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境界線上の代理戦争  作者: だが断る
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2.筆頭騎士グレア

 恭弥が通う高校は進学校である。特進は国立大学を目指し、普通科のものでも上位の私立大学を目指す。学内の偏差値も高く、点数至上主義だ。そのこともあって学内試験の上位五十名は廊下に貼り出される。

 期末試験は恭弥が復学してすぐに実施された。テスト勉強など一切せず、今まで突き立てた貯金だけで試験に臨んだのだが、結果は上々だった。


 十一位.総合四百五十二点 嵯峨根恭弥


 一度事件を起こしたくらいでは揺るがない実力。覆すことのできない潜在能力。それらを余すことなく見せつけた後に教師たちを睨みつけた。

 教師の心証を上げる方法など限られている。授業態度や周囲のものとの協調性、何よりも学力だ。幸運にも恭弥は知能指数には恵まれているらしく、手を抜いてもある程度の成績は保守できる。


 けれど、本当に手に入れたいものは遠いところにある。

 恭弥は貼り出された成績の順位に背を向けると、そそくさと帰路に着いた。




 1.四面楚歌



 オースはテレビによく出てくる猫型ロボットよろしく、押入れの中に布団を敷いて寝泊りするようになった。人から見えないようにする方法もあるらしく、気紛れに本を読んだり街をうろついたり、恭弥の後ろを尾行して校内に入り込むこともある。


 今は夏真っ盛りである。

 本日も茹だる様に暑い。恭弥の着ている制服のシャツは汗で透けている。しかも、屋上で直射日光を全身に浴びながらだから汗の吹き出す量が尋常ではない。こんなところで何をしているのかと言うと、昼食のサンドイッチを腹に詰め込んでいる。その隣でオースは汗一つ掻かず、奇怪なものを見る目つきで恭弥のことを凝視していた。何かを聞き出したそうなのだが、口を開きかけると途端に黙り込み、考えるように小首を傾げるのだ。そのような愛らしい仕草を司と同じ顔でされるのだから、恭弥としてもたまったものではない。悶々とした感情を吐き出せ、と再三口にし、ようやくオースは口を開いた。


「君は何で一人ぼっちで飯を喰らっているんだ? 私は過分にして知らんが、下衆なものたちは群れて食事を行うだろう?」

「……いないんだよ。友達」


 言わせるな、と憮然として吐き出す恭弥は寂しげだ。

 夏休みの目前、進学校の中で起こした暴力事件だ。となれば、善良かつ常識を弁える同級生たちは恭弥に近づこうとはせず、友達になる機会もない。それに停学を受けた上で学力試験で十一位を取ったのが不味かった。嫉妬の対象である。

 出る杭は打たれると言う。

 恭弥は聊か出過ぎた。出張りすぎたと言ってもいい。以前は教師からすればよく言う事を聞く、少し協調性に欠ける成績の良い優等生といった印象だったろう。今となっては手のつけられない、けれども成績はきっちりと取る厄介な生徒でしかない。下手な不良よりもやり辛いだろう。主張すべきことがあり、最終手段として暴力に訴えただけなのだから。


 謹慎中、恭弥はオースに連れられて異世界へ飛んでいたが、その時にあった話である。恭弥に対して担任の教師が家庭訪問をしてきたのだ。

 相手の親御さんに誤ってはくれないか、という教師からの提案に瞳と秀信は吐き気を催すほどの怒りを感じたと言う。はっきりとそのことを教師に宣言し、うちの息子は間違ったことはしていません、とぴしゃりと撥ね退けたらしい。そのおかげでPTAの方面もやや敵に回し、恭弥は孤立無援の悲しい状況に陥っている、というわけだ。


 教室に入ろうものなら腫物を扱うように対処をされる。教師も同様で、嫌な意味で特別扱いだ。間違ったことはしていない、と恭弥は考えているが、自分と他人での視点の問題もある。自分からすれば間違ったことではないのかもしれないが、他人からすれば問題ないことを掻き回すただの厄介者なのかもしれない。何せ司が大人しく虐められていて、それで日常は回っていたのだ。何の問題もなく、他者にとっては何も問題もなく日常は回っていたのだ。そのことが異常かどうかは置いておき、とにもかくにも司の救済を望むものなど誰もいないということになる。


「友達や仲間を作ることを怠った俺と司のミスか……。こんなとき、どうしようもなく誰かの手助けが欲しくなる。期待できそうにないがな」

「今から作ればいいではないか」

「……できれば、いいがな」


 恭弥はのそりと立ち上がると空になったサンドイッチのパックをビニール袋に詰め込んで、鉄扉を開いて校舎へと入った。

 雑音が五月蠅い。活気のある生徒たちを傍目で見ていると、自分とは違う世界で生きているのではないか、と錯覚してしまう。

 廊下に犇めくのは見覚えのない学生たち。学年が違うのだから当然だが、みんなが笑顔で楽しそうに会話をしている。中には廊下でサッカーボールを蹴って遊んでいるものもいて、教師に咎められて頭を下げている。間抜けな光景、日常のワンシーン。だが、あまりにも遠すぎて、恭弥の目が羨望に眩むが、途端に憎悪が浮かぶ。

 意中の人は電子音の鳴る部屋で一人、眠っている。それなのに楽しむ奴らがいる。違う学年のものたちは関係ない。だから、このどす黒い感情はただの八つ当たりでしかないと自覚できるのだが……。

 空調の効いた廊下。緩衝材の敷き詰められたモスグリーンの廊下。染みの浮かぶ天井に、教室と廊下を遮る曇りガラスをはめ込まれた窓。現実にいるはずなのに、ただ司がいないというだけで色褪せて見える。壊したい対象になり替わる。


 何時の間にかオースは姿を消していた。何か見たいものでもあるのだろうか。

 オースを探すことを一瞬だけ考えるが、すぐさま放棄して自分の所属する教室へと向かった。

 校舎は四階建て。一階が保健室や生徒指導室、大きな職員室となっており、二階は一年生の教室と理科実験室と一年生を担当する教師たちの詰所的な職員室がある。三階には二年の教室と詰所、後は美術室とパソコンルーム、柔道場と剣道場だ。四階には三年生の教室と大講堂、視聴覚室があり、五階は屋上である。

 恭弥の教室は三階の階段からすぐ近くにある二年一組である。一組は特待生扱い、つまりは授業料無料の特進クラスだ。二組は準特待生扱いで授業料が一部免除の特進クラス。三組から八組は普通クラスとなる。かといって教室の造りに何の変化もなく、単純に授業内容が違うというだけだ。

 今も特進クラスの面々は普通クラスとは変わらない昼休みを満喫しており、食事を終えたものたちはそれぞれ話に夢中になっている。しかし、恭弥が扉を開いて入室した途端、急に教室中に張り詰めたような冷ややかな空気が醸し出された。


 静まり返った教室では先ほどまでの活気はなく、席を立ってお喋りをしていた生徒たちは自分の席へ戻り着席した。決して恭弥の方は直視しないよう、しかし、ちらりと盗み見はするかのように。

 それらは恭弥があまり体験したことのないものだった。

 排他的な空気。敵意とは違う。殺意とは違う。ただの隔意だ。あなたとは関わりたくはないですよ、とアピールしているのである。恭弥が叩きのめした輩に目をつけられたくないのだ。違うクラスなのだからそもそもそんなことが起こる可能性は稀だが、もしかして、ということもある。恭弥たちはまだ二年生を始めたばかり。卒業までにはたっぷりと時間がある。わざわざ灰色の学校生活を目指すものもいないだろう。

 冷静に考えればわかることなのだが、どうにもそういう考えを受け入れづらい恭弥は苦笑いを浮かべ、渋々と自分の席へと戻った。手持無沙汰なので机の中から教材を取り出すと、予習をしようとする。しかし、不思議なことに教材は全て八つ裂きにされていた。一つ一つ丁寧にページを破られ、丁寧な文字で書かれていたノートも全てカッターなどで破られている。

 

 ターゲットは俺か。


 理解した恭弥は哄笑を上げる。

 恭弥の嗤い声を聞いた生徒たちの幾人かはびくりと肩を震わせた。全員が恭弥に対してやったわけではないことを確信させる。それもそうだ。恭弥は生徒一人を殺す気で殴りかかる狂犬のような行動を起こしたばかりである。その恐怖は関係のない生徒たちの脳髄に叩き込まれていることだろう。

 けれど、それを無しにしても虐めを発展させたい奴がいる。それは間違いない。


「とことんだ。徹底的にやってやる」


 音のない教室に恭弥の言葉は異様に響いた。

 誰の仕業かはわからない。誰が助長したのかはわからない。けれど、ようやく理解したことがある。

 仲間など作る術はない。逃げ道はない。戦うしかない。

 結局のところ、それだけのことなのだ。


「嵯峨根はいるか?」


 教室の後ろの扉ががらりと開いて現れたのは屈強な体格をした男だ。

 前時代風のポマードでべったりと固めたオールバックに老け顔。体格も恵まれており、今時の若者とはかけ離れている体育会系の男だ。制服の白シャツと黒のスラックスが恐ろしいまでに似合っていない。見れば上靴の爪先部に刺繍されたラインは緑色だ。これは学年を示し、現在緑色は三年生だ。ちなみに恭弥は青色で、一年生は赤色である。

 恭弥は同学年にすら知り合いがほとんどいないのに、三年生ともなると名前どころか顔すらも知らない。全く見覚えのない男に名前を呼ばれてきょとんとしていると、男はより一層声を荒げて恭弥の名前を呼んだ。

 クラスートは気まずそうにちらちらと恭弥のことを見ている。自分の教科書を八つ裂きにした輩たちに気を使う必要もないが、今にも殴り込んできそうな上級生を放っておくわけにもいかない。

 恭弥は立ち上がると、男の前へと歩いて行った。


「俺が嵯峨根ですけど、何か用ですか?」


 男は老け面を顰めて恭弥の顔をじろじろと舐め回すかのように観察している。両手をスラックスのポケットに突っこんで、腰を曲げ、恭弥の眼前に顔面を突出し、ぎょろ目で威嚇してくるのだ。不良漫画やドラマなどでの定番なのだろうが、まさか自分がこんな目に受けるとは恭弥も予想はしていなかった。

 おおよそ百八十五センチメートルはあるだろう巨体。恭弥は百七十センチメートルを少し越えた程度である。その身長差でこの威嚇は端から見ればなかなかの威圧感があったが、命の遣り取りを経た恭弥にとってはそよ風にも等しい。

 怖気づかずに背を伸ばし、男の返答をじっと待つ恭弥に痺れを切らしたのか。男は聞こえるように舌打ちをすると、恭弥の肩に腕を乗せ、肩を組んだ状態にしてから耳元で怒鳴った。


「ちょっと面貸せや」


 鼓膜を突き破りそうな大声に眉を顰め、恭弥はこくりと頷いた。




 面倒なことになった。体育館の裏に連れていかれたとき、恭弥は素直にそう思った。

 体育館の裏の敷地は校内を全て覆うように設置された塀と体育館が壁になって校庭からは見えない隔離された場所だ。もっぱら不良たちがたむろしたり、煙草を吸ったりする場所で、恭弥のような優等生とはとんと縁のない魔窟である。恭弥はそんな場所に易々と付いていってしまったわけなのだが、待ち受けていたのは木刀や鉄パイプなどを傍らに置いた生徒たちだった。


「石崎! こいつにぼこされたのか?」

「そうです。後ろからいきなり殴りかかってきやがって……汚い野郎っすよ!」


 未だに傷が癒えていないのだろう。ところどころ青痣の残る顔面を晒している。以前恭弥が殴り倒した輩、石崎浩二という。

 進学校であるにも関わらず成績は低く、故に不良などに成り下がってしまったのだろう。

 自分を高めるよりも他人を貶めることを好み、弱者には暴力を振るう見下げ果てた奴、というのが恭弥の認識である。それはあながち間違ってはいないのだろう。何せ自分一人で報復に来るのではなく、仲間を頼って恭弥を囲むのだから。

