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万葉一首

 一


 老異人の名は、ガイエルといった。

 部屋には、高科乙と若菜留伊、ガイエルの他に、数名の女が彼らから離れて控えた。この屋敷の使用人(メイド)である。

 ガイエルの語った話は、二人にとって、到底納得の出来る話ではなかった。

「ではわたしたちは、神隠しにあったとでも、申されるのか」

 テーブルに並べられた料理は、ガイエルが気を回したのか、和食であった。しかし、乙も留伊も手は付けず、ただ、ガイエルの言葉を聞いていた。

「まあ、そう言うことかのう」

 ガイエルは、のんびりとした様子で頷いた。

 ガイエルがざっと語った所――。

 この世界は、『ケリスオーヴァ』と呼ばれる世界である。ここカディスは、そのケリスオーヴァのなかでも最大の、ノールバック大陸にある。カチュア女王の治めるノールバック聖王国東部、ナエニア地方の都市だ。

 ケリスオーヴァには、ちょくちょく、日本または地球という世界から、人が来る。原因も理由も不明で、彼らが元の世界へ帰る事も出来ない。

「……」

 乙は眉根を寄せ、きびしい面持ちで、目の前の老人の話を聞いていたが、やがて、口を開いて出てきたのが、先ほどの言葉であった。

「戻るのは、不可能だと申される?」

 乙の問いに、ガイエルは頷いた。

「ワシもこれで、人から賢者と呼ばれておるがの。お主らを戻す、すべをワシは知らん。……もっとも、ワシにも知らぬことはまだ沢山あるが」

「……」

「姫さま……」

 留伊が、いたわるように声をかけたが、乙は瞳を閉じて、

 ――戻れぬ……! では……高科家は断絶!

 認めたくの無い思いであった。

「なんちゅうか、お主らにはビックリな話じゃろうが、ま、なんちゅうの? 運命じゃと思って現実を受け入れることじゃ。住めば都――という言葉もあるしの」

 しかし――。

「済まぬが……留伊と、二人にさせては貰えぬだろうか」

 乙は、自ら包んだ闇を、外した。何本もの蝋燭の火が灯された明の中で、ガイエルは先ほどと変わらず、乙の視線の先にあった。思わず、肚裡でため息を吐いた。

「良かろう。――部屋の準備もさせておるから、あとで、案内させよう」

 そう言い置いて、ガイエルは立ち上がった。


 およそ、今の時間にして十分ばかり、乙も留伊も、静寂の中にその身を置いていたが、やがて、沈黙を破ったのは、乙であった。

「……いかが致そうか。女の幸せ、というものにそびらを向けて、弓馬の家に生まれた責任も果たせず、この異界から戻れぬのであれば、いっそ、この咽喉を突こうか――」

 声に自嘲の響きがあった。

「なりませぬ! 姫さま! ……何か、きっと何か手立てがある筈です。なにしろ、わたくしたちは、どのような方法であるかは、分かりませぬが――こちらへ来たのです。何か、きっと……」

 留伊は、同い年である自らの女主人を叱咤した。

「しかしな、留伊。戻る手立てが見つかった所で、それはいつになる? ……父上は、まだまだ御壮健であられるが、もし、間に合わなければ? いや、戻った所で、勘兵衛殿を討たねば、御家存続もなるまい。高科家十六代が、わたしの所為で……終わってしまうのだ」

「それは……」

 留伊にも、反論の余地は無い事であった。

 世嗣無き時は御家の断絶。大大名ですらも逆らえぬ規則であった。為に養子縁組が多かったが、それら養子縁組にも、同じ身分である事だとか、養子が二代続く事はならぬだとかの規則があった。

 留伊も、充分すぎるほど、理解している。

 ――なんとおいたわしい事か。姫さまが御先祖に御顔向け出来ぬとは……。

 乙の不幸は、それだけでは無かった。よしんば戻れたとしても、兄の敵、原口勘兵衛を討たねばならぬのだ。

 ……原口勘兵衛は、乙の許婚であった。


 二


 元来、原口勘兵衛は非常に温厚な人物であった。

 領地の財政を担う勘定所に、不正が無いかどうかを調査する、勘定吟味役という役職がある。当然ながら、勘定所支配では無く、国家老支配である。勘定吟味役は、収賄横行の世の中にあって、廉直の士でならねばならぬ。そうでなければ、どうして勘定所の不正を非難できようか。

