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シャナと花のバラッド  作者: 藤和葵
第二章・一つ屋根の下
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03.ゆびきり

 

 アサドと出掛けた翌日から、芳しくない空模様が続いている。

 鈍色の重い雲が天を覆い、雨粒が大地を叩く。ザーザーと降り注いだりしとしとと流れたり、強弱をつけながら雨は三日続いた。

 三日間の雨に雛菊は腐りそうだった。

 洗濯物は綺麗に乾かない、買い物には満足に行けない。テレビもゲームといった娯楽がない。有り余るのは書物だが雛菊にはラキーアの文字は読めない。持て余す暇で窓枠や棚の中など普段なかなか手が回らない箇所の掃除をとっくに済ませてしまった。手の込んだ料理も考えたが、買い出しに踏み出せないので食材を多く使うのははばかられた。

 件の井戸転落から足の怪我で暫くは安静を余儀なくされるかと思ったのに、帰宅するなりシャナの魔法であっという間に完治してしまった。

 本来の精霊師ウィッカは精霊と言葉を交わし、彼らの知恵を学んで薬学に特価した導師を指すようなのだが、精霊との付き合いが上手いと精霊そのものが持つ力の恩恵により、雛菊が連想する炎や氷を現出するといった魔法が使えるようになる。

 その術を精霊術ウィスと言うのだが、シャナはその中でも頂く恩恵が大きく、程度にもよるが打ち身、切り傷、火傷、骨折などの治癒が可能になるらしい――。と、治療に感激する雛菊にアサドが教えてくれた。

 だったらシャナが負わせたアサドの傷はどうして治さなかったかと問えば、アサドは体質上治癒術が効かないらしい。その代わり回復力が高く、大抵の傷なら数時間程度で完治するのだという。

 そんなアサドには精霊師の特質性は全くない。

 精霊師の条件はまず精霊を視ることにあるらしく、たまにピントが合うくらいなら常人にもあるようだが常にピントが合っているのが大事らしい。

 なんだか幽霊が視える人のようだと雛菊は思った。アサド曰く、それとこれは別のようだが、精霊は認められていても幽霊は非現実的だという風潮のようだ。

 雛菊に怪我を負わせた負い目があるのだろう。アサドは以前よりも優しくなった。元より社交的で優しかったのだが、更に友好的になり雛菊の分からないことを丁寧に教えてくれる。シャナもこの世界について教えてくれることはあっても言葉が足りないか、専門的すぎて雛菊が理解に追いつけなかったりでむらがあったのだ。だからアサド先生の説明はとてもありがたかった。これにより雛菊の中ではあの日に吐かれた嘘の罪はとうに水に流れされていた。今頃は大海にでも出ている頃だろう。

 なにより助かったのは文字だった。教え方が上手いのだろう。アサドから読み書きを習い、現在の雛菊は幼児向けの絵本に挑戦中である。

 今もまさに覚えたての読書の最中で、これもまたアサドがこの家のどこぞの本棚にしまってあったらしい短編集を読んでいる。


「あ、‘幸福のフラーメ’だって。凄いね、ルビさんのお話もあるんだ。さっすが聖獣!」


 目次を指でなぞり、見知った単語に僅かな興奮を覚えながら雛菊は足下で寝息をかく赤い生き物に目をやった。

 アサドが依頼を請けた狩りの獲物は、あまりに雛菊に懐くものだからそのままペットとして居着いていた。本来の依頼の目的が聖獣の保護だったので通ったらしいのだが、聖獣相手に案外許可が緩い。それでも懐く小動物に情も湧いたところだったので嬉しかった。絶対反対されると思っていたのにシャナがあっさりと承諾したので、半ば拍子抜けとも言えるくらい赤い聖獣は家族の仲間入りをしている。

 名前は目の覚めるような真紅を連想して宝石のルビーから‘ルビ’と名付けた。敬称付きなのは聖獣という地位を敬っての事。

 ルビは湿った鼻を雛菊の踝に擦り付け、幸せそうに寝入っている。そんなルビの鼻筋を指の背で撫でながら、雛菊は少し黄ばんだページを捲った。まだたどたどしくとしか読めないが、そこにはアサドが井戸の中で話していたように、聖獣フラーメが神様の花であるセラフィムを守り、人々に幸福を与える内容が記されていた。

 要約すると、人々が願いを叶える神様の花を得ようと、花を守るフラーメを乱獲したことから世界が一変し、怒った神が幸せの花を隠し、花を隠された人々は幸せの花を求め、更には人間同士で争いを起こすのだ。一方で守る花を失ったフラーメは、今も世界各地をセラフィムの薫りを頼りに探し続けているという。

