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境界線上の代理戦争  作者: だが断る
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1.森の王、死神

正義も悪も下らない。どうせこの世に生まれてきたんだ。好き勝手自分の思うが儘に生きようぜ?

 大きな城が其処にはあった。滝壺の奥深くにある絶間無く水飛沫が舞っている。誰の目からも届かぬよう、誰の目にも留まらぬよう、必死に隠れている威容な城。四方には尖塔が並び、獣を象った彫刻が置かれている。それらは全て城を睨みつけるように配置されており、まるで監視されているようだ。

 城の中の一室、玉座の在る間は空席だ。城の大きさからすれば質素とも言える装飾の為された大廊下。そこを通り過ぎれば小さな扉があり、開けば城の主の部屋がある。

 レースのカーテンが掛けられた窓からは暖かな日差しが射し込み、部屋を照らしている。

 部屋には赤い絨毯が敷き詰められており、勉強机や簡単な寝間着などが置かれている。

 一際目を惹くのが天蓋のついた――十人は横になれるだろうベッドには捩れた角を額から伸ばした美貌の少女は絹で出来た軽い寝間着姿のまま、膝を曲げて座っている。窓から見える滝をじっと見て、時折長く長く吐息を零す。


「こんな辺鄙なところへ来るとは珍しいではないか。そろそろ私の命を摘み取りに来たか?」

「そんな些末事では儂は来ぬよ。もっと重要な事で、もっと話しづらい事だ」

「ほう?」


 少女は声のする方へ視線を移した。

 片眼鏡を付けた男がいた。大きな身体には似合わない漆黒の礼服を纏い、少女の方へと歩み寄る。如何にも暴力を生業にしていそうな姿をしているが、その歩みは堂々としていて、野蛮さの欠片もない。むしろ高貴な雰囲気すら醸し出していた。

 男がベッドの隣にある椅子に腰掛けると、ぎしりと木片の歪む音がした。


「膨大な魔力を秘めた妹よ。身体に恵まれず、このような場所で静養をしているままでいいのか。このまま死してよいのか?」

「構わん。別段やりたいことがあるわけでもなし……いや、あるにはあるが。この身体ではなぁ」

「身体があれば生き延びたいか?」

「……当然。だが、その場合は私とお前は敵対することになるだろう」

「それもまたよし。ならばこの魔導書を読むがいい。儂にはわからん理論ばかりだが、きっと貴様には理解できるだろう……」

「これは……」


 少女は驚愕し、男を見上げる。男は悪戯が成功した餓鬼のように下品に笑う。

 皮肉気に吊り上げられた唇には微かな優しさが浮かんでいた。





 1.力無き正義



 敵に馬乗りになり、少年は何度も顔面を殴打した。

 学校の廊下は緩衝材が敷き詰められている。そのせいか床に何度も後頭部を叩きつけているのに息絶えることはなく、未だにか細くではあるが呼吸をしている。昼休みの最中、生徒同士が本気の喧嘩をしていると聞きつけた教師たちは駆け寄って馬乗りになっている少年を羽交い絞めにして引き剥がそうとする。しかし、高校生でも一際腕力の強い少年は必死に抵抗し、何度も敵の顔に拳を振り下ろした。

 血走った眼で暴力を振るう。歯を剥き出しにして殴りつける。

 普段は大人しい部類に入る少年の凶行に周囲は戸惑うが、終ぞ三人の大人の手により少年は生徒指導室へと連行された。


「いいか! 今度俺の目の前に立ってみろ! この程度で終わると思うなよ!! 怯えて暮らせ! お前の人生、ぶち壊してやる!!」


 少年、嵯峨根恭弥さかね きょうやは血に濡れた拳を振り払い、教師に拘束されて不自由なままに咆哮した。

 暴力を振るわれていた少年は涙や血、涎で粘液塗れになった顔を他生徒に拭ってもらいながら、決して恭弥とは目が合わないように身体を縮こませて保健室へと送られていく。




 どうしてこんなことを仕出かしたのか。

 問い詰める教師たちには侮蔑の視線を投げ、恭弥は生徒指導室の入り口近くで直立不動の体勢を維持させられていた。

 夏にも関わらず、教室とは裏腹に涼しい生徒指導室は空調管理が為されている。激怒している担当の教師はその中でも大量の汗を噴出させながら、唾を飛び散らせている。顔を真っ赤にさせて怒る様はもともとの顔の大きさも相まって蛸によく似ていた。

 何故こんなことを仕出かしたのか、と問いつつも頭ごなしに恭弥を叱りつける。いや、叱ってすらいない。問題は暴力行為に集約され、恭弥の言い分など求めてすらいない。

 生徒指導室などという場所に恭弥は全く縁がなかった。そもそも優等生として名の通っていた恭弥はむしろ表彰台に立つことの方が多い優秀な生徒だった。

 そんな恭弥の非行を改めさせるために教師は自分の正義を語り続ける。名前すら知らない教師の人生観に聞く耳すら持てない恭弥は適当に相槌を打つと、今回の短慮な事件を起こしたことを僅かながらに後悔していた。やるならバレないように、徹底的にすべきだったのだ。今回のことはあまりにも生温い。何せ敵は意識を保っていた。ならばこそ、せめて骨くらいは折るべきだったのだ。


 事の発端は、友の入院であった。


 友、須藤司すどう つかさは特筆した才能を持っているわけでもない、地味な生徒だった。平均をやや下回る身長に、華奢とも言える痩せた身体。勉強ができるというわけでもなく、本当に目立たない同級生の女の子だった。しかし、そんな司ではあるが不思議と恭弥と馬が合った。

 出会って三日でお互いの家を行き来するようになり、気づけば家に泊まり合う仲になっていた。

 司と一緒に寝るときなどは親の寝静まった頃を見計らい、夜な夜な助平スケベなビデオを取り出しては熱心に視聴し、時には司に意見などを聞きながら参考にし、道行く女性に好まれるお洒落な服装などを研究した。テスト前などは恭弥が司に一方的に教える形になっていたが、二人で肩を並べて勉強をしたりもした。

 高校二年生に進学すれば成績順でクラスが決められる。そうしたこともあって恭弥と司は別クラスになってやや疎遠になりはしたが、それでも時々遊ぶ程度の友好関係は維持されていた。


 二人の関係は一方的に断たれることになるが。


 週に一度はしていたメール交換。その返事が全く返ってこないのである。終ぞ寝て起きても返信はない。心配に思って司の所属する教室へ行ってみたところ、何処とも変わらない元気な生徒たちが大勢いるだけだった。さて司を探そうか、と恭弥は教室に入ろうとしたその時、不思議な物が目に飛び込んできた。

 空席の机。その上には花瓶が置かれており、一輪の花が挿されている。真っ白な大輪の花は太陽によく似ていた。けれども最も使われるのは葬式のとき。あまり縁の良くない花。

 それは白い菊だった。

 誰か病死か事故死でもしたのだろうか、と恭弥は僅かばかりの間、胸中で見たこともない死者に祈りを捧げ、教室へと入る。本来の目的は司の様子見だからだ。

 ホームルームの少し前の時間帯。この時間ならほとんどの生徒は登校している。それでも司の姿はなく、すぐ近くにいた女生徒に司の事を聞いてみれば、何故かその子は恭弥から目を離した。罪悪感の滲んだ罪人の目である。


 嫌な予感がした。 

 

 恭弥は授業を受けることなく、校舎の裏手にある自転車置き場から自分の自転車に乗り込むと、全速力で司の家へと向かった。

 学校から十分ほど自転車を漕いだ場所にある長屋に司の一家は住んでいる。決して裕福とは言えない、むしろ貧乏な家庭と言えるだろうが、そこに住まう司と司の両親のことを恭弥は好きだった。

 何度か泊まりに行ったときのこと、恭弥が泊まりに来たときのご飯はいつもより少し豪勢なんだ、と司は笑う。それは鍋だったり、カレーだったり、単純な家庭料理ばかりだったが、温かみのあるものだった。

 普段から仲の良い家庭は居心地が良く、そのおかげか司もとても心優しい少女だった。

 だけど今は静まりかえている。もしかすれば司が病欠なだけで、司の母親は出ていて静かなだけかもしれない。けれど胸の鼓動が安らぐことはなく、むしろ動機は激しくなっていった。

 長屋のチャイムを鳴らす。

 幾ら鳴らしても返事は無く、扉に手を当てれば鍵はかかっていなかった。

 無断で上がることにやや抵抗はあったが、恭弥は丁寧に靴を脱ぎ、揃えてからお邪魔することにした。

 よく見知った家屋である。どこに何があるかも知っている。迷わず進んで奥の部屋の前に立ち、扉を軽く小突く。ノックである。

 返事はない。

 逡巡すること暫し、恭弥はドアノブに手を掛けて勢いよく中へと入った。

 分厚いカーテンで日光を遮られた部屋。薄らとしか確認できないが、そこにいたのは苦しそうに呻きながら寝付く親友であった。

 ほっと胸を撫で下す。もしや死んだのは司ではないのか、と恭弥は心底恐怖していたのだ。

 何とか安否は確認し、そして恭弥は司の被る掛布団を引き剥がした。

 唐突な来訪者に驚き目を覚ました司は驚愕して恭弥を見上げる。司の怯えを無視し、恭弥は無言で司の着る上着を捲った。

 現れたのは幾つもの青痣。中には煙草で焼かれたのだろう生々しい火傷の傷痕がある。

 ぐっと唇を噛み締めると、恭弥は司に顔を近づけた。司は詰められた分だけ距離を離し、涙を浮かばせる。


「誰だ?」

「誰って……」

「誰にやられた?」

「キョウちゃんには……関係ないだろ……」


 返ってきたのは明確な拒絶だった。

 それからのことを恭弥は覚えていない。

 気づけば太陽は沈んで月が浮かぶ時刻になっており、自宅へと戻れば母親から嫌なことを聞かされたのである。


「司ちゃんが、意識不明の重体だって……」


 高所から飛び降りたらしい。

 呼吸困難になりかけるほどに全力疾走で救急病院に駆け付けた恭弥は、司の命が無事なことを確認した後に安堵し、そしてたまらない憎悪に駆られた。

 自分に虐めがばれたが故の恥辱かもしれない。もしくは迷惑を掛けたくないがために命を絶とうと試みたのかもしれない。ただ生きるのに疲れただけかもしれない。

 恭弥に力が足りなかったから。もっと気を掛けてやらなかったから。会う頻度を減らしたせいで司のことに気付いてやれなかった。自分にも一因がある。しかし、それだけではない。罪悪感の浮かぶ瞳で目を逸らした女生徒。そして白い菊の飾られた机。


 虐めがあったはずだ。

  

 そう考えた恭弥は聞き込みをし、虐めの実態を探った。

 知れば知るほど胸糞悪くなるようなことが容易に聞き出せた。教師たちにも虐めがあることを訴え、きちんとした裁きを与えるように懇願したが、全て徒労に終わった。一か月ほどかけて準備したものは全て無駄だったのだ。要するに司は弱者だったから虐められただけということだ。教師たちの職務の中には虐め問題などは重要なカテゴリに入っておらず、できれば内内に終わらせたいところなのだろう。警察を呼んで問題を起こすことも考えたが、しかし、恭弥の我慢も限界に来ていた。

 未だに目覚めない司。飛び降り自殺だったせいだろう。辛うじて命は取り留めたが、意識がいつ快復するかわからない。どんな障害が残るかもわからない。そういった説明を受ける司の両親はぼろぼろと涙を流し、ひたすらに現実を呪っていた。

