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しの字


 どれほど気を失っていたのか、高科乙には分からぬ事であった。

 ひんやりとした感覚を、乙は頬に感じた。次に、土草の匂いが鼻腔をくすぐった。

 ――留伊! 留伊は無事か!?

 意識が戻ったと同時に、乙は何よりもまず、留伊を心配した。そういう女であった。

 体の前面に、地面を感じる。意識を無くした時、うつ伏せに倒れたと知れた。

 身を起こし乙は周囲に若菜留伊の姿を探した。否――探すほど、時間はかからなかった。

 すぐ傍に、乙と同じように身を起こした留伊の視線とぶつかったのである。

 乙は心から安堵して、留伊に言った。

「無事であったか……良かった」

「はい。姫さまもご無事のようで……」

 と、そこまで言葉を綴った留伊は、周囲を見渡した。

「ここは……どこでございましょう」

 言われ釣られて、遅ればせながら乙も辺りを観察した。杣道であろう道に二人は居た。

「あっ! 鳥居が……!」

 乙は思わず声を上げた。無いのであった。どこにも。くぐったはずの鳥居は目でどれだけ探しても確認する事は叶わなかった。鳥居だけでは無い。御神木も、あのこじんまりとした本殿も、見当たらなかった。

「景色も……あの社とは違うようです」

 留伊が戸惑いがちに言った。確かによくよく見てみれば、一変していた。まず薄暗い。しかしそれは、密集する樹木の葉が、陽光を遮っている為なのはすぐに知れたが、あの社はここまで、木々が密集していた訳ではないのである。

 どういうからくりかは知れぬものの、自分たちは意識を失う前とは、全然別の場所に居るということを、受け入れるより他は無かった。

「一体……どういう事であろうか」

 乙は荷物を改めた。もしも気を失ったあと、よからぬ輩が近くに居たとすれば、当然、手を付けるはずだと思ったのである。しかし、盗られた物は無かった。

 では、誰かがここまで運んだのだろうか? それは、乙は即座に排除した。高科流弓馬術目録を皮切りに、剣は御留流(おとめりゅう)・古鞍馬流、薙刀は本心鏡地流ほんしんきょうちりゅう薙刀術を誇る乙である。いくら気を失っても、それに気付かぬはずは無い。

 御留流とは、ある一つの地域のみで受け継がれる、絶対秘密の流派の事である。国外の者が学ぶ事は禁止であった。

 気付かぬはずが無かったのは、留伊にしても同じであろう。主家の高科家に倣って、武芸を嗜む彼女は、左利きに生まれた。矯正はしたが、それでも、剣術は不得手。しかし留伊は、薙刀を取っては山城一と称されている女武芸者である。殊、薙刀に関しては、いかな武術の天稟溢れる乙でさえ、十本中一本取るのがやっとであった。

 二人とも、女に生まれたのが惜しいと、周囲からため息を吐かれていたのである。乙が神童と言って良いのであれば、留伊は麒麟児と言って良かった。

 つまり、二人とも、体に触れる者があれば、触れられる以前において、即座に覚醒するだけの修練を、その若くしなやかな肉体に、すでに積んでいるのであった。

「荷物も金子も無事でございます」

 かてて加えて、着衣にも乱れは無い。

 ともかく、ここで頭ばかりを捻った所で埒が明かぬ。人を探そうと、二人は歩き出した。

 杣道は、なだらかな傾斜になっていた。下れば、人里に出るだろうと思えた。


 二


 一里を歩いたと思われるが、一向に人里に出る気配は無かった。その代わり、明らかに山道へ出た。二人はそれを拾って、また数里を行った。

 陽はすでに傾き始め、そろそろ申の刻になろう。にもかかわらず、今まで人一人ともすれ違わぬ。

 不意に――。

 こちらを窺ってくる視線を乙は直感した。

 ――追い剥ぎか?