 恭弥は腰に両拳を当てると、大仰に肩を竦めた。


「いい加減何の用か教えてもらえませんか?」

「てめぇ! ムロさんに生意気な口聞いてんじゃねえぞ!」


 黙ってろ、とムロさんと呼ばれた老け面の男は石崎に対して威嚇した。石崎は命令され、怒りに身体を震わせている。しかし、反抗することもできないのだろう。苦渋の汗を流しつつも、ぎりぎりと歯軋りを鳴らしてぐっと堪えていた。


「で、だ。嵯峨根。お前に用があるっつーのはよぉ。お前、石崎ぼこったのか?」

「制裁を加えました」

「何で?」

「俺の友達を……丁寧語使うこともないか。石崎が俺の連れをぼこったから、どれだけ痛いかをその……何だっけ。石崎? とやらに教えてやった。頭が悪そうだから実践を兼ねて身体に叩き込んだ」

「へぇ、そりゃまた……石崎ィ!」


 へらへらと笑っていた顔から一転し、腹の底から出した声を張り上げて、老け面の男は石崎に怒号した。


「こう言ってるけど、お前はどうなんだ? 許せないよなぁ?」

「当然っすよ!」

「よし、俺が許す。ぼこれ」


 へっへ、と下卑た笑いを浮かべて石崎は木刀を肩に担いだままのそりとした動作で踏み出した。

 緩慢な動きだ。恭弥にやられた傷は根深いのだろう。ところどころに不自然な動作が含まれている。そんな状態で喧嘩を売ってくる石崎に半ば本気で恭弥は感心をするが、これは良い機会だ、と顔には出さずにほくそ笑む。


 恭弥には六つ、選択肢があった。


 逃げ出す。

 石崎に倒される。

 石崎を倒した後に逃げ出す。

 石崎を斃した後に他の奴らに喧嘩を売り、袋叩きにされる。

 全部無視して老け面を叩く。

 とりあえず全員ぼこす。


 頭を振ると、下らないことを考えた、と恭弥は自嘲した。

 その間にも石崎は恭弥へと向かって歩いており、ゆっくりとした動作で木刀を振り下ろしていたところだった。実戦を経た影響だろうか。木刀の動きが緩やかに見えた。

 恭弥は木刀の軌道から逃れるために横へ一歩動く。もといた場所に木刀は激突し、地面が小さく爆ぜた。その瞬間の石崎の表情の移り変りですら恭弥には容易に視認できた。

 当たっていないことに動揺し、避けられたことに気づいて驚愕し、拳を振り上げて接近している恭弥に対して恐怖し、拳がぶつかる瞬間目を閉じて痛みに備え、何時までも来ない痛みに恐る恐る目を開くと、首にそっと手を添えられていることに戦慄していた。

 恭弥は首を掴んだ手に思い切り力を込めると、石崎の首を折るつもりで握り締めた。


「が、あ、ぐ……」


 そして、そのまま体育館のコンクリートで出来た壁に駆け出し、背中から叩き付けた。

 周囲にいる不良たちも呆気にとられ、次第に顔が蒼褪めていく。

 石崎は痛みのあまり地面の上をのた打ち回り、それを鬱陶しく思った恭弥に腹を思い切り踏み抜かれている。踵で、思い切り鳩尾を踏み砕かれていた。


「やってくれたな、おい!」


 ムロさんと呼ばれた男の号令で不良たちは束になり、恭弥に対して襲い掛かった。 

 幾本もの凶器を前に全て避けることは叶わず、超人的な反応速度を持ってしても次第に戦況は悪化していく。


 いっそのこと逃げた方がいいのではないか。


 冷静な思考はそう囁いているが、熱せられた感情が逃亡を許さない。

 不良たちに一撃入れるたびに誰かが倒れるが、その後に続くものたちが倒れたものを庇い、恭弥の目を引きつける。その瞬間を隙と見て、恭弥の背後をとっていた不良は木刀を振り下ろして頭を叩く。視界に花火が爆ぜた。

 衝撃で身体が泳ぐが、歯を噛みしめてぐっと堪え、背後を振り向いて思い切り腹を蹴りぬいた。

 何度この遣り取りを繰り返したか。身体に力が入らなくなってくる。


「動きを封じろ!」


 不良たちは武器を捨てると、捨て身になって恭弥に掴みかかってきた。

 五感を総動員して躱していたが、おおよそ五分も経った頃、恭弥の息も切れてくる。すると動きも鈍り、数の勝る不良たちに背後から羽交い絞めされることとなった。

 そこから先のことを恭弥は覚えていない。

 とにかくしこたま殴られ、地面に叩きつけられ、背中を何度も踏み抜かれた。

 その間、何度も暴言を吐かれ、頭を下げることを要求された。けれど、恭弥は強情に断った。その度に私刑は敢行され、恭弥の身体と精神を削り取る。

 もはや制服はぼろぼろで、ここまで暴力を振るえば自分たちもタダでは済まないだろうことも理解しているはずなのに、不良たちは退くことを知らないようだ。痛みで朦朧とした頭の中、恭弥は皮肉気にそんなことを考えていた。


「おい、立たせろ」

 

 横這いに地面に倒れていた恭弥の腕を不良たちは持ち上げる。片腕ずつ別のものが持ち上げており、拘束に近い形だ。

 老け面は恭弥の顎に手を当てると、無理やり顔を上げさせ、目を合わせた。

 光を失っていない恭弥の目が気に入らないのか、思い切り鼻っ柱に拳を振るう。骨が曲がる音とともに夥しい鼻血が噴出し、唇を真っ赤に染める。血の味は不快だった。


「学校辞めろ」


 恭弥は老け面の男の大きな鼻に唾を吐きかけた。

 その後、怒り狂った不良たちに囲まれ、意識が途切れるまで殴られた。それからずっと意識はなく、放課後を知らせる鐘が鳴っても恭弥は目が醒めることはなかった。ようやく起きたのは体育館を使う運動部のマネージャーが悲鳴をあげて駆け寄った後である。大丈夫? と肩をゆすられ、大騒動になって人垣ができてからようやく目を醒ましたのだ。


「大丈夫じゃないよなあ?」


 人垣の中に紛れ、顔を歪めて笑うオースが呟いた。


「……ああ」


 恭弥は苦々しく頷き、ぼろぼろの身体を引きずり、教室に戻ることなく家へと戻った。

 胸中に渦巻く想いは口には出さない。けれど、目から零れ落ちていた。

 悔し泣きだった。




 2.崇拝



 週末の二連休を使い、恭弥は再びオースの世界へと訪れることとなった。


 先日は愚者の森に転移されて唐突に戦闘を強いられたものだが、今回ばかりはオースが所有する城を案内をしてくれるらしい。それ以外にもしなければならない雑事があるらしく、それらのこともあっての城への訪問だったのだが、城を目の当たりにしたとき、恭弥は純粋に感動した。

 四つの尖塔に囲まれた白亜の城。滝壺の中にある城には水飛沫が舞い、七色の光が混ざった虹の橋が架かっていた。とても幻想的な光景である。息を呑むとはまさにこういうことか、と恭弥は立ち止まって感慨に耽っていたが、先行くオースに気づいて慌てて舗装された道を走り出した。

 恭弥はオースの隣を歩くこと暫し、よく手入れされた庭園を通り抜け、城の正面へと辿り着く。彫像のように固まる兵士が二人、扉の両脇を固めていた。兵士たちはどちらも角と尻尾が生えた屈強な男たちだった。手には片手持ちの槍であるパイクを持ち、きりりとした眼差しで職務を全うしている。

 オースの存在に気づいた二人はもともと張り詰めた表情だったにも関わらず、更に居住まいを正して敬礼をすると、声を張り上げて扉を開けた。

 扉を開けた後、兵士たちはオースに敬礼をしつつも、恭弥に対して厳しい視線を送り続けている。恭弥はやや縮こまってオースの後に続いて城の中へと入るが、再び城の美しさに感動させられることになる。兵士たちの不愉快な視線も何処かへ飛んで行った。


 天井が高く、吹き抜けになったエントランスは品の良い調度品が配置されている。格調高い品々だ。

 床に敷かれた深紅の絨毯には細々とした刺繍がされている。職人の手によるものなのだろう。踏みつけるのがもったいないほどに美しいが、オースが躊躇なく歩き出すので渋々足を踏み出す。ふわりと足を包み込むように受け止められるような絨毯の感触は素晴らしい。

 壁に描かれた絵画なども見たこともないものばかりだが、素人の目からしても何か魂のようなものが感じ取られた。生命を刻み込んだかのような情熱的な絵。それは馬が闊歩する絵だったのだが、酷く目を惹きつけられる。

 眼福ものの品々が配置されている城の主はオースなのだ。恭弥はこの時になってようやくオースがお姫様であるということを理解した。


「どうした?」


 オースは司と似た顔で愛らしく小首を傾げるるが、恭弥は疑問を浮かべるオースに対して頭を振る。

 最初会ったときとは随分と変わったものだ。

 意匠を凝らした衣服は「動き辛い」と投げ捨てて、恭弥の御下がりを着るようになってしまった。今は安物のメーカーにありがちな英字新聞が貼り出されたようなTシャツに色褪せた薄青のデニム、そしてアディダスのスポーツシューズを履いている。頭には「君の世界では角はおかしいのか」とぼやいてから暖色のベレー帽を被るようになった。艶のある長い髪も団子にして帽子の下に纏めてしまっている。どこから見ても活発な少女で、お嬢様然とした雰囲気は全くなかった。


「俺はここで何をすればいい?」

「まずは私の部屋に来てもらおうか」


 両手を叩いて音を鳴らすと、何かが恭弥の影から現れた。恭弥は驚きのあまり眼球が零れ落ちるかと言うほどに両目を開いた。

 影から現れたのは紳士服を身に纏う背の伸びた老人である。片眼鏡をつけ、礼儀作法を十分に心得た好々爺といったところか。

 彼はオースに対してお辞儀をすると、恭弥の右手を凝視すると苦渋の表情を浮かべ、オースのことをじっと見つめている。凝視している。常識知らずを叱りつける親のような視線であった。

 オースにしては珍しく辟易とした表情を浮かべ、助けを求めるように恭弥に視線を向ける。しかし、恭弥としても何を困っているのか理解できないので肩を竦めるだけだ。いや、理解できるにはできるのだ。突如現れた老人がオースに対して怒りで身体を震わせていることくらいは馬鹿でもわかる。しかし、そういうものに進んで関われるほど恭弥は心が広くないし、おそらく犬も食わないだろうものに手を出す馬鹿でもない。

 静観が恭弥の選択だ。

 それを察してか、オースも一際大きく溜息を吐くと、満面の笑顔を老人に向けた。華が咲いた、と思えるほどの魅力的な笑顔だったが、どう見ても愛想笑いである。恭弥が知っているオースが笑顔はもう少し底意地の悪い表情だ。


「いくら私が可愛いと言ってもこれは義骸だぞ? あまり不躾に見るものではない。照れるではないか」


 老人の怒りが爆発する音が、確かに恭弥には聞こえた。


「茶化さないでいただきたいですぞ、オルシア様! 何故、この若者が宣儀の指輪をつけておられるのですか! 爺を納得させる明確な理由はおありですかな!?」

「ふむ、爺を納得させる術を私は持ち合わせておらん。納得させるのは無理だと潔く諦めるとしよう」

「オルシア様!」

「五月蠅い。五月蠅いぞ、爺」

「いや、それだけでは有りません。何ですか、その古びた服は! 王女ともあろうものが下賤な衣服を身に着けるなど、下々の者に示しがつきませんぞ!」

「私はまだ拝領しておらん。下々の者など……」

「屁理屈は結構です!」


 ぱたぱたと掌を宙で振って話を打ち切ろうとするが、老人の小言は終わらない。

 説教は延々と繰り返され、次第に老人が生まれた時の話へと飛ぶ。それから先代の王の素晴らしさを説き、オースが幼い頃の愛らしさを語り、何処でどう間違ったのか、と現在のオースの悪いところを逐一責め立ててくる。だんだんとオースの旗色も悪くなってきた。