 恭弥に涙をとどめる術はなく、ただ一緒に哭くことしかできなかった。


 だから今日、堪忍袋の緒が切れた。


 調べ上げた情報を基に最も虐めを助長させ、なおかつ最も強そうな男子生徒を衆目で殴り倒す。殴り殺す。

 虐めに加わった生徒たちへの宣戦布告。お前らは俺に虐められることになるという脅迫。

 そのつもりでの暴行だったのだが、なるほど、恭弥は未だに現実を軽く見ていた。


「お前は、当分停学だ」


 聞き耳を立てることもなかった生徒指導部の教師の宣告。

 恭弥は僅か一度ばかりの問題で学校から処罰を受けることとなった。




 ふらふらと帰路につく。何か間違ったことはしたのか、あいつらは間違ったことはしていないのか。多数で一人を殴るのは有りで、一対一での喧嘩は無しなのか。意味がわからなかった。

 身体が重い。足取りがふらつく。鍛えられた身体の重心はどこかへ行き、今にも倒れそうな弱弱しい歩みだった。

 力が欲しい。恭弥は切実に考える。無力だから苦しむ。無力だから助けられない。全て力の無い自分のせいだ。だが、力を付ける方法がわからない。

 嗚咽混じりの吐息が零れる。

 弱気な背中を照らすのはぽっかりと浮かぶ月だった。いつの間にか夜になっていたらしい。

 誰もいない大通り。街燈と月が淡く照らす通りで、下を向いて恭弥は歩いていた。

 家に帰ることもできず、恭弥は長々と時間を潰す。どんな顔をして親に会えばいいのかわからず、言い訳すらも浮かばない。

 足音が増えていることに気づいた。後ろから伸びる大きな影も数を増している。

 妙に思った恭弥は後ろを振り向けば、見知った顔がいた。


「……司?」

「いや、それは違う。私の名前は司じゃないな」


 よく通る、鈴のような音色だ。

 顔立ちは司によく似ていて、体格もそっくりだが、全く似ていない箇所が複数あった。

 理知的な眼差し、自信のある立居振舞い。そして額から伸びた捻じれた角。僅かに膨らんだ胸が明確に違う。司の胸はもう少し大きい。

 平伏しそうになる存在感。気品のある姿。纏う服も意匠の凝らされた服。高貴な雰囲気は生まれの良さを表している。

 不思議と魅入られる、魅力のある少女だった。

 目を擦ってもう一度見ても、そこに確かに在る。

 

「一度目で成功したか。君はどうやら私の縁者のようだ。何やら懐かしい感じがする。きっと此処での私と近しいものなのだろう」

「お前……は……?」

「君に力を借りるために……いや、死者のような顔だな。これじゃあ私が力を貸すことになるのかなぁ?」


 訳知り顔でにやにやと笑う少女に不信感を覚えた恭弥は一歩退くも、少女は気を害すことなく、むしろ愉しげに笑みを浮かべ続ける。

 見るからに日本人ではない。深紅の髪は染められたものではなく、月光に照らされて微かに光を帯びている。

 じっと見つめてくる恭弥に再びにっこりと笑うと、少女は恭弥の手を取った。


「話を聞く気があるのなら、案内してくれないか? こんな場所で話すよりも、もっと落ち着いたところがいい」


 むしむしとした暑い夏。蝉時雨の五月蠅い町中で話すよりも適した場所もあるだろう。

 恭弥はこくりと頷くと、先ほどまで忌避していた我が家へと歩き始めた。


 恭弥が日常との決別となる切っ掛けだった。





 2.先払いの報酬



 一定の距離を保って付いてくる少女は興味深そうに近辺のあらゆるものを観察していた。暗闇を照らす街燈が等間隔に並んでいるだけで感嘆の声を漏らし、通り過ぎる人たちの服装を見るにつけ羨ましそうに目を細める。全てのものが珍しいのか。近くにある家々などにも興味深くしげしげと見つめ、集合住宅などには熱烈な視線を送っていた。

 集合住宅から少し離れたところにある住宅街。区画整理されたそこに恭弥の家はあった。

 二階建ての木造建築。クリーム色の壁をした近代的な作りのものである。ごくごく普通の、ここらでは一般的なものだ。

 家に入っても人の気配はなく、両親ともに外に出ているのだろう。玄関の靴箱の上に立て掛けられた時計は八時を示しており、常ならばとっくに食事を終えて家族団欒をしているところなのだが、どちらも残業なのか。どちらにしても都合の良いことに変わりはない。

 万が一の事を考え、恭弥は電気を消したまま足音を殺して階段を上がり、先にある自室へと向かう。

 その間、無言である。少女もうずうずと質問したげな様子を醸し出しつつも、黙って恭弥に追従していた。

 自室の扉を開いてすぐ右にあるスイッチを押せば蛍光灯が煌煌と輝く。「おおっ」と少女は喜びの声を上げた。

 恭弥は少女のために座布団を敷くと、対面するように椅子に腰かけた。背凭れのあるもので、深々とクッションに沈み込む。


「いやはや、凄まじいものであるな。この世界の品々は実に興味深い。何の用途で使われているのかわからないものばかりだぞ。知識欲が擽られるな」


 恭弥の部屋の中にあるものはノートパソコンにベッド、あとは勉強机に漫画や参考書、小説などがぎっしりと詰め込まれた本棚に服を入れるウォークインローゼットくらいだ。珍しいものなど全くないが、少女にとっては珍しいのか。

 いわゆる変人というものか、と普通ならば勘ぐるところだが、恭弥は不思議と少女に魅入られていた。

 独特の空気、穢し難い高貴さ、そして何故だろうか。絶対的な強さを持っているように感じられたのだ。だからこそ、無用意に家に上げてしまったのだろうか。けれど、全く警戒をしていないというわけではない。鋭い眼差しで値踏みするかのように少女を観察していた。

 恭弥の視線に気づいた少女は苦笑する。「浮かれ過ぎていたな」と自重し、張り詰められた真剣な表情となる。


「自己紹介といこう。私の名前はオース。こことは違う世界にある王国の王位継承者――平たく言えば王女のようなものだ」

「嵯峨根恭弥だ。普通に高校生をやっている。で、違う世界とは?」

「パラレルワールドと言ってもいいかな。この世界とは違う道程を進んだ世界だよ。君たちの世界には角の生えた人間なんていないだろうし、翼の生えた人間もいないだろう?」

「……それにしては随分とこの世界について博学だな」

「予習してきたからね。ある程度の知識はある。高校生とやらも意味を知っている。どういう勉学に励むのかは知らないが……」


 パラレルワールド。この世界と何処かで分岐した、決別した物語を紡ぐ世界。途方もない話である。

 確かめるため、恭弥はオースの角に手を伸ばして触っていた。鹿の角と触り心地は似ているが、どこか違う。一角獣のような鋭く捩れた角。そう、ドリルのようだ。根本にも触れてみたが接合した後はなく、明らかに額から生えている。

 オースの頬が見る見るうちに真っ赤になり、堪え切れなくなったのか。恭弥の胸を思い切り突き飛ばすと、ごほんと咳を鳴らす。「もういいだろう?」と目で語っていた。


「今のこの身体は精巧な作り物でね。技師に造ってもらったものをこの世界に転送して動かしているのだけど、実際の私は家の中をうろつくことくらいしかできないくらいに病弱だ。さっき言っただろうけど、私はこれでもお姫様でね。王位継承権を持っているんだ。もちろん他の兄弟たちも持っているから、私が継げるとは限らない。で、ここからが本題なんだけど……」


 恭弥はこくりと頷くと続きを促した。


「私の世界は強者こそが正義でね。王足り得るには絶対的な強さがいる。けど、私の身体は欠陥品だ。だから、君の身体を貸してほしい。もちろん報酬は渡す。この世界の金品は用意できないけれど、私の世界の宝石なら幾らでも渡せる。もしくはこの世界では超能力と呼ばれるものを渡してもいい。もちろん君の命は保証する。どうかな」

「要するに殺し合いをして、勝ったら欲しい物をくれる……ということか?」

「話が早い。もちろん君に強制することはできない。拒否権はある。けれど、君は私の分身と近しいものみたいだ。きっと私の提案を呑んでくれるだろうと信じている」

「分身?」

「パラレルワールドと言っても生まれる人間は大して変わらない。縁のあるものが寄り添うようになる。だから私と縁の合った君はこの世界の私ともきっと縁があるということになる。私の世界でも理論を証明できていないオカルトじみた説だがな」


 恭弥は考え込むように俯いた。

 通う高校は停学。司は投身自殺の試みにより重傷を負って入院中。虐めを繰り返していた生徒たちに罰はなく、末期的な状況だ。

 そこに現れた少女は言う。報酬を渡すと。それは金品か、もしくは超能力。その場合の超能力如何によっては現状を打破できるのではないだろうか。合法か、非合法か、この際は関係ない。司を救えて、自分を救えて、敵に報復できれば問題ない。

 恭弥は顔を上げていた。


「お前の言っていることは信用できない。証明することはできないか?」

「証明……?」

「俺の友人――お前の言う、お前の分身が入院をしている。下らない奴らに虐待され、身も心も傷ついて自殺を図った友人が入院をしているんだ。意識不明の重体でな。癒すことはできるか……?」

「その程度でいいのか? 安いものだ」


 未だ両親の帰らぬ家から飛び出すと、恭弥はオースを連れて駆け足で司の下へと走った。

 距離にしておおよそ二kmを十分もかからずに走破し、面会時間ぎりぎりの九時前に辿り着く。受付のナースステーションに置かれている面会人の札のところへ急いで名を書き込み、司の眠る場所へと向かった。

 電子音が定期的に鳴る、冷房の効いた個室。ここが司の入院している202号室である。


「これが私の分身か。弱弱しいものだ」


 ひんやりと冷たい肌のまま、あらゆる管を繋がれている司にオースが触れる。淡い蒼光が司を包み込む。一か月間目を覚まさず、外傷の残っていた司の身体が見る見る内に癒されていく。

 恭弥は司の被る布団を引き剥がし、司の身体から打撲や切り傷、煙草の押し付けられた火傷の跡が全て消えていることも確認し、安堵した。

 本物だ。

 確信を得て、恭弥の身体中に気力が漲る。

 つまらなそうに司の傷を癒し続けるオースが、恭弥には神に見え、信仰する対象に相応しいように思えた。

 数分経ち、オースは「終わった」と不機嫌に吐き捨てる。自分の分身が醜態を晒しているからか、もしくは傷つけられているからか。違う要因かもしれないが、オースは不快を滲ませていた。

 外の空気に当たる、とオースは恭弥に断りを入れることなく病院を出る。恭弥も後に続き、オースの様子を窺った。

 蝉時雨が耳に劈く夜。騒々しいまでに鳴いている。

 歩いていく先は病院のほど近くにある公園のベンチ。オースはそこに座り込むと、足を組んでぼんやりと呆けていた。空に浮かぶ月を見上げていた。


「ありがとう」


 思わず、恭弥の口から出た言葉だ。

 感謝を受け、オースは動揺したように失笑する。


「私のためにやったことだ。礼を言われる筋合いはない」

「それでも、ありがとう」


 ふっ、と嗤った。

 オースは立ち上がると「証明になったか?」と皮肉気に口角を吊り上げる。


「俺は何をすればいい?」

「私が勝ち残るまでの期間。長くても一年はかからないだろうが……私の手足となって戦ってほしい。何かを依頼し、達成するたびに君に報酬を渡す。見ての通り、私は肉体を癒したりするのが得意でな。仮に君が死んだとしても余程の惨状でない限り生き返らせることはできるから安心して死んでくれていい。だから、命の保証は万全だ。苦痛を味わうことは妥協してほしいが、もちろん和らげられるように処置はする」

