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麒麟国広

 

 一


 陽は中天に座り、雲一つ無い晴天の下、ノールバック大平原を一つの騎影が、土埃を上げていた。馬上の人は、三十にはまだ届かぬであろう。精悍な顔立ちをした男であった。

 なめし皮の簡素な鎧を着けた旅姿である。しかし、その洋装には似合わぬ日本刀を、腰に帯びていた。

 この男、名を、若菜梅雪軒(ばいせつけん)景勝(かげかつ)という。

 目指す先は、カディスであった。ノールバック王家の宰相、ゼクス・セーティの命で、向かっているのである。

 ナエニア伯スピレイン家。次期当主であるオドアケル・スピレインの派手な遊興を、王家は当然、把握していた。しかし、その資金源が分からぬ。

 さらに、十四日前、――公には発表されていないが――当主であったコルネリウス・スピレインが急死していた。

 当然、不審視される。

梅雪軒はオドアケル周辺の調査を命じられた。

 オドアケルは、王都の屋敷から、カディスの屋敷へ戻っているはずである。

 梅雪軒は、その名が示すとおり、日本人である。ケリスオーヴァと呼ばれる、この世界へ来て、十年になっていた。

 平原の遥か先に、カディスの城壁が小さく見えた。梅雪軒はそこで馬を停めた。

 カディスのガイエル邸を本拠として、探索活動をすることになろう。さらにそこには懐かしい顔があるのだ。会うのは、半年振りである。

 こちらの世界に迷い込んですぐ、梅雪軒は、賊に襲われて壊滅したのだろうと思える、山あいの小さな村落に足を踏み入れた。後で知ったことだが、そこは、メルベ山の山奥の村であった。

 血と死臭、燻ぶる煙の臭いの強さから、襲われたのはごく最近であると知れた。しかし、何よりも梅雪軒が驚いたのは、すでに物体と化した者達の服装や顔であった。

 どういう事かと小村を見て回ってみると、生き残りがいた。五歳の、小さなその少女は、呆けたように身じろぎもせず、顔は煤にまみれて真っ黒であった。

 異人の子だからと、放って置く訳にもゆかず、梅雪軒は少女を伴った。

 少女をおぶって山を降り、やっとの事で人村へ辿りついた梅雪軒は、村人の親切もあり、少女を身奇麗にさせてやった。その頃には、生気の無かった少女の瞳にも、やっと生への本能の兆しが見え始めていた。

 少女は、メアリーと名乗った。

 その一年後、梅雪軒とメアリーの身はノールバック王都にあった。梅雪軒が宰相ゼクスに見出されたのも、この頃である。

 日本には、帰れぬと知って、梅雪軒は宰相ゼクスの下で働くようになった。隠密のような仕事である。しかし、メアリーを連れて行く訳にもいかぬ。そこでセーティ家が援助をしている孤児院に入れてみては、と宰相が提案し、梅雪軒は頷いた。

 以来、梅雪軒は仕事が一段落つく度、孤児院へ行っては、メアリーと会っていた。

 半年前、メアリーが十五になると、行儀見習いも兼ねて、彼女は賢者ガイエルの屋敷へ移った。

 カディスの城壁を、片手小手に透かし見て、梅雪軒はそんな昔を思い出していた。

 ――元気にしているだろうか。早く顔を見たいものだ。

 そう思うと、梅雪軒は、馬を停めたのが急に馬鹿らしくなって、

 ――早く見たいなら、早く行けば良いだけの話ではないか。

 苦笑を刷いた。馬腹を蹴った梅雪軒が、カディスの大門を潜ったのは、それから一刻ののちの事であった。


 二


 高科乙と若菜留伊の二人が、賢者ガイエルの屋敷に留まり続けて、既に七日が過ぎていた。

 帰邦を諦めた訳では無かった。だが、それがいつになるか分からぬ以上、

「こっちの事を知っといたほーが、好いじゃろ?」

 ガイエルにそう諭されたのである。

 この日、昼五つ頃から乙と留伊は、カディスの町を、メアリーと、シド・ミレイリアに案内されていた。

 大通りは賑やかであった。そこここに店が立ち並び、野菜や魚や肉だけでなく、服や装身具などを見て回った。

「さあ! 次はどこに行きましょうか?」

 シドもメアリーも私服であった。シドは青いデニムのジーンズを履いて、白のシャツの裾を出した、ラフな身なりである。一方のメアリーは水色無地のワンピースで、白のケープを纏うている。