 むすりと頬を膨らませてそっぽを向き、怒れる老人の方を見ようともしない。教育係のようなものなのだろう老人はその態度が余計に気に障るらしく「だから、オルシア様は!」と舌鋒を膨らませる。

 気づけば恭弥はオースの前に立ち、老人の視界を塞いでいた。完全に無意識のことである。

 老人よりも背が高い恭弥は自然と見下ろす形になり、老人は恭弥を見上げる形となる。凄まじい威圧感を放って恭弥に「どけ」と態度で表してくるが、恭弥も何故だか退いてはいけない気がして、出来る限りの愛想笑いを浮かべた後に頭を下げた。


「初めまして、嵯峨根恭弥です。この度は、その、この子にとてもお世話になって……で、ですね。怒られている要因はたぶん俺にもあるので、その、勘弁してやってもらえませんか。恩人なんですよ、彼女は」

「……恩人? オルシア様が悪戯以外のことをした、と?」


 うむ! とオースは腕を組んで思い切り首肯する。老人の顔が引き攣った。しかし、客人の手前これ以上醜態を晒すわけにもいかないとでも思ったのか、説教のときの仕草で崩れた居住まいを正し、恭弥に向き合う。


「オブリル・ギュス・ダヴィスタンと申します。オルシア様のお世話役をさせて頂いております。以後、お見知りおきを……」

「ご丁寧にどうも……」


 気まずい沈黙が落ちる。

 お互いに何も知らないのだからオースが間を取り持つべきなのだが、生憎とオースはそのような手間をする気はないらしい。


「爺、私はこの義骸の調整に行かねばならんのでな。そこな客人を私の部屋へ案内してやってくれ」


 オースは二人を置いてそそくさと歩き出すと、手をひらひらと振りながら言った。


「淑女たるもの、家族でもない男を部屋に招くなど言語道断です!」

「そやつは私の婿だ。そうだろう?」


 ようやく老人が怒っていた理由が恭弥にも理解できた。恭弥の嵌めている指輪は恐らく婚礼の指輪なのだろう。それも特別なもの。そんな大切なものを何処の馬の骨とも知れない男に与えたとなれば激怒するのも当然かもしれない。

 オースの性格の一面を垣間見えた気がする。かなり破天荒なお嬢様なのかもしれない。微かに笑ってしまったのだが、それをオブリルは見咎めた。慌てて口を塞ぐ。

 歯を噛みしめて逡巡し、答えを出したのだろう。渋々と、皺を寄った顔により一層深い皺を刻み、目を泳がせて逡巡し、意を決して恭弥の方を見た。固い意志を感じられるもので、恭弥は逃げるように目を逸らした。


「婿様、でよろしいのでしょうか……?」

「はあ……」


 恭弥には言葉を濁すしかできなかった。




 オブリルに案内された部屋に入ると、息を呑んだ。

 一番最初に目を惹きつけられたのは部屋の中にあるレースのカーテン。そこから見える滝の流れ落ちる光景だった。水飛沫が舞い、幾本もの虹の橋を架けている。あまりの美しさに数秒硬直し、凝視してしまった。

 そこから視線を移したのは部屋の全体的な印象だ。

 床には暗い赤を基調にして編まれたカーペット。窓の横に畳んで掛けられているカーテンも暗色で、やたらと派手な天蓋のついたベッド。不協和音を奏でそうなものだが、それらがもともとあったかの如く自然と調和している。

 恭弥の経済状況では望むべくもない趣味の良い部屋である。その主は下腹部が透ける薄い衣服を身に纏い、ベッドの上で微睡みつつ、自前の深紅の髪を指先で弄んでいた。

 こちらに気づくと髪を後ろで結って纏めると、にこりと笑って起き上がる。胸元の生地は他よりも厚いらしく、乳房を見ることはできなかった。


「オルシア様、何という破廉恥な格好を……!」

「爺、私はこれが楽なのだ。服の趣味くらい自由にさせてくれ。それと私は婿と一対一で話したくてな。席を外してくれないか?」


 手を出したら殺す。と恭弥に目で訴えかけ、オブリルは部屋を後にした。残るのは恭弥とオースのみである。

 艶やかな赤い髪は纏められ、背に垂れている。顔の造形はとても愛らしく、きゅっと引き締まった唇が恭弥の好みだ。

 首も細く、全体的に華奢な身体は抱きしめたら折れてしまいそうで、触れることすら躊躇われてしまう。

 不謹慎ではあるが、透けた肌を凝視してしまうのは男の性というものか、にやにやとこちらの行動を逐一観察してくるオースの視線に気づいてはいても、自然と目線は下へと降りて行く。


 ふっと司の煙草の焼け跡がついた身体を思い出し、自分の頬を殴った。

 下弦鳴く撃ち込まれた拳は痛み、頬は熱さを伴った激痛が走る。それが今は心地よかった。罪悪感を消し去るには足らないが、無いよりはいい。


「すまない」

「雄だろう? 生理現象だと思うが……」


 恭弥の下卑た視線は不快ではなかったらしく、オースはけらけらと笑っている。最初からそうだったが、よく笑う少女である。事ある毎に笑顔になり、何に対しても興味を示すのだ。けれど、本人は身体が弱いと言う。見る限り身体が弱そうには見えず、健康的な肌色をしている。やや白いが。

 首を傾げてオースのことを見ている恭弥に対し、再びくすりと笑った。二の腕ほどまである袖を捲ると、触り心地が良さそうな柔肌が顕わになる。恭弥は一瞬目を背けそうになるが、肌に描かれるものを見つけて目を見開いた。

 刺青が彫られていた。それも可愛らしいものなどではなく、幾何学的な文字を幾層にも刻まれている。何を意味しているのかはわからないが、呪術的な何かであるということは恭弥にでもわかる。魔力というキーワードが出てくる世界だ。予想はつくが。


「私は病弱だと言った。実際には少し違ってな。たぶんだけれど、私の身体は他の者よりも余程強靭だ。だが、問題があってな……。私は生まれつき魔力が多い。多すぎる。その魔力が身体の中で暴れ狂い、私を内から蝕んでいるんだ。死ぬほどではないが、少し運動すると歪が生まれる。全く持って厄介なものだ」


 片膝を両手で抱え込み、膝の皿の上に顎を乗せ、ため息を吐いた。妙に様になっている。


「だから、私は一時的に魔力を弱くするためにこういった封印の紋様を刻んでいる。そして、君に魔力を分け与えて少しでも内在魔力を減らそうとしているんだ」

「強いってのも考え物なのか」

「どうだろう。自分の魔力すら満足に扱えない雑魚、とも見て取れると思う者もいるし、考えは人それぞれだ」


 要らぬことを話した、とオースは苦笑を漏らす。愚痴のようなものか、聞いてほしいときもあるのかもしれない。

 髪を指先で遊ぼうとし、纏めたせいで触れないことに気づくと舌打ちをする。やや伸びた爪を口元に含み、ぶっきらぼうな表情になる。

 何かを悩んでいるのだろうか。

 発するべき言葉はわかっているのに、迷いが邪魔をしているように見受けられた。話しづらい内容ならば話さなければいいのだが、恭弥から見てオースは筋を通す人種だと思う。だから、話を促せるように違う話題を提供し、場を解してやるべきだと考えた。それに、気になっていることもあった。

 

「オルシアって?」


 ふむ? とオースは小首を傾げると両手を叩き、ああ、と言葉にならぬ声を漏らした。忘れてた、と表情が物語っている。


「オルシア・L・ドラグーン・ヴィスフィニア。これが私の正式名称だ。オースは愛称のようなものさ」

「先ほどの老紳士は?」

「お目付け役だ。会う度に説教をする困った奴だ。私ほど出来た女子おなごなど他にはおらんだろうに、不満を漏らすなど言語道断……爺には内緒だぞ。顔を蛸のように真っ赤にして怒るからな」


 思い出し笑いでもしているのか。腹を抱えて笑っている。

 大きな城ではあるが、家がある。家族はいるのかは知らないが、お目付け役の爺さんがいる。

 ここにはオースの匂いがあった。


「お前にも、生活があったんだな」

「君は私のことを何だと思っているんだ?」


 恭弥は逡巡し、数秒間を置いて、答えた。

 知り合いではあるだろう。友達、これは微妙だ。親友ではない。恋人でもない。恩人ではあるが、しっくりと来ない。

 突然現れ、恭弥の願いを簡単に叶え、異世界へ飛ばして力を与え、強敵と戦わせて苦しませる。

 可愛らしい姿で、惚れた女と同じ顔をして、耳心地良い声で、恭弥にとって都合の良い言葉を並べたてる。それを人は悪魔と呼ぶかもしれない。いや、実際は悪魔なのかもしれない。恭弥に与えた力は絵画に描かれた天使のような美しい姿ではなく、人を喰らう獣と似た禍々しい姿だったのだから。

 けれど、それは適切ではない。恭弥の主観からすれば、


「神だ」


 オースの表情はぴたりと凍りつき、恭弥に怜悧な双眸を向けている。大きな眼は細められ、探るように恭弥のことを見つめている。

 恭弥も逃げることなく、背けることなく、オースの瞳に真摯な眼差しを返していた。

 嘘偽りのない本音。恭弥にとって、オースは神である。理解の出来ない超常の力を持ち、条件を提示しては来るが、願いを叶えてくれる。

 これが神と言わず、何と言おうか。


 恭弥が冗談で言ったのではない、と悟ったオースは苦笑いを浮かべると、頭を振る。照れ笑いなどではなく、本気で困惑しているようだ。


「私は神か」

「そうだ」

「随分と、大きく出たな。私は君の神かもしれないが、力はないぞ。今も小さな事で頭を悩ませている」

「それは何だ?」


 髪を解き、指先で深紅を弄ぶと、憎々しげに窓から外の景色を見た。

 言うべきか迷っているのではない。何から話すべきか悩んでいるようだ。

 恭弥は急ぐことはせず、オースが頭の中で纏めて語りだすのを待っていた。


「グレア。私を崇拝している……この城での有力者。筆頭騎士だ。彼は君のことを良く思っていない」


 ふう、とオースは嘆息する。


 事の顛末は昨夜のことらしい。

 恭弥が眠った後、オースは異世界にある自分の身体へと戻り、客人を城に招くと報せたのだ。

 久々の客に城にいる給仕たちは喜びの声を上げたが、その客人の意味を知るものたちは苦々しく思ったに違いないだろう。


 オースはヴィスフィニア王国の王女である。

 ヴィスフィニア王国は力が全て。故に跡継ぎの争いは熾烈を極めることとなる。陰謀、謀略、果てには決闘。あらゆる事を駆使して命の奪い合いをし、生き残ったものが王になるのだ。もしくは他の後継者を傘下に置いたものが王になる。支配者としての器を量られるのだ。


 当然戦が起こる。


 王子や王女は陣の先頭に立って戦わなければならないのだが、オースのように病弱のものが生まれるときもある。本来ならばその時点で王位継承権を失うのだが、生憎とオースは身体が弱いのではなく、膨大過ぎた魔力に蝕まれていただけであった。故に特例としてオースの魔力を貸し与えたもの、つまりは婿が代理として戦争に出ることを許可されたのである。

 王女の婿となればあらゆる特権が手に入る。まずはオースから与えられる魔力、王女の婿であるという地位や名誉、権利。何よりも王の座を狙えるという権限が与えられる。それ以上の誉れはない。一国一城の主など、誰もが夢見るものである。

 オースは本来ならばそこから選ぶつもりだったのだが、他のものを押し退けて婿になる権利を手に入れたものが不味かった。


 それが筆頭騎士グレア。


 もとは傭兵であり、劣悪な戦場を幾つも駆け抜けた生え抜きだ。縁あってオースを崇拝することとなり、頭を下げて懇願し、騎士となることを赦したのだ。ここまでは全く問題はないのだが、グレアの問題は実力や信頼などではない。