「五人ほど――おります」

 当然ながら留伊も感じたのである。乙にとっては言わずもがなの事であった。

 だが、二人は歩を止める事無く数町を行く。襲ってくれば対手をするが、向こうが手を出して来なければそれはそれで良い。

 山道の両脇の樹木に紛れて、追い剥ぎらしき五人の気配は、乙と留伊にまとわりついてくる。

 四半刻ほど、二人はまとわりつかれるまま、まとわりつかせていた。やがて、襲撃に適した場所まで来たのだろう、追い剥ぎたちが動いた。

 パンッと一つ、微かな弦音が二人を襲った。乙の右手前方から放たれた矢はしかし、次の刹那、

 ――エイッ!

 無言の気合をほとばしらせた乙の、抜く手も見せずに、腰間から鞘走らせた利刀により、その目的を果たせずに、真っ二つにされて、地べたに晒された。

 それと同時に、留伊は薙刀の鞘を払っていた。

 追い剥ぎたちは、二人の瞬時の振る舞いを見て、去るべきであった。武器は持っているが相手は二人。しかも若い女。その事実が、追い剥ぎたちの目を曇らせたのであった。

 乙と留伊の五間あまり前方に三人、後方へ二人。ぱっ、と躍り出た。

 追い剥ぎたちの姿を見て取って、乙も留伊も、思わず眉宇を顰めた事だった。

 薄く錆の浮いた飾り気の無い鉄兜を被った、いずれも、六尺はあろうかという大男たちであった。南蛮具足だろうか、胸当てと、草刷りは、これも、錆の浮いた金属である。しかし、それらの防具は二人には見たことも無いものだった。そしてその面貌は髯もぐじゃで、天狗に比べるのは莫迦らしいが、それでも、そうと思われるほど鼻が高く、顔全体の彫りも深い。

「異人?」

 留伊が低く呟いた。おらんだ人か、ほるつがる人か。もしやするとえげれす人か。その判断はつかぬ。ただ明らかなのは、彼らが武装をしているという事だけである。

 ――ころんだ者たちだろうか?

 乙は、伴天連(ばてれん)修道士(いるまん)の唱える切支丹の教義は知らぬ。ころび伴天連たちが何をしているのかも分からぬ。だが、仮にも人々の導手をかつては自負した者たちが、追い剥ぎなどに成り果てるのだろうか。

 ――あるいは……あるのかも知れない。

 信じて疑わなかった神が、存在しないと知った時、彼らの胸中はいかばかりであったろう。世を拗ね、天を憎み、非道の仕業を是とする事に、なんらの抵抗も感じなくなったのかも、知れぬ。

 乙は対手たちの体躯に、少なからず鍛錬の跡を見止めていた。

「中々やるじゃねえか」

 腰の物を引き抜きながら、異人の一人が、流暢な日本語で言った。そのあまりの流暢さは、乙たちの疑念を深めさせた。

 異人の得物は刃渡りが三尺はある、無反り諸刃の、片手でしか持てぬ柄の剣であった。また、左の異人は両手で弩を構えて、乙に狙いを付けている。先ほど放たれた矢は、その弩によるものに相違無い。