「確認したいことがある」

「何だ?」

「仮にお前の依頼を受けたとして、その間は俺はどうなる。この世界から消えているのか? 時間はどうなる。この世界の時間は進んでいるのか?」

「進んでいる。君は行方不明になっている。君の身体が私たちの世界に来ているわけだからな」

「なるほど……」


 命の保証をしなければならないような状況に陥る。それはきっと誰かと戦うことなのだろう。誰かを殺すことなのだろう。

 それはおそらくオースの兄弟たちか。もしくは違うものか。


「俺は戦ったことなんてない。せいぜいが喧嘩程度だ。どうすればいい? 何をするんだ?」

「戦い方は死にながら覚えればいい。私の世界に来ている間は君が私の代理人。その間は私の力を全て貸し出す。それを使って上手く敵を殲滅してくれればいい。この場合の敵というのは私と敵対している兄弟や、王国の利権に関わる害虫たちのことだ。当然だが、私の兵たちも全て君の言う事に従う」

「何故俺なんだ?」

「それはおいおい教えようか。今はいらないだろう」


 にこりと笑う。月光に照らされた笑顔はとても美しいものだった。


「考える時間は……必要か?」


 何を悩むことがあるというのか。

 命の保証はされていて、やるべきは他者を排除することだけだ。それはこの世界とは違う場所で、正当な戦いで生死を決するだけ。

 現状に甘んじていていいのだろうか。

 わからず屋の教師に訴えても何も変わらない。虐めに加わった生徒たちに復讐をしたとしても自分の人生が先に終わる。司の傷は治ったが、意識は戻ってはいない。結局のところ、立ち向かえるのは自分だけだ。

 問題を打破する力をオースは持っている。提供してくれるとまで言っている。言う事を聞くだけで、依頼を達成するだけで与えられる。それは魅力的な提案ではないだろうか。

 躊躇してどうなる。何も変わらない。川の流れのように漫然と下へ流れ落ちるだけの、無難な選択肢を撮り続けるだけの後悔ばかりの生を送ることになる。

 戦いを避けると必ずそうなる。

 怯えもある。あのような超常的な力を持つものがきっと大勢いるのだろう。それと戦うというのは怖い。 

 恭弥は頭を振ると、自分の頬を拳で打ち抜いた。


「いや、ないな。何をすべきかはわからないが、お前の協力を得たい」


 赤く腫れ上がった頬で、恭弥は男らしく言い切った。


「協力――か。そうだな。私は先に報酬を渡した。まずはその分だけでも働いてもらおうか」


 空間が歪む不愉快な音が恭弥の耳に届く。

 恭弥の目の前、突如として観音開きの異様な門が現れたのだ。

 地獄の門番はいないようで、好きな時に開けられそうだ。

 取っ手に手をやれば軽く開き、扉の先は暗く淀んで見えはしない。


「来るか、来ないか」

「行こう」


 迷うことなく、恭弥は非日常へと一歩踏み出した。

 

 

 

 3.始まり



 淀んだ扉の先にあったのは光を遮るほどに育った大樹が林立する森だった。

 薄暗い大地は湿気が多く、汗が噴出す。そんな中、どこからか聞こえてくる不気味な音色は妙に心をざわめかせる。

 足を運ぶたびに地面を埋め尽くす腐葉土の中に隠れた枯れ木がぼきりと折れ、音に反応した何かが茂みの中から飛び出し、逃げ出していく。

 

「愚者の森と言ってな。ここには多くの亡者が棲んでいる。死肉で構成された猟犬や人間、炎を宿した魂の残滓である鬼火、他人の魂を刈り取ることを生業とする亡霊……人間の君なら簡単に即死できる場所だ」


 オースは恭弥の一歩前に出ると、大仰に天を仰いで語る。愉しそうに、楽しそうに、実に無防備に。

 すると茂みの中から黒い影が飛び出てきた。音も無く奇襲してきた影は大きく口を開けてオースの首に喰らいつく。前足でオースの肩を押さえつけ、牙の並ぶ口を首の筋肉を総動員して捻り、オースの首を噛み千切ろうとしている。

 危機的状況にも関わらず、オースの顔色は変わることはない。抵抗する素振りすらない。

 恭弥の顔は血の気が引き、金縛りに遭ったかのように動かない。その様を無色透明なオースの視線が見つめている。

 オースは肩を竦めた。

 硬質なもの同士がぶつかる甲高い音が森の中に木霊する。そして、オースの首はぽとりと落ちた。

 肉片のこびり付いた牙を剥き出しにして、オースの首を噛み千切った犬は恭弥を一瞥すると、再びオースの身体に喰らいついた。がつがつと肉を漁っている。

 恭弥にとって神のように思えた存在――オースがあっさりと死んだ。殺した存在が肉を喰らっている。

 頭が真っ白になり、恭弥は気づけば近くにあった骨太の枝を握り締めていた。

 幽鬼の如くふらふらと、けれどしっかりとした足取りで一歩一歩犬に近づいていく。

 食に夢中な犬は恭弥のことに気づかず、いや、脅威とすら見ていないのだろう。

 恭弥は犬の背後から飛び掛かると太い首を片手で抱え込み、空いた右手で首に枝を叩き込んでいた。延髄を貫き、犬の生きるための機能を全て奪い去った。


「ほお、やるもんだなぁ」


 背後から声がした。

 聞き覚えのある凛とした、よく通る声音。

 驚いて振り返ってみれば、声の主は無傷のまま肩を竦めて苦笑を湛えていた。迷うことなく犬に報復をした恭弥の姿がとても面白かったらしい。「迷わず殺すのか。学んでいたものと食い違いがあるな」などと嘯いている。

 夥しい液体を撒き散らした死骸と綺麗な姿のまま佇んでいる姿がどうにもちぐはぐで、恭弥は憮然としてしまう。その仕草のせいか、オースはとうとう笑いが込み上げられなくなってしまったようで、噴出したように笑う。


「くく、これはただの映像だ。というよりも、さっき言っただろう? 身体は精巧な造り物だと。そこまで激昂するほど高価な代物ではない。ましてや、私の身体はこことは違う場所にある」

「……目の前であんなことがあれば普通は驚く」

「そう、それだ。その普通という概念を今から全て捨て去れ。そうしなければ君はこれから苦労することになる」


 木々がざわめく空の隙間からは暗んだ空は分厚い雲で覆われていて、昼か夜かもわからない。不安だけを駆り立てる場所でオースは恭弥に忠告する。オースの住まう世界では恭弥の世界の常識は通じない、と。

 うぞうぞと何かが蠢く音が恭弥の耳に届く。それは地面に横たわる先ほど殺した犬の死骸で、地中から出てきた蟻のようなものの群れに身体中を侵略されていた。僅か数分もかからず、皮を剥がされ、肉を貪られる。ただの栄養分に成り下がっていた。

 恐怖のせいか。恭弥の顔色は急激に血の気が引いていく。


「さて、とんだアクシデントに遭遇してしまったが、君には一先ずここで訓練をしてもらう。君にも君の事情があるだろうから、まずはこの森の王に下剋上してもらいたいところだが、君にも君の事情があるだろう。だから、簡単に済むことから始めようと思う」


 顔色の悪い恭弥に悪びれもせず、オースは言う。

 

「私の抜け殻があるだろう。その手につけられた指輪を取ってくれ」


 恭弥は襤褸雑巾よりもなお穢された死体から目を逸らしつつ、おっかなびっくり指輪のあるだろう場所へ手を伸ばした。

 触れた感触はとても気分を害されるものだ。ねばついた肉片がこびり付いた金属製の簡素な指輪。

 我慢できない嘔吐感に襲われること暫し、恭弥は指輪の汚れをハンカチで拭い去ると、拭き取った汚れとともにハンカチを廃棄した。


「その指輪を媒体として私の力……魔力とでも言った方が通りがいいか? 言葉などどうでもいいか。とにかくそれを嵌めれば私の力をある程度だが使えるようになる」

「ある程度?」

「嵌めてみればわかるさ」


 右手の中指に嵌めてみれば、付けた場所に鋭い痛みが走る。指輪の内部から針が飛び出し、恭弥の中指に突き刺さっていた。

 突然の苦痛に恭弥は手を抑えて痛みに耐えるが、次に来た痛みは想像を絶するものだった。身体中を何かが駆け巡り、汚染しているような感覚。インフルエンザにかかったときのような虚脱感と、指先に刃物を突き立てられ、ぐちゃぐちゃにされているようだ。あまりの痛みに膝が折れ、土に着く。痛む右手を左手で押さえるが、痛みは止まない。


「ぐ、うああ! ぐ、ぐううううう、くそ……ぐ……!」

「想像通り、拒絶反応が凄い。やはりそちらの世界では魔力に順応性は低いようだ」


 全身を引き裂くような激痛の前ではオースの言葉に反応する余裕などなく、必死に歯を食い縛って、脂汗をだらだらと流しながら、ただ我慢するしかない。

 女の前で醜態を晒すのは男の恥だ。声を殺し、出来るだけ涼しい顔をし、身震いを消す。痛くなんかない、と自分に言い聞かせ、洗脳するように何度も唱える。

 何故かこのとき、恭弥は司のことを思い返していた。


 気になっている子に告白しようと決意した前日のこと、その子には彼氏がいることが発覚した。凹みに凹んでいた恭弥のことを心配してか、司が遊園地誘ってくれた。半ば自暴自棄になっていた恭弥は学校をサボって二人で遊園地に行き、遊ぶこととなった。結局は司の方が楽しんでいるのではないかというくらいに次々とアトラクションに行くことを提案され続け、疲れを隠して恭弥は渋々付き合っていた。

 小さな女の子。華奢だけど活発な性格で、それでいてあまり友達を作れない不器用な子だった。それは恭弥も同様で、友達がなかなかできないところに声を掛けてくれた司と仲良くなっただけのことだ。

 引き裂くようにクラス替えをされた。

 恭弥は成績が良く、司はお世辞にも成績は良いとは言えない。


「ちょっと、寂しいね。ちょっとだけ、だけど」


 学校の掲示板に張り出されたクラスの割振り表を見て、恭弥の隣にいた司は沈んだ顔でそう言った。

 それから日々が経つ。

 特進クラスへと進んだ恭弥は勉強の忙しさにかまけ、司と遊ぶ時間を取れなくなっていったのだが、物足りない日々が続く。何の為に勉強やっているんだろう、などと哲学者のような心境になっていく。

 毎日勉強し、成績はぐんぐんと上がる。志望校には確実に合格できるという数値を叩き出し、校長に呼び出され、直接表彰状を渡されたこともある。

 けれど、満たされなかった。


 痛みで真っ白になった恭弥の視界に、鮮烈に浮かんだのは司の笑顔だった。

 一人で部屋に篭りきって泣いていただろう司でもなく、意識重体となって血潮を感じない蒼褪めた司でもない。ともに遊んだときの司の笑顔だ。


 ああ、そうか。俺は司が好きだったのか。


 腐葉土の地面に頭突きを喰らわす。何度も何度も打ち付ける。激しい痛みの前では頭蓋の痛みなど感じず、我武者羅に地面に叩きつけた。

 ふらつく視界にも構わず、瞼を無理やり開く。ふらついた足に拳骨を喰らわせ、無理やりに立ち上がる。バランスを崩して転倒しかけるが、痺れの残る足でぐっと地面を踏み締めた。