 妻帯者持ちである。ついでに瘤つきである。娘は現在六歳だ。育ち盛りである。

 それでも、と志願するのである。オースは困りに困り果てたのだが、とあるものの提案によって恭弥を拾ってくることとなったのだが、聞きつけたグレアは猛反発した。何処の馬の骨とも知らないものよりも自分を代理にして戦を仕掛けた方が良いと、しつこく提案してきた。

 だから、オースも言い返したのである。

 

「グレアは結婚しているじゃないか。それなのに新しく指輪を嵌めるなんて有り得ない」

「離婚すればよろしいでしょう!」

「君には娘がいる」

「妻との縁が切れても、親子の縁が切れません。何も問題はありません!」

「問題しか見当たらないぞ!」


 話にならないと会話を打ち切ったが、グレアは全く納得していない。

 ということがあり、オースの頭を悩ましているのである。聞き終えた恭弥は呆気に取られていた。もう話したくないのだろう。オースはだんまりを決め込んでいる。


 二人の間に沈黙が落ちた。

 その静寂を殺したのは廊下を早足で歩いてくる音である。硬質な靴が床を叩く音だ。

 オースにとっては聞き慣れたもので、眉間に皺が寄っていく。それを見て、恭弥も訪問してくる者を予想できた。


「筆頭騎士グレア! オルシア様に話があって参りました! 入室の許可をお願いします!」

 

 悩みの種はすぐ其処にやってきていたのだ。

 


 

 3.屑



 城の中には兵舎があり、当然訓練をするための施設もある。そこは地面が剥き出しであり、煉瓦を積み上げた壁で囲まれている。壁にはあらゆるサイズの木剣や木槍が置かれており、鉄製のものなのは壁の隅にある倉庫の中へ厳重に保管されていた。危険物扱いである。

 今も訓練場には多くの人がいる。恭弥が羽織を纏ったときに酷似した種もいれば、背から翼を生やしている種もいる。漫画で見たことがある醜悪な姿のゴブリンに似ているものもいるし、顔が狼のものもいる。実に多種多様だ。そんな彼らは一心不乱に手元にある武器を持ち、一対一で武芸を磨いていた。

 誰も手を抜いていないのだろう。汗の臭いが充満し、時に血を流すこともあるから、地面には赤い斑点が出来上がっている。血生臭さはどうにも鼻につき、恭弥は鼻を手で押さえた。


 そもそも何故恭弥がこんなところにいるのかと言えば、グレアに誘われたからである。いや、挑発されたと言う方が正しいか。

 何の成果も出していない恭弥がグレアの欲しくて堪らない位置をあっさりと掠め取ったのである。魔力を全く感じない。鍛えてはいるが、戦場に立てばすぐ死ぬだろう華奢な身体。立ち方も隙だらけそのもので、殺そうと思えば何時でも殺せそうである。何故そのような弱者をわざわざ選んだのか、グレアには全く理解できない。グレアはその旨をオースに伝え、実力を見せてもらえるよう懇願したのだ。オースも恭弥の紹介自体はするつもりだったらしく、快く引き受けたということである。

 紹介の仕方は恭弥の予想外のものだったが。

 グレアが訓練場に足を踏み入れると、他の兵士たちは一斉に動きを止め、視線をグレアに集中している。手を上げると兵士たちは武器を丁寧に持って壁際へと移動し、壁に背を向けて気を付けの体勢を取った。。

 

「念の為に聞いておくが、本気か?」


 オースが眉を顰めて問い、グレアは無言で頷いた。恭弥は置いてけぼりである。

 これから何をさせられるのだろう。

 恭弥は現状を理解できないままに立ち尽くしていたが、壁際にいる兵士から鉄製の剣と盾を渡されたとき、ようやく意図を察した。


 グレアは長身の男である。如何にも武人といった四角く、彫りの深い顔立ちだ。顎は割れ、頬には裂傷の傷痕が刻まれており、それだけで威圧感十分である。

 身体には分厚い深紅の甲冑を身につけ、背に大剣を提げている。もともと分厚い身体を余計に大きく見せているのだから、恭弥からすれば巨人に見える。学校で柔道の授業を担当している元オリンピック候補の教師が脳裏を過った。


 片腕で背に担いだ大剣を引き抜くと、恭弥に対して構えを取った。

 細められた目が言っている。お前も抜け、と。


 恭弥は混乱する。

 剣など使ったことがない。使い道もわからない。しかも、相手は殺る気満々でこちらを睨みつけている。死神のときの恐怖とは違うものだ。死神を相手にしたときはまだ冷静さが残っていた。勝てるかもしれない、と何処かで考える余裕があったからだ。しかし、これは違う。こいつは違う。

 勝てるはずがない。

 手元にある剣を抜いてみれば、グレアの大剣の前では枝のような頼りなさだ。これを武器にして戦えと言っているのか、と思うとあまりの理不尽さに腸が煮えくり返りそうな怒りが沸き立ってくる。しかも、グレアはオースの部下だと言う。それなのに何故オースに刃向ってまで自分に喧嘩を売ってくるのかがわからない。

 いや、わかっている。恭弥が弱いから、舐められているのだ。もしくはオースのことを心配して勝負を挑んできているのだ。こんな奴に頼るくらいなら自分を頼れ、とグレアは言っているのだ。


「やめておくか?」


 オースが恭弥に問いかけるが、恭弥は首を横に振った。これも試練だと思った。だから、一歩前に出ると剣を鞘に戻して抛り捨て、羽織を纏った。

 鱗の生えた軽装鎧が身体を覆い、溢れ出しそうな力が身体を満たす。尻尾も生え、五感が鋭くなり、戦闘に対する恐怖が和らいでいく。思考が澄み渡っていき、妙な安心感が身体を包み込んでいるようだった。


「剣はいらない。俺にはこれがあるから」

「そうか」


 直立不動の兵士たちはおおよそ百人、それに加えてオースに見守られ、二人は激突した。




 凄まじい威圧感だった。何も鍛えていない人間ならば一睨みするだけで意識を手放すだろう。恭弥も何も鍛えていない人間の部類に入るが、羽織を纏ったせいか好戦的になっていたせいか、噴出した冷や汗を無意識の内に舌で舐めとっていた。とても、楽しそうに。

 グレアは大剣を頭上で構えている。素人目でもわかる、単純な構えだ。振り上げたままで固定しているということは、後は振り下ろすだけの一動作で終わるということ。しかし、そのせいで防御は自然と甘くなる。胴体は分厚い甲冑で守られてはいるが、恭弥の左腕から伸びた爪があれば容易に引き裂けるだろう。おそらくグレアもそれは理解している。しかし、防御する必要すらないと、その前に叩き切って終わらせてやるという決意をしているのだ。

 突っ込めばやばい。ならば自然と打つべき手は限られてくる。

 水球を幾つも生成し、投擲する。大樹の幹すら穿った威力を誇るのだ。鎧を貫通することはできなくとも、衝撃で身体は揺らぐだろうと思ってのことだ。もしくは回避行動を取るか、とも思っていたが、グレアは不動の体勢のまま構えていた。


 空気が裂ける音とともに水球はグレアに胴体に命中する。水が飛沫となって飛び散り、爆音が空気を震わせる。

 無傷で済むわけがない。恭弥はそう思って再び水球を形成するが、水飛沫から現れたのは一切揺るがず、表情を変えていないグレアである。


「水遊びをしたい年頃か。ならば付き合ってやろう」


 グレアは重低音を吐き出すと、大剣を地面に叩き付けた。ただそれだけのことのはずなのに、大地が割れたのだ。裂け目は恭弥へと疾走し、慌てて横にずれて回避するも、いつの間にか距離を詰めていたグレアがそこにいた。無骨な武人は唇を引き結んだまま大剣を手放して拳を握り締めると、鎧で守られていない恭弥の腹へ重い一撃を叩き込む。

 吹き飛んだ。恭弥の身体は煉瓦の壁を突き破り、地面をいくつもバウンドし、思い切り蹴り飛ばされたサッカーボールのように転げて行った。

 おおよそ三十メートルは吹き飛んだ後に停止したが、全身が引き千切れそうな痛みで立つことすら出来ず、腹を押さえて呻いている。口からは朝食べたものが逆流し、吐瀉物で汚れていた。


「う、が、う……ぐうう……」


 痛いと叫ぶ余裕すらない。冷静に頭を落ち着かせようとするが、身体が休息を求めていてままならない。

 足音が地面を伝って聞こえてくる。グレアに見下ろされていることに恭弥は気づいた。恭弥は無理に立ち上がると、腹が捩れたような錯覚を身に覚える。あまりの痛さに片膝が折れた。あまりの痛さに、視線が下へと向く。


「貴様のことはオルシア様から聞いている。聞いていた内容と違うもので、拍子抜けものだが……」


 頭痛に構わず、恭弥はグレアを見上げた。見れば鎧には裂傷が走り、水球の損傷は確かにあったのだ。わざと喰らい、恭弥へ威嚇したのだろう。格の違いを教え付けたのだろう。現実を思い知ったとき、恐怖が湧いた。勝てないと直感したのは、正しかったのだ。


「好きな女のために戦っていると聞いている。愚者が聞けば美談と取るかもしれんが、俺は違う。お前は屑だ」


 無言のまま、睨みつける。片膝を支えにして起き上がり、左手から伸びた爪で襲い掛かった。グレアはそれを避けることはせず、鎧に深々と突き刺させた。分厚い鎧を貫いた爪からは鮮血が垂れ落ちるが、グレアは眉を顰めるだけだ。

 刺身にしてやる、と恭弥は爪を動かして身体を引き裂こうとするが、岩のような手が恭弥の腕を掴み取り、動くことを許さない。何という馬鹿力だ、と恭弥は憎しみを込めて舌打ちをする。


「戦う理由を他人に押し付ける。お前が助けたくて動いているだけなのに、まるでそいつが助けてほしいのだと決めつけて動いている。知っているか? 人はこれを独善と呼ぶ」

「……じゃあ、どうしろ……ってんだよ! 教えてくれよ!」


 腹の中を暴れ回る激痛が言葉の節々で邪魔をするが、恭弥は意地だけで言い返していた。だが、小鳥の囀りでも聞くかのようにグレアは揺るぎない。知るか、と恭弥の一言を一蹴し、腕を握り締める力を込めていく。骨の砕ける音が響き渡った。

 絶痛のあまり声すら出ず、恭弥は地面をのたうち回る。その無様な姿をグレアは冷ややかに見下ろしていた。


「弱いな。弱すぎる。その程度ではまた奪われる。そうしてお前は嘆くのだ。また助けられなかった、と自己陶酔する。たまらない。悲劇のヒーローほど胸が躍る展開はないだろうが、冷静なものが見れば実に滑稽な姿に見えるだろう。自分の手が届かない場所に手を伸ばし続ける猿。月に手が届くか? それは幻想だ。お前の手は短く、脆いぞ」


 いや……とグレアは割れた顎から生えた髭を撫で、厭らしく嗤う。鼠を嬲る猫のような笑みで、痛みに苦しむ恭弥の額に足を乗せ、体重を込めた。苦痛に喘ぐ恭弥をにやにやと見下ろしながら、吊り上げた唇から罵倒を零す。


「お前のような屑に惚れられた女も哀れなものだ。いや、その女とやらもお前と同様に塵芥に過ぎない弱者なのかもしれん。くく、ははは! 独りで立てない奴は須らく死ぬべきだ」


 殺気が爆発した。

 痛みで抵抗すらままならなかった恭弥がグレアの足を掴み、持ち上げ、起き上がろうとしていたのだ。


「……司を死なせないために俺がいる」


 ここで折れては駄目なのだ、と恭弥の感情が叫んでいた。

 縦に裂けた爬虫類の眼でグレアを睨みあげる。殺気を孕んだそれは普通のものなら怯えるだろう迫力があるが、グレアにとっては微風に過ぎないのか、恭弥の額を踏む脚は小揺るぎもせず、抗っても足は退かない。それでも力を込め、無駄だと知りつつも抵抗を試みる。