 勘定吟味役の定員は六名、その下に、勘定(かんじょう)吟味方改役ぎんみかたあらためやくがあり、これは、御目見以上の者が就いた。

 原口勘兵衛は、その勘定吟味方改役の職務にふさわしい、謹厳実直な男であった。また、剣術の冴えも、水際立っていた。

 乙も、四つ年上の勘兵衛を好ましく思っていた。彼が何故に、高科掃部を斬殺したか、今となっては、彼にしか分からぬ。

 高科家と、原口家は家禄が違った。それでも、勘兵衛は当主御目見えであるし、乙が原口家に嫁ぐ形であれば、何の問題も無かった。それどころか、筆頭家老の娘を娶るとあれば、出世の道も開けるというもので、

「勘定吟味役へ勘兵衛を昇進させる」

 これは高科主膳のみならず、他の国家老も稲葉内匠頭も、暗黙の了解としていた。

 しかし、掃部の急害と勘兵衛の逐電により、一瞬にして、乙を取り巻く状況が、変わった。

 乙が、勘兵衛に捨てられた、と、考えたのも、無理からぬ事であったと見て良い。

 主膳は、新たに養子を取る事を潔しとはせず、娘へ、仇討ちを命じた。勘兵衛を特に目を掛けていたのである。主膳の怒りは、凄まじいものがあった。

 もとより、期する所があったのだろう、乙は素直に従った。この時すでに、尋常ならざる決意を以って、勘兵衛恋慕の想いは、断っていた。

 しかし、乙をして何よりも嫌だったのが、帰参叶った際の、縁組相手であった。勘兵衛が掃部を斬る場面をたまさかに目撃したという、国家老、香田水軒の次男、新之介。乙が、蛇蝎のごとく嫌っていた男だった。


 口をつぐんだ留伊は、乙の横顔を、見つめた。気丈にも真っ直ぐと顔を上げて、主人が白い面に滲ませた苦悩は、僅かであった。

 僅かな苦悩ながら、そこに、乙という女を、留伊は見出した。

 ――異界において、お捨てになられたはずの、勘兵衛殿への想いが蘇られた……?

 そう思う留伊の胸に、迫るものがあった。

 蝋燭が、乙の男装に、陰影の波をつける。それを、留伊は美しいものに眺めた。この部屋にある、煌びやかな調度品の数々――金象嵌の壷、白磁の一輪指し、銀燭台、ガラスの水差しも、複雑な模様を描く壁と、掛けられた湖水の絵画、精緻な意匠が施された振り子時計なども、いまの乙の美しさには敵わぬのではないか。

 そればかりでなく、それらと乙が不思議なまでに相まって、一種幻想的な雰囲気を醸し出していた。

 留伊は見とれていた。意識の恢復には数秒を要した。はっと、我に返り、留伊は、

「……御自害だけは、何卒――」

 言った。乙の返事は、しかし、すぐには無かった。

 またしばらくの時間を、二人は無言の中にあった。

「異界か……」

 ふと、乙は短く独語した。独語したのち、

「ふ、ふふっ……。こちらで異人は……わたしたちであったな。皮肉な話だ」

 苦笑を浮かべた。

 異界からの人間が、こちらの世界の人間を捕まえて、異人、異人と呼ばわる……。あまつさえ、こちらの住人には折り紙にもならぬ、自分の身分を高々と述べたのである。これほど滑稽な事はあるまい。

「冷汗三斗の極みであるな」

 からりとしたその口調に、留伊は安堵した。

「そうだな。諦めては、それこそ、父上にも兄上にも、累代の御先祖にも申し訳が立たぬ」

 乙は、力強く言った。

 ――何としても、戻る! この咽喉を突くのは、まだ早い!

 万策の企て尽きた時、その時こそが本当の自死の選び時――。その決意を、乙は胸に秘めた。

「それにしても……旅籠のあるじの言った事、本当であったか……」

 乙は、視線を落とした。ガイエルの用意してくれた、料理が、手付かずにその姿を留めていた。違いがあるとすれば、既に湯気が消えている、だけである。

「老人には申し訳無いが、今は食する気にならぬ……」

 乙の言は、留伊にも当てはまった。

「ガイエル殿は、わたくしどもの部屋を用意させると、申されておりました。今日の所は、引き取らせて頂きましょう」

 留伊の提案を聞いていたかのように、扉が開かれ、ガイエルが姿を見せた。

「もう、ええかの?」

「ご老体……」

 乙と留伊は立ち上がり、ガイエルに一揖した。

「先ほどまでの無礼の段、お詫びいたします。何卒御容赦頂きたい」

「構わん構わん」

 相好を崩すガイエルであった。

「それにもかかわらず、こうして数々の御親切、何とお礼申し上げてよいか……」

「それにしても随分、カタイのう。もう少し楽にしてもよいぞ?」

 ガイエルは言ったが、

「そう言う訳には、参りませぬ」

 乙の返事はこれであった。


 三


 二人より、二つか三つほど年長に見える、赤毛のメイドに案内された、二階の寝室も、また、華美なものであった。だが二人は、どこにその身を横たえれば良いのか、皆目、見当をつけられなかった。