 目を開けば暗闇だった世界も妙に明るく感じる。

 痛みは消えていた。


「通常ならつがいになった男女がお互いの力を共有するための道具だけれど、君は魔力を有していないから一方的に君だけに私の魔力が流れ込む。私は一応王族の娘だからな。庶民よりも莫大な力を持っていてな。その力を受容するためには猛烈な痛みに耐えなければならない。本来なら発狂するほどの激痛を受けるのだろうが、今回ばかりは手加減をしていてな。指輪に制限を設けている。死ぬほど痛い程度で済んだろう?」

「先に言ってほし、かったがな……」

「痛みは消えたか? なら次はその身体に慣れてほしいところだが……」


 痛みで失念していたが、消えた途端に目に見えることがある。

 両腕には爬虫類の鱗のようなもので覆われた腕甲が装着されていた。ゆっくりと持ち上げて見ても重さはない。左手の指先には妙な熱が宿り、意識を向ければ一気に爪が伸びた。漫画で読んだ忍者が使う鉤爪のようだ。しかし、人間が用いる鉤爪とは違う材質か、これも重さを感じないほどに軽い。しかし、肉厚で鋭く、試しに近くにある大樹の幹に触れてみれば力を込めていないのに容易く切り傷が刻まれた。

 右掌に妙な熱があり、意識を向けてみれば突如としてふよふよと浮かぶ水球が顕れた。指先で突いても形を変えるだけでそこに在る。


「命令してみろ。それは君の身体の一部のようなものだ」


 恭弥は頷くと、木の幹にぶつかれ、と念じた。すると水球は弾けた勢いで木の幹に突き刺さり、霧散した。後に残るのは水に濡れた、小さな孔を穿たれた大樹の幹だけである。面白半分でどんどん水を出してみるが、途端に息切れをする。そんな恭弥にオースは呆れの混じった視線を送ってきたので恭弥は自戒する。

 次に見たのは胸元だった。胸部と背中の上部だけを守っている薄い甲殻が装着されていた。腕甲と同じ素材なのか、鱗のようなものがびっしりと貼りついていた。触れてみれば滑り気があり、攻撃を受けるというよりも逸らすことに特化したものだということがわかる。

 ここまではいいのだが、恭弥は腰回りを見下ろしたときに何とも言えない深いため息を吐いた。尻から尻尾が生えているのである。それも犬や猫のようなふさふさの愛らしい尻尾ではない。蜥蜴のような太くて長い、鱗がびっしりと生えた長い尻尾である。意識を集中すればそれは自在に動いている。地面に放り出されてのた打ち回る魚類のような動きだったが。


「なんで尻尾がついているんだ」

「私の種族では雄ならば尻尾が生える。その影響だろう。私は雌なので生えていないが……」

「だから俺にも生えたってわけか。ふざけるな。こんな恰好でどうやって生活しろって言うんだ?」

「その姿は一時的なものだ。戻りたければ何時でももとに戻せる。あくまで私の力の影響だからな」


 下半身は緑色のパンツで、関節部以外は全て装甲に覆われている。靴はブーツのようになっており、踵にも分厚い鱗がついていた。


「さて、その力を十全に使いこなせるようになってもらいたいのだが、時間は大丈夫か?」


 思えば随分と時間が経った。

 このまま家に帰らないと両親が心配するだろうし、何より事情の説明をしなければならない。

 一先ず家に帰ることを提案すると、オースも快く頷いた。


「では、扉を作る」


 現れたのはここに来たときと同じ扉。

 観音開きの鉄扉には数多くの骸骨が埋め込まれており、愚者の森の雰囲気によく似合っていた。

 両手で開き、門を潜――ろうとしたときに恭弥は思い返したようにふと問うた。


「この変な格好はどうやったら治るんだ?」

「言葉は何でもいい。だた解除したい、と命じればいい」


 解除しろ、と恭弥が呟いた途端に恭弥の衣服が元に戻った。

 白のTシャツにデニムだけの簡素な服装。

 満足したように首肯すると、恭弥は門を潜った。




 繋がっていた場所は入り口と同じくした公園の中央。

 息を深く吸い込む。先ほどまでの色濃い緑の匂いはなく、慣れ親しんだ現実の匂い。

 ぐっと伸びをし、屈伸をする。違和感の残る身体を馴染ませるため、念入りにだ。

 携帯電話を取り出して液晶画面を見れば、既に時刻は十二時を過ぎている。嵯峨根家には特段門限は設定されていないが、常識で考えて十二時は立派な不良だろう。慌てたように駆けだした恭弥だが、腰を引っ張られて動けない。恐る恐る振り返ると、親友に似た少女が背後から服の裾を掴んでいた。


「置いていくな。まだ道はよく覚えておらん」

「何でお前がいる」

「何でも何も。一緒にいないと訓練の仕方もわからんだろうし、依頼をするときにも困るだろう」

「身体は?」

「常に予備を用意しておくのが淑女の嗜みだ」

「……寝泊りはどこでするんだ?」


 首を傾げてきょとんとし、「君の家だろう?」と言うオースに対してあっさりと折れると連れ立って自宅へと向かう。

 鼻歌混じりにいろいろなものを興味深そうに観察するオースは見るからに興味本位で付いて来たようにしか思えない。司を好きだと自覚してしまった今、司とそっくりのオースが隣にいるのは目に毒だ。簡単に言えば今もつまらない妄想を抱いている。それよりも、親にどう説明するかが問題だが。

 いや、そんなことで悩む時間すら浪費か。

 

「君はよく表情に変化があるな。見ていて面白い」


 ころころと笑うオースから距離を取り、歩く速度を速めた。

 無言で歩き続け自宅の前に着くと、家の明かりは付いたままだ。少しだけ躊躇するが、恭弥は決意を固めて自宅の扉を開く。オースも恭弥に付いて、家の中へと上がった。

 恭弥は「ただいま」と居間にいても聞こえるくらいに大きく叫ぶと、歩を速めて居間に向かう。そこには机の前でじっと 座り込んでいる両親の姿があった。さすがにオースを居間に入れることはなく、自室に向かうように言付けをしてから。


「話は聞いている。座りなさい」


 父の秀信の言葉に逆らうことはなく、恭弥は父の座る席の対面に座った。隣には母の瞳が座り、何かを言いたそうに恭弥に向かっているが、秀信に目を向けられると口を噤む。

 重々しい空気に満たされた居間は普段寛いでいる空間のはずなのに、妙に息が詰まった。何時の間にか出されていた水の入ったコップを手に取り、一気に飲み干すと、待っていたかのように父が口を開く。


「停学……だそうだな」


 噎せ返りそうになるが、やはり知っていたか、と納得する。唐突な停学処分ではあるが、親に通達しないなど有り得ない。

 恭弥は黙って頷くと「そうか」と秀信は嘆息した。けれど、怒りに塗れた目ではない。理知的な、恭弥の尊敬する普段の父のままである。


「暴力を振るったそうだな。理由はあるか?」

「好きな子を虐められたから、やり返しただけです」

「ちゃんとした方法はなかったのか?」

「教師に訴えても無駄でした」


 秀信は先ほどよりも深く長く息を吐く。

 がっくりと肩を項垂れさせ、失望しているかのようだ。

 尊敬している父の態度は恭弥に非常にダメージを与えるが、秀信の失望は違う方向だったようだ。


「……教師が頼れないのはいい。何故俺に頼らなかった。その、なんだ。司ちゃんのことに関することだろう?」

「わかるんですか……」

「見ていればわかる。で、どうしたい。学校を訴えてもいい。何なら警察を呼んでもいい。俺は全部協力するつもりだし、母さんもそうだ。お前が突然不良になったのかと勘ぐりもしたが、そういう理由ならば……暴力は決して褒めれるものではないが、そういう理由ならば理解もできる。だが、浅はかだな。もう少しやり様もあったろうに……それがわからないお前ではないだろう?」

「我慢できませんでした」


 途端に秀信は吹き出した。普段物静かな秀信には考えられないほど大口を開けて大笑いしている。「単純明快だ」と豪快に。

 秀信の態度に恭弥は苦虫を噛み潰したような表情になるが、それすらも笑いの種なのだろう。つられて瞳もくすりと笑ってしまった。

 数分笑い声は途絶えることはなく、しかし、途絶えた途端に秀信は真面目な顔になった。恭弥もすっと背を伸ばす。


「で、これからどうするんだ?」

「夏休み前に一週間の休みが貰えたと割り切って、少し遠出してみようと思います。勉強面では困ることはありませんし」


 男同士通じることがあったのか。秀信は鷹揚に頷くが、瞳は断固として反対した。

 謹慎処分にも関わらず旅に出るということ。勉強面での不足はないのかもしれないが、少しでもサボれば成績が下がる懸念があるということ。

 何よりも心配しているのは停学処分が終えてからの登校についてだ。

 虐めを助長していたのは女子なのだろうが、実際に手を出したのは男子だというのが恭弥の調べである。その事を聞くにつけ、瞳の内心は張り裂けんばかりだったのだろう。頭目だろう男子生徒を叩き伏せたせいで、司の教室の男子たちからは目の仇にされるはずだ。

 いっそのこと転校してはどうだろう。恭弥の成績ならばどこにでも編入することは可能だし、無駄な争いを起こすくらいなら逃げ出すことも有りだ、と瞳は主張する。

 

 恭弥は軽く首を振り、悟ったように「それはできない」と断言した。


「俺は男だから逃げたくない。それに俺が叩き伏せた奴は集団で襲ってくるかもしれないけど、それでも俺は立ち向かわなきゃいけないと思う」


 ここまで言って「いや、違うか」と苦笑を漏らした。

 格好つけすぎたと思ったのか、困ったように髪を掻き、うんうんと唸って腕を組む。

 瞳と秀信はじっと恭弥の言葉を待っていて、時計の秒針が時を刻む音だけが居間に木霊した。その間にも恭弥の顔色は赤面したり、蒼褪めたり、最終的には恥ずかしそうに照れ隠しをし、鼻の下を人差し指でこすって、二人ともから目を背けて呟いた。


「どうも俺は司のことを好いているみたいなんだ。惚れた女の前では格好つけたいだろ。そのためにも、ちょっといろいろやりたいことがあってさ。外に出たいんだ。一人になりたいんだ」


 旅をする目的――オースに付いて愚者の森で訓練を受けることの経緯は全て省く。ただ自分の心情を連ねるだけの子供の駄々に近い主張だが、秀信と瞳は真摯に聞いていた。

 もともとは優等生の恭弥である。親を困らせたことなどほとんどなく、学校からの呼び出しなど一度もない。極めて真面目な学生だった。おかげで信用という土台は既に出来上がっており、難色を示していた瞳も秀信に言い包められる形ではあるが、渋々と了解した。

 遠出の許可を得られた恭弥は一息吐くと、途端に腹が鳴った。朝から何も食べていないのだ。

 瞳はくすりと笑うと冷蔵庫に入れられていた残り物を取り出し、さっと温めて恭弥に出す。森に行ってから数時間しか経ってないというのに、酷く懐かしく思えた。




 ご飯を食べ終えて自室へ戻ると、ベッドの上で膝を曲げ、月を見上げるオースの姿があった。

 淡く光る銀月を眼を細めて見上げている。見惚れていると言ってもいいだろう。頬に朱が混じり、唇からは力が抜けてにへらと笑っている。

 どうやら恭弥が入室したことに気づいていないようで、開いた扉にノックをすると、オースはようやく恭弥に視線を向けた。不快感を示している。


「無粋な」


 恭弥は肩を竦めるとベッドの脇に座り込み、同じくして月を見上げた。

 暗がりの自室は月光と星々に照らされていて、酷く幻想的だ。しかも、隣には惚れた女にそっくりな少女がいる。胸がざわめかないはずがないというものだが、不思議と落ち着いた気持ちだった。


