02.井の中の異世界人
小さくぽっかりと空いた穴が見えた。
穴が小さいのではない。底から距離があるのだと、更に遥か高く遠くなった空を見上げ雛菊は小さく溜息つく。
「まさかあんな所に井戸があったなんて……」
「幸運なのは此処が枯れ井戸だったのと花びらがクッションになったのと、俺の体が頑丈だった事かな。あたたた……」
冗談っぽく軽口を叩いて見せたがアサドの笑顔が少し引きつった。
「怪我したの? どこが痛い?」
狭い井戸の中で誤魔化せる訳もなく、雛菊は衝動的にアサドの身体に触れて確かめる。目立った外傷はないので打ち身かもしれない。足に触れると眉間に寄った皺を見逃さない。
「私を庇った時じゃないの?」
「エッチー。こんな狭い所で迫ってナニする気ヨ」
「ふざけないの。大体最初に触ったのはそっちでしょ」
井戸に落ちた時、迷いなく奈落に飛び込み雛菊を抱きかかえて衝撃から守ってくれたのはアサドだ。触ったといえば彼の方のが先なのに心外だと不満を顔に出すが手は離さなかった。
「骨は大丈夫? 腫れてはいないみたいだけど」
「丈夫なのが取り柄だからな。こんくらいなら少し休めばすぐ動けるさ」
余裕ぶって見せるも非対称の笑みが本音を語っている。一般常識で考えて十メートル以上も落下して無傷な方がおかしい。致命傷がないだけ幸運だと考えるべきだ。
「ごめんね、私のドジの所為で……」
「つーか、俺の調査不足だ。あそこに古井戸があるのに気付かずにヒナを危ない目に合わせた」
「私のことはいいよ。アサド君のおかげで怪我もないんだもん」
責める気もなく、むしろ自己嫌悪でうなだれるアサドの態度に雛菊も萎れる。人に怪我を負わせた罪悪感は大きい。責められたら気が楽だとか自己満足でしかない。ドジを踏んだのに許された上、治療を施せる技術を持たない自分が歯痒かった。
だからといって何もせずに凹むだけなのも性に合わない。諦めが悪いのは十数年も旅立ちを待ち望んで覚悟を決めていたのを見ても折り紙付きだ。
雛菊はもう一度井戸の淵を見上げる。
空に向かってぽっかり空いた小さな口。その口の小ささが底からの距離を指し示している。よくもそんな高さから落ちてほぼ無傷で人を庇えたものだと、雛菊はアサドの運動神経に感心した。だがその身体能力をもってしても負傷は免れていない。決して万能ではないのだ。
今動けるのは自分しかいないのだと改めて思うと余計にいてもたってもいられなくなる。
「ーーねえアサド君、そのロープ貸して?」
決心したように唇を真一に引くと、雛菊は捕獲用にとアサドが腰から下げていたロープを指差して言った。
「いいけど、何に使う気だ?」
尋ねながらも一応言われるがままにアサドが差し出す、輪っか状に纏められたロープを受け取る。雛菊は輪の中に腕を通してロープを肩に提げると足を踏み鳴らし、靴を十分体に馴染ませて軽い柔軟体操を始めた。
「ーーヒナ、マジで何する気よ」
屈伸運動をする雛菊の行動に感じるものがあったのか、アサドが聞いてくる。雛菊は体育の授業の準備運動を思い出しながら、念入りに手首足首を振ってアサドを見やる。これから雛菊が移す行動に検討がついているのだろう。不安そうな顔に強気の笑みで見返した。
「何って、此処を登るに決まってるでしょ。ほら、両手両足をつっぱねたらどうにかなりそうじゃない?」
雛菊は砂埃がこびりついて滑りやすい石壁に掌をあて、両腕を広げる。井戸の直径は雛菊が腕を広げても関節が少し余るくらいの幅で、蜘蛛のように四肢を広げればよじ登れそうだった。
「ね、いけそうでしょ?」
「んな簡単に行くかよ。見ろよ、結構な高さだ。万一落ちたら……おい」
反対を無視して雛菊は井戸の壁に、つっぱねた両手両足を交互に擦り上げてよじ登り始める。