「どこか、希望はありますか? あ、それとも、何か甘い物でも食べましょうかね」

 薄桃色の小袖と羽織、黒の仙台平の馬乗り袴の乙。島田に美しく結い上げ、浅葱無地の振袖で、桜柄の帯を文庫にした留伊。二人の姿は、いつもと変わらぬ。但し、留伊は大薙刀を携えてはおらず、懐剣のみである。

「では、シド殿。どこか、刀油を置いてある店はあるでしょうか?」

「え? 何ですって?」

「丁子油のことです。出かける前、荷物の中から取り出して見て、かなり少なくなって居りまして」

「丁子油なんて、どうするんですか?」

 メアリーが小首を傾げた。料理なら、屋敷の者がするのに、とでも思ったのであろう。

「刀の手入れに、使うのです」

「へえ……そうなんですか」

 シドとメアリーが同じような顔をした。

「ご所望ならば、あとで手入れの仕方をご覧にいれましょうか?」

「あ、いえいえ。結構です。以前、梅雪軒さんに、注意された事がありまして」

「そうですか」

 不意に、乙は眉を顰めた。通りの先のほうから、数人が慌てて引き返してきた。徐々に、その数と勢いが増してゆく。

「どうかしたのでしょうか?」

 留伊も顔をしかめて、こちらへ流れてくる人々を避ける。

「姫さま、メアリーやシド殿と一緒に、わたくしたちも脇へ避けていましょう」

「うん。そうしよう」

 この数日間、乙は留伊へ、呼び方を改めるよう、何度か言っているのだが、こちらでも主従であることは変わらないと、頑なであった。

 四人が道端に逃れてしばらく、やがて、騒ぎの理由が知れた。

 七騎の馬が、それぞれ背に人を乗せ、幅が六間もある通りに一杯に広がって闊歩してくるではないか。隊列は中央を先頭に、横に行くほど下がって、まるで、薄い魚鱗陣の様であった。

「あれは……オドアケル・スピレイン卿じゃ、ないですか」

 隊列の中央、まばゆく陽光を反射させる甲冑姿の、四十絡みの男を見て、シドが呻いた。

 オドアケルは、赤ら顔で、剣呑な眼光をした眉の濃い男であった。甲冑は、煌びやかなパレードアーマーであった。

「……」

 乙は無言で、オドアケルの行列を眺めていた。


 三


 ――大名行列でもあるまいに、迷惑なことだ。

 もっとも、乙は、国家老の娘という立場にありながら、他の武家の女によらず、活動的であった。にもかかわらず、大名行列という物は、あまり見たことは無かった。

 即ち、淀当主、稲葉内匠頭正益の出立と帰参の場面のみであった。

 いわゆる参勤交代である。隔年ごとに、東国大名と、西国大名が江戸と国許を往復する制度だが、近畿以西の大名は、京の都周辺――言ってしまえば、丹波国、丹後国、山城国――現代で言う京都府を迂回する旅程を組んだのである。

 朝皇の存在の為であった。当時、政道の中心は徳川家に有ったものの、権威として、より上位に朝廷があった。源義経の例を引くまでも無かろう。幕府は、西国大名たちが密かに朝廷へと結ぶことを危惧して、触れを出したのである。