「親と仲が良いのだな」

「ああ、良い方だろうな」

「……羨ましい」


 オースは寂しげな笑みを浮かべ、窓に遮られた月に手を伸ばす。

 届くことはなく、透明の板に触れるだけで終わる。

 恭弥は窓の鍵を外すと、開いた。

 それでも月に手は届かない。


「明日から頼む」

「わかった」


 夜更けに二人、ベッドの上で静かに横になった。






 愚者の森に茂る大樹には分厚い葉が鬱蒼と茂っており、それらが日傘となって太陽の光を遮断している。

 大樹は寄生木とも呼ばれるものだ。種を飛ばし、動物に付着する。そうして徐々に栄養を蓄え、寄生先の者が死んだとき、肉体を取って代る。そうして亡者が出来上がるのだ。

 歪な生態系。亡者と生者が入り混じるそこは混沌としており、淀んでいた。だからか。鬼火や幽霊などが棲みやすい環境となってしまった。


 大鎌を持つ異形。大柄の身体に肉はなく、骨だけだ。

 骨ばった裸体を隠すかのように隠者の衣を羽織り、空洞の眼窩から見えるぎょろりとした赤い光で愚者の森を闊歩する。彼が歩けば生者は逃げ出し、鳥たちは音を立てて飛び立っていく。彼が暴力によって生み出した絶対恐怖の統制下では誰も刃向うことなどしなかった。

 時に彼を屠ろうと挑む人間たちも訪れることはあるが、大半を返り討ちにし、独りだけ生還させてやるのだ。彼の恐怖を更に絶対のものにするために。


 いつしか森の王は大鎌を持った異形ではなく、死神と呼ばれるようになっていた。


 長年死神と呼ばれ続け、次第に彼自身も自分が神であると考えるようになる。

 骨だけの掌を伸ばした先には震える鹿がいる。

 小鹿なのだろう。小さな身体を精一杯縮め、懇願するように彼のことを見上げているが、頭蓋だけの彼は決して笑ったり威嚇することはない。歯と歯を軋ませ、からからと音を立て、戯れに小鹿に触れるだけだ。

 するとどうだろうか。生気溢れた幼い小鹿の美しい毛皮はまるで水分を全て奪われたかのごとく色褪せ、柔らかく強靭な筋肉は水を栄養分を全て抜かれたかの如くやせ細った。

 その場にあったのは小鹿ではなく、食べ残しの肉塊だった。


 彼は退屈そうに顎に手をやると、鎌を大きく振り上げて、肉塊を微塵に切り裂いた。

 彼こそが王。愚者の森の王。


 命を司り、摘み取るもの。

 死神だった。




 4.変化



 恭弥とオースは愚者の森にいた。

 指輪から突き出された針による痛みに集中し、身体の変化を促す。全身に鱗の衣装を纏い、尻からは太くて長い尻尾が生えだす。目は爬虫類の如く縦に裂ける。張り裂けそうになるくらいの莫大な力の奔流が、体内を渦巻いていた。

 左手からは鋭い三爪が飛び出ている。それは伸縮自在で、恭弥の望むがままに姿を変えた。

 一本の剣になり、槍になり、いくつもの錐になる。変幻自在の武器である。

 戯れに木々を切り裂くと、枝の上に潜んでいた鳥たちが悲鳴を上げて飛び立っていく。何処かから野獣の咆哮が聞こえ、まるで威嚇されているようだ。

 平常時よりも格段に良くなった肌の触感で音の方向すら理解できる。ぎょろりとした黄金の瞳でそちらの方角を見やると、ぐっと地面に踏み込んで、弾けた。

 強烈な速度。肉厚な空気抵抗が全身を蝕むが、物ともせずに速度を増していく。

 僅か一分もかからず一キロメートルは走破した先には、恭弥に対して威嚇していた死肉の犬の群れがいた。ところどころ毛皮は禿げ、肉が腐れ落ちているアンデッド。既に命亡きものであるにも関わらず、恭弥に対してまざまざと恐怖を浮かべていた。

 数はおおよそ六匹。リーダーなのが、一際大きな体格のものは群れの先頭で恭弥に怯えながらも対峙しているが、後方にいる犬たちは竦んだまま動けていない。

 恭弥は戯れに爪を振るうと、犬の頭目はあっさりと分断され、死に果てた。他の犬たちは頭目の死を見るにつけ、脱兎の如く駆けだすが、恭弥の操る水球に追尾され、爆散する。


 一方的な虐殺だった。


 血と水で濡れた腐葉土を踏み締め、恭弥は自分の身体の調子を確認する。

 修練の調子は重畳だ。一日ばかり身体を慣らすことだけに浪費してしまったが、たった一日で犬の群れは相手にならず、他の生き物からは逃げられるようになる。それでも、追いかければ容易に追いつけるだけの力が自分にはあり、その事実がたまらなく快感だった。

 頭を支配するのは殺戮という強烈な媚薬。何かを壊すのはとても楽しく、無意識に伸びた舌が自分の唇を舐めていた。

 周囲には幾つもの水球が浮かんでいる。自然と出来るようになっていたことだ。そして、その水球に破壊の衝動で愉悦に歪む自分の表情が写っているのを確認したとき、恭弥は頬を思いっきり殴打した。鱗の生えた拳で殴られた頭蓋はとても響き、鈍痛が頭痛となる。

 ようやく追いついたオースは苦痛に呻く恭弥を確認すると、ほお、と殺戮現場を見て感心していた。


「才がある。この世界で生まれていれば一端の戦士になれただろうな」

「……褒められてるのが、複雑な気分だ。俺は狂ったのか? 殺すことを楽しいと思ってるんだぞ」

「究極の支配だからな。自分よりも低位にある存在の生死を握るのは快感だろう?」

「快感だと思えることが、胸糞悪い」


 散り散りになった肉片を蹴り飛ばすと、恭弥を囲うように浮かぶ水球に触れ、爆ぜた。より細かく千切れた肉がぼとぼとと地面に落ち、地中から現れた蟲たちが貪るように肉片に群がる。それが何故か気持ち悪くて、思いきり踏みつぶした。蟻を執拗に殺していた幼き日のことを思い出す。

 修行の期間はおおよそ七日。今はまだ二日目だ。けれど、恭弥は既に魔力を使いこなしつつある。それも無意識に水球を支配下に置き、強化された五感の中でも触感が特段に使いこなせている。

 オースは腕を組んで考えるそぶりを見せると「これならばいけるかもしれない」とひとりごちた。地面にある腐れた肉片を屈んで拾い、口の中に放り込むと咀嚼する。不味かったのか、唾と一緒に吐き捨てると恭弥に提案した。


「魔力のないものに魔力を与えたのは初の事例だ。だから、暫定的に決めさせてもらうが……その鎧の名前は羽織としよう。そして、その羽織を使って一度死神に挑むと良い。見るだけでもな」

「……勝てるのかよ?」

「死んでも私が生き返らせる。安心して死んでくれていい」


 オースはじっと恭弥のことを見つめている。司とそっくりの顔で、恭弥に期待の眼差しを送っている。

 拒否できるはずもない。


「わかった」


 オースは捻じれた角を掌で優しく撫でると、細い顎に手をやり目を細めた。 


「大別すると愚者の森に棲むのは三種類に別れる。犬や鹿、兎、私と同じく――まあそちらでは人間などの死者と生者。幽霊と呼ばれる精神生命体。触れることすら叶わん。そして最後に蟲だ。死者だろうと生者だろうと隙を見せれば即座に食つくハイエナのようなもの。そして死神は幽霊の分類に入る。大鎌を持って命を刈り取る存在として名を知らしめている」


 木陰の下、オースは朗々と語る。

 恭弥も真面目な顔で聞いていた。


「精神生命体は触れることができないわけだが、どうやったら攻撃できると思う?」

「お前の言う魔力、か?」


 半分正解、とオースは茶化すように答えた。

 憮然とした表情を浮かべる恭弥を見るにつけ、慌ただしく咳払いをすると、真面目な顔で、うむ、と頷いて口を開く。


「要するに気合いだ。お前を攻撃する、という断固たる決意があれば精神体でも傷つけることができる。精神生命体だからな。あいつらを削り殺すには強い心が必要となる。だから、ここで修行を提案したのだがな」

「じゃあ死神にも同じ用法が通じるということか?」

「そうなるが……まあまずは幽霊からだろう。いきなりボスに挑むというのも馬鹿げている。挑むからには絶対に勝たねばならない。いくら生き返らせられると言われても、死にたくないだろう?」

「……まあな」

「何時か死ぬ日も来るだろうが、あくまで進んで死ぬことはないように。痛みは本物だからな」


 ここで問題が起こった。

 恭弥は持ってきたバックパックを開くが、食料がもう底を尽きそうである。それをオースに伝えると「犬でも兎でも鹿でも食えばよかろう。そこらにごろごろいる」と言うだけだ。調理方法はオースが知っているらしいが、狩猟の手伝いはさらさらする気がないようだ。 

 腹が鳴り、陰鬱な空気を醸し出す恭弥だが、途端に跳ね上がるように飛び起き、後方に飛び出した。枝の折れる微かな音に反応したのだ。そのすぐ後、恭弥のいた場所に鹿が立派な角を向けて突っ込んでいた。

 鹿は猪突猛進という言葉通りに角を突き出して木にぶつかると、腹の芯に響く強烈な音が響き渡る。震動も凄まじく、足が竦む思いだ。

 ぶつかった場所はオースの座っていた場所なのだが、オースはあくまで映像なので、ふう、とため息を吐いた後に現状をにやにやと見つめている。面白いことになった、とでも思っているのだろうか。

 恭弥は左手から伸びる爪を前に突出し、半身に構えた。少しでもぶつかる面積を減らそうとしての対処なのだが、こちらにゆるりと振り返って鼻息荒く蹴り足で地面を踏みしだいている鹿は妙な迫力がある。爪が木の枝に思えてきた。

 木を揺らすほどの爆発的なぶちかまし。喰らえばどうなるのか、馬鹿にでもわかる。良くて複雑骨折、悪くて圧死だろう。

 ひやりとした汗が全身から噴き出す。心臓が急かすように動き回り、微かに足が震えている。目は曇り、妙な脱力感が身体中を支配している。


 死んでも大丈夫。


 オースが言葉が頭に浮かんだ。確かに目の前で見た。司の傷があっさりと癒えていくところを。

 そのせいで、油断したのだ。

 気が緩んだ瞬間は明確に隙だらけだった。亡者ばかりの愚者の森で暮らす生者の鹿である。百戦錬磨と言っていいだろう。毛皮は艶があり、栄養が行き渡っている、生存競争に打ち勝ってきた優秀な個体に違いない。勝者で有り続けた獣がその隙を見逃すはずもなく、恭弥の視界よりも尚低いところから踏込、突っ込んできた。

