じない訳がない。
元はシャナとアサド二人の因果とも世界とも関係のない異世界の少女だ。全てを投げ出しても帰りたい気持に駆られるのは当然の流れであり、アサドが責められたものではないのだ。
「重荷だったりするか?」
「んー……本音を言えば少しね。具体的にどうしたらいいか分からないし試してみても何も出来なかったし」
人差し指と親指の間に小さな隙間を作り、雛菊は口の端を片方だけつり上げる。だがすぐに元の笑顔を取り直し、雛菊はアサドの瞳をじっと覗いた。
「でも、役目を終えるまで帰る気はないから安心してね」
まるで気持を見透かすように雛菊は言った。
「私は元はシャナの願いに応えて来たけど、アサド君の願いだって叶えるよ。だから、心配しないで」
強い意思すら宿しているかのような黒曜の瞳に一瞬アサドは飲まれかけたが、その雰囲気を取り払うかのように短く息を吐き出して笑う。
「此処最近、ホームシックで不眠症だったお嬢さんが言ってくれるよ。人を気にするよりまず自分の体が先だろうが」
逆に心配されていた事を少し恥じ、アサドは雛菊の額を人差し指で小突いた。
「そういう特殊な事は流れに任せりゃいいんだから、ヒナはよく食べて、そのお茶飲んで、今夜は寝な」
「……うん」
大きな手でくしゃくしゃに頭を撫でられ、雛菊は少しはにかんで頷いた。その傍でシャナは大仰に咳払いをして、アサドの意見に賛同して首肯する。お茶の葉を取って来たのは彼だから此処で苦労が報われたかったのだろう。
そんなシャナを一目見て、雛菊は笑って三杯目のお茶を飲んだ。
* * * * *
「寝たのかい?」
五感の鋭いアサドを頼りにシャナが静かに問いかけた。
アサドはリビングの端に設置してあるロフトへと延びる階段を見上げて耳を澄ませる。
「……ああ。寝息が一定に落ち着いてる。俺らのお姫さんは眠りについたみたいだな」
空になったグラスに赤紫色のグレフ酒を注ぎ、その瓶を更にシャナのグラスへと傾ける。
「久しぶりにどうよ、俺の酒は」
「頂こうかな」
シャナは喜んでグラスをアサドに差し出した。実はアルコールは嫌いではないのだ。
なみなみと酒が注がれたグラスの口を二人はどちらからともなく付き合わせて音を鳴らす。こうして盃を交わすのは十年振りだった。
「まさかまた、こうやってお前と酒が飲めるとはな」
「同感だ。もう一生有り得ないかと思ってた」
子供の体に似つかわしくないぐらい、慣れた手付きでグラスを回してシャナは久々のアルコールを堪能する。実年齢とは相反する見た目の所為で、雛菊が当然のようにシャナに酒を用意しなかったのだ。
恐らく実年齢を知ったとしても少年姿のシャナに飲酒を許す彼女でもないとは思うが、今はその雛菊も床の中。咎める人はいないので、気兼ねなく酒精と付き合える訳だ。
「――本当は君と顔を合わせるつもりはなかったんだよね、合わせる顔がなかったというかどんな顔したらいいか分からなかったし。許されないことをした。負わせるべきでないものを背負わせて僕自身、しっかり向き合えなかったんだ。言い訳だけど……」
「分かってるよ。が、それでも何も言わずに逃げ出されたら殴るまで煮え切らないままだったよ俺は」
「勿論、必ず君の身体を治す気で研究を続けてはいたけど、昔のように戻れる筈ないって思ってた」
一、二杯グラスを酌み交わした頃、アルコールの混ざった吐息と共にシャナは悔恨を吐露した。まるで懺悔室で跪く信者のようなシャナを前に、アサドの顔付きも神妙になる。
「本当に取り返しのつかないことをしたと思ってる。僕が君の全てを目茶苦茶にしてしまった……」
「それは俺も同じだ。きっかけを作ったのは俺だからな。結局、俺が弱かった所為でお前を追い詰めてしまったんだよな。……初めての友人なのにな」
「友人――ね」
“友人”という言葉を耳に、シャナは前髪を後ろになでつけるように掻きあげる。どうにも気恥ずかしく、口許が緩んでしまうのを隠すように一気にグラスのグレフ酒を飲み干した。
シャナがアサドの初めての友人なら、それはシャナにも同じだった。その初めての友人に悔いても悔やまれないことをしてしまった。今でも夢に見る程胸が締め付けられる過去だ。