 当時、禁裏御陵はおよそ三万石。小大名と肩を並べるほどの、収入の低さであった。しかし、征夷大将軍、内大臣の任命権は、それでも、朝廷にあった。幕府は朝廷の僅かな望みさえも、摘んだのである。

 現在、参勤交代の、巷間の常識とされるのが、諸家の財政の逼迫を、幕府が狙ったというものだが、それは、間違いであると言ってよい。

 元々、言う所の参勤交代の仕組みを打ち立てたのは、豊臣秀吉である。それが徳川家に移り、三代将軍家光により明文化された。当初、家光は参勤交代による、各家の出費を、無理の無いよう、石高に寄る、行列の規模の最低限の数を定めただけである。

 例えば、一万石の大名で、騎馬三、四騎、足軽二〇、人足では三十人。

 淀十万二千石では、騎馬十、足軽八十、人足は一四〇から一五〇である。

 二十万石以上の大国では、騎馬一五から二〇、足軽一二〇から一三〇、人足二五〇から三〇〇が、最低限とされた。

 しかし、実際は、この制度によって、財政逼迫は確かに招かれた。

 大国、百万石の加賀の旅費は、およそ、現在の価値にして、一行程三億円から五億円であったとされる。

 単純には言えぬが、およそ、三千石で現在の価値にして、一億円の収入となる。参勤交代行列による財政逼迫は、天下泰平による、各大名の威儀威容を無駄に示す格好の材料となったからに他ならぬ。

 つまり、見得を張っただけの事である。

 ――しかし、こちらの世界にも、参勤交代があるのであろうか……?

 首を捻った乙であるが、通りを行くのは、七騎だけである。どうやら、そういう類のものでは無さそうであった。

 オドアケルが、馬を停めたのは、乙たちを通り過ぎて半町ほど行った所であった。

 鷹揚に周囲を二、三回、オドアケルは見回した。

 何かと悪い噂の多い人物ながら、町の人々にとっては、次期領主である。それがパレードアーマーを着込み、六人もの騎馬を従えて、姿を見せたのである。気にならぬ、と言う方がおかしい。

 遠巻きに、人々はオドアケルを見守っている。

「聞け!」

 オドアケルが大音声を発した。更に、続けた言葉は、人々を驚愕せしむるに、充分足りた。

「わが父、コルネリウスは、亡くなられた!」

 一瞬の沈黙ののち、ざわめきが拡がった。

「心得よ! 今日をもって、このオドアケル・スピレインが領主である!」

 拍手をしたのは、オドアケルの後ろへ控える、馬上の者六名だけであった。ざわめくだけの民衆に、オドアケルは怒鳴った。

「おいっ! 新領主だぞ! 喜ばぬか!」

 はっきりと、民衆の目に、怯えと不安があった。

「……どうやら、解らせてやる必要がありそうだな!」

 オドアケルがどこかの子供を指差したようである。乙の立っている位置は、オドアケルの酒焼けしたしゃがれ声が聞こえるだけで、姿をよく見ることは出来なかった。

「俺に楯突くと、どうなるか、お前たちに今から教えてやる!」

 と、供の者が一人、下馬した。

「――そこの子供!」

 オドアケルも鋭く発したのち、地上に降りた。

 悲鳴が上がった。

「何しやがるっ!」

「はなせっ!」

 数人の非難の声に混じって、男の子の甲高い声があった。

 ――やんぬるかな!