 五体が反射的に動き出していた。

 恭弥も膝を曲げて体勢を低くし、獰猛な爪の宿る左手で鹿と真正面からぶつかった。

 衝撃が身体を伝い、大地が震える。

 木が揺れるほどの突撃を喰らっても揺るがない身体。既に人間離れしていた。


 これが力か。


 鹿の三角の鼻を押さえつける形になっている左手を、握りしめる。

 鋭い爪は鹿の毛皮を容易に引き裂き、柔らかな肉へとずぶりと侵入していく。

 痛みに猛り狂う鹿は、しかし、抵抗すら許されずに無慈悲に甚振られる。

 一思いに引き抜かれ、鼻が捥げる。その後は鹿の腹の下に忍ばせていた水球を爆ぜさせ、命を刈り取った。


「鹿は臆病な生き物のはずなのだが。おかしい。何故こんなにも興奮していたのか」


 戦闘の余韻で息を荒げている恭弥を置き、オースは鹿のことを冷静に観察している。

 草茂る大地。逃げ場は十分にあり、恭弥が殺気を放っていただけでもないのに、あそこまで荒々しく振る舞う何かがきっとあったはずなのだ。

 それはすぐに見つかり、オースはにんまりと口角を吊り上げた。

 調子を整えた恭弥もそちらを見れば、口元押さえた。吐き気を抑えるためだ。


「これのせいか」


 蟲に集られた残骸。皮はほとんど剥がれ落ち、肉も大半が喰われている。

 そこまではまだ普通だ。恭弥の世界とは違う弱肉強食の愚者の森では至って常識的だ。しかし、その死体からは可笑しな点がいくつも見受けられた。

 喰うために殺すはずなのに命を奪ったものはほとんど手をつけていないだろうということ。虫が集っていたことから明らかだ。何よりも歪な点は、水分が全くないということ。愚者の森は陽光が当たらないので湿気が高く、干乾びるなどありえない。


「死神の手によるものだ。君もこうなるかもしれない」

「肝に銘じておくよ」


 自分に言い聞かせるように呟くと死骸はそのままにし、自分が殺した鹿の死体を解体し始める。不器用な手で、オースの言う通りに作業を進める。

 初めて自分で狩猟をし、解体して調理した鹿は存外に旨かった。




 寝る場所は当然のように敷き詰められた葉の上となる。

 昼も夜もわからない暗がりの下、周囲への警戒を怠ることなく、恭弥は静かに寝入っていた。

 虫の鳴る音。草叢が風で揺れる音。それらにいちいち耳を動かし、ついでに眠れるという技術を僅か三日で習得したことになる。

 鬼才とも言える恭弥の潜在能力に、内心オースは舌を巻いていた。

 正直死神に勝てるなどと最初は思っていなかった。死んでも大丈夫だからとりあえず戦わせておこう、という単純明快な理由から選んだ敵だったのだが、恭弥には人に期待させる何かがある。と同時に、何処か不安定な要素を内包しているように見えた。


 じっと見ていると恭弥の尻尾がびくんと動き、ゆるりとした動作で起きた。

 どうしたのかと問う必要もなく、起きた原因は一つである。頭上を舞う鬼火たちのせいだろう。

 赤、青、黄、色とりどりで大小さまざまの鬼火たちが恭弥に向かって煌めいている。輝いている。

 目を楽しませているわけではないのだろう。情熱的な色素たちが放っているのは明確な敵意。恭弥に対する宣戦布告のようなものなのだろうか。

 動揺するように眼を泳がせていた恭弥だが、実のところ口角は吊り上っていた。どこか楽しんでいる。


「気合いだっけ」


 恭弥はぼそりと呟き、浮いているだけの鬼火に手を翳した。触れることはなく、翳しただけである。

 鬼火はより一層勢いを増し、火の粉から焔へと変じた。

 湿気を飲み込むほどの焔は膨大で、すべての色が入り混じり、絶大な威力となる。

 恭弥の纏う羽織に帯びた滑り気なども消えていき、肌がかさかさとしていく。しかし、恭弥は慌てる素振りすら見せずに鬼火に手を翳した。


「握り締める」


 肌が剥き出しの手からは肉の焦げる不愉快な臭いが漏れ出した。鬼火を握ったせいで炙られたのだろう。


「握り潰す」


 顔色を変えずに手に力を入れる。

 鬼火の焔が縮まり奇怪な――慟哭じみた声が手中から漏れ出る。呆気にとられたオースを余所に、恭弥はぐぐっと力を入れ続ける。


「握り殺す」


 抗っていた鬼火たちが焼失した。ぼしゅっという空気の抜ける音とともに消失したのだ。

 恭弥の唇は弧を描き、嗤っている。

 頼もしい限りではあるが、僅か三日にしてここまで狂えるというのはもともとの適性でもあったのか。殺すことに躊躇いがなく、容易に命を刈り取る様は生き生きとしていた。


 火の粉が燻る掌をぺろりと舐めて消化すると、恭弥は電源の切れた機械の如く、再び眠りに就いた。

 



 5.死神の強さ


 

 六日目、恭弥は焚火の隣で座り込み、呆けていた。


 愚者の森を探索するも、死神の影すら見つからない。発見できるのは死神が弄んだ残骸だけだ。

 毎日どれほどの食事をするのだろうか。生気を抜かれた死骸が一日に数十と見つかる。まるで子供が玩具を使って遊ぶかのように、いや、死神にとっては獣など蟻に等しい存在なのかもしれない。殺しても殺しても、勝手に増えるものだ。だから、駆除しているのだろうか。

 揺らめく炎を眼に写しながら考えるのは止め処ない思考だった。現在、恭弥は全力で行き詰っていた。


 鋭い爪も、水球も、今となっては身体の一部のように馴染んでいる。そのために幾つもの命を奪った。兎や犬、鹿や猪などをいくつも殺した。いや、荒ぶる彼らに襲われ、撃退した結果として殺したというのが正しいが、好んで殺戮していたという側面もある。

 恭弥は狩猟を楽しんでいた。

 ドラマや漫画、映画などで垣間見たことのある貴族たちの姿。彼らが何故狩猟を嗜むのかがよくわかるというものだ。自分より下位のものを甚振ると、胸に痞えていた何かがすっと取れるのだ。それはストレス発散によく似ていて、全然違う。安心するのだ。自分より下はいるのだ、と。

 それは虐めによく似ていた。

 自分より下のものを人為的に生み出すかどうかという差異はあるが、恭弥も虐めを楽しめる人間なのだ。それが自ずと理解できるからこそ、恭弥は胸糞悪い気持ちになっていた。

 見る方向を変えれば、もしかすれば恭弥が司を虐めていたのかもしれない。仕方なかった。そのときはそうするしかなかった。などと誰かに言い訳をしながら、暗い愉悦を感じつつも虐めを敢行するのだ。場の空気に流されたと自己弁護をして。


 可能性を辿れば切りはないが、たまらなく自己嫌悪に陥ることもある。やろうとしている物事が行き詰れば自然とそうなるものだ。

 項垂れる恭弥に対して「くだらない」とオースは断定的な口調で言い切るが。


「君の言う虐めというものの性質は私にはいまいちわかりかねるが、それは自然なことではないのか? 強者は弱者を甚振る特権を持っている。だから、強者足り得るのだ。その特権を行使するかは人それぞれだろうが、使えるという事実は変わらない。君の好いている人は弱者であり、強者たちが気まぐれにその特権を使うことを選択した。ただそれだけのことだろう? 何もおかしいことのない、自然の摂理だ」

「動物的な考えだ」

「人は動物だろう? 飯を食って肥え太り、腰を振って種を増やし、寝て英気を養う。ただそれだけの生物だ。他の種と何も変わらない。もちろん私だって変わらない。ただの動物だ。不変のものだろう」

「じゃあ虐められないようにするにはどうすれば? いや、わかってる。俺が強者になればいいだけなんだろう……」

「その通りだ。誰も困らない、絶対的な解答だ。君が強者になって弱者である人を庇護してやればいい。君に恐れを為すものは君の機嫌を窺うために弱者に媚び諂うだろう」


 夜目が利くようになった恭弥は周囲への警戒を怠ることのないまま、オースに対面した。

 司とそっくりな顔なのに言うことは随分と攻撃的で、合理的だ。どこか諦観のようなものを持っている。それが気にかかって仕方ない。

 左手から伸びた爪を一本引き抜くと、それで鹿の肉に突き刺して串代わりにし、火の傍に刺した。炙っているのだ。

 油の滴るそれは至極美味しそうだが、毎日それでは飽きるというもの。うんざりとした様子で鹿肉を見下ろしつつ、恭弥はオースに問う。


「お前は弱者か?」


 沈黙が落ちた。

 

 気まずく、恭弥は唇を噛みしめる。感傷に浸っている余裕などないはずなのに、ついつい下らないことを考えてしまうのは恭弥の悪い癖だ。悩むなど今やる必要はない。全てが終わってから後に思う存分悩めばいいのだ。

 まずすべきことは死神の索敵、そして殺害。これが恭弥の現在のノルマである。

 粗方愚者の森を探索した甲斐もあって、おおよその死神の行動範囲を理解している。夜行性かどうかは知らないが、もしかすれば寝ることもあるのかもしれない。運が良ければ寝込みを襲うことができる、などと希望的観測をしつつ、火の通った鹿肉を思い切り頬張った。とても硬い。


「行ってくるよ」


 争いの知らなかった一週間前と違い、随分と引き締まった表情を浮かべて恭弥は立ち上がった。

 徐々に速度を増しながら疾走する。その速度はおおよそ時速百キロメートルはくだらない、人外の身体能力である。木々の枝の上を重さを感じさせない身のこなしで飛び移りつつ、木の下の潜む獣たちを観察する。

 いつもと様子がおかしい。怯えたように何かから逃げ出しているようだ。しかも、ひっそりと迅速に、だ。まるで見つかったら死ぬのではないかと勘ぐってしまうほどに。

 次に聞こえてきたのは鼓膜が敗れるかと思えるほどの怒号。空気が震え、身体を伝い、頭蓋を揺さぶる。バランスの崩した恭弥は木の枝から落ちかかるが、辛うじて体勢を保ってしがみ付いた。

 音の方角からは小動物が駆け出しており、何かがぶつかっているのだろう。肌に突き刺さる殺気を感じる。ひりひりと焼け付くような感触を無視しながらそちらへ赴けば、そこには襤褸を纏う何かと人間の大人よりも三回りは大きな熊が相対していた。


「グルオオオオオオオオオオオオ!」


 二本足で立ち、腹を見せて全力で威嚇するのは熊だ。後ろに子熊を二匹守りながらだから、逃げるわけにはいかない戦いなのだろう。

 その前に立つのは襤褸を纏う人型だが、襤褸から出ている手の先や足には肉がついていない。骸骨だった。手には大きな鎌を持ち、フードであまり見えないが、陰になっている顔からは赤い光が二つ見えている。さながら目のようだった。光は強弱があるのか、陽炎のように透明なときもあれば、血のように赤々となるときもある。

 熊と対峙しているとき。熊は気勢を上げて睨みを効かせているが、骸骨の方と言えば透明な光を浮かばせたままだらりと鎌をぶら下げているだけだった。


 膠着状態である。


 破ったのは熊であった。

 尖った爪を振るい、両腕を思い切り行使して骸骨に迫ったのだ。

 子熊も心なしか応援するように手を握っているが、その応援は届かない。

 不用意な攻撃はまさに玉砕。ゆるりと持ち上げられた鎌を振り下ろされ、熊の首は切断された。

 血飛沫を上げて絶命する。


 ほう、とため息。


 つまらないものでも見るかのように骸骨は熊の死骸を見下ろすと、触れた。それだけで熊からは水という水が抜け落ち、毛皮のすべてに至るまで命がすい尽くされていく。

 恭弥は直感した。あれが死神なのだと。

 貪るように生気を奪い尽くし、無尽蔵に新たな命を求め始める。

 早速子熊に狙いを定めたようで、ひょろりとした骨ばった足を緩やかに動かし、腰の抜けた子熊へと近づいていく。恭弥としても止める手立てもないので無視していたら、突如死神が大鎌を振りかぶり、恭弥の方へ振り向いて思い切り投擲してきたのだ。