やむにやまれぬ事情でアサドに人としての肉体を奪った過去。それによりアサドは望まぬ不老の身体を得てしまった。思わぬ呪詛で今も彼を苦しめている。
恨まれても仕方がないと思っていた。
憎まれて、彼に殺されても仕方のない人生だと思っていた。
だが、実際に再会してそれは違った。
今、昔の親友と共に暮し、同じ釜の飯を食べ、盃を交わす。
不思議なくらい穏やかな気持で、少しばかり前向きな気持で向き合える自分がそこにいた。
「僕は、君になら殺されてもいいと思ってた。でも、今は悪いけどまだ死ねないんだ」
「俺も、殺してやろうと思ってた。けど、悪いが頼まれても殺してやんねぇんだ」
お互い、似たような意見に顔を合わせて吹き出す。ひとしきり笑ってアサドが目尻を下げて零した。
「――ヒナのおかげだな。今の俺達がいるのは」
グラスを回して、中のお酒に渦を作り、それをぼんやり眺めながらシャナも同じ事を思った。向かい合うアサドも、空のグラスを回しながら何やら半分物思いに耽っている。
「……変だよな――ただ笑ってそこにいるだけなのに。忙しなく動いて、すぐ騙されてからかわれて、でも隠れてホームシックにかかってよ。ホント、普通の女の子なのに、俺ら、ヒナの前じゃ気付いたらイイ人になってんだ」
「俺らって、僕も含まれてる?」
「含まれてるだろ。大体、ヒナが雨に濡れるのをお前が放っておけば俺に見つかることもなかったんじゃないか?」
ニヤリと意地悪く口の端をあげるアサドに、シャナは何も言い返せず悔し紛れに鼻を鳴らす。
「なんだろうな、あの子は。人を和ませるのがセラフィムの力だったりすると思うか?」
酒のつまみと出しておいたチーズをフォークに突き刺し、それをシャナに指さすように向けてアサドは問うた。シャナはチーズから飛び出たフォークの切っ先を嫌な顔で見つめ、その手を右手で払い除ける。
「さあね。セラフィムの能力に関しては僕さえ殆ど分からないんだ。あれはヒナギクの天然なんじゃないの?」
「ふぅん」
分かったような分からないようなアサドの生返事。アルコールが回って来たのか、だれたように頬杖をついてアサドはニヤニヤと笑った。
「お前、知ってたか? ヒナな、スッゲーいい匂いがすんだよ。花みたいな匂い。アレがセラフィムの匂いかねー。傍にいると心地よくてさ、浄化された気になんだよ。お前もさ、わかんねぇー? その気持」
若干呂律が回らない舌で熱弁するアサドに、シャナは肩を竦めて小さく微笑う。
「さあ? ただ、ヒナギクが纏う空気は僕らには必要なものかも知れないね」
「だろ? ヒナは俺達に必要なんだよ。セラフィムだからってだけじゃなく、何か別の理由で。だからさ、シャナ。ヒナの事、大事にしような。俺らで守るんだよ。ヒナが泣かないように、笑えるように――」
「……そうだね」
シャナが静かに頷くのを確かめると、アサドは満足そうにその場に顔を埋めてすぐに寝入ってしまった。
アサドはお酒は割合弱い方ではないが、一定量のアルコール量に達すると電池が切れたように眠ってしまう。昔からそうだったと思い出して、シャナはグラスの残りを一気に喉に流し込んだ。
久しぶりに語った。
久しぶりに酒を酌み交わした。
そんな風にアサドとゆっくり話が出来るようになったのは、確かに雛菊の存在の賜物だろうとシャナは思う。
人が嫌だと言っても、強引に物事を押し通してしまう彼女の所為だと。
それでいてその強引さが不快でないから許してしまう。それはアサドも同じなのではないだろうか。
単なる少女一人のホームシックに揃って動いて、気遣って。
「全く、大の男が二人揃ってなんで振り回されるんだろうね」
此処から見えないロフト上で眠る少女に向かってシャナはぼやく。
返事がない代わりにアサドが頭を預けるテーブルにて小さく呻いた。真夜中の宴会もこれで打ち止めらしく、まだ飲み足りないと思いつつもシャナはリビング脇のソファーに寝転がった。
やがて、リビングに三人分の寝息がヒソヒソと会話を始めるのであった。
* * * * *
爽やかな朝だった。
天窓のカーテンの隙間から温かな陽射が目許を照らし、雛菊は目を覚ます。大きく伸びをして、寝起きの気怠さを払い除けて彼女は一気にベッドから飛び出した。