 結論を言えば、人の欲が争いを招いたのだという実に教訓めいた話だった。


「願いを叶える花……かあ」


 挿絵の白い花を眺め、雛菊はぽつりと呟く。

 可憐な一輪の花をフラーメは愛しそうに頬擦りした淡い色の挿絵は綺麗だった。

 結局は挿絵でしかないのだが、何処かその絵は神秘的に映る。


「この花があれば元の世界に帰れるのかなぁ」


 雛菊は我が家への名残を零す。まだシャナやアサド、この世界から離れるのが嫌な気持はあったが、それでも、もうそろそろ帰る方法を本気で考えた方がいいのではないかと考えたりしてしまうのだ。最近のシャナの様子を見ていたら――……。

 雛菊は自室代わりのロフトの上からリビングを見下ろす。

 窓際の長椅子には読みかけの本を腹部に広げたままのアサドが寝息を立てているが、シャナの姿は見当たらなかった。

 この三日間、雛菊はシャナの姿をまともに見ていない。

 アサドと出掛けたあの日から、帰りの遅い二人をシャナが迎えに来てから三日。何故かシャナは雛菊の方を見ようとはしないのだ。

 目が合えばふいっと逸らし、なんとなく視線を感じて見やれば申し訳なさそうに気まずい顔色で雛菊を見てはまた目を逸らす。

 挙句、所用以外では表に顔も出さず地下の自室に籠りっぱなし。

 まさかと言わずとも避けられていることくらい誰だって気付くものだ。

 ただ、避けられている理由が分からないので雛菊は頭を悩ませている。

 怒っているのとは様子が違う。だから、謝ろうにも何を謝ればいいのかも分からない。


「セラフィムにお願いしたら……」


 シャナと仲直り出来るかな。

 声にならない声で想い、雛菊は皮の表紙の本を閉じた。



 四日目の朝も雨が窓を叩いていた。

 明かり取りである天窓に雨粒が染みのように形を変える。一向に天気が良くなる気配のない空色に雛菊は陰鬱な気分にさせられる。室内干しは匂いが篭るのだ。それだけでなく、雨の日は普段よりあまり体を動かさないのに普段通りにお腹が空くのが困りものだ。


「戸棚にパンぐらいは残ってたかな」


 長雨の湿気でパンが黴ていないのを願いつつ、スカートの裾を踏まないよう気を付けながらステップを下りる。

 ロフトの下はリビング兼ダイニングルームで、ローテーブル添え付けている長椅子ソファーには昨日同様アサドが低い寝息を立てていた。地下の寝室より長椅子の方が寝心地がいいのか、アサドはよくそこで寝ている。

 起こさないように物音に注意を払いながら通り過ぎ、キッチンの戸棚を開く。中にはロールパン三個が藤で編んだ籠に残っていた。雛菊はそれを皿に取り、切り分けた穴空きチーズとハム、流水で洗った葉野菜を挟んで簡単なサンドイッチを頬張る。

 一人だけの食事。

 声をかければアサドも相伴に預かっただろうが、わざわざ寝ているところを起こすのも悪い気がした。一応作り置きを皿に並べて蝿帳で覆って備えておく。

 シャナは起きているだろうか。

 カップに注いだミルクを口に含みながら、雛菊はダイニングテーブルの斜め向かいにある地下室に続く階段がある扉を見た。扉は開く気配もないし、その向こうに人がいるのかすらも分からない。

 雛菊はこれからどうしようか考えあぐねながら、残ったサンドイッチの欠片を囓る。口の中に、挟んだ野菜の仄かな苦味が広がり、何だか無償に泣きたくなった。

 瞳全体がじんわりと熱くなる。

 それでも雛菊は泣くまいと涙を押し込むように袖で瞼を隠した。

 心細かった。

 井戸に落ちた時、力のない自分が情けなく、力があればこの世界・ラキーアにいてもいい理由になる気がしていた。

 でもそうじゃいことに気付く。

 シャナに見放されては自分は此処にいる意味がないのだ。

 雛菊をラキーアに喚んだのはシャナである。それをシャナは間違いだったと言うが、雛菊から言えば物心ついた頃から彼の夢を見続けていただけあって、やはり喚ばれたという意識の方が強かった。だから、多少強引なこじつけをしてでもシャナの傍に居座った。

 夢の中で今にも泣き出しそうな少年を救いたいという雛菊自身の願いを叶える為、元の世界へ帰る方法について今まで先延ばしにして来たのだ。なんだかんだでシャナも雛菊の強引さに折れてくれたから今まで甘えて来れたのに、拒絶されるようでは無理強いも出来ない。


