微笑
一
「明日は、雨かな」
高科乙が、ふと、庭先を見やると、丁度、燕が一羽、地を這うように滑空した。
「そのようですね」
若菜留伊の目にも、それは映った。
日が中天にあったのは、もう、六時間前の事であった。風は冷気を帯び始めている。
今、乙の手には、高科家先祖伝来の家宝である、弓が握られていた。名を、「仰虎」といった。
合戦の華が、弓から鉄砲にとって代わる頃に製作された、この赤漆の四方竹弓は、幾たびか、戦場を経験していた。
嘘か真か――。
乙の先祖、高科采女は朝鮮出兵の際、この弓を手にし、臨んだ。すると、かの地で一匹の虎に遭遇したという。采女は慌てるでもなく弓を構えた。途端、虎は自ずから仰向けに倒れ、襲気を散じた。采女は、虎とはいえ降参し無防備の態度であるのを仕留めるのは武勇で無し、と考えて、虎を逃がしてやった、という。
加藤主計頭清正の虎退治が、非常な評判になったのを、当時の高科家中は悔しがったが、采女本人は、むしろ、
「主計頭殿が虎を退治したのは、虎の方が主計頭殿を襲う気を持ち続けたからじゃ。畢竟、そうせざるを得なかった。なるほど、確かに、虎の皮を獲ったというのは武勇の証明になろう。そしてわしには、武勇にはならぬと世間の者は言うであろう。だが、それがどうした。わしは虎を降参させた。戦わずして勝つの、孫子の言葉を、体現して見せたのだ。戦って勝つのは難しい。武勇が無ければ出来ぬ。しかしな、戦わずして勝つのもまた難しい。これにもまた、武勇のなせる業と言えるのではないか」
と、家中の者を諫めた、らしいが、明らかに、己の方が武勇に優れていると言っている。
それは、子孫をして、眉に唾をつける話ではあったが、仰虎が強弓であることは変わらぬ。
名弓仰虎に弦を張り、矢を一本一本爪より、不備が無いのを確かめていると、
「姫――」
若菜梅雪軒景勝が、いつもと変わらぬ洋装ながら右手に日本刀を提げた切羽拓郎を伴って来た。
「これは切羽殿」
矢の点検を中断して、乙は拓郎に向き直り、留伊と共に会釈した。
「ほう――ふぅむ。見事な張り顔でござるな」
いつものように、好々爺然とした柔和な顔で、老人は留伊が保持する仰虎の姿に、感嘆の溜息を洩らした。
「今日はどうなされたのですか」
「さ、そのこと。この老体を労わってくだされるのは、痛み入る事だが、失礼ながら、梅雪軒殿の口を割らせていただいた」
乙と留伊は訝しげに梅雪軒を見たが、彼は、苦笑するのみであった。
「此度の戦い、拙者も助勢いたしたく思ってな。あいや、年寄りの冷や水と思ってくださいますな。お断りなられても、引き下がるつもりはござらぬと、思っていただきますぞ」
言って、拓郎は笑みを浮かべた。
「冷や水などと、そのような……。承知いたしました。ご助力、かたじけのうございます」
二
臥待の月であった。
ハーフアーマーを着込んだ二十人もの家来と、着流し懐手の死神心剣、身を震わせるアンドリュー教会のビシュケ司教を引き連れて、今まさに、馬上のオドアケル・スピレインはガイエル邸に迫ろうとしていた。途中、商人ハンロンの手勢十人と合流し、その数は、三十四となった。
ガイエル邸は広大である。およそ百メートルの一辺に、高さ三メートルある鉄柵に囲まれ、乗り越えるのは容易ではない。突入には表門、裏門どちらかを使うより他が無かった。
表門を使えば、広い前庭が広がり、裏門を使えば、目と鼻の先に、屋敷の裏口がある。
「我々が、裏門を固めましょう」
ハンロンがそう言い、道の途中で別れた。彼らが辻に消えるのを待って、心剣が無表情に、オドアケルに呟いた。
「御前――面白い事になるやも知れぬぞ」
オドアケルは、その真意が判らず、ぎろりと心剣を睨んだが、程なくしてその意味を知る事になった。
先行させていた家来の一人が戻って来、敵がすでに、前庭に姿を見せて、待ち構えている、と報告したのである。しかも、表門は解放されていると言う。