 しかし。

 四半刻もの間、二人は尾けられるまま尾けられて来たのである。乙も留伊も対手の力量を推し量るだけの時間があったと、言える。

「大人しくしてりゃぁ、命まではとったりしねえ。けど抵抗するんならその限りじゃねえぞ」

 どうも、この片手剣の男が首領格の様であった。乙は、ぱちん――、と鍔鳴りを残して、刀を腰間へ戻した。

「へへへ……そう、それでいい。そっちのテメエも大人しくしな」

 異人の話し様は、あくまで流暢だった。しかし留伊は微動もせず薙刀を八相に構えている。乙が声を発した。

「言葉が通じるなら幸い。二つほど訊ねたき儀がある」

「あ?」

「まず、わたしたちは下野佐野に居たはずなのだが、ここはいまだ佐野か」

 普通は、そうであると考える。しかし、乙にはなぜか、

 ――違う領地に入ってしまったかもしれぬ。足利か、壬生か……。

 そんな気がしてならぬのであった。

「もう一つ。ここから一番近い人里はどちらに、どれほどの距離を行けば良いのか、教えてくれ。礼は致す」

 男装の乙はそれに相応しく、男言葉で言った。異人たちは乙の堂々とした態度と口調に、きょとんと目をしばたかせたが、やがて満面に朱を注いだ。

「ナメやがって……! 命だけは助けてやろうかと思ってたが、考えを変えるぜ! 教えてやる。こっから近いのはあの世だ! 俺たちが送ってやる!」

 首領の言葉を合図として、残り三人の異人たちも得物を引き抜いた。弩は一間ばかりを下がり、なおも乙を照準とした。

「言葉は通じても、話は通じぬようだ」

「姫さま。この者たちの腕など、知れております。ここは姫さまのお手を煩わすほどの事ではありません」

「頼まれてくれるか」

「はい」

 気色張る異人たちを尻目にして、乙と留伊は微笑しあった。


 三


 乙は留伊が存分に薙刀を揮える様、彼女から離れた。首領の右の異人が、更なる嘲笑を受けたと逆上したのか、奔り寄って来た。

 右手の剣を、高々と上げ、上段から振り下ろすつもりらしい。

 しかしそれは、乙や留伊からすれば、およそ武術を知らぬ者、の動きであった。肉体ばかりを鍛え、技の研鑽は、忘れたままのようだ。対するに留伊は、左手左足を前にした八相の構えを崩さず、対手が間合いに入るのを待っている。

 そも薙刀には、刺突、打突も技の中にはあるが、第一の目的は薙ぐ事、つまり斬撃である。半身にとり、石突を対手に向けたその構えは、最も斬撃に適した構えであった。

 だだだっ、と、地を鳴らしながら、愚かにも異人は、己が身を自ら死圏へと導いたと言える。

「やあっ!」

 留伊の右足が対手に踏み出すや、裂帛の掛声と共に、薙刀は唸りをあげた。しかし、対手の左肩から袈裟にする常識的な軌跡は描かなかった。空間に、平仮名の『し』の字を、横にして描くように刎ね上がったのであった。

 本心鏡地流極意の一手『しのじ|(あるいは、死の路)』が、それである。

 (たい)を変え様、左手より上方に位置していた右手を沈めながら、対手の下から上に斬り上げる。

 次の瞬間、異人はがら空きの腹部を、大きくえぐられ、断末魔の叫びをあげながら、後方に弾かれ、斃れるよりなかった。

 襷をかける暇が無かった事と、上段に構えた相手の姿、さらに奔り寄って来る相手の防具、それらを即座に勘案した留伊の、見事な選択であった。

 ――入神の域だ……!

 乙は肚裡で讃え、舌を巻いた。

「退きなさい!」

 そう忠告した留伊の姿は、(ちぬ)れた刀身を首領に向け、すでに下段の構えを取っていた。

 異人たちは留伊の一瞬の迅業に、何が起こったのか見当もつかず、ぽかんと口を開けて硬直していた。

 斬りかかって来た異人は、留伊にとっては役不足に過ぎた。留伊は他にいかようにもあしらう手はあったはずである。にも拘らず、極意を用いたのは残る異人たちの戦意を殺ぐのが目的であろう。とは言え――、

 ――実力の差を大人しく認めてくれれば良いが……。

 乙はそんな心配をして、脇差の鞘からそっと、小柄を引き抜いておいた。

「あくまで手向かって来ると申すのならば、同じ目にあわせますぞ。わたくしは、手加減というものができませぬので……」

 再びの留伊の忠告に、異人たちの硬直が解けた。だが、結果を言えば、彼らの戦意を(ひし)ぐ事は出来なかった。

「て――テメエ! ジョーイをよくも!」

 首領が怒髪を天にして留伊に躍りかかった。後方の異人二人も斬りかかりに走る。乙は弩が留伊に向けて構え直されるのを、瞬間、見て取るや、その時点で手にしていた小柄は、すでに打っていた。

 左の肩口に深々と、小柄を打ち込まれた弩の異人は、痛みに声を上げながら、身を捩った。あろう事か、その途中に発射された矢は、留伊へ接近する首領の咽喉を、背後から襲った。