「屑に何ができる?」

「屑じゃない。俺の名前は嵯峨根恭弥だ……!」

「覚える価値もない。屑は屑でいい。わざわざ屑に名をつけた親が哀れで仕方ない」

「俺は!」

「黙れ」


 顔面に踵を落とされ、頭蓋の割れる音が脳内に響いた。


「オース様に選ばれた。そんな風に勘違いしているのではないだろうな? お前はそこらにいくらでもいる有象無象の一人に過ぎない。ただの凡人だ。だから、俺がきっぱりと教えてやる」


 意識が朦朧とし、景色が歪む。それでも、耳の中から入り込む雑音は恭弥に届いていたのだ。


「お前は、いらない。尻尾を巻いてお前の世界へ戻るがいい」

 

 口を開いて言い返そうとしても、力が入らない。

 恭弥は負けたのだ。




 恭弥の意識が戻った場所は兵舎の中にある衛生室だった。木目の床に木製の壁、その中にある染みのついた簡易ベッドの上で寝かされていた。傷は癒えている。オースが治療してくれたのだろう。何処にも違和感がなく、返って悔しさを募らせた。

 起き上がると、硬いベッドに拳を振り下ろした。拳に広がる痛みが、今は心地良い。


「俺が弱いのは知ってる。けど、弱すぎだろ……負けっぱなしだ……! くそ……! くそっ……くそが……畜生……俺は……! 俺は……!」


 涙を零し、掛布団を引っ掴む。顔を押し付け、弱音を零す。

 泣いて、泣いて、泣いて、自分の弱さを出し尽くす。


「……強くなりたい。弱いままじゃ、何もできないんだ」


 誰もいない衛生室で長い間、独白は続いた。

 涙は途切れない。







 内田剛毅は名前の通りの大きな身体をしていた。角刈りの頭に四角い顔。彫りは深いが、いつも男らしい野性味の帯びた笑みを浮かべており、生徒たちの受けは良い。

 職務中は主にジャージ姿で仕事をこなしている。主な仕事は生徒指導部での学生への指導や柔道の授業の担当、そして柔道部の顧問の三つだった。

 彼は天から与えられたとしか思えない強い身体を持って生まれたので、そこまで苦労せずにオリンピック候補にまで勝ち進むことができたが、柔道に対してそこまで情熱を持てなかったのが敗因か。決勝で敗れたが故に国の代表に選ばれることはなかった。そんなとき、今の高校から声を掛けられて教師になることができたのだ。


 個性を育て、間違ったことを間違っていると言える信念ある大人を育成するための教育を!


 就職したときの指導方針を聞いたとき、身体に雷が走ったのを覚えている。

 剛毅は大きな身体のせいか、理不尽な暴力に遭った試しがなかった。しかも、見掛け倒しの身体ではなく、豊富な筋肉を内包した強靭な肉体である。まさに鎧と言っていい。そんな彼に喧嘩を売るものがいるはずもなく、毎日平凡な部活に勤しむだけの極めて温厚な学生だったのだが、過去一度だけ本気で暴力を振るったことがある。剛毅の友人が不良にカツアゲをされているのを知ったときだ。現場を見つけてしまったとき、気づけば血の海が出来ていた。不良たちに鍛えぬいた柔道の技を掛け、コンクリートの地面に叩き付けていたのだ。運良く不良たちは後遺症が残ることはなかった。けれど、身体が治っても剛毅の友人に近づくことはなくなり、日々は平和に戻った。


 剛毅は考える。

 自分は強い。自惚れでも何でもなく、ほとんどの人間は剛毅のことを恐れるだろう。故に容易に「間違っている」と発言できるが、肉体的にも精神的にも弱いものが悪を見たとき、意を決して、恐怖を押し退けてそんなことを言えるのだろうか。

 言えないだろう。間違いなく、自己保身に走るはずだ。

 大人ですらも権力に屈しているのだ。家族の生活を守るため、と言い訳をしながら生徒を見捨てた教師を何人も見ている。正直、剛毅はこんな現状にうんざりしていた。最初に聞いていた教育理念とはかけ離れていて、心底絶望していたのだ。大人も子供も一緒だ。強者は弱者を虐め、弱者は弱者を見捨てる。スケープゴートにして自分たちの安全を守るのだ。剛毅は腐った体制に吐き気がし、辞表を出すことすらも考えていた。


 そんな折、校内での暴力事件を聞きつけ、ほとほと現状に絶望してその生徒を見たのだが、他の不良たちとは違うところが数多く見受けられた。

 生徒指導部で最も説教の長い山田幸一の話を聞きつつも、胸を張り、態度で自分は間違っていないと主張していた。よくよく見れば見覚えのある生徒である。柔道の授業はだいたいのものが手を抜くのだが、真剣に取り組んでいた印象が強く、確か学業でも成績は優秀で、全国模試で高得点を叩き出したことで校長から直接表彰状を渡されていたはずだ。制服も着崩すことなくきっちりと着こなし、髪も耳にかからない程度に切っていて、清潔そのものだ。おおよそ、暴力とは関係のなさそうな生徒が暴力事件を起こしたと聞きつけ、剛毅はこの事件に興味を持った。

 わかったことはあまり多くはないが、やはり生徒指導部という役割である。他の教師よりも暗い事情を調べるのは向いていて、問題の生徒が退室してすぐに愚痴大会のようなものが始まる。


「まったく面倒なものですよ。嵯峨根は他のクラスの虐めを訴えかけてくるんです。そっちはそっちで担任の教師に言えばいいものを……」

「そうですよねえ。虐めはどうにもデリケートな問題で。私たちでは手に負えません。あからさまに犯罪でも犯してくれれば別なんですけどねぇ」


 情熱のない教師たちは皆口々にそう言った。剛毅は静かにそれを聞き届け、怒りのあまり手に持っていた鉛筆を握り潰してしまった。


「失礼」


 雑談で騒がしかった生徒指導室はしんと静かになり、剛毅が書類を作成する音だけが響く。

 事の全てが理解できたわけではない。それでも、もし嵯峨根という生徒が間違ったことに間違っていると言って暴力に訴えただけなら、短絡的とは言え、応援する価値があると思った。

 今は力がないから、暴力に訴えることしかできない。所詮は子供。取れる手段などそれしか残っていないのだ。上から目線で他の方法を提示したとしても、成熟していない彼らにそんなことが理解できるはずがない。


 辞表届を作成する必要はなくなった。

 まずは調べ、疑問が消えたら即行動。


 剛毅は曲がったことが大嫌いな、何事にも一直線な男だった。

 

 



 4.味方



 週初めの最後の授業は柔道であった。

 一年生の間はずっと受身の練習。つまりは投げられた時に頭を打たないようにする練習ばかりさせられていたのだが、二年生にもなるとようやく体格にあった投げ技を教えてもらえることになる。恭弥は背が百七十を越えているので体落としの練習をさせられることとなったのだが、組む相手がおらず、延々と壁に結ばれた帯を相手に延々と技の練習をしていた。すると、教諭である内田剛毅がのしのしと重い足取りでやってきて、恭弥の傍に立ったのである。


「嵯峨根、俺に掛けてみろ」


 身長はおおよそ百九十センチメートルはあるだろう。体重は百キログラムではきかないのは間違いない。とにかく全ての部位が太くて大きいのだ。剛毅の腕の太さは恭弥の太腿の太さと大して変わらない。

 けれど、恭弥は退くことはない。剛毅に対して元気に頭を下げると、内襟と袖を両方の手で握り締め、技の稽古に入った。

 体落としとは要するに内襟と袖に力を掛けて自分の身体の方に呼び込み、そこへ反転した自分の足の膝裏を引っ掛け、遠心力と自重を利用して投げ飛ばすものである。極めて豪快な技で、上手く決まれば相手はくるりと宙を回転し、背中から叩き落とされる。と言えば華麗な技のように思えるかもしれないが、正直この技に一番必要なのは相手を引っ張る力と、次は足を引っ掛けたときに膝裏を跳ね上げるタイミングである。まずは腕力、技はその後である。いくら技術があろうとも、無手では小学生は大人には勝てない。そっくりそのまま恭弥と剛毅にその構図は当てはまる。引っ張ろうにも剛毅の身体が重すぎて動かないのだ。

 剛毅の身体を呼び込むとき、自分の身体を捩り、その遠心力も活用するのだが、とにかく重い。思い切り引っ張っても巌のように動かず、頑としてそこにある。グレアとよく似た顔立ちの剛毅を見ればふつふつと闘志が湧いてくるものである。


 絶対に投げてやる……!


 授業時間は五十分。何時の間にか授業は終わっていた。

 剛毅は汗だくになって疲弊している恭弥の肩をぽんと叩くと、生徒全員を整列させた後にストレッチをさせ、授業の終わりを告げた。恭弥も悔しさはあったが、渋々と教室に戻ろうとしたのだが、剛毅に声を掛けられて足を止めた。


「嵯峨根。お前は残れ。担任には俺から伝えておく」


 剛毅は柔道場の中央で正座をすると、対面に座ることを恭弥に命じた。何が始まるのか戦々恐々としながら恭弥は正座し、剛毅の言葉を待ったが、その間ずっとヤクザよりも余程強面の剛毅と目を合わせるのは骨が折れた。先週グレアに叩きのめされた事実は記憶に新しく、瓜二つの剛毅を前にすると自然と身体が強張るというもの。けれど、決して目を逸らすことはしなかった。負けた気がするから。

 恭弥は膝の上に拳を乗せ、ぎゅっと握りしめる。永久の時と感じるほどに辛い時間だったが、唐突に終わりを告げることとなる。剛毅が地面に頭を擦りつけ、土下座をしたのだ。


「俺にはお前の苦しみはわからん! けど、とにかくすまなかった! こんな問題は教師たちが前向きに取り組むべきことだったのに、全て蔑ろにしていた……。謝罪する!」

「な、何ですかいきなり!」


 恭弥は驚き、剛毅に頭を上げるように説得し、ようやく顔が上がった。

 心底悔恨している表情だった。


「お前が起こした暴力事件。事の顛末を全て知っているわけではないが、お前は友達の為に拳を振るったんだな?」

「……違います。俺がむかついから、殴っただけです」

「指導者としては間違っているとはわかっている。だが、一言だけ言わせてほしい。暴力でしか解決できないことが絶対にある。避けなければならない事態だが、それでも絶対にあるんだ。お前は間違っていない」


 全面的な肯定を受け、恭弥は込み上げるものを抑えるのに全神経を集中した。

 全て敵だ。そう思うことでどうにか心の均衡を保っていたのに、突然応援してくれるものが現れたのだ。騙されているのかもしれない。疑心暗鬼が訪れるが、どうしても目の前の人間を疑いきることができそうになかった。熊のような身体で実直な人格をありありとわからせる真摯な顔の男が嘘をつけるような器用さを持っているように見えないからだ。

 零れた雫を柔道着の袖で擦りつける。汗をたっぷりと吸った柔道着は目に染みた。

 嗚咽が漏れそうになり、息を止める。

 柔道着の袖で塞がれた視界と息の出来ない状況がとても苦しかった。


「二年にもな。柔道部の部員はいる。もちろん三組の奴もな」


 恭弥の泣き面を見ないように目を瞑り、剛毅は訥々とした静かな口調で語る。


「聞けば酷い虐めがあったそうじゃないか。お前が殴り込みに来てから、自分が見過ごしていたことを恥じていた。だから、殴っておいた。次からは見過ごさない、と晴れ晴れとした顔だった。今は力をつけるために稽古に取り組んでいる」

「あ、ああ……そう、そうですか。そうなん、ですか……見過ごしていたんですか……!!」


 先ほどまでの弱気は失せ、恭弥は鬼気を放っていた。目から溺れ落ちた液体を吸った袖をぎゅっと握り締め、歯を食い縛り、畳を凝視している。言いたいことを堪えている、苦痛の表情だ。

 恭弥は自分の思考が危ない方向へ飛んでいるのは理解している。悪いのは虐めに加担していたものだ。自分に被害が及ばないように息を潜めるのは決して間違いではない。恭弥も見も知らぬ人が虐められていたとしても危地を避けるために見過ごすだろう。それなのに、自分の友達が被害あった途端に見過ごした奴を責めるのは筋違いというものだ。人それぞれに事情があり、優先順位というものがある。