 十六畳ほどの部屋は、さすがに寝所らしく、調度品は抑え目にされている。

 窓辺から二間ほど離れた丸いテーブルには、大きな花瓶いっぱいに花が生けてあった。見知らぬ花が多いが、その中に、白百合、紫陽花、躑躅があった。

 この部屋にも、十本以上の蝋燭が、火を揺らめかせていた。賢者ガイエルは、よほどの分限者のようであった。

 しかし、床具が見当たらぬ。

 視線を移すと、二人が横たわっても余りあるほどの、台のような物が、二つあった。それは、天蓋付の、ベッドであったが、二人はそれを知らぬ。

 部屋を見回す二人に、メイドは、

「こちらでお休みになってください」

 そのベッドへ促した。

「……」

 乙と留伊は、思わず顔を見合わせた。

「そこで……?」

 天蓋など、仏像にか、それこそ仏になった時ぐらいにしか、用いないものだとばかり、思っていたものだ。

 と――、

 乙はメイドに言った。

「御女中、済まぬが、お伺いしたい」

「はい。なんでしょうか?」

「こちらでは、死人が出た時、どうなされる?」

 乙の問いは、メイドの顔に怯えを浮かばせるのに、充分足りた。乙が右手に提げた刀に、要らざる想像をした、と見える。

「今日、山中で追い剥ぎに襲われたのですが、留伊が斬り伏せました。しかし、弔おうにも二人では運べず、遺骸は山中にそのままにしていた仕儀を、思い出したのです。それで、こうして、お伺いしているという次第なのです」

 怯えから一転して、メイドは、きょとんと、なんとも不思議そうな面持ちとなった。

「ご自分が襲われたというのに、その追い剥ぎたちを弔われようとされるのですか……?」

「わたくしが斬ったのです。斬った以上、捨て置けぬと存じます」

 さも当然のように、留伊が添えると、メイドは、頭を振りながら言った。

「追い剥ぎなど、放って置いてもよろしいかと思いますよ」

 これには、留伊のみならず乙も、眉宇を顰めた。

「この国は今、隣国のコーナイ国と戦争状態ですから。幸い、この町はノールバックの最東端ですが、それでも町の外は危険です」

 町と町を繋ぐ街道上に、沢山の屍体が転がっている、と言う。殊に、追い剥ぎや夜盗を生業としていたらしい者が、多いと言う。商人や旅人を襲って、護衛の者に返り討ちにあったらしい。

 ――なるほど。落ち武者か、あるいは、命惜しさに逃げた輩が、口に糊をする為に、野伏せりにまでその身を落としたか。国は違えど、人間、考える事は同じらしい……。

 乙の脳裏には、平時、野武士や無頼浪人の狼藉によって、村が一つ滅んだ、と、過去に読んだ書物の一つに、書かれていた事が浮かんだ。

 本邦で干戈が交えられなくなって、久しい。武士は、軍人であるにもかかわらず、その戦が無い。才があれば、門人が集まるかどうかはともかく、道場なり寺子屋なりを開けば、金銭を得る道となろう。その、世過ぎの才を持ち合わせぬ武士や浪人が、夜働きをしているのは、本邦でも、同じであった。

 しかし、だからと言って、何もせぬのは、いかにも乙と留伊には非道に思えてならぬことだった。数刻前まで二人は、合戦で手柄にならぬ首級も一定数になればまとめて供養したと伝え聞き、獄門になった者も、晒しの期間が終われば懇ろに弔った、という世界の住人であったのだ。

「それでも、やはり放っては置けません。……お手数でしょうが、ガイエル殿にその旨お伝えください」

「かしこまりました」

「それと――」

「はい」

「出来れば、湯に、浸かりたいのですが」

「ではバスルームまでご案内させて頂きます」


 バスルームに案内されながら、乙は、メイドに訊ねた。

 二人の世話をしているこのメイドの名は、メアリーと言った。乙たちを驚かせたのは、彼女の年齢が、乙たちよりも二つ、下であった、というそれだった。

「そなたが奉公に上がられて、どれほどです?」

「そろそろ、半年になります。旦那様はちょっと変わり者ですけれど、悪いお方ではありませんし、ここの皆さんも大変良くしてくれます。でも、メイド長のレイラさんには、叱られてばかりです。でも、そのレイラさんだって、すごく優しいし、キレイでカッコ良くて、わたし尊敬しています」