(私は本気で地球に帰る術を考えるべきなのかも知れない)


 そう考えている現在。

 そうなったとしてもやはりその前にまずはシャナと仲直りがしたかった。

 ずっと会いたいと願い続けていたシャナだ。嫌な別れにはなるだけしたくない。それに、何故突然態度がおかしくなったのか、出来ることならその事情を確かめたくもあった。原因さえ突き止めたら、帰る日をそのまま先延ばしにすることも出来るかも知れないというのは前向きな希望でしかないのだが。

 本音を言えばまだ帰りたくない。なんとか居残る理由をこじつけてでも足掻きたかった。やりたいことはとうに決まっていたのだ。それはもう、幼い頃から。

 そうと決まればじっとしていられないのが雛菊の性分。

 泣きたくなって萎んでいた気持も空腹が満たされるとなんでもなかったようになった。カップの中の残りのミルクを一気に飲み干し、雛菊は席をさっと立ち地下室への扉のノブに手を掛ける。


「――シャナがそんなに気になるか?」


 扉をほんの少し開けた所で、背後から掛かる声に雛菊は振り返る。いつから起きていたのか、金の長い髪を掻き上げながら重そうに瞬きをゆっくり繰り返す男に言った。


「アサド君、起こしちゃった?」

「浅く寝てただけだから気にするな。ところで、ヒナはこれからシャナの部屋に行くつもりだったか?」


 見れば分かる立ち位置に雛菊はわざわざ返答はしなかった。アサドも分かっていて尋ねていたようなので答えを求める節はない。ただ、会話を求めているようなので雛菊はシャナの部屋へ下りるのを後にし、アサドが腰掛ける長椅子に腰掛ける。


「なんだかアサド君って、タイミング良く口を挟むよね」

「間が悪い男よりマシだろ」


 皮肉を交えた雛菊の言葉にもアサドは平然と受け流し、すらりと伸びた足を組んでは楽な姿勢で構える。自然と優雅に映えるその仕草はまるで女性を誘っているようで、雛菊は吹き出してしまった。


「何がおかしいんだよ」


 アサドがムッとしたのが分かったので、雛菊は慌ててゴメンと謝る。けど口許は緩んだままなので誠意は見受けられない。


「今更アサド君が気取るからおかしいんだよ」

「気取ってるつもりはないね。まあ、大概こうすると女性から胸に飛び込んで来たから一概にそうじゃないと言えなくもないけど……」

「残念。井戸の件で十分からかわれたから、私には免疫がついたんだよ。もうアサド君がどんなにいい男でもへっちゃらだもん」

「そりゃ残念」


 遊びが一つ減ったとわざとらしく嘆いて見せ、アサドは雛菊の肩を強引に抱いて我が身に引き寄せた。


「アサド君は軽すぎ。不意を打っても私はご期待に答えられる反応はないよ?」


 頭をアサドの胸に寄せても平然とした雛菊は、そのまま視線を上に真っ直ぐ見つめて来る。アサドがこれ以上何かをすることはないと信じて疑わない。友好的な睨み合いに根を上げたのはアサドの方だった。


「……俺も男としてまだまだね」


 自嘲気味に呟くのを雛菊は全く意に介さず、ただ笑ってアサドを励ますように背中を叩き、忘れてはいなかったとすぐに話を引き戻す。


「それで、アサド君の話は何かな」


 少し唐突に話を戻しすぎたか、アサドは目を丸くして首を傾げた。話があると言った覚えがないのに、鋭く意を介したから驚いて反応が遅れたように見える。

 不意を突く意趣返しが出来たので雛菊は得意になって笑った。


「アサド君、話があってもつい軽口叩いて流しちゃうタイプでしょ。井戸に落ちた時だってそんな調子で私を励ましてくれたじゃない」


 少し茶目っ気を出して人さし指を唇に当て、わざと可愛らしさを演出しながら雛菊はバツが悪そうなアサドを見つめる。


「だから単刀直入に聞くけど、アサド君、シャナが私を避ける理由知ってるよね」


 澱みなく真っ直ぐ視線を交わしながら話すと、人はやけに素直になるものだと雛菊の持論だ。

 年上の大人の男に人に駆け引きで勝負が出来るとは思えないので雛菊は直球しか投げない。相手にも効果の度合いは変わるけれど、アサドは大人の中でも素直な人だった。


「……シャナの本当のところなんて俺だって分かんねーけど、多分俺と同じ結論の可能性に気付いて戸惑っているんだろうとほぼ確信を持って踏んでいる。あいつはヘタレだからな」