右手を上にずらし左手、右足。少しずつ慎重に上がる。以前テレビで見た体力自慢の男の人のように一気に掛け上がれたら良かったのだけれど、生憎そんな腕力を雛菊は持ち合わせてはいない。数メートルも登った所で腕が小さな痙攣を起こすぐらいに非力だ。
「体力は普通にあるつもりだったんだけどな……」
息も切れ切れに零す。普段使わない筋肉の疲労は思ったよりも早く、余裕を持ったつもりでも両腕への負荷は考えていたより大きかった。半分も登り切らない内に肩から掌にかけて痛みと倦怠感を覚える。今、見下ろしたらアサドはどんな顔をしているだろう。気にはなったが確認する余裕はなかった。
「ヒナ、無理すんな。今なら落ちても大した怪我はない」
真下から雛菊を抑止するアサドの声に頑張って脇から覗けば、憂いを帯びた金色の瞳が暗い井戸の底でほんのりと光って見えた。まるで猫のようだと思いながら雛菊は一拍置いて休む。
「大丈夫! そろそろ半分だし!」
これ以上気に病ませてはいけないとなるべく笑って声を張る。同時にまだやれると自分に言い聞かせるつもりで、なるだけ元気よく発したつもりだ。
少しずつだが半分まで登り詰めた。結構簡単だと思っていたのに案外辛い動作に日頃の運動不足を悔やむ。
(運動部に入っていればよかったな)
高校に入学してから一ヶ月未満。部活動は体験入部期間内なのだが、バスケットで汗を流す兄とは違い雛菊は文化部への入部を考えていた。中学の時も美術部で運動とは無縁の環境であり、体を動かすのは週三回の体育の授業くらいだった。正直、まだ残り半分もある距離がしんどいと感じるのだが此処で弱音を吐くのは嫌だった。下では怪我をしたアサドが待っている。自分を庇って怪我した人がいるのだ。
雛菊は唇を噛み締め、右手をまた上へとずらすが肩に上手く力がつたわらない。
「ーーあっ」
雛菊は小さく声を上げる。
凹凸の少ない、砂埃が覆っていて滑りやすい石壁に加え、これまでの努力の結果で滲んだ汗が凶となった。
壁と手が離れる。
自覚するより先に体は落ちた。さっきまであんなに力んでいた体から一気に力が抜けるのが分かった。
落ちる。仄暗い井戸の底に。
空が遠くなる。
「ーーくぅっ!」
地面に触れた時、鈍い音と共に僅かに痛みが走る。
そんな想像よりも遥かに少ない衝撃を不思議に思った。落下中に閉じていた目を恐る恐る開けると、映ったのは心配の色を濃くした満月のような瞳。
「ああ……そっか。また庇って貰っちゃったんだね」
アサドの腕の中にいる状況から、落下直前にまた救われた事を悟る。見た目以上にがっしりと筋肉のついた逞しい身体に抱かれて雛菊は面映ゆい気持ちになった。
「助けてくれてありがと」
気まずくて合わせる顔がなく、そそくさとアサドの胸板を押して離れようとすると痺れるような痛みが右足首に走り、雛菊は顔を歪めた。
「何処か痛むのか?」
苦痛の色はすぐに引っ込めたつもりだが、聡いアサドはすかさず雛菊の足を取って確認する。さっきとはまるで逆の立場に立って同じやりとりをするのもどうかと思った雛菊は素直に従う。この狭い空間で隠せないのは証明済みだ。
ブーツを脱がされ、晒された素足に目に見えた腫れはないが、触れると堪えようのない痛みに今度ははっきりと唇を噛んで歪める。
「ちょっと捻ったみたい」
右足を伸ばすにはぎりぎりの場所でなんとか楽な姿勢を取る。息を零して下を見たい気分だが、強がるように上を見ると再び遠くなった空により気が滅入った。アサドの負傷に続いての己の失態に恥ずかしくなる。
「この状態でまた登るとか言い出すなよ?」
諭すように軽く睨むアサドに雛菊も異論はなかった。
「言わないよ。落ちる度にクッションになるアサド君の方が大変だもんね」
つい当たるような口ぶりに気づいて雛菊は静かに頭を下げる。
「ごめん。アサド君には感謝してるの。それなのに全然何も出来ない自分が嫌になっちゃって……」
「そんくらいで怒らねえっての。つーか無茶だと分かってて止めなかった俺が一番悪かった。怪我なんてさせる気はなかったのによ」