「どういう事だ!?」
オドアケルは大きく動揺を見せるが、
「計画変更は、昨日急遽にして御前が決めた、という事だ。それより、家捜しする手間が省けたと、思えば良い」
かたや心剣はどこまでも冷静であった。
「クソッ! ハンロンめ!」
また、いかにも「やって来い」とばかりに門を開けているのも、オドアケルにとっては憎らしい。
「策も弄し過ぎれば返り却って無策となる。御前は、こちらの士道に則って、正面からぶつかる他は無いようだ」
言ってのち、心剣が珍しく刷いた笑みは、明らかに皮肉の嘲笑であった。
オドアケルが、その目で敵の姿を見たのは、それから五分ののちの事であった。
過日、オドアケルを諫めた袴姿と振袖の、二人の少女の脇を固めるように、三十絡みの男と、王都の士官学校の制服に身を包んだ少年が二人、かすかに見覚えのある老人と、ベルヌーイ、賢者ガイエルがまさしく、煌々と燃え上がる二本の篝火に、陰影を揺らめかせていた。
オドアケルは騎馬のまま、ゆっくりと門を通過したが、その顔は憤怒に彩られていた。
およそ三十メートルの距離にまで近付き、馬が停まるが、その間、両陣営は篝火の木がはぜるのと、風と、足音しか、その耳に入れておらぬ。
その距離になって、初めて、オドアケルは内心で舌打ちせざるを得なかった。少女の一人、袴姿の手にしていたのが、槍ではなく長弓であったからだ。
その少女――矢筒を右腰にまわし、左腰に大小を二本差し、頭には白鉢巻を締めて、胸は革襷をかけ、袴のもも立ちを取った姿の、高科乙が声を発した。
「この真夜中に、突然、物々しくもやって来て、下馬もなさらずとは、いかに御領主といえど、無礼千万のお振る舞い。一体、何用です。お答え如何によっては、承知致しかねますぞ」
「黙れ小娘! 下賎な弓雑兵如きが俺へ尊大な口を利きよって! 無礼は貴様だ!」
乙の表情に、僅かな疑問が浮くのと、オドアケルが家来達に散開を命じるのが同時であった。
「貴様のような身分の者が、俺に逆らうか! 貴族であるこの俺に!」
オドアケルに留まらず、この世界の貴族騎士と呼ばれる者たち、その殆どが、弓という武器を侮蔑していた。正々堂々近付く事も無く、離れた場所から攻撃する弓は、姑息卑怯の武器であるという理屈であった。
しかし、戦において、鉄製鎧をも射抜く弓の威力は無視できぬ。故に、身分の低い雑兵に持たすのが常だったのである。
「笑止!」
梅雪軒の声が飛んだ。
「弓箭を蔑し、魔法を尊ぶか。翡翠を求め、瑠璃を棄つると同じ。愚の骨頂! 弓馬の門に生を享けた者が、その誉れを持って戦おうとするを、卑怯臆病と誹っておきながら、寝込みを襲うとは、騎士道と呼ばれるものも底が知れるというものだ」
「おのれ騎士の名誉に傷をつけよって! その罪は重いぞ! 死して贖うがいい!」
梅雪軒の言葉こそ、オドアケルにとって一番の大義名分であった。騎士は傷つけられた名誉は、命を賭して回復させねばならぬ、という不文律があった。
「貴様もだ! ベルヌーイ! 俺を裏切りおって!」
腰のサーベルを掴んだオドアケルは、その切っ先をベルヌーイに向けた。
三
オドアケルの号令一下、手下どもが声を張り上げて、乙らに向かってくる。
向かって来るのは左右ともに八人であった。正面の四人は、オドアケルとビシュケを守るように、剣を構えているのみ。
心剣はいまだ懐手のまま、冷笑を浮かべている。
乙から見て、右側面を留伊が守り、乙の矢は彼女の援護である。左側面をデュークと拓郎が守る。ガイエル、シドはベルヌーイを守りながら、状況に応じて魔法を放つつもりであった。事前に示し合わせていた作戦の通り、留伊、デューク、拓郎が、それぞれ、前へ出た。残る梅雪軒は、中央の遠隔攻撃隊の守備にあたる。