「よく寝たー」
昨夜のクバ茶が効いたのか、毎日しっかり寝ていた筈なのに今日は一段と気分が晴れ晴れとしているのを体で感じ取っていた。
昨日まで抱えていた元の世界への恋しさも、今はさほど気にもならない。決して痩せ我慢で恋しくないという訳ではないのだが、支えてくれる人を実感したことで不安が軽減されたのが一番の要因だろう。
雛菊は壁にかけた時計を見ていつもより寝過ごしたのに慌て、急いで普段着に替える。特に朝から仕事や学校がある訳でもないのに、決まった時間に朝食を済ませたいと思うのは習慣なのかも知れない。
白いエプロンを手に取り、紐を腰に巻いて結びながら雛菊はロフトの階段を下りた。そして、鼻をついた匂いに顔を歪ませる。
「臭っ!! やだー、なぁに、この匂い」
気怠く、むわっとした立ち籠る匂い。その独特な臭気は、酔っ払って帰宅さた父親のそれとよく似ていた。
その匂いはテーブルで突っ伏して眠るアサドと、リビングのソファーで眠るシャナから発せられているように感じた。
「アサド君はともかく、シャナは子供の体のくせに……。大体、お酒は嗜む程度に飲みなさいってのよ」
ブツブツ文句を零し、雛菊は家中の窓という窓を全て開けて回る。しかし、文句を言いつつも彼らを無暗に起こさないのは彼女なりの気遣いだ。
仕方ないから、だらしない彼らの為に胃に優しい朝食を作ってあげよう。
雛菊は袖を捲りあげてキッチンの前に立った。
それから数十分後。食欲をそそられる香りに酔い潰れた二人が目を覚まし、寝足りないだのと文句を言いながら一緒に朝食の支度を手伝う光景が見られる事となる。
* * * * *
風が運ぶ潮をうざったそうに、ランフィー・アル・キーバはなびく茶色の髪を右手で撫で付けながら顔をしかめた。
少年と青年の間といった少し幼い顔立ちの男は、纏わりつく空気で肌がべたつくのを嫌がり、藍色のマントを深く纏う。
磯の匂いが鼻につく。
生臭い港の匂い。
賑やかで大きな運河が渡る港町だが、やはり彼の知る都市と比べると随分軽薄で田舎臭い印象を受ける。
「本当にこんなど田舎な港町にあの方がいるのか?」
鼻にかかる眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げ、疑わしそうに少年とも青年ともつかない声で一人ゴチた。そして華美な装飾の馬車から降り、町の門をくぐる。
人でごった返す大通りを前に、ランフィーはまず眼鏡の奥の灰色の目を歪ませた。
まるで空気が合わないと言いたげに、ランフィーは人を避けて歩く。靴に土埃もつけたくないかの如くの早足で、迷わずこの町で一番大きい宿を選んで足を踏み入れた。
「いらっしゃいませ。お客さん、お食事? それとも宿泊ですか?」
明るいハキハキとした宿の主人の接客の声でさえも耳障りだと眉間に皺を寄せ、ランフィーは懐から金の箔押がされた書状を突き出した。
主人は一瞬、何事かと目を丸くしたが、高級羊皮紙の右下に押印された紋を見て息を飲む。
馬鹿でも分かる権力を前にランフィーは得意げに灰色の目を細めた。
「私はアーシェガルド国が直属の宮廷精霊師、ランフィー・アル・キーバである。御国より勅命を受け、暫くこの町に厄介になる事になった。従って、早急にこの宿一の部屋を用意してくれますね」
「ウィ、精霊師殿でいらっしゃいますか!? は、はい! 仰せのまま、す、すぐにご用意させて頂きますっ」
主人は白髪混じりの禿頭を恭しく下げ、慌ててカウンター奥の妻に事を知らせに走った。
主のいなくなったフロアで、部屋が用意されるまで時間を持て余したランフィーはカウンター向かいの壁際に設置されているベンチに腰掛け、更に顔をしかめる。
「……安物のクッションだ」
それでも立って待つよりは幾分かはマシのようで、それでも嫌悪を表すように浅く座り、物憂げに息を吐き出す。
いくら国王からの勅命とは言え、体のいいお使いに彼は不満を抱いていた。
王都暮しの彼には安物のベッドで眠る事すら耐え難い苦行だ。
取り敢えず、経費で満足の行く調度を揃えよう。
そう心に決め、もう一度重々しく息を吐き出した。
「早く帰りたい……」
それは、若き精霊師の憂鬱だった。