落ち込めば優しく頭を撫でて慰めてくれるアサドに、雛菊は一層肩を落とした。この事態をどうにか出来ればいいと思っての行動が逆に迷惑を被ってしまった。自分で何とか出来ればいいと思って動いた浅はかさには嫌気しか出てこない。まともに現状を打破出来ない無力さに歯痒さを覚える。
「私に魔法のような力があればすぐに助けられたのにね」
ぽつりと零した弱音にアサドが神妙な顔で雛菊を見つめた。雛菊はそんなアサドにくしゃりと眉を下げてはにかむように情けない笑みを返す。
「なーんでそんな顔をするのかねぇ」
「今ね、自己嫌悪中」
「必要ないだろ。悪いのは井戸の確認を怠ってしくったのは俺が先だろ。獲物の食い付きぶりを甘く考えていたのも俺の落ち度だ。あれがなければこんな薄暗い底にいねー。此処に誘ったのも俺。ヒナを餌にしたのも俺だ」
「誘いを断らなかったのも囮の役割を最終的に引き受けたのも私でしょ」
指折り不手際を数えるアサドを庇うつもりで雛菊は口を挟む。フォローのつもりだったのだが、言って「おや」とおかしさに気付いた。それが狙いだったのかアサドはほくそ笑むと雛菊の背中を二、三回軽く叩く。
「なら責任は折半でこれ以上は言いっこなしだ。大体、どっちが悪いか決めたところで現状が明るくなるわけでもねーんだしさ」
「そうだよね」
これを年上の包容力とでも言うのか、随分気持ちが落ち着くのを感じた雛菊は小さくはにかんだ。
「そもそも力って何が欲しいんだよ」
足首の応急処置を済ませ、落ち着いたところでアサドが聞いた。雛菊は漏らした言葉を耳に入っていたようだ。
まさか蒸し返されて具体例を求められるとは思っていなかった雛菊はうんと唸って考える。
自覚している事なのだが、雛菊は幼い頃からシャナとの出会いを思い描いてだけあって若干夢見がちな傾向があった。それこそ思い込んだら一直線というか、異世界を舞台としたファンタジーの物語を小さい頃からよく読んでいたし、兄の大地が遊ぶRPGのテレビゲームを横で見ては冒険というものがどんなものなのかよく想像を巡らせていた。その為、もしいつかシャナのいる世界に旅立つ日が来たら物語の主人公のように不思議な力に目覚めるという展開を少なからずとも期待していたりしていたのだ。
だが実際に中を開けてみれば現在に至るまで雛菊にその兆候はまるでない。無論、雛菊とて必ずしもそんな不思議な力が都合よく簡単に手に入るとは思っていなかったし、本気で不思議な力が欲しいと強くは願ってもいなかった。だから具体的な願望も思いつきはしない。けれど、
「私がシャナのような魔法が使えたり、アサド君みたいな凄い運動神経があればきっと今みたいな窮地はすぐに助かってるものなんだよね」
ぼやいて両膝に顔をうずめて拗ねてみる。
どんな力が欲しいかは考えてはいないけれど、今になってせめて不測の事態に対応出来るくらいのなんかしらの能力はあったほうが良かったと思った。
超人的に人間離れしていなくともいい。井戸の底から這い上がるぐらいの力くらいは欲しかった。自分の失敗を拭えるだけの力は欲しかった。自分の所為で誰かを傷付けないくらいの能力は持っていたかった。
だから、望む力の欠片もない非力な自分が不甲斐なくて、雛菊は立てた膝に顔を更に埋める。
「力が欲しいなぁ……」
小さく小さく望みを吐いた。
狭い空間で、静謐に満ちた暗い井戸の底はまるで落ち込む為にあるようだ。
一体自分は何の為にこの世界にいるのだろうと、つい考えたくない事まで頭を過ぎる。
自分はこの世界の異物だ。
思いたくないのにそんな事を考えて悲しくなる。せっかくアサドの励ましによって浮上した気持ちがまた塞いでしまう。ないものをねだっても仕方がないのを頭では分かっていながら口に出さずにはいられなかった。
「力が、欲しい……」
何か力があればそれが此処にいてもいい理由になるような気がして、雛菊は小さく呟いた。