「戸惑っているって何に? それはアサド君がわざと井戸の中に籠ったことも関係したりする?」


 視線はまだ外さない。外せば適当にはぐらかせれあしらわれる気がした。案外観念して素直に喋ってくれるかもしれないが、アサドの茶目っ気は身をもって知っているので油断ならない。けれどどうやら今回は杞憂だったようだ。


「前も言ったけど、ヒナと井戸に落ちたのには企みはない。けど、狭い空間に二人きりのチャンスを利用してずっとヒナを観察しては――いた」

「観察?」


 そんなアサドの含みなど気付きもしなかった雛菊は、些か驚いて声音を固くする。


「観察って、私の何処を観察してたの? 私、ホントにただの女子高生だよ?」


 普通じゃないのはシャナの夢を見続けたとこだけど……と、加えて雛菊は訝しげにアサドの言葉を待った。自身を何の変哲もないと思っているからこそ、アサドがそうした理由が雛菊には理解出来ない。

 雛菊は生まれ育った世界こそ違うが、シャナのように精霊と話す力も、アサドのように一駆けで井戸を飛び上がる能力も何もないのだ。

 まさか無能さを観察していた訳ではあるまいに。

 力がないことが珍しいとはありえないだろう。少なくとも街の人を見た限りでは大概が精霊は不可視で精霊師は特別で、肉体もホモサピエンスと遜色はない。自分の平凡さに確信があるからこそ、雛菊は神妙な顔つきのアサドの回答を待つ。

 外が雨だからか普段より余計静寂に包まれた家内に重たそうな一息が渡ると、アサドはゆっくりと口を開いた。


「フラーメの話はもう読んだか?」


 一瞬それが何の事かと首を傾げたが、すぐに与えられた童話集を思い出すと読んだとだけ答える。


「何も思わなかった?」

「願いが叶えられる花があればいいなって思ったよ?」


 雛菊の答えはアサドが望んだものではなかったらしい。彼はそうじゃないと述べ、一瞬の躊躇の後、雛菊を少し睨むように真剣に見据えた。

 金色の瞳が妖艶に光る。

 草原に潜む肉食獣を感じさせる瞳だった。金色の虹彩は太陽のようで、じっと見つめていると奥まで吸い込まれ熱に溶けそうになる。


(ルビさんに似てるかも……)


 雛菊はそんな事をぼんやり思った。


「初めて会った時から気にはなってた」


 まるで告白の出だしのような文句だった。

 アサドは左側に緩くリボンでまとめた雛菊の髪を手に取り、味わうかのように匂いを嗅ぐ。


「ちょ、アサドく――」

「気づかないか? 自分から花の香りが漂ってんの。あのセラフィムの石と同じ匂い」


 スキンシップに慣れたとは言え、己の体臭を嗅がれるような行為に雛菊は暫し目を白黒させたが、アサドに深い他意はないのを見取ると抗議はやめ、自分の手の甲をの匂いを嗅いでみた。何も匂いは感じない。髪の毛も同じだ。


「自分じゃ気付かねーもんなのかな。あ、俺の鼻が人より利くのか」


 軽く笑い飛ばしアサドが雛菊の髪を放すと、パラパラと毛先が胸元に戻った。雛菊はじっと流れるようなアサドの動きを見つめ、ゆっくりと頭の中で考える。

 フラーメの話、セラフィムの花の香り。

 セラフィムの香りに誘われるフラーメ。

 花の芳香放つ我が身。


「……その話をまとめると、まるでアサド君は私をセラフィムの花だって言ってるみたいだよね」


 雛菊の結論に、アサドは否定も肯定もしなかった。代わりに、少しだけ悲しそうに力なく微笑い、雛菊の頭を撫でる。


「セラフィムの花って、植物じゃないの? 花なんでしょ?」

「さあ。セラフィムの正体なんて宗教的に脚色したものかも知れないし、実際に見た奴は誰もいないからな。可能性の提示ってやつ?」


 つまり、確証はないのだ。雛菊はやれやれと肩を竦めた。


「でも、こんな逸話もあるんだぜ?」


 半ば呆れる雛菊の関心を引き戻そうとしてか、アサドは声を明るくして言った。雛菊はどんな話でも驚かないだろうと思いながら耳を傾ける。


「これは教典にある内容でな、セラフィムを欠いて悲しむフラーメと、心の綺麗な不幸な人間を哀れんだ神様はセラフィムの種を地上に落としたと。そして、その種を抱えた者が何処かの世界で生まれるようにとね。その種を持って生まれた者は、いつか人の祈りに呼応して花を咲かせて願いを叶える――らしい」