 本当にこの屋敷で働くことに、やりがいを感じているのであろう。多少、言葉遣いが崩れたが、メアリーは嬉々と声を弾ませている。それを、乙と留伊の二人は、心地良いものに聞いた。

「こないだから、レイラさんに字も、教えて貰っています。――あっ! 申し訳ありません、自分の事ばかり、お喋りしてしまって……。皆さん、良くしてくれるのですけれど、同年代の方と、お話しする機会が無くて……」

 振り返ってメアリーは、客の二人に、ぺこり、と頭を下げた。顔を上げた時、彼女ははにかむ。その仕草に、十五歳のこの少女の純朴な性情が知れる。

「構いません。愉しく、聞いていました。レイラさん――というのは、わたしたちに食事を給して頂いた方ですか?」

 自然、その場で立ち話となった。

「はい」

 ――ふむ。やはりそうか。

 乙は、合点するものがあった。確かに、短い金髪の、聡明らしい瞳をした、美しい女であった。この世界の作法の事は全く知らぬが、彼女の挙措や佇まいに、感じ入ったものであった。

「料理をなされたのも?」

「いいえ。レイラさんはお料理もとてもお得意ですけれど、お食事は、コックが作ります」

「コック、というのは?」

「はい。料理人の事を指します。この屋敷の料理人さんたちはとても腕が良いと、評判なのです」

「そうですか。それを聞いて、頂こうとしなかったのは、いささか、悔やまれる。折角、心を配ってくれたろうに、済まぬ事をしたと、二人が謝っていたと、お伝え欲しい」

「はい。承知しました。……それにしても、お二人は不思議なお方です」

 メアリーにそう言われた、当人達の方が、却って不思議な顔つきになって、次の言葉を待った。

「だって、追い剥ぎの事もそうですけれど、お二人は、お客様なのに、わたしにまで丁寧なお言葉遣いをなされるのですもの」

「別段、おかしな事とは、思えぬが……?」

 自分たちより年下と聞いて、それに見合う態度で接していたつもりであった。

 第一、この世界での乙は、もう、稲葉家家中九百石の娘の身では無くなっているのだ。そのことに再び気付かされて、ふと、万葉の歌を思い出した。

 ――家にあれば笥に盛る飯を 草枕旅にしあれば 椎の葉に盛る、か……。

 有馬皇子は、孝徳天皇の皇子でありながら、罪を着せられ、処刑された。

 乙は、何事も無ければ、勘兵衛の新造となり、眉を落として歯を黒く染めただろうに、ゆくりなくも未来の良人(おっと)を討つ旅に出た。

 実は、あの、うら寂れた神社が、有馬皇子の魂魄を勧請していて、御神木が椎であったのは、皮肉な偶然であった。

「あっ、わたしったらまた……。申し訳ありません。――こちらです」

 メアリーは踵を返して、案内を再開した。

 この時、留伊は、そっと、乙の顔を盗み見た。寂しい微笑が、刷かれていた。


 四


 湯殿は、旅の途中、幾度か利用した本邦の、湯屋のそれより広かった。壁から飛び出した取っ手を捻れば、水が、飛び出たのだけでは無く、湯も出てきたのには、これは、一体どのような仕掛けかと、目を丸くした。

「姫さま。お流しします」

 髷を解き、長い髪を白布で纏めた留伊の手には、白く泡立った手拭いがあった。先ほど初めて手にした、石鹸の用途をメアリーが説明してくれ、それに従っていたのである。

「ありがとう、留伊」

 湯気に包まれて、二人は居た。乙の背後に回った留伊は、

「失礼致します」

 と一言、泡立った手拭いを、その背中に当てた。

「ヌルヌルとして、少々、妙な心持ちだが、好い香りがする」

「左様でございますね」

 擦るよりは、優しく、それこそ撫で拭くように、乙の右腕に、タオルを運んだ留伊も、いくらか陶然としつつ、答えた。石鹸に付与された、バラの香りであったが、二人には分からぬことであった。