「が――っ」

 首領の首を背後から刺し貫いた矢は、勢いを失わず、虚空へと消えた。その矢がどこかへ落ちた頃、山道には、追い剥ぎたち四人の屍体が転がっていた。

 血振りを終え、乙から渡された懐紙で、血脂を、留伊が拭く。

 乙はただ一人生存した弩の異人に、ゆっくりと近付いていった。

 弩の異人は脅えて、肩の小柄もそのままに、新たな矢を弩に(つが)えようとしていた。

「弩の弱点は、次の矢を射るのに、時間がかかる事だと聞いている。こちらはすでに、お主を斬れる間合いだ。大人しゅうさっしゃい」

 しかし、恐怖に顔を歪めた異人に、乙の言葉は届かなかった。異人は弩を乙に投げつけた。

 白光が、夕陽を煌かせ、弩が二つに割れた。

「これ。大人しゅうせよ。訊きたい事があるのだ」

 そのまま、乙は白刃をダラリと右手に提げた。抜き身の方が、かえって効果があるように思えた。

 それでもなお、異人は大人しくはならなかった。肩に刺さった小柄を引き抜き、乙に投げつけるや、弩用の短尺矢も、矢筒ごと投げた。

 体を開いて乙はそれらを(かわ)した。異人はその時すでに、彼女へそびらを向けて、逃げていた。

「……困ってしまった」

 乙は、逃げた異人を、特段、追おうともせずに、呟いた。留伊は、落ちた小柄を拾い上げて血を拭い、乙に差し出した。受け取りながら乙は、

「どうしたものか……」

 四つの死体に目を向けていた。

 耶蘇か、そうでないかは知らぬ。どうであれ、仏門に入って貰わねばなるまい。

「わたくしたち二人では運べませぬし……。まずは人のある所まで行き、仔細をお話しましょう。その後、人をやって、回向して貰ってはいかがでしょう?」

 察して、留伊が提案した。もとより、それ以外に無いのであった。

 だが、その人ある所が、ここからどれほど行けばよいのか、まるで見当も付かないのだ。


 四


 また半里ほど歩くと、山道はなだらかな傾斜の、直線となった。乙と留伊は人里が近いと期待した。

 と――、二人はようやく、通行人らしき人物が一人、遥か前方からこちらへ歩いて来るのを見止めた。

 その人物と、一町ほどの距離に狭まった時、

 ――老人だが、またもや、異人のようだ……。

 思わず乙は嘆息した。

 ――どういうのだろう? 異人ばかりに会う。

 禿頭の、老異人であった。やはり、乙や留伊の見たことの無い衣服を纏っていた。それは黒いビロードのローブであった。

 ――佐野だとしても、御代官殿は、一体何を考えて居られるのだろう……?