 乙に直感が働いた。と、同時に、走っていた。すぐさま、留伊が続いた。

「子供だろうとも関係無い! 領主に楯突くとこうなるのだ!」

 ものの数秒で、乙は半町を走りきった。そこでは、オドアケルの供の者が、十歳ほどだろうか、男の子を組み伏せ、オドアケルが今まさにエペを突き刺さんと構えていた。

「――待たっしゃい!」

 乙は制止の声を投げた。オドアケルは首を回して、乙を、上から下まで嘗め回すように目だけでなく顔も動かした。

「なんだ女……何か文句でもあるのか」

「いかにも! 苦言申し上げる」

「なにっ!? 俺は領主だぞ!」

「先ほど、申し上げられたお言葉、聞いておりました」

「だったら逆らうな! 貴様から死にたいか!」

 オドアケルは身体ごと乙に向き直り、エペを構えた。馬上の者達も、それに合わせて、乙と留伊を取り巻くように動く。

 ――大きな縫い針のような剣だ。

 乙はそんな事を考えて、思わず苦笑した。

「俺を嘲弄するか!」

「御領主という立場に居られながら、無体な振る舞いをすれば、その的にもなりましょう」

 オドアケルは赤ら顔をますます赤くした。

 一歩下がっていた留伊が動く気配を、乙は察知して、右手で制した。

 町の者たちは固唾を呑んでいる。

 しかし、騒動は、急速に収まった。

 五十台前半らしい、老人が、静かに、乙とオドアケルの間に割って入ったのである。

「今度はジジイか!」

「酔うて、あそばすな?」

 老人の声は低く落ち着いていた。

「それが、どうした! 酒を呑むのは俺の勝手だ!」

「酔われたのは、お父上の亡くなられた、その悲しみを、紛らわす為でありましたでしょう」

「――な、なに?」

「我々、領民もそれは同じなのです。貴方様のお父上がお亡くなりあそばれたと、聞けば、まず悲しさが、最初に来るものです。ですから、貴方様を歓迎する余裕が無かったのです。しかし、此度のこの貴方様の御振る舞い、裏を返せば、貴方様がお父上同様、素晴らしい御領主となられあそばす証と、この爺の目に映りました」

「そ、そうか……?」

 乙のみならず、聞いていた者たち全てと言って良いであろう、呆気にとられた。しかし、一番呆気にとられたのは、当のオドアケルのようである。

「悲しみや後悔を慰めるに、酒ほど、格好の物はございません。ともあれ、限度というものがございます。いささか酔いが高じ過ぎ、乱暴をされたのはご反省して頂くとして、もっとも、それは、お父上を尊敬されていたことの裏返し――まだまだ、ご自分は未熟者だから、お父上には教えて頂く事があったのに、という謙虚真摯さからゆえ、では、ありませんかな?」

「そ……その、その通りだ」

「であれば、寛大なお心を我らにお見せ下さり、その子はお放しあそばれますよう……。自棄になられてはいけませぬ」

 オドアケルは完全にやり込められた。老人に言われるまま勧められるまま、男の子を解放し、引き上げていった。

「お見事な弁活でございました」

 乙は老人へそう、声をかけた。

「いや、なに。三十年来振りに、故郷の衣服を見て、足と口が勝手に動いただけでござる」

 老人は武家の言葉でそう言って、振り向いた。と――、老人の目が一瞬、はっ、と見開いた。

 乙も、

 ――はて? どこか見覚えがあるような……?

 しかし、初対面のはずである。この時には、老人の目は既に戻り、好々爺然とした光を湛えていた。

「故郷の衣服と申されると、御辺も、日本から?」

「いかにも……将軍家直参旗本の出でござった……」

「左様でござりましたか。大変申しおくれました。わたしは、高科乙、と申します。これなるは、若菜留伊です。我らは、山城淀、稲葉内匠頭様が家中でござりました。……失礼ながら、ご尊名をお聞かせ願えますでしょうか」

 たとい自分より、家禄が低くとも、大名家の家臣――いわゆる陪臣の娘と、将軍家直参では、やはり、格別の違いがあった。それに従えば、この老人が、御目見え以上の家であれば、その格は、稲葉内匠頭と、殆ど同じと言える。仮に、御家人だった場合でも、同輩の格か、それ以上の可能性があった。

「……切羽(せっぱ)拓郎と申す。なに、このような地。拙者は直参旗本と言っても、部屋住みの三男坊……当然、御目見えも叶わなかった身でござる。丁寧なお言葉遣い、痛み入るが、その必要も、ござらぬと、憶えておいて頂こうかの」

