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君の救世主

 


 それは夢なのだろうと貴方は言うでしょう。


 それは確かに夢なのかも知れない。


 だけど、その夢のような世界は私達の隣りで眠っている。


 夢でもいいから耳を傾けて、心を開いてみて。


 朝日が夢を泡へと変える前に。


 記しておきたいの。


 遥か彼方の物語を――……




 * * * * *

 

 雛菊ヒナギクが繰り返し見る夢の中の少年は、いつも独りだった。

 仄暗い部屋。

 埃と焦げた臭いのする息苦しく、狭苦しい箱のような小部屋。

 足元には臭いの正体と思われる溶けた蝋燭が、円を描くように等間隔に並んでぼんやりと光を生み出す。どのくらいの時間燃焼しているのか、今に燃え尽きそうな灯りが照らし出すのは幾何学模様の魔法陣。魔法陣だと思ったのは、物語で知るそれとイメージが重なったからだ。

 よく見るとその文様は雛菊の知る限りでは覚えのない、恐らくは文字で、その文字のようなものが細かくびっしりと書き込まれている。円陣は狭い部屋を埋めるように中心に大きく描かれ、その図がよく見ると咲き綻んだ大輪の花のようになっているなんて全体を見下ろさなければ気付けなかっただろう。

 なんのために描かれたものなのか。それも気になるが、それ以上に雛菊の関心を引いたのは円の淵に膝をつく人物だった。

 集まった小さな灯りとは別に、人の形だけがくっきり認識出来た。

 伸びた長い髪を無造作に背中に広げてはいるが、小さな影はひとりの少年だ。

 少年は膝をつき、広げた両手も同時に地につけ、まるで祈るような許しを乞うようにしている。

 天を仰ぎ見るその表情は時折深い悲しみを浮かべ、今にも泣き出しそうに見えた。

 見たこともない、真紅の瞳が揺らぐのを見ると雛菊の胸がきゅっと痛くなる。


 ――何をしているの?

 ――どうしてそんなに悲しそうなの?

 ――君の名前は……?


 雛菊は大気のように少年の頭上をふわふわ浮かんで尋ねる。

 しかし声は届かない。声にすらならない。

 この夢を見る時はいつもこうだ。何も出来ない。触れる事さえ叶わない。まるでこの部屋の大気のように、ふわふわと浮遊して様子を窺うことしか出来ないのだ。

 だから何度となく尋ねている質問に少年が答えることはない。――今までは。

 それがどうしたことだろう。

 この日に限って、何故か突然閃いたように少年の名前が分かってしまったのだ。

 頭の中に突然文字が浮かび上がって、少年の名が直に伝わる。

 それは雛菊自身が見る夢の世界だからだろうか。不思議な感覚だった。声もないのに誰かに耳打ちされたような気さえする。

 思い違いかもしれない。それなのに妙な自信があった。


「――シャナ……?」


 頭に思い浮かんだ少年の名前をそのまま口にする。口にすると、より強い確証が生まれた。

 この世界で初めて生まれた声は少年の名だった。

 一瞬、少年がその声を聞いたかのように小さな反応を見せたが気のせいかもしれない。次に呼びかけようとしても、やはりいつものように声にはならなかった。

 悲しそうな、淋しそうな男の子。

 声はおろか音すら存在しないこの空間で、ひたすら何かを懇願するかのように跪く少年。

 今まで何をしているのか、何を願っているのか分からなかったが、名を知ってすとんと何かが胸の中に落ちた。

 生まれたのかしれない。言葉には表し辛い感覚にもどかしさを覚えながら、雛菊はきっと唇を真一に結ぶ。

 呼んでいたのだ、ずっと。

 呼ばれていたのだ、ずっと。

 今、初めて気付いた。自覚した。私はずっと呼ばれていたのだと確信した。

 彼が願い乞うのは救済なのだと。

 理屈ではない。本能のようなもので悟った雛菊は決意をあらわに少年を見据える。


 ――待ってて。

 ――必ず君に会いに行くからね。

 ーーシャナ。


 そう誓って少年に手を伸ばすのだが、その手が届く前に夢から覚めるのだった。






 * * * * *


「――で、その後そのシャナ君と進展はあったのか? ヒナ」


 家族間の会話も希薄と言われるこの昨今、久遠クドウ家の食卓は誰一人欠けず毎朝賑やかだ。今朝も既にお決まりとなった問い掛けを、兄の大地が焼きたてのトーストにバターを塗りながら雛菊に投げかける。