 幕府の定めた場所外に、外国人はあってはならぬことなのだ。しかも、明和二年、下野佐野は、幕府直轄地である。一万六千石で堀田家が入ったのは、数十年後である。

 十歩ほどの距離まで近付いたが、老人はこちらを気にする様子も無い。

 声をかけてみるかどうか、思案ののち、乙は声をかけた。

「御老人」

 老異人は五尺足らずの矮躯を止めて、こちらを見た。

「何かな?」

 と、応答した。

 ――やはり、この異人も流暢な日本語を操るようだ。

 老人は、皴だらけの顔をにこにことさせている。還暦はとうに越しているようだが、正確な年齢を推し量るのは、異人だけに難しかった。

「訊ねるが――、ここは何処なのであろう?」

「妙な質問じゃな。見ての通り、メルベの山道じゃが?」

 その答えに乙は、むっ、としたが、顔に出すことはしなかった。その代わり、

「そのようなお答えを、聞きたかったのではございません。ここは、どなたの御領地かと、借問致しております」

 婦女子とはいえ、武家の者が、異人に対してここまで、丁寧な物言いをするのは、通常あり得ぬ事だった。乙は敢えてそうする事で、皮肉としたのであった。

 されども相手は異人。皮肉が利く筈もなかった。

「そうさのう。ワシは世事の事にはトンと関心が無いのでな。どうでも良い」

「異人。このお方は稲葉内匠頭さま御家臣、御国家老筆頭、高科主膳さまの御息女であられる。言葉を慎みなさい」

 留伊が乙の身分を明かしても、老異人は態度を改めなかった。

「そう言われてもの。ここはニッポンでは無いのでな」

 老異人の口から、意外の言葉が飛び出してきた。

「胡乱な事を――」

 言うに事欠いて、日本では無いとは聞き捨てのならぬことであった。よもや異人たちが集まって、新たな国を作ったと、放言する気なのか。

「では、日本で無ければ、どこと言うのか」

 乙は詰る響きを持って、問うた。

「ノールバック」

 老異人は事も無げに答え、

「そんな顔をするでない。ここは、お前たちの住んどった世界とは違うでの」

 ふと、老異人は自分が向かう方向へ目をやった。

「ついてくるとええ。証拠を見せてやろう」

 決め付けて、老異人は歩き出した。乙と留伊は顔を見合わせた。

「よし! ひとつ見極めてやろうぞ!」

 留伊は少し心配そうな表情を作ったが、乙の言葉には頷いた。


 陽が稜線に隠れて残照も徐々に消えていく。

 乙と留伊の二人は、老異人の後に続いて、もう半刻ほど山道を歩いていた。

 会話は、無かった。老異人はかくしゃくとして、てくてくと歩いていく。

 やがて、完全に陽が落ちた頃――、

「これは……」

 壁が、二人の前にあらわれた。堅牢なのは一目で知れる。長方形の石を組み上げていたからであった。見上げると、二丈はあろうかと見える。それが、どこまでも続いていた。

 さすがに、乙も言葉のなかった事である。

 老異人は更に数町、その壁に沿って歩いた。

 石壁に埋め込んだような、門の前で、老異人は停まった。高さ一丈、幅二間の鉄製の大門であった。その隣には、人が一人通れるほどの、こちらも鉄で出来た潜り戸があり、老異人はその潜り戸を、乱暴に叩いた。

 潜り戸が内側に開き、中から漏れる光が、老異人を照らした。

「あれ? 賢者様、お帰りですか?」

 中から、そう言った者がいた。

 ――賢者……?

「拾いものがあったのでな」

 老異人は答えて、乙と留伊へ手招きをする。二人は従った。老異人と会話した者の服装は、やはり、日本のものではなかった。

 白い長袖のシャツの上に、小さな丸みを帯びた肩当付きの銀製胸鎧を着て、腰にはサーベルを抜身のまま、ベルトから吊るしていた。

 しかし、二十代であろうその顔は紛れも無く、日本人であるように思われた。

 彼の背後は小部屋になっているのを乙は見て取った。

「拾いものって……人じゃないですか」

 乙達を一瞥して、彼は呆れ顔に老異人に言った。それに被せる様に、乙は少し強い語調で彼に訊ねた。

率爾(そつじ)ながら、其許(そこもと)の名をお聞かせ頂きたい」

「え? 俺? 俺は勝俣一郎って名前だけど?」

 ――日本人で間違いないようだ……。

 姓があるという事は、士分か、それに順ずる身分で間違い無い様だ。しかし、相手の口調も気になら無いほどの、なんとも名状しがたい思いに、乙は駆られた。留伊も口を開かない以上、同じ思いを抱いているようであった。