 主従一緒に湯を浴む時、その従者はいつも、惑うていた。

 肌理細かく白い、乙のいまだ男を知らぬその身体は、泡に包まれていきながらも、色香が、匂い立ってくる。引き締まったからだながらも、やはり、女の柔らかさを留伊は指先で感じる。

 背中から、腕に、(はぎ)に手拭いが動き……出来る事ならば……出来る事ならば、ずっと、触れていたい、と留伊は思ってしまうのであった。

「留伊、もうよい」

「はい……」

 からだの前面は、乙が自身で垢を落とした。その後は、留伊の背中を、乙が流してやり、二人は、その身を湯の中に入れた。

 十人が浸かっても、存分に足を伸ばせるほど、広い浴槽であった。

 熱い湯に、二人は思わず放心した。一日歩き回る、というのは常の事であったので、さして疲労は無いものに覚えていたふたりであったが、やはり、精神的な疲れが、今日一日でどっと溜まっていた証左であろう。

「ガイエル殿は、わたしたちを戻す方法は、知らぬと申されたが……」

「知っておられるお方が、どこかに居るやも知れません」

 留伊は、あくまでも主人を励ます。希望的観測にしか過ぎぬが、それでも、口にすれば気持ちが前向きになる。

「ただ、まずは、この地の事を知らねばなりません」

「うん。そのとおりだな。しかし、ガイエル殿には、どうお礼を申し上げるべきか」

「ええ。相応の金子を包んだとしましても、あるいは、こちらでは、価値が違うかも知れません」

 淀十万二千石とはいえ、知行地は摂津、河内、下総などに散在し、淀周辺の領地は二万石あまりしか無い。それでいて、二千五百石という高階家の大身振りは見事だが、やはり、内証は苦しく、二人が旅立つ際に渡されたのは、切り餅一つと、五両相当の銀であった。現在持ち合わせる二十二両分の金子が、下手をすれば、一両以下の価値になってしまう可能性もある。

「下働きでもして、お礼を返すよりあるまいか」

 しばらく湯を愉しんで、二人は湯殿を出た。

「すごい。非常にさっぱりとした心持ちだ……。むしろ、少々肌寒い」

 と、乙は素直に言ったものであった。


「最初は、パジャマをご用意しようと思っていたのですけど、レイラさんが、浴衣の方がよろしいだろうからと」

 そう言ってメアリーが用意した浴衣に身を包み、二人は寝所まで戻った。

 乙は、改めて、メアリーに礼を述べた。

「わたしどもの世話、かたじけないことでした。わたしどもはもう、休みます。メアリー殿もゆっくりと休まれるが良い」

「はい。ありがとうございます」

 メアリーは退室の間際、

「メアリーと呼び捨てて頂いて構いません。お言葉遣いも、ご丁寧にされることもありません。気安く、お呼びかけ下さい」

 そう言って微笑み、頭を下げた。

「では、メアリー。わたしたちの事も、乙、留伊と呼んでくれて構わぬと、おぼえて置いて頂きましょう。こちらでは、わたしどもは、特に、何か身分のある者では無いゆえ」

 乙の返事には、しかし、メアリーは少し困ったような顔を見せた。屋敷の主人であるガイエルが、連れてきた客である。その客に対して、呼び捨てなど出来ようはずが無いのだ。

 その事に気付いた留伊が、メアリーを助けた。

「では、我ら三人のみの時にでも」

「それに、わたしたちはこちらの事を、全く知らぬ。そなたさえ良ければ、友人として、色々と教えて欲しい」

 メアリーの瞳が、輝いた。彼女は、年の近い者と話をする機会が無いと、先ほどこぼしていたのである。また、乙と留伊にしても、それは同じであった。正確には一歳違いの、この三人である。友情を育むにあたって障害は殆ど無いのであった。

 メアリーが嬉しさを全く隠さずに引き取ったのち、蝋燭の火を吹き消して、乙と留伊の二人は、それぞれ、例の天蓋の付いたベッドへ入った。

 背中や、後頭部への感触は、とにかく柔らかく、それはそれは寝心地の良いベッドで、すぐに夢を見ることなのであろう。この世界の人間であれば。

 二人にとっては、慣れぬ柔らかさと、今日一日の事と、明日からの事と、そう簡単には眠れないのであった。

 闇の中、互いに互いが、いまだ起きている気配を感じていた。

「お眠りになりませぬと、お体に障りますよ」

「そう思って、努めているのだが、どうにも、寝付けぬ」

 ……結局、二人は、二刻ばかりを、まんじりとも出来ず過ごしたのであった。


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