「力なら、あるんじゃね?」
雛菊の言葉に呼応するように、頭に温かい大きな物がふわりと触れた。何だろうとぼんやり顔を上げれば雛菊の頭を撫で、優しく微笑むアサド。
「力ならありますとも、お嬢さん」
同じ意味の言葉を繰り返し、金色の瞳を柔らかく細めるとアサドは雛菊の両腕を引っ張り我が身へと寄せる。そしてそのまま雛菊の体は大きなアサドの胸へとすっぽり収まってしまった。
「あまり自分を責めるんじゃねぇよ。落ちたもんは仕方ねぇし、落ちたからといってヒナが無力な訳でもねぇんだ」
「ちょ、アサド君セクハラ」
肩に乗せられた重い両手を払い退け、雛菊は体を僅かにずらす。足の痛みで上手く逃れられず、結局胸元に引き寄せられてしまった。
「……どう。人肌って気持を慰めるでしょ?」
背中に伝わる温もりが心地良い。あまりの心地良さに、雛菊はついアサドの広い胸に後頭部を預けてしまう。
「反省は悪くないけど、内に溜めるのは美容に悪いんだぜ?」
また優しく頭を撫でるアサドに甘えるように、雛菊は少しだけ身を寄せて頷いた。
「ありがと。でも、狩りのお仕事まで失敗させちゃってゴメンね」
「だから気にすんなっての。あんまりうるせーとその口塞ぐぜ。口で」
夢見るファーストキスをそんな理由で使いたくないと素直に黙れば、アサドは残念そうに舌打ちする。それが冗談だとは分かっていても弱音は言うまいという気にされる。
「仕切り直してもアレならすぐに捕まえられると思うぜ。ほら、それがあるし」
「この石?」
アサドが手にしたのは先程まで雛菊が握っていた卵型の石だ。落下とともに手放した気がするが一緒に底に転がったのだろう、蜂蜜色の石が少し土で汚れている。
「これな、フラーメの好物なんだよ。セラフィムの香りに似てるから」
「セラフィム?」
首を傾げる雛菊に、アサドは意外そうに目を丸めた。
「知らねぇ? セラフィム。至上の花、神が創世記に落とした涙で咲いた花とか言って子供からお年寄にまで超有名な昔話、もとい伝説。セラフィム信仰がこの国を占めるってのに」
「知らないよ。だって私はこの世界の住人じゃないもん」
「あぁ、そう言ってたっけな」
忘れていたと言わん許りに惚けたアサドの声に、雛菊は少し唇を尖らせる。
アサドに悪気はないにしろ、この世界について何も知らない自分が仲間外れにされているようだった。
「……フラーメってのはさっきの赤い毛玉? 聖獣の」
「そそ。その毛玉ね、聖獣の。太古、その至高の花の守をしてたからそういう扱いなのよ。でも乱獲されて絶滅危惧種の毛玉は寺院で保護されてる。今回の仕事はその毛玉を捕獲して保護する寺院からの依頼な訳」
「ふぅん」
毛玉という表現が気に入ったのか、茶化すように連呼する所為でせっかくのアサドの話にも雛菊は生返事。
「拗ねてる?」
そんな雛菊を見て吹き出すように尋ねるアサドの声を背中に、顔を背ける。
「拗ねてないもん」
ムキになって反論する方が子供っぽいのについ蹲る。その背中をあやすように撫で、アサドは腰を折って雛菊の顔を窺うように頭を下げた。
「拗ねてるだろ」
「拗ねてないよ。キスされたくないし」
「どんな美女も欲する俺のキスをそう言われると凹むぜ?」
「知らない。アサド君のエッチ」
「俺は拗ねてるけど?」
低く囁かれる声に顔を上げれば、大の大人であるアサドが小さな子供のように唇を尖らせて雛菊を見つめていた。金色の瞳は何処かしら不機嫌そうな色を湛え、頬はその不平を零す事に若干の照れがあるのか、薄く赤く染まっている。
「……俺は拗ねてるよ。ヒナが何に悲しむのかとか拗ねるのかとか寂しがるのかとか知らないから。何に怒って何に傷ついて何に喜んで。そういうの知らないから。行動指針はシャナ中心だし、そういうの面白くない。ヒナが元いた世界の事、全く知らないから」