「日本人であられるか」

「えーと、まあ……そういう事になるのかな?」

 勝俣は奥歯に物の挟まった答え方をした。乙は重ねて訊ねた。

「日本人である、そなたが、何ゆえ、そのような姿をして居られるのだ」

「いや、まあ……一応、門番だし」

「そなたは――」

 ――我ながら、愚かしい真似をしているのかも知れない。

 沿って歩いてきた石壁と、覚醒してから異人にしか出会わぬ現実を思い返して、乙は肚裡で嘆息したが、

「いずこの家中のお方か」

 そう訊かずには居られなかった。

 しかし勝俣は、困った顔を老異人に向けた。老異人はかぶりを振ったのち、

「そんな訳じゃから、今日は屋敷に帰る。通してくれ」

 強引に話を切り上げた。

「ああ、はい――。どうぞ」

 勝俣は一歩退いて、三人を招き入れた。まず老異人が入り、二人が入ろうと、履物を脱ごうとした時、勝俣がそれを制した。

「あ、履物は脱がなくても平気。そのまま、どうぞ」

「で――では――すまぬが……」

 押し込みをするような錯覚を覚えながら、中に入った二人は、老異人に従い、四畳半ほどの小部屋を突っ切り、外に出た。

 目の前に広がる光景は、はっきりと、別世界であった。

 幅六間の広い石畳の通りは、すぐ横手の門の下を一端として、真っ直ぐに、もう一端に伸びているようであったし、両脇に立ち並ぶ建物は、どれも、日本には見られぬものだった。

「ここは、カディスの町じゃ」

 老異人は言った。


 五


 ナエニア地方カディスの町は、ノールバック聖王国に所属している。国境近くに栄える町で、東に足を向けると、カンナエ国領に入る。

 三方を全長二十七キロの城壁に囲まれ、今、城は無い。残る北側の一辺は川が流れ、天然の城壁を備えている。

 町を西に出れば、ノールバック大平原が広がり、中途、険阻隘路が、非常に少ないながら、いくつかあるものの、ノールバック城下までは、徒歩でも、急げば半月ほど、とされる。

 そんなことを、老異人に説明されながら、乙と留伊は大通りを行くが、全くと言っていいほど、頭に入ってこなかった。

 すれ違う人々の外貌や、建物にばかり、気を取られていたのである。

 人々そのほとんどが、明らかに異人特有のものであった。乙たちからすれば異様な肌の白さを持つ者もいれば、逆に異様な肌の黒さを持つ者もいた。中には、日本の人間らしい肌顔の者たちも居たが、彼らは興味深げな目を、二人に向けるだけであった。

 建築物に至っては、完全石造りと木石混同建築とが、おおよそ七対三の割合で建ち並んでいる。

 火事には強そうだ、と、乙は考えた。確かに火事には強かろうが、建てるにしても取り壊すにしても大変だろうとも思う。

 年耐久力も高そうだ。しかし、壁に囲まれた町の中では敷地にも限界があろう。年耐久力の高い建築物を普請して、工人や日雇いの町人たちは、全て建てきってしまった時に、どうするのだろう。人口も、一定の所で増加が止まるだろう。さあれば、生産力も止まるのではないか。いきおい、石高も増えぬのでは?

 つらつらと、愚にもつかぬ考えが浮かんでは消える。

 老異人はやがて、大きな屋敷の前で立ち止まった。乙の背丈の倍以上ある柵門を開き、二人へ中に入るよう促した。

 別段、表門から、玄関まで、距離がある、というのは、彼女らにとって、珍しいものでは無い。しかし、ぱっと見た目に、複数階建てと分かる洋館に、二人は、威圧されたかの如く、躊躇した。

 乙と留伊は顔を見合わせた。が、すぐに腹を決めた。


 華美な客間であった。天井は高く、家具調度品の類なども――乙と留伊には見た事の無い装飾にあふれた――、高価な――二人には価値など判ろうはずも無いが――物だ。

 この部屋だけで、二十数本の蝋燭に、惜しげもなく火が灯されていた。

「さて、と」

 乙と留伊に椅子を勧め、老異人はテーブルを挟んで向かい合う席へ腰を下ろした。

「腹は減っとらんかね」

 老異人は座ったかと思うと、またすぐに立ち上がり、

「ちょっと待っておれ。何か用意させよう」

 と言って、部屋を出て行った。

「……姫さま」

 並みの男よりも数倍、胆の据わった留伊ではあるが、さすがに不安なのだろう。

「これは、一体どういうのでしょう……? 私たちは……夢を見ているのでしょうか」

「あるいは、化かされておるのやもな」

 乙も、気味が悪いのは留伊と同じである。だからこそ、これ以上留伊を不安がらせぬよう、乙は務めて冷静な口調で言ったものだ。

「それならばどれだけ良い事でございましょう……」

 意識してかせずか、留伊の言は二人の行く末を暗示したものであった。


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