 慌てて左手の爪で弾き飛ばすが、衝撃に負けて地面へと叩き落とされた。

 どうにか背中から落ちて最悪は免れたが、息が出来ないほどの苦痛が呻きとなって口から洩れる。


「気づいてたってわけか」


 音も立てずに降りると同時に、恭弥は逃げることを考えたが、やはり戦うことを決断した。

 逃げたら欲しいものは手に入らない。オースから頂けるものは全ていただく。それは他力本願な力への渇望かもしれないが、多寡が高校生である恭弥にできることと言えばその程度であり、差し出せるのは命だけなのなら差し出すべきだと考える。

 高鳴る心臓に思い切り右拳を叩きつけ一息吐くと折れた爪を再び伸ばし、半身に構えて死神と相対する。


 笑っているのか。かたかたと揺れる死神の頭蓋骨は、歯と歯がぶつかり至極五月蠅い。真っ赤に染まった眼窩も鬱陶しい。

 強かに背中を打ち付けた痛みもあってか、恭弥は僅かに苛立っていた。戦闘へ意識が移行し、水球が幾つも周囲に形成され、爪がより太く、鋭く変化していく。瞳も普段の目から瞳孔が縦に裂けたものに代わり、羽織が十全に性能を引き出されていった。


 目を凝らして洞察していたが、途端に死神は消えた。全身の毛が怖気立つ恐怖に駆られ、その場から前へと跳ねた。

 次の瞬間、死神の鎌が恭弥のもといたところに突き刺さり、軌道上にあった大樹はあっさりと切り裂かれ、音を立てて地面へ倒れていった。腐葉土の柔らかい大地は大樹を優しく抱き留めるが、一抱えもある大樹を受け止めきることはできず、地響きを立てて振り下ろされた。


 前転し、跳ね起きて体勢を崩していた恭弥の足を奪う揺れ。死神も同じくだろう、と恭弥は死神の方を見たが、死神は自由に動けるようだ。重みを感じさせない軽やかな動きで恭弥へと近づき、再び鎌を持ち上げる。第二撃は避けることかなわず、恭弥の爪を断ち切った。同時に恭弥の腕甲を切り裂き、二の腕の肉を僅かに削ぎ落とした。見れば鎌の刃は長年研がれていないのだろう。ぎざぎざに尖っていた。だから、削られたのだ。

 激痛を訴える左腕を右手で押さえて後ろに飛び退き、自在に動く水球を意思をトリガーとして投擲する。それらは違うことなく死神にぶつがって爆ぜ、水飛沫を上げた。

 木の幹を穿つその威力を喰らって無傷で済むとは思えないが、一定の距離を取りつつも警戒をし続ける。

 だが、ここで気づく。死神が突然背後に現れた魔法か技術かはわからないが、その方法がわからない。距離を取ればいいというわけでもない。

 思いついたが最初、恭弥は再び横っ飛びに跳ねたが、やはり恭弥のもといた場所に鎌が振り下ろされた。

 振り向いて死神を見れば、確かに襤褸はずたずたになっている。だが骨に破損はなく、いたって健康そのものだ。


 逃げるか?

 今は背中を打ち付けただけで無傷に近い。すぐにでも対策を練って再戦を申し込むこともできるだろう。だが、再び相見えることができるかはわからない。


 やるしかないか。


 恭弥は意思を固めた。

 周囲に展開される水球を全て眼前に敷き詰め、壁のように配置する。水球は合成されていき、水の障壁となって恭弥の前を塞いでいる。そして、今日は手を地面につけ、短距離走者のスタートであるクラウチングをし、思い切り突進した。

 その速度は今まで出した速度の中でも最高速のものだ。水の障壁が空気抵抗を全て受け流し、そのおかげで速度を増している。一歩一歩丁寧に地面を踏み締め、爆ぜさせ、全て次の一撃に賭けている。


 死神は眼窩をより一層赤く輝かせ、深紅にしながらかたかたと頭蓋を揺らして恭弥のことを待っている。ゆらゆらと骨を揺らし、大鎌を肩に担ぎ、力のこもらない自然体なままで待ち望んでいる。

 何処か楽しげに見える。

 後一歩で死神と恭弥が接触する距離になったとき、死神はカウンター気味に大鎌を振り抜いた。

 恭弥はそれを読んでいたのか。死神が鎌を袈裟切りに振り下ろす数瞬前に急制止をかけ、土埃を巻き上げて無理やり停止した。凶刃は水の障壁を容易に切り裂き、首元の薄皮一枚を剥いで通り過ぎた。

 思い切り大鎌を振るったせいで死神は完全に体勢を崩していた。

 口元に弧を描いて嗤うと、恭弥は腰溜めに構えた左手の爪を伸ばし、死神の懐に飛び込んだ。


 首の裏がぞくりとした。 


 死神の腹に爪を伴った一撃を繰り出すと、反動を利用して横っ飛びに跳ねようとした。だが、いっそ鈍重とも言える緩やかな速度で伸ばされた死神の手に殴打した左腕を掴まれ、動けない。水球で執拗に死神の腕部を狙うが、効果はなく、首の裏の嫌な感触が増していく。

 身体から溢れ出す力を全て左腕に総動員し、水球の爆発の衝撃も相まってどうにか拘束から抜け出てから後ろに距離を取り、伏せた。すると恭弥の首があった場所に幾数もの小さな鎌があらゆる方向から飛来し、交差し、何もない空間を切り裂いていく。


 喰らえば死んでいたという事実が、自分は無敵ではないのだという当たり前のことを実感させる。

 見れば左腕は枯れ木のように痩せ細り、鱗の腕甲は色褪せていた。死神の手に触れられたせいか、腐ったかのように腕に力は入らず、だらりとぶら下げるしかない。


 じりじりと距離を詰めようとして来る死神の眼窩の赤はもはや血の色になっている。あれは感情の高ぶりを示すものなのだと恭弥は確信する。獲物を前にして涎を垂らし、興奮しているに違いない。

 普通ならば恐怖で足が竦むだろう。殺人鬼が目の前にいると仮定すればだいたいの人間は金縛りに遭ったかの如く動けなくなるはずだ。恐怖は人を束縛するから。

 けれど、何故だろう。今ばかりは微塵も恐怖を感じない。ただこのままでは死ぬという絶対的な事実を冷静に受け止め、回避する方法を思考を張り巡らせているだけだ。


 水球を幾つも生み出し、死神に向けて投擲する。

 質量の伴ったそれは死神にぶつけるというよりも煙幕代わりに使われ、視界を全て奪い尽くす。


「……あばよ」


 勝てないという事実を受け入れ、恭弥は尻尾を巻いて逃げ出した。

 数秒後、恭弥の逃亡に気づいた死神に声にならぬ咆哮をあげる。それは悲哀か、屈辱か。森の王による無音の叫びは空気を震わせ、木々をざわめかせた。

 死神の苛立ち紛れに大樹が伐採され、地面へと倒れ伏す。幾つも幾つも切り裂かれ、その都度大地は震えるのだ。

 絶対恐怖の象徴たる死神は怒りに狂う暴君と化した。




 死神の獅子吼を肌で感じるも、恭弥は木の陰に隠れて左腕を右手で押さえていた。切り傷や打撲ならば対処の仕様もあるが、水分を全て奪われた場合の対処法など保健体育の授業で習った覚えはない。砂漠に住んでいたなら対処法でも教えてもらえるのだろうか、と皮肉染みたことを考えつつ、恭弥は次の対策を練っていた。


 何の経験もない恭弥が愚者の森で狩猟をこなせたのは天賦の才も勿論あるが、それ以上にオースの魔力を借り受ける機能を持つ羽織の効果が大きい。肉体能力を著しく高めて超人にし、反応速度や五感、直感も含めた全ても野性の動物並に研ぎ澄まされる。左手から伸びた爪は何でも切り裂き、右手から生み出される水球は高速で敵を穿つ。身に纏う鱗は、人の持つ柔肌のままなら傷だらけになるだろう草叢でもすべて弾き返し、鹿の突進を受けても罅一つつかない。

 死神には容易に左の腕甲に張り付いた鱗の生気を抜かれてしまったが。

 要するに恭弥は愚者の森の中では凄まじい肉体能力で駆け巡っていたのだ。そのおかげで敗北などなく、死神など簡単に倒せると何処かで油断していたのもあるが、実物を見て認識を変えざるを得なかった。


 このままでは勝てない、と。


 果たして名案は浮かぶことはなく、じんじんと痛む左腕を抑える力を強めながら、恭弥は悶々と思考の渦に囚われていく。

 そもそもとして水球は当たっても死神に傷を与えられない。いや、骨の身体なのだから砕く方がいいのかもしれない。爪を伴った一撃もまるで痛痒がないように見受けられたし、鈍器のようなもので殴りつける方が効果があるのかも。いや、罠を駆使するか……などとぶつぶつと独り言をしていたそのときだ。何時の間にか恭弥の隣にはオースが座り込み、恭弥の移り変わる表情を楽しそうに観察していた。


「素直に凄いと思う。生き延びられたのか」

「……どういう意味だ?」

「死神は何故生き延び続けていると思う?」

「勝ってるからだろう?」

「違う。敵を皆殺しにしてきたからだ。だから、王として愚者の森で君臨していられる。もし仮に生き延びるために敵から背中を見せようものなら一気に地位は転落し、この森の中では生きていくことはできないだろう」

「嬉しくないな。見ろよ。この左腕。無茶苦茶痛ぇ……」


 歯を剥き出しにして弱音を吐く恭弥の左腕にオースはそっと手を添える。ただの映像のはずなのに妙な艶めかしさと温かさがあり、どきりと胸が高鳴った。


「癒すよ」


 左腕の内部から何かがふつふつと湧き上がってくる。死神に奪われたものすべてが自分の内に戻ってくるかのような感覚だ。

 僅か数秒で左腕は元に戻り、ついでにじんじんと痛んでいた背中も傷が癒えていた。

 試しに左手を開け閉めしてみるが可笑しいところはなく、思う通りに動く。体調はすぐに万全になり、今すぐにでも戦闘を行えるだろう。

 しかし、恭弥は勝ち目のない敵に挑むほど愚かになれなかった。勝ち目のある作戦は幾つか浮かんだが、成功率がいまいちだ。それに効果があるかどうかもわからず、何より気合いが大切だ、というオースの言に合致するかもわからない。にこにこと笑ってオースは恭弥のことを見ているだけで、助言をする気はなさそうだ。

 

「惚れた女を捕まえるためか。男は辛いな」


 恭弥の選択した作戦はとても危険なものだった。一か罰かと言ってもいい。成功率も試算できるようなものではなく、ほとんどが博打に近い。羽織の力を十全に使えなければ死ぬ。死ぬ可能性を減らすために事前に練習を繰り返す必要があるだろう。