すなわち、鶴翼の陣であった。だが、対するオドアケルも、意図したかしないか、同じ陣形であると言えた。
鶴翼陣は、敵よりこちらが数に勝る場合に用いる陣で、数に劣る敵を包囲せしめんとする。
鶴翼陣に対抗する陣が、魚鱗である。中央の隊を頂点として、両翼に行くほどさげ、前進する魚鱗陣は、鶴翼に拡がる敵の中央を突破せしめんとするの陣形である。
しかし乙は、彼我の人数を見比べても、己の確信を疑いはしなかった。
その証拠に――。
デューク、拓郎の剣技は水際立っていた。素早い立ち回りで、相手を翻弄するデューク。どっしりと、ひとところに留まり、猛り来る敵を一刀の元に斬り伏せてしまう拓郎。対照的な二人の働きは、今の時間にして、五分と経たずして終わった。
右の敵たちは、留伊の薙刀の間合いに入るや、たちまちの内に、血煙をあげた。うまく間合いを逃れた者が二人いたが、乙は冷静に一矢を放つ。と、次の刹那には二の矢を引き絞っているのだった。こちらも、あっと言う間であった。
「ビシュケ! 魔法だ!」
オドアケルが指示するのを聞いた乙は、第三矢を番えるや、素早く斜面に打ち起こし、規矩正しいまま会に入った。
矢の延長線上に、心剣が立っていた。その肩越しに、ビシュケの司教という地位立場を表す帽子が飛び出していた。
会者定離の汐合い満ちた。乙は時期をあやまたず、大離れに射放つ。矢は、ひょーっ、と羽唸りも高く心剣に向かっていった。
心剣はしかし、微動もしなかった。わずか一寸隔てた空間に、風の切れる音を左耳に聞き流した心剣は、今度は、
「ひっ――ひぃぃ!」
帽子を射抜かれて肝を潰したか、ビシュケの情けない悲鳴を背中で聞いた。
はじめから、己の背後にいるビシュケの帽子を狙っているのを、看破していたのである。ビシュケの喘ぎが、消えた。気絶したようである。
「死神! 行け! お前達もだ!」
自身を守る手下へも、オドアケルは檄を飛ばした。手下四人は、言葉にならぬ叫び声をあげながら、走った。その時には、すでに留伊たちが待ち構えるだけの余裕があった。
戦闘が始まって、八分足らずで二十人をオドアケルは失ったのである。
「し――死神! 何をしている!」
オドアケルの顔は、怒りが払われ、代わりに、はっきりとした恐怖があった。心剣は動く気配が無かった。ただ、突っ立っているだけである。その姿はオドアケルの声を、無視しているかのようであった。
「クソ――ッ!」
なんということであろうか! オドアケルは馬首を回すと、馬腹を蹴ったのであった。
「うぬっ! 配下を見捨てて逃げるか!? 卑怯!」
乙は遠ざかるオドアケルへ射込んだ。矢はオドアケルの右肩へ刺さった。叫び声をあげる鞍上のオドアケルに馬が驚いたのか、棹立ちになる。なす術も無く、情けなくも地べたへその身を横たえたオドアケルへ、デュークと留伊が近寄った。オドアケルが身を起こした時に、二つの刃物が突きつけられた。
ここに至り、ようやっと心剣が動いた。ゆっくりと、両手を袖から現し、数歩前に進んだ。
「ふっふふ……今坂額に、今巴、といった風情か。浅利与一の故事に倣って、俺が勝った暁には、その操を頂戴するのも悪くないと言うものだ」
残り一人になって、まだ、勝ちを口にするその態度は、小面憎いものであった。
「あ奴……セクハラになるかと思って儂が我慢しとったフレーズをさらっと……!」
ガイエルが憤慨した。乙には何のことか分からぬ。仕方なく、無視するより無かった。
「黙れ死神! 貴様の相手は俺だぞ! 尋常の勝負をいたせ!」
梅雪軒が素早く間合いを詰めた。距離は三間。対峙するにはまだ遠い間合いであった。
「よかろう。再びの登龍落とし、この世の見納めにするがよい」
二人は同時に抜刀した。心剣は左手を前に突き出し、右手は片手上段――登龍落としの構え。対する梅雪軒は、晴眼にとった。
――なるほど……。遣う……!