「アサド君、そんなに私をセラフィムにしたいの?」


 ありそうな神話の内容そのものは驚くべき内容ではなかった。ただ、雛菊の声は困惑の色を帯び始める。アサドの目の色がだんだん雛菊をすがっているように見えたからだ。

 もし本当に願いを叶える花があったとして、その花が人の形をしていたとする。その花が目の前に現れたとしたら、それが事実だとしたら、人ならそれにすがりたくなるのだろう。例え確信がないにせよ、切なる願いがあれば嘘みたいな寝物語りだとしても信じたくなるのかも知れない。

 アサドの切なる願いを知っているから、雛菊の胸は苦しくなる。

 どんなに切望されても、雛菊の中に不思議な力は何一つないのだ。


「どうして、アサド君は私をセラフィムだと思うの?」


 出来ることなら否定をしたくて、雛菊は問う。アサドはそこは躊躇いもなく答えた。


「シャナがその可能性を否定しきれなくなったからだ」

「シャナがそう思っていたらそれが答えなの?」

「馬鹿みたいだろ、そんな神話に頼る俺が。ヒナに全て託そうとする大人は狡いか?」


 自嘲するかのように零した笑みに、雛菊は首を振って否定した。けれどアサドは目を伏せる。頬に金色の睫毛の薄い影がかかった。


(また悲しそうな顔……)


 雛菊はアサドが時折見せる暗い顔をじっと見つめた。

 鼻筋から目から、全てが芸術のように整った顔を雛菊は見つめた。そのまま物語から抜け出て来たような王子様を思わせる容貌。顔だけでなく、それを支える首から肩から伸びるしなやかな長い手足から均整の取れた身体は完璧だ。そんな絵に描いた王子様のような人に実は大きな欠損があることを雛菊は知っている。実際はどれだけが知っているか分からないけど、常識的にまず考えたりしないだろう。

 どんな器にでも存在する核たる心臓がなく、歳を取らない肉体である異常など。

 だが、その肉体でどんな苦しみがあったのかは雛菊にも知るよしもない。知らないから慰めの言葉も見つからない。ただ、それはアサドとって大事なことかは知っているので、雛菊は心細そうな子供の顔をするアサドの背中に腕を回し、優しく撫でてやった。小さい頃、泣くに泣けなくて苦しい時、母にこうして貰うと凄く心が楽になったのを思い出したからだ。

 雛菊のその行動にアサドは伏せていた顔を上げ、困惑の色を浮かべる。もしかしたら羞恥かもしれない。彼は見た目よりももう少し大人のようだから。

 視線が重なると、雛菊は宵闇色の目を細め、ニコリと微笑う。


「私がセラフィムならアサド君は嬉しい?」


 アサドは素直に頷かなかったが、小さく顎を引く仕草は首肯と捕らえていいのだろう。

 一瞬、躊躇うように頷いて見せたのは彼なりの優しさの表れだろうと思った。彼は何も知らない雛菊に願いを背負わせる事に迷っている節があるようだった。

 そんな大の大人の不器用な遠慮には、雛菊はつい寛容にさせられる。


「私、自分がセラフィムだとは感じないんだけど、もしそうだったらいいなって思うよ? だってセラフィムならアサド君の願いが叶えられるんでしょ。だったらセラフィムだった時は必ず願いを叶えてあげる。約束」

「ヒナ――」


 安堵を見せるアサドに雛菊は右手の小指を突き出す。昔からある指切りの約束で子供地味た約束を交わしたいのだが、当のアサドは差し出された小指を訝しげに見つめて首を傾げた。どうやら指切りを知らないらしい。


「これね、私の世界で……とゆうか私の国でやる約束の儀式。嘘ついたら針千本飲ーますってね」

「針千本をか!?」

「本当には飲まないよ。それだけの心意気? 分かんないけど」


 強靭な肉体の持ち主でも流石に針を飲むのは臆するらしく、尻込むアサドの右手を雛菊は半ば強引に取り、自分の小指に絡ませた。子供同士で交わす儀式ではあるけれど、雛菊は冗談のつもりではなかった。

 アサドと話したおかげでこれからの自分の可能性に少し希望が見えて来た気がしたのだ。

 本当は何処まで自分を信じたらいいのか分からないけど、何をすべきかも分からないけど、何かをする為にはまず何よりシャナとの話が一番大事だと言う事はしっかりと考えていた。

 だから、力強く胸を張る。


「私は私なりに頑張ってみるよ。だから、アサド君はいつもみたく笑っていてね」


 一回りは歳が離れている少女に励まされ、アサドは照れ臭そうに頭を掻いた。


 

 

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