「北の方角にある泉。そこで勝負をつける。そのためには時間が必要なのだが……」

「何か準備でもするのか?」

「羽織をより上手く使えるようになる時間が必要だ。あとは死神を上手く誘導できるかが鍵だな」


 死神の咆哮は今も続いている。

 挑戦者である恭弥に対して挑発しているのだ。俺はここにいるぞ、と宣言しているのだ。

 それは敵対者が生存している恐怖からかもしれない。けれど、それは絶対に有り得ないと恭弥は確信する。

 赤々と燃えていた窪み。あそこから垣間見えた感情は久々の興奮のように見えた。


「俺がこの森の王になる」

「うん」


 死神は本当に王なのだろうか。

 ふとそんなことを想った。





 6.死すら厭わない



 一晩経ち、最終日になる。

 本日中に全て片をつけたいところだが、焦りは禁物だと理解している恭弥は家が一軒丸ごと入るだろう大きさの泉の中で身体を熱心に洗い、水と戯れていた。

 自分が展開する水球以外でも操作できるのか試しているのだが、案外簡単に行った。全ては順調に事を運んでおり、まるで天が味方をしてくれているように感じる。


 恭弥からすれば神にも等しいオースが力を貸してくれているのだ。天如きに助けを貰っても知れているが。


 死神の咆哮は昨晩から続いている。だんだんと声に力がこもっていく。永続的に続くだろうこの叫びは、どこから捻り出しているのだろうか。その気力はどこから湧いてきているのだろうか。

 何となくわかっているのだ。単純に、死神は遊び相手を求めているのだ、と。自分が全力で叩いても壊れない玩具を求めているのだ、ということも。恭弥は死神からすれば壊れにくい玩具であり、もしかすれば自分に対抗できる相手だと認識しているのだろう。


「準備は万全。あとは本番にぶつけるだけだ」


 気合いを入れると水が反応し、上向きに爆ぜた。

 恭弥の命を賭けた、司の命運を決める挑戦が始まる。




 死神が愚者の森となって長い時が経つ。

 最初は多くの挑戦者が死神に挑んできたが、全て叩き伏せた。鎌で、手で、あらゆるものを駆使して死神は敵を屠ってきた。あまりにも長期間王として君臨していたせいか、誰もが死神を王として疑わなくなってしまった。誰も頂点を奪おうとしなくなってしまった。

 死神は退屈していた。漫然と続く終わりの見えない日常に嫌気が差していた。

 挑戦することが楽しかったのだ。挑戦されることが楽しかったのだ。血肉湧き踊る死闘こそが至上の遊戯と信じて疑わない死神は、命の危機感を感じない狩りに興味を覚えない。そこらに歩く獣たちはもはや餌にしか見えず、亡者などは死神の前では単純に屈服するだけの路傍の石程度の価値もない存在だ。喰う価値もない。


 とにかく暇なのだ。


 そんな最中、死神の一撃を受けても死ぬことはなく、むしろ敵意を以て反撃したきた存在がいた。尻尾の生えた爬人族リザードマンの雄。身のこなしや水球を操る技量は児戯に等しいほど下手ではあったが、運動能力だけは舌を巻くほどに素晴らしい。もしかすることもなく、彼ならば死神を殺す力を持っているだろう。

 久々に命を賭けた戦いが出来る。至福の時だ。

 何処までも殴りあっていたい。そう感じて彼の腕を奪ったが、力任せに振り解かれ、逃亡された。肩すかしもいいところである。勝負はこれから。遊びはこれから。命のやり取りは長い時間を掛けてゆっくりやるのがいいはずなのに、若者なのだろう彼はせっかちでいけない。命を遊ぶ感覚をわかっていない。

 気づけば口元からかたかたと乾いた音が鳴っていた。笑っていたのだ。


 死神は見てくれは生気の欠片もない骸骨だが、内心は戦士であった。生前の事は覚えていないが、おそらく何処ぞの戦場で朽ち果てた傭兵とかだろう、と死神はあたりをつけている。

 とにかく戦いが大好きで、自分より強いものに挑むのが大好きで、自分より弱いものを叩き潰すのが大好きだ。清々しいほどに頭には戦いのことしかなく、それ以外のことはすっぽりと抜けている。闘争本能の塊である。死神は正しく人格が欠落していた。


 がさりと草叢から音がする。

 見ればそちらには見覚えのある尻尾があり、追いかけるように歩むと再び音を鳴らして逃げ出して行った。

 下手な誘導だと理解できる。しかし、死神は敢えて警戒する素振りすら見せずに、愚直に尻尾の跡を辿った。

 一定の距離を保ちつつ逃げ続けるのはあからさますぎて笑えてくるが、その試みすら面白い。どんなことをしてくれるのだろう、と期待で胸が膨らむというものだ。


 尻尾に誘導された先は泉だった。

 泉の中に尻尾が潜っており、水面には波紋が浮かんでいる。

 あからさますぎて笑えてくるが、攻撃が届かない場所にある。

 さて、どうするか、と死神が顎に手をやって考えていたとき、疑問を覚えた。

 何故尻尾しか見えないのか。何故わざわざ見えるところに尻尾を配置しているのか。暗がりの愚者の森ではむしろ尻尾を見せるというほうが難しいくらいの景色なのに。


 死神が気づいたときにはもう遅い。死神の後頭部にとてつもない衝撃が走ったとき、眼窩に火花が散った。




 殺った! 

 恭弥は爪の形を変化させて作った大きな鉄球を両手で持ち、大樹の頂上から飛び降りて、死神の頭蓋を叩き割った。死に至らしめると思える完璧な一撃だったと恭弥は確信したが、まだ動いている。


 尻尾はダミー。恭弥の尻の先にはまざまざとした切断面がある。蜥蜴の尻尾切りというものがあるが、恭弥はそれを自分に実践したのだ。

 泣きそうになるくらいの痛みを覚悟しての行為だったが、以外にも尻尾には痛覚はないらしい。斬った後は大して痛くないことに気づいた。

 その後は尻尾の中にある血を操作して動かし、死神を誘導して泉のところまで来させたのだ。なるべく有利な場所へと。尻尾が見えて、なおかつ全身が見えなくてもおかしくない場所へと。


 策はこれで終わりではなかったが、このまま終わらせられるかもしれない。


 恭弥は死神の背に張り付くと、再び鉄球を持ち上げ、頭蓋に叩きつけた。何度も何度も叩きつけ、頭蓋の割れる音が森中に木霊する。無慈悲な連撃は続き、死神の抵抗がなくなるまで止めるつもりはなかったが、後ろに張り付いている恭弥の左腕を死神に握られてしまった。

 残った右腕で頭蓋を殴打するが、死神は決して手を離さない。

 見る見る内に恭弥の左腕は萎んでいき、繋がっている身体からも生気が失われていく。恭弥は右腕から生み出した水球を左腕にぶつけ、爆発の衝撃で千切った。歯を喰い縛り、痛みを堪える。今死神に弱みを見せるわけにはいかない。歯が砕けるほどに噛みしめ、歯茎からは血が零れだす。脂汗は留まることを知らず、千切れた左腕の先は絶望的な熱さを伴って痛みを訴えていた。


「お前(痛み)は邪魔だ……!」


 鉄球は重く、右腕だけでは持てない。

 死神の背に貼りついたまま恭弥は頭蓋に頭突きを喰らわせた。

 恭弥左腕を掴んでいた腕のせいで体勢を崩したせいもあるだろう。恭弥の執拗な攻撃に耐えきれなくなり、死神はたたらを踏んで前のめりに倒れた。チャンスと見た恭弥は死神の首元を掴むと、水の中に投げ込んだ。盛大な水飛沫をあげて死神は泉の中に取り込まれる。

 一瞬遅れて今日も湖に飛び込み、溺れるように苦しむ死神に背から抱きついた。


「お前は殺す」


 気合いを込めて、水を操作する。

 連想するのは渦潮。時計回りの流れを想像し、その通りに水を動かす。この操作は精密すぎて泉の外からすることはできない。苦肉の策として恭弥も泉の中に取り込まれる必要があった。それに、死神が逃げられないように枷をするという理由もある。

 だんだんと泉の流れは極悪になっていき、恭弥と死神を中心にまわり、二人を深部へと誘う。

 呼吸は出来ない。死神は呼吸する必要があるのかはわからないが、とにもかくにも苦しんでいる。それは恭弥の殺意を喰らってか、呼吸困難かはわからない。どちらにしても恭弥は死神に殺意を持ち続けた。


 死ね。お前は死ね。ただちに死ね。俺のために、殺されろ!


 呪いに近い言霊を胸中で反芻し、恭弥は渦潮に巻き込まれる。

 息が出来ない。目の前が真っ白だ。苦しくて、苦しくて、今にも陸地に上がりたい衝動に駆られる。


 それでも。


 恭弥は自分の命と引き換えにしてでも成し遂げたいことがあった。

 一度は司を見捨てたことになるのだろう。もっと早く対処していればこんな苦労をする必要はなかった。あんな徒労をすることもなかった。だから、これは自分に対する罰なのだ。

 神は何時だって厳しい。恭弥の神であるオースは恭弥に対して試練を与えた。それが死神の討伐。勝てるかどうかもわからない相手に戦えと言う、まさに試練。

 勝てば願いを叶える権利が与えられる。今回は例外として先に報酬を頂けたが、次からは願いを叶えられるのだ。


 息を吸いたい。


 今の願いはこれだけだ。酸欠の脳は酸素を求める。けれど、強靭な理性がそれを喰い留めた。

 死神の身体がどんどん弱っていく。暴れて抵抗していた死神は潮流に呑まれ、今は漂うだけの弱い存在になっていた。もう死んでいるのではないか? と考えさせられるが、それでも擬態ではないという確信は得られない。だから、苦しむだけ苦しんで、苦しめられるだけ苦しませるのだ。


 どうせ生き返られるのだから。


 随分と安くなった自分の命に苦笑を漏らしつつも、恭弥はその手を離さない。

 だから死んでもその手を離すことはなく、死神と恭弥は泉のそこで苦しみぬいた表情を浮かべていた。

 


 


 辺り一面全てが漆黒で、恭弥は凍えるように身を固めていた。

 膝を曲げ、両腕で抱え込む。体育座りのときの体勢で、挙動不審に闇を見ていた。

 何処とも言えない場所に落とされ、どれほどの時が経ったのか。

 漠然とした不安が襲い掛かる。自分が何をしていたのか、むしろ何をしようとしていたのか、そもそも何かしていたのか、それすらわからない。


 どうでもいいじゃないか。

 

 誰かがそんなことを囁いた。

 どうでもいいよな、と恭弥も同意するが、そんなときに聞き覚えのある声がする。


「まさか死んででも殺すことを選択するとはなあ。あの気迫の前では死神も死ぬしかなかろうよ。今頃魚の餌として食われていることだろうよ」


 闇に堕ちた意識に語りかけてきた台詞は何処か馴染みのあるもの。

 暗がりは払拭され、見上げれば光の扉が浮かんでいた。

 おずおずと近づき、開いてみれば、そこには司と同じ顔。

 無意識に頬に手を伸ばし、触れた後に近づけようとする。だが、両頬に浴びた強烈なビンタでようやく意識が覚醒した。


「大丈夫か?」

「……がはっ」


 肺に溜まっていた水を掃出し、頭を振って周囲を見渡すと、そこは愚者の森そのままだった。

 水に濡れた衣服。Tシャツは破け、ジーンズは脛から下が千切れていた。

 羽織は消えていた。


「終わったのか……」

「これが始まりだろう。君はまだ私の依頼を一個しか達成できていない。だが、そうだな。ここまでやれるとは正直思っていなかった。非礼を詫びて願いを叶えよう。何かあるか?」

「そうだな。まずは帰りたい」

「わかった」


 来た時と同じ扉が眼前に現れる。

 そこを潜れば自分の部屋で、今は夜で。

 恭弥は疲れ切った濡れ鼠のような服を全て脱ぎ捨てると、水に濡れたままの身体にパジャマを纏い、久々のベッドに埋もれさせて……死んだように眠った。







 ――――森の王、死神。これにて了。





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