髪の毛を掠め取るように、アサドは指先で雛菊の頬を撫でた。その仕草に、雛菊は紅潮し目を逸らす。
「そ、そういう接し方、慣れてないから対応に困る」
「それじゃあ今の俺とヒナとの距離間も一緒に教えろよ。俺さ、結構君に興味があるのよ? 気難しいシャナの元に転がりこんで、毎日美味しいご飯作って、ピンチになっても涙を浮かべないし狼狽えないし、逆に無茶をしても道を切り開こうとする勇ましい女の子がさ」
「そう、なの?」
まるで告白まがいな発言にどぎまぎする自分を必死で隠そうとしながら、アサドから体を離し、向かい合う形を取って対面の壁に背中を預ける。
冷静になろうとして深呼吸。泳ぎそうになる瞳もなんとか堪えてアサドを映そうとする。それこそ動揺が露だと気付きもしない。
「ーーぷはっ!」
突如アサドが吹き出した。かと思えば、今度は声を殺して笑い続けるが狭い井戸の中は声が反響して雛菊の耳にしっかりと届いている。
「ヒナ、焦り過ぎ。こんな狭い空間で俺と二人きりだから緊張しちゃうのは分かるけどさぁ」
腹を抱え、ヒーヒーと肩を上下するアサドから出た言葉にようやく雛菊は意味を解した。
「……からかったな」
「人聞きの悪い。親交を深めてるんだろ」
「涙を浮かべてまで笑う人に説得力ありません」
まだ笑い続けるアサドを雛菊は睨みつけ、ふんと鼻を鳴らす。
「元気出たかよ」
「初めから元気だもん。アサド君って、やな奴だったんだね」
茶化されていたと憤慨し、再び不貞腐れてそっぽを向く。アサドは笑って否定はしなかったが宥めるようにまた雛菊の頭を撫でた。
「今度は何に凹んでんのか知らねーけど、不平不満は溜め込まずに吐き出しちまおうぜ。取り敢えず俺の怪我が回復して此処を脱出出来るようになるまで、ヒナの世界のお話してくれませんか?」
悪びれもなく無邪気な顔向けられては流石にこれ以上へそを曲げる気にもなれなくて、雛菊は力なく息をついた。
「アサド君て、最初会った時からそうだけど結構強引だよね」
「そうか? シャナに俺の同居を承知させたヒナ程じゃないと思うけど?」
「そんなことないよ。私、そんな強引じゃないもん」
「じゃあそういうことにしときます」
適当な相槌に納得しきれない雛菊を差し置き、アサドは自己のペースを保って早くと話を促す。
それが強引だと言うのを気付いていないのだろうか。
そう問いたくなるが、それでは話を蒸し返しての堂々巡りになってしまうので此処は雛菊が折れるしかなかった。
「……何から話せばいいか分からないけどーー……」
取り敢えず雛菊は記憶を紐解きながら、思いつくものから少しずつたどたどしく言葉を紡いでいく。
* * * * *
久しぶりに語る今は遠い、生まれた世界の出来事は、一ヶ月ちょっと前までの生活なのに少しだけ懐かしみながら雛菊はゆっくりとアサドに話した。
日は沈み、煌々と輝く月明りの下でアサドが感嘆の息を洩らした。
「夜でも明るい世界か。不思議な世界にいたんだな、ヒナは」
「あはは。私から見たらラキーアの方が不思議な世界だよ。精霊とかそういうの、私達には物語の中だけの存在だもん。私、元の世界も好きだけど、この世界も凄く好きだよ」
つい興奮して力強く言えば、そんな雛菊を子供を見るような微笑ましげな顔のアサドと視線がかち合う。
「俺もヒナの世界に行けるかな」
「行きたいの?」
「行きたいね。大概、人は外の世界に憧れを抱くもんだろ」
ニヤリと笑い、アサドは雛菊の手を取って握り締める。
「それに、世界広しと言えど俺という美貌の人間は二人としていないだろう?」
「ーー確かに。アサド君の様な金色の目の外人さんは私も知らないや」
だけど間に合ってますと、丁寧に断りを入れて雛菊はアサドの手の甲を軽くつねる。
「あまり女の子をからかうもんじゃないよ」
笑って窘めて、雛菊はわざとらしく澄ましながらアサドを軽く目で刺す。