「父さん――!」

 遠くから、叫んだ者があった。切羽拓郎は、そちらへ視線をやって、乙に言った。

「息子が、呼んでおり申すゆえ、申し訳無いが、これにて御免……」

「これはお引止めして、申し訳の無い事でございました」

 乙と留伊は一揖し、拓郎もまた頭を下げて、踵を返した。

 きびきびとした足取りで遠ざかって行く、拓郎の背中越しに、彼の息子という姿が見えた。血が繋がっているのかどうか、拓郎よりも背の高い、赤毛碧眼で肌の白い青年であった。


 四


 丁子油を手に、ガイエル邸へ戻った乙と留伊は、あてがわれている部屋で早速、刀の手入れを始めた。

 懐紙を口に咥え、柄から目釘を抜き、(つば)を外す。(はばき)を外した所で、乙は視線を落とした。先ほどの老人、切羽拓郎の事が、乙の脳裡によぎった。

 ――あの御仁、仮名かも知れぬ……。

 乙の視線の先に、外した二枚の切羽があった。切羽には鍔のがたつきを調整して、柄に鍔を密着させる働きがある。

 ――そうだ、勘兵衛殿に、雰囲気が似ていたのだ。だからどこかで見たように思ったのだな。

 乙は気を取り直すように、刀身を布で拭った。

 刃長二尺三寸、身幅は広く重ねは薄い。大鋒(おおきっさき)は伸びてふくらかれ、横手筋近くまでの二筋樋。反りは強い。地鉄(じがね)はざんぐりとして地景は盛ん。刃紋は中直湾(ちゅうすぐのた)れで、帽子は掃きかけ匂出来。刃中の稲妻も美しい。

 豪壮な、大磨上姿ながら、凛とした佇まいで、艶やかさが漂う。

 堀川越前守国広である。

 国広は新刀期を代表する刀工であり、長曽禰虎徹と肩を並べ、その評価は甲乙つけ難しという名刀工である。

 日向国の生まれだが、七十を過ぎたのち、京の堀川に定住し、一門を構えた。堀川の由縁である。

 乙が今、手入れしている国広は、麒麟国広と別名があった。

 完成当日の朝、国広は麒麟の夢を見たという。その為か、茎の裏には、

『朝見夢麒麟』

 この五字がきられている。

 二人は淡々として、手入れを続ける。打粉を打って、それを拭い、丁子油を刀身全体に薄く纏わせる。

 ちなみに、留伊の大薙刀は、堀川一門、国安が作刀である。

 手入れが終わり、そろそろ、八つになろうかという頃合――、扉を軽く数回叩き、顔を見せたのは、デューク・ミレイリアであった。

「――デューク殿」

 デュークと面識を得た六日間で、彼が直接、部屋を訪れたのは、初めての事であった。メアリーはおしゃべりの為によく来る。シドやガイエルも、何の為か判らぬが、よく来る……。

「どうか、なされましたか」

 留伊も不審を覚えたのであろう、機先を制するかのような声音であった。

「休んでいる処にすまんな。少し、付き合ってくれ」

「それは、構いませぬが……一体、何に?」

 デュークは、竹刀を二本見せた。

「このところ、身体を動かす機会が無くてな。どっちでも好いが、手合わせしてくれれば、有り難い」

 乙とて、否やは無かった。それにデュークの腕前に関して、興味を満たす可能性もあった。

「承知しました」

 乙は、にっこりと笑った。


 庭に出て、乙とデュークは竹刀を構えた。共に正眼であった。

 ――やはり、相当な腕前!