「全然。なんも進展ありませーん」


 首を横にかぶり振り、雛菊はバターの染みたトーストに大口でかぶりつく兄に残念そうな顔を見せ、カップに牛乳を注ぐ。そんな雛菊に、父が折った新聞の隙間から目尻に皺を刻んだ笑みを見せる。


「でも面白い夢だよなぁ。その後の展開が分かれば本に書いて出版してもいいんじゃないか? ほら、ケータイ小説とか流行ってるし」


 そう茶化してサラダに手を伸ばそうとする父の右手を、母がしかめ面ではたく。まるで子供を叱るように、行儀が悪いと言いたげだ。


「それにしても不思議よね。ヒナだけが同じ夢を繰り返し見続けるんだから。なんなのかしらね、前世とかそういうの?」


 オカルト、心霊、ファンタジーの類が好きな母は瞳をキラキラ輝かせ、我が娘の顔を覗く。まるで昔憧れた魔法少女でも見るような目で娘を見つめ、うっとりとほころばせた顔だ。


「母さん、きっとそのうちヒナはその夢の世界にトリップすんじゃないの?」

「そうなったら素敵ね! だってシャナ君はヒナの初恋の子なんだし」


 人の夢で盛り上がる母と兄の会話を耳に、雛菊は不服そうにカップの牛乳を一気に飲み干し不満げにぼやく。


「――だとしたら待たせすぎだよ」


 小さく零れた雛菊の声は、父の新聞を捲る音に搔き消された。



 雛菊には、物心ついた頃から見続ける夢がある。将来の展望という意味ではなく、睡眠中に見る夢なのだが、ある意味将来を描く夢でも相違はないのかも知れない。

 それはともかく、その夢とはひとりの少年のことである。

 赤い目をした少年が、埃臭い部屋の隅で必死に何かを祈り願い乞う夢。

 それだけの夢だが、物心がついた頃から雛菊の心にその少年が住み続ける。

 不思議な幾何学模様の円陣がまるでファンタジーの世界の魔法陣のようであり、少年の瞳が透き通るような緋色なことから、雛菊はそこは魔法が生きる、此処とは次元の異なる遠い世界なのだと信じていた。

 そんな雛菊の夢を、仲睦まじい家族は全て知っている。小さい頃から雛菊が両親や兄に話して聞かせていたのだ。

 内容には何ら進展もないが、同じ夢を何度も見続ける雛菊に家族は興味深げに耳を傾けた。雛菊は少年が独りぼっちで淋しそうだから会いに行きたいと小さい頃から口にし、母親はそれを恋心だとはしゃいで頷いていた。そんな艶めいたものではなかったのだが、月日が経つにつれ雛菊自身も「あれが初恋だったのかなあ」とぼんやり思い返す。だとしても、軽々しく口外は出来ないと理解出来る年頃にまで成長した。

 毎夜ではないが、そんなちょっと不思議な夢を見始めてから、もう十年が過ぎた。

 雛菊はいつの間にか夢の中の少年よりも大きく成長し、この春に一足早く十六歳の誕生日を迎えた。夢の中の少年はおおよそ小学校高学年程の背格好だと記憶しているから、高校に上がった今は随分少年とも離れてしまった気さえする。