「ヒナは冷たいな。こんなに甘い言葉を口にしても靡いてくれなくて俺のプライドはすたボロよ?」
「アサド君こそ経験不足の幼気な女の子を誘惑しようだなんて、やること悪どい。反省すべきだよ」
互いに目配せし、一拍置いて二人同時に笑い合う。
どれだけ話をしただろうか。
元いた世界の事をアサドにも分かるように話をしていたら、知らない間に大分時間が過ぎていたようだ。
雛菊はすっかり藍色の帳を見上げて、息を零した。
幸運にも一緒に落下して来たバスケットの中のサンドイッチで腹ごなしは出来た。
金の月が井戸に蓋をするように頭上高くで輝いている。シャナはどうしているだろうかという会話を交わしたのは日も暮れる前の事。
雛菊は挫いた足が熱を持って来たのを感じ、少し、窮屈そうに身をよじった。
「足、痛むのか」
痛みが顔に出てしまったのだろう。心配の色を浮かべるアサドに、雛菊は白い歯を零してかぶりを振った。
「大丈夫。一瞬痛くなっただけでどうってことないよ。アサド君は? 私の所為でシャナにやられた場所を悪化させたでしょう? 無理しないでいいよ。動けないなら体力は温存しなきゃ、いつ脱出出来るか分からないんだもん。とにかく今は誰かの助けに耳を澄ませとかなきゃ」
「それって"テレビ"や"マンガ"ってやつの知識か?」
先程仕入れた情報を引き出すアサドに、雛菊は微苦笑を浮かべる。
「実体験でなくて悪いけど、仕方ないでしょ? 元の世界なら此処が圏外でなければ他に方法があっただろうけど、今は待つ選択しか頭に思い浮かばないんだから」
そう言って雛菊は井戸の口を見上げる。
仄かに光を放つ月の下、夜の静寂に虫の声と夜鳥の鳴き声が木霊する。おおよそ、この時間に人が通り掛る希望は抱けそうもない。
「……明けたら一人くらいは通るかなぁ」
井戸の底で夜を過ごすのはやはり心細く、溜息のように声が漏れてしまった。それを耳にアサドは眉をひそめた。
「俺と夜を過ごすのがそんなに嫌?」
「そういう意味じゃないよ。ただ、出るなら早い方がいいじゃない」
それに、と雛菊は身震いした。季節はこれから温かくなっていく月らしいのだが、夜はやはり冷える。都市化とは程遠い世界では、ビルやアスファルトに溜まった日中の熱が放射する事もない。だから、この世界は雛菊のいた世界よりも幾許か気温が低かった。
「寒いか?」
心配の色を浮かべるアサドに、雛菊は少しねと肩を竦める。女の体というのは不便なもので、気温の変化にかなり敏感だったりする。
他にも現実問題、このまま体が冷えると生理的な問題まで出てきそうでかなり切実なのだ。この時間までまだ何も起きていない方が奇跡である。
「内に溜めるのは良くないって、言わなかったっけ?」
何処まで察して言っているのか。かと言って明け透けに口にするのは恥ずかしい。
「言ったけど、それとこれとはーー」
「関係あるだろ」
雛菊の乙女心など見透かしているかのように一瞥し、アサドは優しく微笑む。
「寒いなら俺ん所に来たらいいって言ってんの」
返事など聞かず半ば強引に抱き寄せられ、何が起きたのか理解に遅れた雛菊はキョトンとしたままアサドのコートの中に収まっていた。
「ほら、温かい」
満足気に雛菊を後ろから抱き締めて、アサドは耳元で囁く。
「アサド君、そういうのをやめなさいって私は言ったつもりなんだけど」
「下心さえなけりゃいいだろ? 今夜はこれで体が温まればいいんだから」
ああ言えばこう返す、口数の減らない男に雛菊は思わず閉口してしまうが、実際、随分身体的に助かった部分もあって文句も言えない。加えて、異質な場所に閉じ込められた極度の緊張が温もりによってほどけて来たのだろう。溜まっていた疲れも相乗効果し、ついに雛菊はアサドの腕の中でウトウトと舟を漕ぎ始めた。
「仕方ない、なあ」
こうも眠気に誘われては反抗する気も失せるし、アサドの温もりは実に捨て難かった。素直に応じてしまうのは不可抗力である。決してはしたないなどでなく。そう自分に雛菊は言い訳する。