 ここまでわかっていても、それでも恨んでしまうのは弱いからだろうか。


「柔道部の人は強いんですか?」

「強くなれるよう鍛えている」

「じゃあ、何故! 何故見過ごしたんですか!!」

「怖いから。弱いから。自分の意地を貫けない」


 剛毅はそれを見て、嘆息し、微笑んだ。今はそれでいいか、と小さく呟くのが恭弥の耳に届いたが、恭弥はじっと聞いていて、頭を下げた。他力本願は自分らしくないと気づいたのだ。

 じっと剛毅の巨体を見上げ、見下ろされる。

 視線は交錯し、恭弥は心からの疑問をぶつけた。


「先生は強いんですか?」

「凄く強いぞ」

「俺も強くなれますか?」

「なれるとも」


 わかりました、と恭弥は黙り込むと、数瞬迷う。

 さまざまな感情が入り乱れる。

 本当にこれでいいのか。正しいのか。他の選択肢があるのではないか。実にいろいろだ。だが、結局のところ決定打は人柄である。

 大人が頭を下げたのだ。子供の自分に。並大抵のことではないことがわかるし、誇り高いだろうことも察せられる。


「柔道を教えてください」


 初めて土下座をする。心からのお願い。

 剛毅は再び男らしく笑うと恭弥に頭を上げさせ、握手を求めた。


「柔道部顧問、内田剛毅。今までの人生に誓って、お前を強くしてやる。だから、お前は俺についてこい」


 時刻は経ち、夕陽が窓から差し込んできている。

 恭弥は差し伸べられた岩のような手を強く握り返すと、再び頭を下げた。


 そのとき、柔道場の観音開きの扉が音を立てて開いた。


「ちーっす! 他の二年は補修授業で来られません! 一年からも連絡があり、逃亡したそうです! ですので、今日はわたくし、林田のみの修練となります!」


 恭弥が驚いて剛毅の手を離し、振り向いた先には見覚えのない禿頭の男子生徒がいた。林田と名乗る男は流石に柔道部と言ったところか。身長は恭弥よりもやや低いが、全体的に太く、特に大腿部の筋肉の膨らみは制服のスラックスの上からでもわかるほどだった。

 彼は恭弥と目が合うと、げっ、と表情を曇らせ、すぐに剽軽ひょうきんな態度に戻ると泳ぎまくった眼で窓から空を見上げ、口笛を吹いていた。剛毅はそれを見て彼に近づくと、肩を思い切り引っ叩く。そして、力任せに恭弥の前へ押し出すと、紹介しよう、と言った。


「林田健三。柔道二段の有段者だ」

「お、おっす! 林田健三です! よろしくお願いしやっす!」

「何をおどおどとしている。堂々とせんかぁ!」

「は、はい!」


 健三は尻を思い切り叩かれ、ぴしっと背を伸ばして直立不動の姿勢を取る。

 恭弥も立ち上がると健三と視線を合わせ、ぺこりと頭を下げた。柔道部では健三が先輩である。礼を尽くすべきだと考えたのだ。


「嵯峨根恭弥です。変な時期ではありますが、この度柔道部にてお世話になることに決めました。精一杯頑張りますので、ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いします」

「あ、いや。俺たち同じ学年じゃん? そんな丁寧に話されたら堅苦しいっていうか。ねえ、内田先生も何か言ってやってくださいよ!」


 剛毅は少し考え込むと、掌に拳を打ち付けた。閃いた、と表情が物語っている。

 健三に柔道着を着るように命じると、ホワイトテープで畳の上に線を引き、自分は小さな旗を持っていた。

 何をするのだろう、と恭弥は剛毅を観察していたが、しばらく経って健三が着替え終わって柔道場へ来たとき、わかりやすいことを提案されたのである。二人で勝負をし、勝った方が望みを叶える。つまりは、恭弥と健三に乱捕り(模擬試合のこと)をするように命じた。


 ルールは簡単。恭弥が一本でも取れば勝ち。健三は五本取れば勝ち。これだけのことである。

 恭弥は実のところ結構な負けず嫌いである。このようなハンディキャップのついた試合をすることに猛烈に抗議をしたが、やってみればわかる、という剛毅の一言で渋々引き下がった。

 畳の上にホワイトテープで恭弥と健三の開始位置を貼りつけ、二人とも準備運動を十分にこなした後に乱捕りが行うこととなった。健三は気不味そうに恭弥のことをちらちらと覗いてくるが、これは勝負である。恭弥は相手に気を遣う余裕などなく、キッと睨みつけていた。健三はしょんぼりと視線を地面に落とす。


 ストレッチを十分にこなし、剛毅の掛け声とともに乱捕りは始まった。

 恭弥は利き腕である右腕を前に突き出し、相手の襟を掴むオーソドックスな構えである。健三も構えは同じだが、左腕を突き出している。二人は鏡写しのように同じ構えでじりじりと距離を詰めていく。このまま膠着状態になるのかと思いきや、先に出たのは健三であった。恭弥の突き出した右腕の内側から襟を掴むと、右腕で袖を取り、思い切り身体を引き寄せてくる。恭弥は引き込まれないように後ろに体重をかけて耐えようとした。だが、ふいに呼び込まれる力は消え、健三は恭弥の左足の後ろに思い切り踏み込む。同時に袖を外側に思い切り引っ張られ、襟元も隣に呼び込まれる。そのせいで恭弥の身体は吊り上げられ、体勢を崩し、左足一本で棒立ちの姿勢を取らされた。後は左足を刈るだけでこける。


「せいやぁっ!」


 一本! という剛毅の声と背中から畳の上に叩き付けられる衝撃はほぼ同時だった。身動き一つとれず、恭弥はあっさりと投げられた。

 投げ技の名前は大外刈り。おそらくは誰でも知っている最も有名な技だろう。もちろん恭弥も知っている。この技は背中から思い切り叩き付けられるので後頭部をぶつける可能性が高い。実戦で初めて投げ技をかけられ、受身の練習を一年間愚直に繰り返させられた理由をようやく実感できるというものだ。これは危ない、と。


「まだやる?」

 

 倒れたまま呆然としていると、健三が膝を曲げて視線を落とし、恭弥にそう問うた。

 恭弥は迷う事なく立ち上がると、健三を強く見つめた。若干尊敬のこもった眼差しで。


「よろしくお願いします!」


 五本を取られるまで掛かった時間は約五分。

 自分の弱さを体感した恭弥は日が暮れるまで柔道場で剛毅と健三に教えを請い続けた。




 学校を出た時、時計の針は七時を指していた。空には楕円の月が浮かび、数多くの星々を引き連れている。雲一つない満点の星空である。とぼとぼと歩きながら見上げると、とても寂しくなってくるというものだ。

 月に照らされた空の下、影を長く伸ばしていつもの帰り道を歩いていると、何時かのように影は増えていた。嘆息して振り返ると、あのときと同じく幻想的な雰囲気を醸し出す少女が後ろにいる。オースだ。


「寂しい?」

「……ああ」


 オースを見ていると寂しさはより募る。恋慕を寄せた異性とそっくりの顔立ちなのだからそれも当然か。会いたい、喋りたい、と言った原初の欲求は尽きることはなく、ほうと吐いた息とともに零れだす。

 話したいことがあるのだ。いっぱい、あるのだ。

 司が意識を失って既に一か月経つ。その間、当たり前だが一度も会話できていない。一年前は一緒の教室で授業を受け、帰り道は連れだって歩き、家を泊まり合って遊んだり、よくよく考えればもったいないことをしていたように思える。好きと自覚した時は既に手遅れになっていたのだから、笑えない話だ。


「手遅れ、じゃないか」


 脳裏を過った言葉を自己否定すると、スラックスのポケットに手を突っ込み、肩に提げた学生鞄を持ち直した。あまり教科書が入っていないのか、とても薄い。破かれた教科書やノートはまだ新調できていないのだからそもそも詰める物などないのだが。

 虚しさが胸中で木霊する。苦しみも、悲しみも、今やっていることでさえ……唐突に無意味なもののように思えてきた。だが、剛毅の励ましの言葉がほんのりと恭弥の心を温める。


「俺は、間違ってない……!」


 言葉を重ねて自分を激励する。

 気づけば足は司のもとへ向かっていたのか、大きく聳え立つ総合病院の前にいた。後ろからついてきていたオースはけらけらと笑っている。


「会いたいか? 話したいか? まだ願いは一つあるぞ。意識を覚醒させるくらい、簡単にできる」


 誘惑の言葉が耳朶を打つ。

 病院の自動扉の前に立ち尽くし、それは司のためになるのかと半ば本気で考えた。だが、そのようなことを追いやるほど、恭弥は司に会いたくて、喋りたくて仕方なかった。

 一歩踏み出し、自動扉を潜ると面会の書類に名前を書き、恭弥はそそくさと司のいる二階へと階段を上る。

 何度来ても病院の独特な空気は慣れないものだ。個室の中に響く心音図の音も、窓辺のベッドで眠り姫を演じる司のことも、何度見ても込み上げるものがある。


「頼む」


 オースが恭弥の前に出て司に触れると、淡い青光が司の身体を包み込んだ。それだけのことなのに、効果は劇的である。

 ひらひらと手を振ってオースが退室する。その時に、お楽しみくだされ、と茶目っ気を含んだ声音で耳元で囁かれた言葉に一瞬要らぬ妄想をして赤面するが、現状を思い出して表情を引き締めた。その数秒後、司は小さく呻く吐息とともに目を薄らと開いたのである。


「……ふぁ」


 大きく欠伸をし、のそりと起き上がる。呆けた顔のまま辺りを見回すと、恭弥と目が合った途端に小首を傾げた。病院を見ても首を傾げ、うんうんと唸り始める。もう少し強硬な態度で何かを言ってくるだろうと予想していた恭弥は狸に化かされたような心境である。あまりにも呆気なさすぎる。


「司?」


 司の肩に手を置いて呼びかけると、司は悲鳴を上げて恭弥の手を叩き、ベッドの奥へと後ずさった。恐怖に怯えた小動物のような瞳である。対象は恭弥自身だ。

 衝撃と疑問がいくつも浮かぶが、驚いているのは恭弥だけではなく、司もだった。

 恭弥の手を叩いた自分自身の手をじっと見つめると、うわ言のように何かを呟いている。恭弥は耳を澄ませて聞いてみると、耳を疑うものだった。


「……誰?」


 何を言ったのか、一瞬わからなかった。


「あれ? ここ、何処。私、あれ? ……私、誰? あなたは、誰?」

「司……?」

「ひっ……や、触らないで……」


 恭弥が動揺のあまり伸ばした手は手酷く叩き落とされる。

 赤く腫れ上がった手の甲を見下ろすと、恭弥は目に浮かぶ雫を掌で拭い、個室の扉の前へ移動する。司の背を向け、顔を見られないように。


「……医者、呼んでくるよ」


 医者のところへ赴き、司の両親に司が起きたことを伝えると、病院の一階にある待合室で恭弥は腕を組んで座り込んだ。

 厳しい目つきで虚空を睨みつけながら。

 司の両親が病院にたどり着いたのはすぐ後のことである。




 家へ帰った恭弥に瞳と秀信は声を掛けるが、恭弥は適当に返事をして自室へと戻った。晩御飯を食べられる余裕など微塵も残っていないのだ。焦るように自室に戻ると、服を全部脱ぎ捨てて動きやすい私服に着替えた。その後、すぐに窓を開くと羽織を纏い、夜の街へと飛び出した。強化された力をフルに使い、林立する家々の屋根を音を殺して跳躍し、約十キロメートルほど自宅から離れた場所にある山へと全速力で走りぬける。