 しっかりと腰も据わり、切っ先を乙の咽喉に向けている。

 ひりひりとした剣気が、乙をして、剣尖を揺れさせた。誘いでもなんでも無く、一瞬、気圧されたのである。

 反射的に乙は一間を飛び退った。デュークの打ち込みが来ると、思ったからである。

 だが、デュークは動いていなかった。しかし、剣気がまるきり消えていた。

「あれを見せろ」

 表情も乏しく、デュークは言った。

「あれ、とは?」

「メルベ山で遣った構えだ」

「嘴の構えですか……わかりました。ご覧にいれましょう」

 逡巡したが、乙が最も自信のある一手である。そして、確かに、嘴の構えでなければ、遅れを取る可能性があると思えた。

 右足を後方へ下げ、入り身となり、隠剣にはせず、長さを敵に誇示する。右手の甲は天を向いている。

尋常一様の刀法では無いのである。だからこそ、乙は自信があった。

「では、いざ」

 乙の言葉と同時に、再びデュークが剣気を迸らせる。乙も負けじと剣気を膨らませた。

 互いに剣気で相手を牽制して、気力の充実を待つ。

 今度は、デュークの剣尖が上下に揺れた。これは、誘いであった。しかし乙は動かない。嘴の構えは、自ら打ち込む剛の剣では無い。先の先を取るのを放棄する事によって、後の先を獲得するの、いわば柔の剣である。

 見た目には窮屈で理に合わない、嘴の構えだが、ひとたび敵の打ち込みが来れば、迅速の技を繰り出す。虚にして実、実にして虚。

 能なるもこれに不能を示し、用なるもこれに不用を示し――孫子が説く、これである。

 ……汐合いは、極まった。

 デュークが一足飛びに間合いを詰めた。

「やあっ――!」

 乙は充分の気合と間積りで、紫電の突きを繰り出した。しかし、

 戈――ッ!

 乾いた竹刀のぶつかる音が響く。乙の突きは、下から押し上げられた。デュークは明らかに繰り出される乙の竹刀に向けて、己の竹刀を合わせたのだ。デュークは受け流した動作を利用して、上段から真っ向に振り下ろそうとする。刹那、乙は左足を軸に、後ろに引いていた右足を大きく踏み込み、デュークの左側面を取らんとしていた。しかしデュークも瞬時に反応し、乙を自身の正面に捉える。

 と――。

 二人はパッと飛び退いた。互いに、己の竹刀が間に合わぬと、直感したのである。

 間合いが開いて、乙は再び嘴の構えをとったが、少なからず、彼女は動揺していた。今まで、第一手の突きを、破られた事は無かったからである。

「いや、もういい」

 デュークが竹刀から右手を離した。乙も、合わせて竹刀を下げた。

「お手並み、感服致しました」

「そっちもな」

 デュークの顔に苦笑が刷かれた。

「どこで、お学びに?」

 こちらにも、剣術の道場があるらしい、と考えて訊いてみた。

「梅雪軒さんが顔を見せた時、何度か手ほどきを受けた。あとは、我流だ」

「そうでしたか。しかし、驚きました。初手の突きが外されるとは、思ってもみませんでした」

 ――我流で、これほどの遣い手とは……。

 乙はデュークの天稟に、怖ろしさを覚えたものであった。

「梅雪軒さんに教えて貰った言葉の殆どは、俺には難しすぎたが……奥義というのは、虚と見せて実、実と見せて虚というのだけは、なんとなく解った。だから、お前の構えから、最もあり得なさそうなものは、なんだろうと、考えた」

「なるほど」

「あそこで、突き以外の攻撃だったら、俺が負けていた」

 不意に、庭に出てきたものがいた。シドであった。シドは走って来たのか、大きく肩を弾ませていた。

「ここでしたか! デューク!」

「なんだ? ずいぶん慌てて」

「梅雪軒さん! 梅雪軒さんが、来たんですよ!」

「梅雪軒さんが……分かった。すぐ、行こう」

「あ、そうだ。乙さんたちも一緒に来られてはどうです? 同じ日本の方ですから、興味がおありでしょう?」

 言わずもがなの事であった。乙と留伊は、シドに続いて、屋敷に入っていった。

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