だって、誰か来ない事にはこの状況は怪我人にはどうしようもないのだから。
男の人の腕の中で眠るのは勿論初めてだ。抵抗がない訳でもないが瞼は重い。雛菊はこのまま意識を手放せば次は朝日が井戸を照らす瞬間を目にするのだろうとぼんやり考えていた。その時だ。
「ーーもしかして邪魔、だったかな」
聞き覚えのある声が井戸に降り注いだ瞬間、雛菊はパッと目が覚めた。
慌ててアサドから身を離し、頭上を見上げると井戸の底を深紅の双眸が呆れた色でこちらを映していた。
「変な場所に隠れてるんだね。てっきり僕は君らは狩りをしてるもんだと思っていたよ」
生意気な皮肉も、今だけは何故か懐かしい。雛菊は顔を輝かせて叫んだ。
「シャナ!」
「あまり大きい声出さないでくれる? 反響が酷くて耳障りなんだ」
ふんと不快げに鼻を慣らし、無愛想な少年はその声に応えたのであった。
「どうしたの? どうしてシャナが外を出歩いているの?」
雛菊が目を丸くしてシャナを見ると、何故か不機嫌そうに彼の瞳が向けられているーー気がした。
そして、ことさら臍を曲げたように口を開く。
「どうしたもこうしたも、君らが井戸に落ちたとこの辺の親切な精霊が僕に伝えに来てくれたんだよ。精霊師としてこの報告を無視するのも悪いしね、人里離れた場所だから出歩いても危険は少ない。だからわざわざ出向いてやったのに、君らと来たら……。いつまでそうやって肩を抱いてるつもりだい、そこの色魔」
言われて雛菊はハッとする。シャナの声で我に帰った時、体はアサドから離しはしたが、当のアサドは雛菊の肩をしっかりと抱いたままなのだ。
二人の間に艶っぽい事情はなかったにせよ、やはり身内にこういった場面を見られるのはバツが悪い。雛菊はどう説明しようか迷い、言葉を探しあぐねながらアサドを見上げた。すると、彼はいやに楽しげに笑みを浮かべてシャナを見据えていた。
「随分来るの遅かったじゃないか、シャナ」
「そっちこそ。君がいるならこんな所、軽く脱出出来たんじゃないの?」
「当然だろ」
「えっ⁉︎」
アサドの聞き捨てならない返答に、雛菊は声を上げる。睨めつける雛菊の視線に、アサドは悪戯がバレた子供と同じく舌を出す。どうやら隠す素振りもない。痛めた傷は何処へやら、すっくと何事もなかったかのようにアサドは立ち上がった。雛菊を胸元まで抱き上げて。その後は人並み外れた脚力で一気に井戸の底から地上へと、飛び上がって堂々の帰還である。
あの井戸の底で助けを待った時間は何だったのかと問いたくなるくらいだ。
「やっぱ外の空気が気持いいな」
地上に戻るなり、白々しく腕に抱いた雛菊を見つめてほざくのを怒りを越えて呆れてアサドを見つめる。怪我を押して無理に笑って見せる顔ではない、ごく自然な顔を初めて雛菊は憎たらしいと思えた。
「騙したな」
「騙したつもりはない。怪我はホントにしてたんだ。ただ、治ったのを黙ってただけで」
「ホントに呆れた! もう、今後二度とアサド君が怪我しても心配なんかしないんだから」
つんとそっぽ向く雛菊にアサドは愉快そうに笑った。
たちの悪い嘘が腹立たしく、アサドの支えも振り払い雛菊はびっこを引いてシャナの側に 立つ。
「怒るなよ。反省はしてる」
「誠意が足りない。冗談でも悪質だよ! いつ頃から怪我は治ってたの?」
「……よじ登った辺り、かな」
一応罪悪感はあるらしく、言い辛いのは雛菊に余計な怪我を負わせたからだろう。怪我の責任を負わせる気はないが、すぐには熱も治まらない。
「言っとくが井戸に落ちたのは偶然だ。ただ都合がいいからシチュエーションは使わせてもらっただけで」
「まどろっこしい理由をこじつけて何の目論見があったんだい? 淫行にしては色気がないようだけど」
口を挟むシャナの言い分に物申したいが、話がずれそうなので押し黙る。アサドの注意も シャナに向いているようだった。