 成長して大人へと近付く心と体。流石にこの歳にもなって“いつか夢の中の男の子と会いたい”という願いが叶うなんて現実的ではないと知っている。

 それでも不思議なことは起きるのだとずっと信じていたが、ほんの少し前はそんな絵空事みたいな出来事は起きないのだと諦めようとも考えていた。

 所詮、夢は夢。

 いつも切実に祈るような少年を、夢の外にいる自分に何が出来るのだと言い聞かせていた。

 その矢先だ。つい先日、雛菊はとうとう夢の進展にぶつかる。

 どういうわけか、初めて少年の名前が彼女の頭に降って湧いて出て来たのだ。まるで何者かの意思が伝えるように、囁きかけるように雛菊に少年の名を告げた。

 少年の名はシャナ。

 分かったのはただそれだけ。

 だけど十年も変化のない夢を見ていた雛菊にとっては大きな前進だった。

 きっと、これから何かが起こるに違いないと期待させるだけの小さな一歩――。

 の、筈だったのにいつの間にやらそれから一週間。名前を知る以上の発展などなく、また時間だけが過ぎた。それは見事な肩透かし。雛菊もつい日頃の前向きさを忘れ、続報を楽しみしている家族をよそに肩を落とすのであった。



「大地、雛菊、念の為に傘を持って出なさいよ」

「はいよー」


 朝食の片付けをしている母親が台所から玄関の兄妹へと声を上げる。兄の大地は軽く返事をし、折り畳み傘を二本手に取った。


「ほらよ、ヒナ。忘れんなだと」


 意気消沈と靴を履く雛菊に桃色のドット柄の傘を手渡し、先に靴を履いた大地が三和土たたきに足を鳴らして立つ。


「つか、いつまでも夢の事でふて腐れんなっての」


 軽く頭を小突かれる。


「うっさい。お兄の馬鹿」


 言われなくったって夢と現実の違いくらい頭では分かっている。だけど、そうもいられないくらい胸が疼くから仕方ないじゃないか。

 そんな反論を胸に秘め、雛菊も遅れて外へと出た。

 湿った風に煽られて紺色のセーラー服の襟がフワリと舞い上がり、せっかく整えたセミロングの髪まで広がってつい顔をしかめてしまう。


「だいぶ降ったんだねー」


 庭の芝に光る大量の水滴を眺めて零した。大地はうんやらふんやら判別しがたい生返事。


「でも傘いらないんじゃない?」


 夜中、かなりの雨が降っていた事は寝ぼけながら耳にした音で気付いていたが、現在の空は澄んだ水色が白い朝日を浮かべている。雨雲は見当たらなかった。


「ま、いいか。いってきまーす」


 取り敢えず傘を手に持ち、湿気を含んだ冷たい空気を吸い込んで雛菊は先を歩く兄へと続いた。

 門を出ると通りのあちこちに水溜まりが目に付く。頭上から時々滴る電線の滴に気を付けながら、同じ高校に通う兄妹は歩く。大地は速足で大股に妹の前を。雛菊はゆっくりと近所の垣根を眺めながら兄の後ろを歩く。どうにも並んで歩くには気恥ずかしい年頃なのだが、兄の部活の朝練がない日は通学時間は自然と重なるものだ。


「お、虹」


 不意に大地が立ち止まって空を見上げた。その声につられて雛菊の視線も空へと向かう。ちょうど上り坂の真下から道を見上げる位置に立っていたので、まるで坂の頂から七色の橋が天へと延びているように見えた。