乙は心剣の実力を見て取った。ことによると、梅雪軒は倒されるかも知れぬ、という不安が乙を掠めた。
敵に攻撃させておいて、後の先を取らんとする登龍落としは、乙自身の嘴の構えと、着想は同じであろう。だが、その威力と精度は、乙のそれを大きく上回るに相違ないと見てとってよかった。
――加勢するか?
ちらと考えたが、梅雪軒は尋常の立ち合いを宣言している。加勢は、梅雪軒の面目が立たぬことであると思い直した。
「乙ちゃん、勝てるのかの? 手助けしたほうが良くないかの?」
ガイエルは囁くように、乙へ言った。ガイエルにしても、同じような危惧が浮かんだ為であろう。
「いえ……ですが、いよいよの時は、お願いいたします。シドどの、申し訳ありませんが、これを」
そう言って、乙は弓をシドに預かってもらい、左手で麒麟国広の鞘を掴んだ。もし、梅雪軒が敗れるような事があらば、即座に自分が変わって心剣の相手をするつもりであった。
四
梅雪軒は死神心剣の遣う、登龍落とし攻略の策を練り続けて、一応の答えを見つけたが、いざ、再び対峙して、果たして通用するのか、その疑問を払拭できずにいたのは確かである。
あくまで、梅雪軒の考えるところ――登龍落としは、相手に突き出した左手を、囮とする。相手が左手を狙って動けば、上段から刀が振り下ろされる。これは、相手も予測できる。だが、登龍落としの本質は、二の太刀にある。相手が、初太刀を躱すなり、受けるなり、その状況に応じて、間髪入れぬ二の太刀を繰り出す。
梅雪軒は考えに考え抜いて、答えを決めた。
相手の策に乗る。その上で、相手の予期せぬ攻撃に出る。これであった。
今、梅雪軒の前には、すでに冷笑も消し、幽鬼のように白刃を天にかざす心剣がある。絶え間なく、左手の五指がうごめいている。
梅雪軒は、凄まじい剣気を放射しつつ、じりっ、じりっ、と間合いを詰めた。一足一刀の間境に入る手前で、梅雪軒はぴたりと止まった。
それから、ものの五分、心剣の左手の五指以外が、絵に入った如く、なんらの変化も見せなかった。
先に仕掛けたのは、やはり、梅雪軒であった。一足一刀の間境を越えるや、
オオッ――!