 人に見られたって構うものか。今はただ、胸に渦巻く黒い感情を身体を動かすことによって発散したかった。


「あ、あああああああああああああ、うあああああああああああああああああッッ!!!!!!!!!!」


 山奥に走り抜けた途端、恭弥は思い切り吠えた。

 管理しているものがいるだろうことも関係なしに、左腕から伸びる爪で木々を薙ぎ払う。切り倒す。拳を思い切り叩き付けて砕き、水球を生成して周囲すべてにぶつけて爆発させた。おかげで寝ていた獣たちも起き出して、恭弥の殺気に恐れて一斉に逃げ出す。夜の山は虫の音色でただでさえ五月蠅いと言うのに、動物も相まって凄まじい爆音を奏でていた。

 終わることなき咆哮。鬼気混じる暴力は嵐となって山を穿つ。自然は吹き飛ばされ、凄惨な状況を呈していた。

 既に周囲に動物はおらず、誰に聞かせるわけでもない慟哭がやまびことなって野山を駆け巡る。


「もうよいのではないか? 誰かに迷惑がかかるだろう」


 殴り倒した木々の陰からオースが現れて苦言を漏らす。冷や水をかけられたかのように、恭弥の頭は急に冴えた。

 すとんと座り込み、尻尾をゆらゆらと動かして、拗ねたように身体を土の上へと投げ出す。


「記憶喪失らしい。それも一時的なものだから、そのうち治るみたいだけど……。心傷トラウマのせいだって医者が言ってた」


 司のことである。

 どれほどの心の傷を背負っているのか、医者が怒りを交えて語っていたことを恭弥は思い出す。


「数日したら退院できるらしいけど。おじさんとおばさん、泣いてた。なんでうちの娘がこんな目に、って……」


 そうか、とオースは静かに頷く。余計なことは何も言わず、じっと恭弥の言葉に耳を傾けていた。

 胸に渦巻く憎悪。押し殺してきた苛立ち。教師に対する不信感。何よりも、状況に流されるしかない自分への怒りを恭弥は弱音に変えて吐き出していた。

 敗北続きの人生にようやく光が差し込んだと思ったら、司の記憶喪失である。どうすればいいのか、高校生の恭弥には全くわからなくなっていた。やったことが裏目に出るという経験が、恭弥の小さな精神を押し潰す。


「俺は、どうすればいい……! お前なら! 記憶をもとに戻せるのか!?」

「戻せる。けれど、本当に戻していいのか? 何も変革できてない君が、現実から逃げ出した私の分身を守りきることができるのか? 君はそれだけの力を……既に持ち得ているのか?」


 恭弥が膝を曲げて地面へ身体を投げ出しつつ、オースを見上げて呟いた言葉に返されたオースの言葉は残酷だった。

 言い返すことはできず、身体を起こして視線を落とす。

 必死に考えているのだろう。涙でぐしゃぐしゃになった顔を痛そうに掻きながら、顎に手をやって真剣に言葉を探していた。


「俺さ。俺、餓鬼かもしれない。あのおっさんが言ってたことがわかったんだ……。俺は司のために動いてるんじゃない。俺がむかつくから、俺がやりたいから、勝手にやってんだ。俺の都合で、俺だけの気持ちで! 司を助けて感謝されたい! 頼ってもらいたい! 必要とされたい! 愛されたい! そう考えてさあ!」


 言葉が途切れ、沈黙が落ちる。

 打ち破ったのはやはり恭弥の言葉だった。


「俺、エゴイストだ。俺は、屑だ!!」


 悩みぬいた答えは自分自身に優しくないものだった。

 司の助けの声など聴いていない。起こしてほしいなどという懇願もされていない。それなのに勝手に動き、勝手に騒動を巻き起こし、ついには学校で問題を起こして停学を喰らう。端から見れば、暴走を繰り返している考えなしの馬鹿である。感情のまま動いた結果なのだから当然だが、あまりにも浅慮過ぎた。


「じゃあ、エゴイストで屑な君に聞こう。君はどうしたい?」


 月光の下、凛々しい表情でオースは恭弥に問いかける。嘘を許さない、支配者の顔だった。

 恭弥もオースの怜悧な双眸にじっと見返すと、息を呑んで答える。


「独善だろうと構わない。俺は司を助けるって決めたんだ。一切合財全部無視して、こっちの都合で一方的に救ってやる」

「ふ、ふふふ! 恭弥! 君は面白いな!」

「見下げ果てた奴だろう?」


 噴き出したオースを視界の隅に追いやると、恭弥は憮然と吐き捨てる。だが、オースは思い切り頭を振ると恭弥の肩をばんばんと叩き、恭弥の隣に寄り添った。


「君はそれでいいと思うよ。とても精悍で、吹っ切れた表情をしている」


 暑い夏なのに、オースの肌は冷たく、気持ちよかった。

 



 5.たとえ偽善と罵られようとも



 翌々日は終業式である。

 夏季の長期休暇は特進クラスには無縁のものだった。全ての日程にぎっしりと講義のスケジュールが書き込まれているが、この授業をサボっても欠席にはならない。恭弥は早々に部活以外は休むことを決めると、そそくさと帰路に着いた。今日は部活も休みで、大事な用が残っているのである。

 恭弥はグレアに一方的に嬲られた。舐められ、このままではオースの代理戦争を引き受けることができないかもしれない。だから、恭弥は絶対にグレアに認められなければならないのだ。オースの力で願いを叶えてもらうためには、絶対に通らなければならない関門である。

 

 家の自室に戻るとオースは既に準備が出来ており、扉は設置されていた。潜ればオースの城へと転送される。

 繋がっていた場所はオースの自室だ。相も変わらず無駄に大きなベッドが部屋の中を占領している。それでも恭弥の部屋が五つは入りそうな広大な部屋だから、全く余裕なのだが。

 たまたま部屋の掃除をしていた召使たちはオースと恭弥の出現に驚いて硬直する。オースの身体はベッドで寝ているのだ。今動いているオースが義骸と呼ばれる代物だ。身体を自由に動かすことのできないオースだからこその苦肉の策なのだ。だが、義骸あまりの出来の良さに召使たちも混乱しているのだろう。オースは悪戯が成功した男の子のように邪な笑みを浮かべると、恭弥を連れ立って部屋を出た。

 向かうは騎士たちが修練を重ねる場所である訓練所。城から出て鼻の先にあるそこに辿り着くのには数分もかからなかった。


 以前、恭弥が突き破った煉瓦の壁は修復されている。綺麗なものだ。オースの言によれば、騎士たちの手によって直されたというのだから、器用なものである。

 屋根はなく、暑い太陽光を直に喰らいながら、重い鎧を纏ったまま騎士たちは木剣で模擬試合をしている。体重を乗せた激しい取り組みは見るからに苛烈であり、鎧の上からでも喰らえばかなり痛いだろう。二日前から柔道部の練習に顔を出すようになった恭弥だが、身体を痛めつける苦しさは知っている。息が出来なくなるのだ。

 そんな中、グレアは大剣を背に提げたまま、大きな木剣を持って他の騎士たちの指導に当たっていた。だが、恭弥の存在に気づくと指導を切り上げ、凍りついた表情で恭弥とオースの方へと歩いてくる。


「オルシア様。何故またこのような屑が城の中を闊歩しておられるのですか?」

「うむ。まあ、いろいろとあってな。再戦を申し込みたいらしい」


 グレアは深い彫りをより一層深くして、恭弥のことを見下ろしていた。感情の見えない冷たい視線を受けて、恭弥の両足は自然と震える。あの太い腕から繰り出された拳で殴り飛ばされた衝撃は記憶に新しく、あの太い脚で恭弥の頭を踏み潰したことは一生忘れることはできないだろう。あの恐怖は、たまに夢に出る。悪夢として。

 だが、ここで退くわけには行かなかった。恭弥はグレアに認められなければならないから。

 羽織を纏うと臨戦態勢に入り、殺気を孕んだ両目でグレアのことを睨みあげる。以前とは逆で、抜けよ、と恭弥の目が物語っていた。

 グレアは訓練をこなす騎士たちに壁について待機するように命じると、訓練場の中へ恭弥を招き入れた。オースは騎士たちと同じく壁の華となっている。


「まさかまた来るとは思っていなかった」

「避けては通れない道だから。来る他なかったんだ」


 恐怖に負けないように、恭弥はじっとグレアを見ていた。逃げ出さないために、向き合うように。

 羽織を纏って凶暴になる感情は恐怖の対象を排除しようと闘争本能を刺激してくるが、恭弥はそれを理性で抑えつけ、静かに高揚している。


「戦う理由は見つけたのか?」

「ああ、見つけた。俺はやっぱり、俺の都合で女を助けることにする。女の為なんかじゃない。俺の為に、女を救う!」


 グレアの額に青筋が浮かぶのを恭弥は見逃さなかった。


「お前の都合で全部決めるのか! 正義と信じて貫くのか! 滑稽だ! お前は偽善者だ!」


 強く地面を踏み締める。それだけで大地が揺れた。

 怒っている。猛烈に。

 だが、それでも、恭弥としても退くわけにはいかない。


「人間なんてそんなもんだろ。俺は強くなって、司を助けられればそれでいい。そのことによって司に好かれれば尚良いし、俺はそれで満足だ!」

「オルシア様の力を使ってか!」

「使えるものは全部使う。悪魔だろうが、神様だろうが、何でも使う。俺と俺の周りが幸せになれるなら、他のことなんてどうなろうが知ったことじゃない!」

「……屑が。身の程を教えてやる。来い」


 大剣を引き抜き、グレアは構えを取った。

 以前と全く同じ、振り下ろすだけで全てが終わる必殺の構え。恭弥が恐れを為して、突っ込まずに遠くから攻撃を仕掛けた嫌な記憶を思い起こさせる。

 だからこそ、叫んだ。


「前にも言っただろ。俺の名前は嵯峨根恭弥だ! 刻め。お前を倒す男の名だ!!」


 恭弥は迷わず突貫した。相手の振り下ろしなど気にしない。先に当てることだけを考えた迷いなき踏込である。その思い切りの良さがグレアの判断を僅かに狂わせた。


「はあっ!」


 気合いとともに羽織で増幅された筋力を総動員した拳を顔面に叩き込む。爪の伸びたそれを受ければ致命的な損傷を負うだろうが、グレアは摺り足で隣にずれるだけで恭弥の拳を軽く避ける。勢いに負けないように足を突っ張って急停止し、恭弥は軌道を修正して再びグレアへと踏み込み、再び拳を突き出した。しかし、拳はグレアの大剣の柄で叩き落とされ、剣の腹で思い切り胸を叩き付けられる。

 肺に溜まった酸素が全て外に漏れだすほどの衝撃。

 金縛りに遭ったかのように身体は動かず、グレアの振り上げた足が見えているのに、避けることすらできずに顔面へ直撃した。


 首から上が無くなったと錯覚した。


 背中から地面を転がり、ぐるぐると何度も回転する。しかし、伸びた爪で地面を突き刺して制動を掛けると、立ち上がって顔面の有無を確かめた。まだ、ある。首は捥げていなかった。そう安心していたのも束の間、目の前には大きく聳え立つ巨人がおり、今にも大剣を振り下ろそうとしている。

 一刀両断。

 恭弥は慌てて横に飛びのいて逃げるが、振り下ろされた刃は空中で軌道を変えて恭弥の方へと跳ね上がる。腕甲を交差して受け止めるが、右腕は腕甲ごと切断され、左腕は腕甲を破壊されて再び宙を舞った。頭から地面に叩き付けられることはどうにか受身で防いだが、ぼとぼとと流れ落ちる命の雫が痛みとともに訴えてくる。もう戦える時間は少ない、と。


 何という理不尽な強さだろうか。 

 ふらつく身体で起き上がり、何故だか自分の意思通りに動く血を一気に凝固させ、止血する。それでも、僅かな間に流れ落ちた大量の血のせいで頭がくらくらとし、腕を切断された痛みは既に痛みを通り越して熱さに変わっている。

 キッと睨みつけると、恭弥は逡巡することなく、再びグレアに躍りかかった。拳は全て避けられ、時には柄で叩き落とされ、腹を蹴りあげられて身を捩じらせ、拳で頭を殴打されて地面を跳ねる。痛みのあまり、何もできない自分への怒りのあまり悔し涙が零れ落ちるが、それでも立ち上がって挑みかかる。