「我が心は躍る。虹の空にかかるを見るとき……by ワーズワース」


 運動部に属しながら意外にも文学も嗜む兄の大地は、自慢の知識を誇らしげに妹へとひけらかす。


「なにを気取ってんの。お兄のキャラじゃなーい」


 そんな兄を冷ややかに一瞥し、雛菊は速足で坂道を上り始めて大地の横に追いついて並ぶ。


「そんならこれはどうだ? 虹の麓には宝が眠っているって話」

「それも大した差はないでしょ。大体、虹に麓なんかないし」

「いやいや。見ようによってはこの坂の頂上が虹の麓みたいじゃね?」

「はいはい。流石私のお兄様。妹に劣らずロマンチストですこ…………と?」


 変に言葉を途切ってしまった雛菊。視線がある一点へと固まり、足も止めてしまった。

 隣りを歩いていた大地も、雛菊とほぼ同時期に目の前の物体に気付き、そして妹と同じように足を止めていた。


「なんだ、あれ……」

「やっぱお兄にも見える? 私の幻覚じゃないんだよね?」


 二人視線を交わし、もう一度息を飲んで視線を戻した。

 坂の頂、虹の麓。

 古ぼけた木製の扉がそこにあった。

 上り坂の頂上の先には何があるのか。

 雛菊と大地が知る限り、この道の先は平坦な道だ。道のど真ん中に扉が立つような建物はまずない。少なくとも昨日まではそこに何かが建つような気配は微塵もなかった。

 しかし、実際問題、現実にそこには扉がある。まるで誰かが開けるのを待っているように静かに佇む。

 二人はこれが何なのかそんな疑問すら口に出さず、無言で扉の前に立った。


「……開かねぇ」


 大地がドアノブに手をかけるが、扉はぴくりとも動かなかった。雛菊はただじっとドアノブを見つめる。

 錆びたドアノブに鍵穴は見当たらない。掛金がかかっているではなく、しっかりと施錠されているようで何度大地がノブを捻っても無駄だった。きっと蹴破ろうとしても意味がないだろうと、雛菊は思った。

 扉に合った鍵でないとこの扉は決して口を開かないことを雛菊は知っていた。何が鍵なのかも分かった。それは夢と同じ、何者かの意思が雛菊に教えるように湧いたイメージだ。


「お兄、どいて」


 兄を後ろのけて一歩、静かに足を踏み出す。


「無駄だろ」


 そんな大地の言葉空しく、雛菊が右手をドアノブにかけるとガチャリと錠が外れる音がした。その音に一瞬大地が驚いている間に雛菊はノブを回す。

 扉は音もなく開いた。

 扉の向こうは何もなく、ただの白い空間が広がる。


「……なんだよ、此処……」


 数分か、もしくは数秒と短い時間か、呆然と中を眺めていた大地が絞るように吐き出す。雛菊は扉の向こうの白い世界を見つめ、そしてゆっくりと兄の方へと振り返った。


「お兄、私、行って来るね」

「行くって、ヒナ、何処にだよ! まさか中にか!?」


 床すら判別不可の得体の知れない空間に飛び込むなんて正気かと喚く大地に、雛菊は頷く。


「大丈夫。なんともないから。ちょっとだけ、ね?」


 宥めるように言って、雛菊はこの場にそぐわない穏やかな笑みを浮かべて扉の向こう側に指をさす。


「――ちょっと、そこまで」




 * * * * *


 昔からどこか夢見がちだった妹は、引き止めようとする大地の手を擦り抜け、嬉々として扉の向こうへと飛び込んで行った。その思い切りにも驚くが、雛菊を飲み込むと同時に扉も影が揺らめくように姿を消したのにはさらに面食らった。まるで目的は果たしたと言わんばかりに、余韻も残さず扉も虹までも消えてしまうと夢でも見たかのようだった。


「ヒナ……?」


 大地は確かめるように妹を呼ぶ。そしてどこへ行ってしまったかをすぐに悟った。


「ほんとうに、行ったのか……?」


 小さい頃からずっと言っていた夢の向こう側の世界へ、独りぼっちの少年を救いに――…。

 何の迷いも逡巡もなく、扉の向こうへと。


「そうだ! 母さん達に知らせねぇとっ」


 ハッと我に返った大地は、慌てて道を引き返す。自宅へと、全速力で。妹が旅立ったことを伝えに。

 妹が目の前で消えて一大事だというのに、息も切れ切れに走る大地の口許からは思わず笑みが零れていた。

 幼い頃からの約束を果たす旅。

 大地の心まで思わず躍った。

 妹は異世界へと旅立ったのだ。

 


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