気合と共に、小手突きを放った。心剣は左手を引き、右手の刀を袈裟に振り下ろす。梅雪軒は体を開いて躱した。心剣の二撃目が逆袈裟と見るや、梅雪軒は後ろへ、間合いを外すように飛びすさった。
キンッ、と高い金属音を残して、両者の間に、真っ二つになった刀の鍔が落ちた。
不思議なことに、梅雪軒の握っている柄には、刀身が消え去っていた。そして刀身は、心剣のわき腹に、深々と、突き刺さっていた。
「ふ――ふふっ。面白い……策だと……誉めておく」
心剣は言いながら膝を突いた。
実は、梅雪軒は刀の柄の中に、バネを入れ、目釘を抜けば、飛び出すよう細工していたのであった。
わき腹に刺さった刀を、心剣は左手でむずと掴むと、引き抜いた。
「梅雪、見事だ」
脇差を手裏剣とする、心剣の技に、最大の注意を払いながら、梅雪軒は近付いてくる乙へ、頷いた。
「ありがたきお言葉」
心剣は両の目蓋を閉じて、痛みに耐えているようであった。梅雪軒は乙へ頼み、麒麟国広を借り受けると、
「その出血は止まるまい。武士の情けだ。とどめを刺してくれよう」
目蓋を閉じたまま脂汗を滲ませる心剣へ言った。
梅雪軒は国広を構えるや、間髪を入れずに振り下ろした。
しかし、心剣はしぶとかった。まだ右手に握っていた刀で、しっかりと梅雪軒の斬撃を止めたのである。
「む!」
思わず、梅雪軒は呻き、心剣の次斬に備えて距離を取らねばならなかった。
「お手前に、憑りつかせてもらったと……言ったはずだ」
梅雪軒のみならず、乙も、眉を顰めた言葉であった。心剣はカッと目を開いたかと思うと、
「次こそはお手前の命を獲る! おさらば!」
叫ぶやいなや、さっきまで、血を滴らせる膝突いた人間とは思えぬ動きを、見せた。後方へ、優に四間を一挙動で跳躍し、着地したかと見るや、梅雪軒たちにそびらを見せ、だっ、と走りだした。
「おっ――!」
瀕死の者の、あまりに突拍子の無い行動に、梅雪軒は思わず声を出すのみで、すぐに動く事は叶わなかった。
「エイッ!」
走り来る心剣へ、留伊が大薙刀を横へ振るうも、虚しく風を薙ぐのみであった。心剣は、再び、跳んだのである。
心剣はオドアケルを一顧もせずに、ぐんぐんと距離を離していく。ようやく、心剣の後を追おうと、梅雪軒は動いたが、
「梅雪! 追わずともよい!」
乙の制止もあり、悔しげに、去っていく心剣を眺めた。
「……あの深手では助かるまい。孤狼死すに、独りを常となす……と言ったところ、か」
この、乙の言葉に、梅雪軒はなんとも言い知れぬ嫌な予感が働いたものだが、
「恐ろしい奴です。あの傷で、あれほどの動きを見せるとは」
「うむ。しかし、あのような状態で激しい動きをすれば、どうなるか、あの者も解っていよう。……それに」
乙はオドアケルへ視線を投げた。何か喚いているようであったが、聞き取れなかった。
五
邸の広間へ、体を移しながら、
「僕ら、なんの活躍もしませんでしたね……」
「活躍どころか、なんもしとらん」
シドとガイエルが不平と言うほどのものでもなかろうが、言葉を交わした。
「貴様ら! この俺にこんな事をしてタダで済むとは思うな!」
相変わらず、オドアケルは喚いているが、その体は、縄に巻きつかれていた。
「ベルヌーイ、貴方は副司教でありながら、司教たるわたしをどう考えているのです」
同じく縄を打たれたビシュケが、ベルヌーイに対して、高圧的であった。しかしベルヌーイは、沈痛げな眼差しを返すのみであった。
「どうなると、言うのです」
喚くオドアケルへ、乙は、挑発するかのようであった。
「どのような由で、ガイエル殿のこのお屋敷を襲ったのか、聞いてみたいものです」
「犯罪者の討伐に、理由などいらん!」
「犯罪者、じゃと?」
言いながらガイエルは笑った。
「そうだ! そこの女二人は、俺の家来を四人も殺した!」
「文にて、そのことは申し開きを済ませてあるはず。斬らねば、斬られたという状況でしたので、やむなく斬った次第」
「そもそも、先に無礼を働いたのは、あの者たちです」
乙と留伊、特に留伊が、オドアケルの大声に、顔をしかめながら、言った。だが、オドアケルは聞く耳を持っていなかった。