「ヒナの召喚が失敗ってのは本当か?」
「僕は家政婦を喚んだ覚えはないね」
シャナの認識が引っかかるが雛菊は否定も出来なかった。アサドはその言い様がツボだったようで吹き出している。
確かにこの世界でやっている事は家事ばかりだけど、思えばシャナは何を呼び出したかったかは聞いていない。それがアサドのした事と繋がりがあるのかと考えるが、二人の会話に耳を傾けているとふと影が視界の端に入った。
月明かりは生い茂る草の足元までは照らさないのに、そこには光る何かがあった。反射する何かがあったにしては月光の届かない位置だったように見えた。
なんだろう。
警戒も忘れひょこひょこと引摺る足で近付くと、自分が立てたものとは別の場所で茂みが 音を立てる。
「ーーきゃあ!」
避ける暇もなく鳩尾に突っ込んでくる衝撃に耐えられずに尻餅をついた。
すぐ異変に気付いたシャナとアサドが声を立てるが、背のある草の中に埋もれた雛菊を 見つけるのは容易ではないだろう。起き上がろうにも右足に力は入らないし、首元にまでよじ登ってきたナニカに動きを封じられる。
頬をくすぐる毛と伝わる温かさからそれが生き物だとは察しがついたが、全体像を捉えない内は得体の知れないものには違いがなく、必死に剥がそうと格闘をしているところを漸くアサドに保護された。
両脇を下から抱えられて立ち上がればシャナの視線がすぐソレに向く。
「……フラーメ?」
落ち着いて我が身に貼り付く生き物を離して見やると、夜目でも分かる炎のように燃える色のたてがみを震わせ、アーモンド型の瞳を瞬かせた猫にも鼠にも似た生き物が雛菊を求めるように細い四肢をじたばたもがいていた。
「可愛い~」
尖った耳と湿った鼻がひくひく動き、きゅうきゅうと喉を鳴らす。両手で持ち上げられる体は羽毛のように軽い。大きさの割に飛びつく力は強いが、小型の愛玩動物に雛菊は目尻が 垂れる。
「もしかしてこの子が聖獣? 随分人懐っこいんだね。アサド君に貰った匂いのする石、あれ、今の衝撃で落としちゃったのにまだ引っ付くよ」
「フラーメは用心深くて人に懐く事はねぇよ。セラフィムの石を持ってない限り姿を現す事もない」
「そうなの? じゃあその匂いが染み付いているのかな」
アサドの返答に自分なりの解釈をしながらフラーメの背中を撫でる。フラーメは嬉しそうに湿った鼻を雛菊の首に擦り寄せた。少しくすぐったかったが動物に懐かれて悪い気はしない。小さい生き物は心を和ませるものだと背中を撫でれば、その様子を眺めるシャナは何故か危ぶむ顔。
シャナは明らかな動揺を隠せず、雛菊とフラーメを交互に見やる。その様子にアサドは確信を深めたか、満足そうに目を細めた。
「なあ、気付くだろ? お前は喚んだじゃないのか?」
その声は彼の傍にいた雛菊に一番に聞こえたが、アサドの口から漏れた言葉が自分に向けられたものでないことはすぐに分かる。
「シャナ?」
気の所為か青白く血の気の抜けた顔色に不安になる。心配で呼びかければ視線をわざとらしく逸らされてしまった。シャナは元々が不機嫌がデフォルトのようなものだし、偏食家なので血色も日頃から良好でもないのだけれど気がかりだ。
雛菊はさっきまで怒っていた事も忘れ、体を支えるアサドを見上げるが、彼は敢えて何も追求する事もなく今日はもう帰ろうとだけ言った。
帰りの道はシャナがシルフィーを呼んだので足を痛めた雛菊も労せずに済んだ。
夜風は冷たかったがアサドが雛菊の肩を抱いて暖を取ってくれた。胸には今日の収穫のフラーメを抱きながらも浮かない気分のまま、シャナにかける言葉を探していた。
考えすぎて力が入ったか、腕の中で本日の獲物が苦しそうにきゅうと訴える。
痛いじゃないかと責めるように大きく見開かれた蜂蜜色の瞳が、まるで井戸のそこから見た月のようだと雛菊はぼんやり思った。