 恭弥は完全に捨て身だった。


「あああああああ、あああああああああああああああああああああああ!!!」


 青痣が出来た腫れ上がった顔で、恭弥は何度目かわからない突貫を繰り返す。

 次第に周りの壁際に立っていた騎士たちが野次を飛ばすようになっていた。


「おい、あの餓鬼頑張ってんぞ」

「グレア隊長が加減してるんじゃねえの?」

「腕斬り飛ばされてんのに加減とかありえないだろ」

「おい、賭けようぜ。あいつがあと何分立ってるかをよ」

「いいねぇ! 俺は五分だ!」

「いやいや、二十分くらいは持つんじゃねえか?」

「じゃあ俺は一分だ!」


 がやがやと五月蠅くなった騎士たちをオースは苦笑いしながら見つめている。

 ふらふらになっても立ち上がる人のことを心から罵れる奴などオースの配下にはいない。皆は元傭兵のグレアに育てられたせいでやや粗暴ではあるが、心優しい側面を持っている。中には救急箱を用意して何時でも駆け付けられるようにしているものもいれば、グレアのことを止めようとしているものさえもいる。


 そろそろ頃合いか。


 オースが一歩踏み出してこの模擬試合を止めようとしたとき、グレアから凄まじい戦気を感じ取った。邪魔をするな、と主君であるオースに対して威嚇しているのである。初めて戦場で出会った時の苛烈さを再現しているということは、恭弥のことをある程度認めたということなのだろうか。

 嘆息して一歩退くと、オースは静かに戦況を見守ることにした。




 朦朧とした意識の中、恭弥は折れそうになる膝を叱咤しながら、前へと足を進めた。

 走る体力も残っておらず、鎧はほとんど全て剥がれ落ち、爪は半ばから折れ、水を生成する気力も残っておらず、右腕に関しては半ばから切り落とされている。

 尻尾を支えにし、亡者の歩みでグレアの鎧に折れた爪を突き当てる。鎧を傷つけることはなく、爪は根元から折れた。前のめりに拳を放ったせいか、グレアに凭れ掛かるようにして立っている恭弥だが、肩を押されるだけで後ろに吹っ飛び、尻もちをついた。


「いいだろう。お前に力と言うのを見せてやる」

 

 グレアの剣に雷が走る。

 紫色の電流は凄まじい音を立てて小爆発を起こし、大剣の中へと染み込んでいく。羽織を纏っている状態だからこそ見える魔力の流れは、大剣に含まれた膨大な魔力を見て取ってしまい、最初から勝ち目などなかったのだということを教えてくれる。

 あれを喰らえば死体すら残らず、消し炭になるだろう。


 恭弥は死を覚悟した。


 引いて構えられた大剣から繰り出されるのは突き。視認すら許さない雷光の如き突きは激しい爆発とともに恭弥の隣を突き抜け、地面に突き刺さった。

 雷光が爆ぜ、爆炎を巻き起こす。電流の渦が近くにいた恭弥に迸り、骨の髄まで痺れる苦しさを初めて知り、気絶した。

 

「ふむ、目を閉じていないか。見込みがある」


 グレアは大剣を地面から引き抜くと、背中に提げ、騎士たちを呼び戻して訓練を再開するように指示する。だが、賭けをしていたものたちは途端にブーイングを鳴らすが、グレアは一睨みで黙らせる。

 まるでこれまでの恭弥の挑戦はなかったかのようにあっさりと訓練は再開され、ようやく意識の戻った恭弥は生きていることを確認すると、凝固した瘡蓋が電流で焼かれてなくなっているのも気にせず、グレアのほうへとよろけた足取りで近づいていく。


「……なあ」

「何だ」

「絶対ぶっ倒すから、俺を、強くしてくれよ」


 恭弥はそれだけ言うと前のめりに倒れた。

 騎士たちはざわめくが、オースが傷を癒して事なきを得る。

 それから随分と経ち、日が暮れた頃に恭弥は目を醒まし、最初に浴びせられた言葉は予想外のものであった。


「啖呵切って負けたわけだけど、どんな気持ち?」

「……正直、恥ずかしい」


 問いかけたのはオースであった。

 恭弥は何時の間にか運ばれていたベッドの上で布団を被りなおすと、狸寝入りをする。

 オースは呆れて見下ろすと、こっそりと衛生室にいた大きな男の影が消えるのを確認し、再び嘆息した。




 6.好きだ



 太陽が空に昇り切った頃、恭弥は司の入院している病室へと訪れた。

 見舞客はいないらしく、黙々と教科書に取り組んでいる司の姿がある。おそらく司の担任が夏休みの課題を届けてくれたのだろう。頭を悩ませて必死に問題に取り組む姿は恭弥のよく知る司の姿だった。だが、記憶が戻ったという報せは受けていないから、そういうことなのだろう。

 扉を開けて入室しても気づかない司に対し、扉にノックをすると、ようやく司がシャーペンを机に置き、恭弥の方を見た。あ、と小さく言葉を濁している。


「嵯峨根恭弥くん……でいいんですか?」

「あ、ああ。それで合ってる」

「そうですか! 良かった。えっと、父と母? に教えていただきまして……」


 余所余所しい呼び名に疎外感を覚える。キョウちゃん、と呼ばれていたのは過去なのだと知りつつも、胸が掻き毟られるような痛みに襲われた。それでも、そんなことは億尾にも出さず、出来る限り優しい笑みを浮かべて緩やかに近づいていく。怯えられない距離を見極めるために。

 ベッドの隣に行っても怯えられないことから、きっと男性に触られるのが怖いのだろう。何をされたのか、想像するだけでも胸が痛い。煙草を押し付けられた痕跡はもう残ってないけれど、一体どういう状況でそんなことになったのか。考えるだけで吐き気がしてくる。


 記憶など戻らないほうが良いのかもしれない。


 ふとそんなことを考えてしまうが、それは嫌だと恭弥の本音が叫んでいる。身勝手極まりない、と自覚していても、恭弥には司に記憶を取り戻させる手段は持っているのだ。その誘惑に抗い続けることができるのか、自然に記憶が戻るのを待つことができるのか、恭弥にはとてもではないが自信はなかった。

 果たしてそんな恭弥に司は親身に語りかけてきた。どういう心境の変化があったのかは知らないが、以前の自分の行動や仕草などを恭弥に聞いてくるのである。恭弥は包み隠さず、ある程度ぼかしながら教えていく。すると、司がきょとんとして恭弥に聞くのだ。


「私たちは恋人だったんですか?」

「あ、いや。俺たちは友達だったよ」

「……友達なのに泊まり合ったりするような人だったんですね、私って。ちょっと不謹慎かも」


 なるほど、確かにそうかもしれない。恭弥も異性にあまり興味がなかったせいで深く考えはしなかったが、泊まり合うというのは相当に異常なことではなかったのだろうか。友達以上の関係だったと言えるのではないだろうか。

 それも自惚れか、と恭弥は自嘲する。


「私に親身に関わってくださったと聞きました。ありがとうございます」

「俺は大事な時に傍にいてやれなかった最低な奴だよ」


 唐突に頭を下げられ、恭弥の自嘲はより深くなった。口角を吊り上げ、腕を組み、窓から外を見下ろしている。この部屋から逃げ出したい、と言うように。


「そんなことない! ……あれ? あ、急に怒鳴っちゃって……ごめんなさい」


 司が不意に大声を上げると、途端に顔を真っ赤にしてしょんぼりとベッドの上に突っ伏した。

 それがとても愛らしくて、以前の司と同じような喋り方がとても懐かしくて、恭弥は知らずに手を伸ばし、司の手を握り締めていた。司は拒絶しようともがくが、男の恭弥の力に抗えるはずもなく、心底嫌そうに身体を震わせている。


「……離してください。男の人は、怖くて」


 そこまで言われてようやく冷静になれた恭弥は己を恥じると、すまない、と頭を下げた。

 ベッドの隣にある椅子に腰掛け、蒼褪めたまま震える司に優しく声を掛け、ようやくこちらを向いてくれたとき、にこりと笑う。


「司、俺はお前を裏切らない。だから、俺にお前を守らせてくれ。頼ってくれ。絶対に駆け付けるから」

「なん……で……」

「好きなんだよ。どうしようもなく。司のことが好きなんだ」


 人生初めての告白だった。


「軽く受け取っておいてくれても構わない。俺とお前は友達だったろ? すっきりしようぜ。全部解決して、また今度遊園地へ行こう。けど、今度は俺の乗りたいアトラクションを優先させてくれよ。ジェットコースターは怖いんだ。お化け屋敷とかにしておこう」


 去年行ったときは司に連れられて絶叫系のアトラクションばかり乗らされたのだ。恭弥としてはもっと違うアトラクションを見て回りたかったのだが、朝から晩まで絶叫させられ、挙句の果てに晩御飯まで奢らされて、その月のお小遣いを全て使い果たさせられたのはもはや良い思い出である。

 思い出した途端に笑いが込み上げ、顔を手で伏せた。涙を見られないように。

 一頻り笑うと、きょとんとして恭弥のことを見ている司に、ごめん、と一言詫びを入れ、じっと瞳を見つめる。


「覚えて、ない、です」


 司は申し訳なさそうに頭を下げるが、恭弥は手を振って誤魔化す。


「そっか。じゃあ、また来るよ。今度は遊園地のチケットでも持ってさ。新しく記憶を刻もうぜ」


 そうして席を立って部屋を出た。

 昼からの部活に十分間に合う時間である。




 夏休みが始まって一週間が経つ今日、ようやく柔道部の練習にも身体が慣れてきた。

 三年生は既に引退していたが、二年生と一年生は健在である。そこで恭弥は日々サボる口実を見つけては逃げ出す一年生を捕まえては部活に参加させるという任務を実行していた。今も校内で元気に逃げ回る禿頭の下級生の名前を呼びながら校庭を走り回っているのだが、このときに至ってようやく気づいたことがある。自分へ対するクラスメイトの村八分が急に緩和されたのである。柔道部の面々という仲間がついたおかげか、体育会系の繋がりはとても強いものだと恭弥は知った。


「捕まえたあ……!」

「ちょ、嵯峨根先輩。勘弁してくださいよ。今日はOBが来るんでしょ? 死んじゃいますって!」

「知るか! 俺なんか部活始めてまだほとんど経ってないんだぞ! まだ白帯だしさあ」

「僕も白帯ですって! あ、田中が逃げた!」


 苦しい日々は唐突に終わりを告げたのだが、それでも粘ついた視線が消えることはない。

 恭弥の教室にとって恭弥という存在は厄介なものらしく、陰口だけは止むことはない。今も夏休みに実施されている講義をサボっているのだから、教師からも同級生からも印象は最悪だろう。それでも、恭弥には明確な優先順位が出来ていた。

 禿頭の頭を引っ掴み、部室へと連れて行く。そこに待ち受けているのは健三率いる二年生と、既に捕まっていた他の一年生の面々だ。

 本日はOBも部活にやってきて、現時点での基礎体力や技術を見て、夏休みの間に行う合宿のメニューを決める日なのである。恭弥は柔道を始めて間もないので部活の中では一番弱かったりするが、もともとある程度鍛えていた身体と実戦で培った勘でぐんぐんと腕を伸ばし、最近は部の中で三番目に弱い男になれた。あまり自慢できることではないが、恭弥は微妙に喜んでいる。


「連れてきましたー!」


 忙しくなる。様々なことで。それでも、一歩一歩進めているという実感が、恭弥にはたまらなく嬉しかった。

 これから良くなる。強くなって、全部変えてやる。


「俺に全部、任せとけ」


 小さく呟いた言葉は誰の耳にも届くことはなかったが、恭弥のやる気は伝わったのだろう。

 勢いよく開かれた扉から現れたOBたちを見て、恭弥は高鳴る胸を抑えたのだった。




 ――――筆頭騎士グレア、これにて了

 




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