「その上、当家の剣までも盗みよって! 裁判にかけるまでも無いわ!」
「盗人猛々しいとは、貴方のような方の事を言うのであろう」
そう言って、乙はメルベ鉱山の事を告げた。
「俺の領地だ! つまり俺の財産だ!」
どう考えても、通らぬ道理であった。
「たわけ者め。その言葉、御宰相の前で、もう一度言ってみるのだな」
梅雪軒は、唾を吐きかねない様子であった。乙は視線をビシュケに転じた。彼も、彼なりの勝手な理屈で、ベルヌーイを詰っていた。
「このままでお前は許されませんよ。私が許しても、神がお許しになりません。お前はそれでも良いというのですか。いいですかベルヌーイ。私はお前が地獄に堕ちるのを見たくは無いのです。今なら、まだ、間に合います」
乙の目には、ベルヌーイはビシュケの言葉を拝聴し、後悔しきり、とは見えなかった。かといって、聞き流しているとも見えなかった。
「このままではお前は地獄へ堕ちる。神の救済も慈悲も受けられない。それでもよいのですか」
「おかしな話としか、言いようが無い。そなたらの教えでは、どのような人間であろうと、神は赦すのであろう。なのに、何ゆえ、地獄という言葉を使うのか」
思わず、乙は言った。頬のたるんだ醜い顔を更に歪めて、ビシュケは不快感をあらわにした。
「異教徒が……口を挟まないでもらいたい」
これを聞いて、乙は鼻で笑ったものだ。
「ふむ、異教徒か。おぬしらの神は、異教徒だから、という理由で、慈悲を与えぬのか。どのような罪も赦すと謳っておきながら、随分と度量の狭い神も居たものだ」
「神を敬いもせずに、慈悲を求めるとは、なんと虫のいい」
「違う神を敬う事が罪であれば、その罪も赦すべきであろう。神は赦すと言っているのに、おぬしが赦さぬと言う。はてさて、おかしな話だ」
「私は司教という立場なのだ。魂の罪は神がお赦しになられるが、生きている者は違う」
「どうも解らぬな。それでどうして、ベルヌーイ殿が地獄に堕ちるのであろう?」
ビシュケは、乙を全く理解力の無い人間だ、と言わんばかりの目で、睨んだ。己のした事が間違っていないと、豪も疑っていないのか、または、信じ込もうとしているのか、乙には判断しかねたが、ビシュケの瞳に、狂いつつある人間の光があるのは、認めた。
――鰯の頭も……だな。
乙は胸中で溜息を吐いて、頭を振った。
「話にならない」
ビシュケのこの言葉は、乙こそが言いたいものであった。
「姫、姉上。そろそろ、お休みになられてはいかがです。あとは、拙者にお任せを」
「そうだな」
「では、拙者もおいとまいたそう」
年寄りには夜更かしは辛い、とぼやきながら、拓郎が椅子から立ち上がった。
「切羽殿、このような時間ですし、お泊りになっていかれては」
「梅雪の申すとおりです。是非に」
「ありがたい申し出ではござるが、戻らねば、息子が余計な心配をいたすのでな」
「そうですか……。では、残念ですが……。今夜はご助力頂き、まことに有難く存じております。このご恩は、決して、忘れ申しません」
乙たちは深々と頭を下げた。拓郎は笑いながら、
「老いぼれの非力な力でござる。まずは一段落。祝着至極」
一揖し、ふと、思いついたかのように、ベルヌーイへ、声をかけた。ベルヌーイはゆるゆると、体ごと拓郎へ向き直る。
「老婆心ながらに、申し上げておく。莫迦な事をお考えならば、お止しなされ。御貴僧には、御貴僧の使命が、まだあろうかと、愚老の目には映る。くれぐれも、お考え下さるよう」
直後、ベルヌーイの目に、光が湛えられるように、乙には見えたものだった。その光は、ビシュケのそれに似て、しかし、別なものであるように思えた。
わずかに、ほんのわずかではあったが、ベルヌーイは微笑み、拓郎へ一礼をした。それを見て、拓郎は、安心したかのように、何度も何度も、小さく頷きながら、微笑を刷いた。
「では、拙者はこれにて、失礼仕る」
そう言って、拓郎は一礼した。乙は、先ほどのベルヌーイと拓郎のやり取りを、何か、優れた書画や優美なる庭を観る心持ちで眺めた。二人のやり取りが、強く、印象的であった。
自身も微笑していると、乙が気付いたのは、拓郎が去って、一分後の事であった。