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ファイアー

 一


 この日、アンドリュー教会では、葬儀が執り行われていた。

 たとい、オルレイア教の人間でなくとも、死者の葬式は、アンドリュー教会の役目であった。カディスには、アンドリュー教会一つきりしかないからだ。町の人間の不便を考えれば、自ずと、そうせざるを得ないし、そもそも、百数十年に渡って宗教の自由を取り入れているノールバックの人間は、あまり、宗教というものに興味もこだわりも薄いのである。お国柄と言えた。

そんなカディスにも、僅かながら存在するウルミーヤ派の信者の葬儀であった。

 ベルヌーイ副司教が、この葬儀を進行していた。そして、後は厳かに、埋葬するだけである。

十日間、地下の安置場で、ビシュケ司教が祈りを捧げ、魂魄は清められている、という事になっている。だが、そのような事実は、無いのである。

安置場での死者への祈りは、司教の仕事である。副司教の立場で行う事は越権行為であった。だが、ビシュケはそれを長年怠っている。ベルヌーイは越権行為を知りながら、死者へ祈ってやっていた。

 半月ほど前に、賢者ガイエルの報せを受けて、引き取った四名の屍体も、実は安置し、祈り、ひっそりと埋葬を済ませていた。当然、ビシュケは知らぬことである。知るはずが無い。あの男は、もう何年も、安置場には入っていないのだ。

 弔問客が、死者へ最後の別れを口にし、最後にベルヌーイが、

「神の御許へ参りなさい。その清らかな魂で――」

 死者に祝福の言葉を述べるのだが、死化粧を施されたこの老婆の顔を見た刹那であった。ベルヌーイは、己の祝福が、この、信仰を全うした老婆に、果たして、真に受け入れて貰えるだろうか、との思いが生まれた。


 それでも、式は滞る事無く終わり、ベルヌーイが礼拝堂で神に祈りを捧げていると、

「あの――」

 年のころは二十代半ばだろうか、赤い髪、青い瞳をした青年が、鎮痛な面持ちで礼拝堂へ入って来た。

「なんでしょうか」

 ベルヌーイには、初めて見る顔であった。他人の祈りの最中に声を掛けるという無作法を鑑みても、信仰の徒で無い事は確かだ。

「こちらの、司教様は……?」

 青年は、おずおずと言った。

「司教様は、お体の加減が優れませぬゆえ、何か、お話があれば、わたくしが代理を務めさせていただきますが」

 ベルヌーイはそう答えて、肚裡で神に懺悔をした。

「そうですか。それでは、お願いしたいのですが。実は、父が今、危篤状態でして……」

「それはいけません。病ですか? それでしたら、お薬を差し上げましょうか」

 青年の顔を見ると、どうやら、病からのものでは無いと、見て取れた。果たして、青年はベルヌーイの思ったとおり、

「いえ、寿命だと思います。それで、父が言うには、『神の教えを知りたくなった』と」

 多宗教国家には、死を悟ると、そう考える人間と言うのが、少なからず居るものである。はっきり言ってしまえば、毎度の事であった。下世話な話になるが、宗教側から見れば、教徒獲得のチャンスでもある。勿論、遺族が狙いである。

「分かりました。では、支度を整えてまいります。一刻を争うでしょうが、少し、お待ちいただけますか?」

 青年は頷いた。


 二


 若菜梅雪軒景勝はすでに半刻ばかり、切羽拓郎と、黒白(こくびゃく)の石を戦わせていた。

「ふむ……」

 もともと井目に置いていた梅雪軒だが、拓郎の一手に考え込んだ。黒の強い所ではあるが、手抜きは出来そうに無い。かと言って、応対すれば、要の一団が危ない。

 (じっ)と盤へ目を落としている梅雪軒へ、拓郎は静かに問うた。

「否やも無く、お引き受けした次第だが、真に、あのような事だけで良いのでござるか?」

 拓郎の息子、アレックスに、ベルヌーイを騙ってこの家へ連れてくるよう、梅雪軒は頼んだのであった。

「ええ。厚かましいお願い、お聞き届けいただき、感謝の言葉もありません」

 盤から顔を上げて、梅雪軒は頭を下げた。

「しかし、おことほどの方が、深手を負われる相手を、敵は抱えておられる」

 登龍落としなる深業の剣を振るう、死神心剣と名乗る男を、梅雪軒は思い出す。

「……はい」

 梅雪軒はしかし、再び心剣と相見える時の、登龍落とし攻略の工夫を、練り続けていた。油断は禁物だが、その弱点は、掴めている確信が、梅雪軒にはある。

「昔取った杵柄などと言うものはござらんが、それなりに、剣術には熱心であったと、振り返る次第。それがしも、楯程度には、おことのあるじ殿の役には立つかと存ずるが」

「そのような……切羽殿を楯になど、姫がお許しになられません」

 出来るだけ強い語気で言ったが、確かに、拓郎の腕は魅力的であるように、梅雪軒には思えた。日常の所作振る舞いに、微塵の隙も無いのであった。

 そこへ、アレックスの戻ってきた気配が、二人へ届く。

「戻られたようですな」

「そのようで」

 拓郎の相槌に、梅雪軒は、今一度盤面を眺め、

「コウにするより、他は、ありませぬかな」

 呟くように問うた。

「コウでは黒は厳しい。ここは、この一手」

 拓郎はアゲハマの一石を置いた。

「これで、セキでござる。されば、生き」

「ふむ! なるほど。――参り申した」

 梅雪軒は投了した。

「拙者も、久し振りに一石愉しませて頂いた。……さて、次は愉しむ訳にもいかぬ勝負が待っているが――」

 拓郎と梅雪軒は、表情を引き締めた。

「――お連れしました」

 二人の前に姿を見せたアレックスとベルヌーイ。しかし、ベルヌーイは、非常に怪訝な表情で、拓郎と梅雪軒を一瞥ののち、アレックスに言った。

「これは、どういう事でしょう。貴方のお父さまは、臥せっておいでではなかったのですか」

「すみません」

 アレックスは申し訳なさげに謝ったのち、拓郎に言われて、部屋を出て行った。

「そなたが、教会の副司教殿ですな? 偽りを用い、御足労頂いた非礼は、いかようにも詫びる所存。御容赦くだされ」

 拓郎が、威厳のある態度で、言ったものであった。あとを引き継ぐ形で、梅雪軒は、短兵急に、ずばりと言った。

「教会がオドアケルと語らっての悪事――こちらは見抜いておると、お思い頂こう」

「……」

「そして、御貴僧は教会とオドアケルに不満を抱いていらっしゃる。いかがか?」

 ベルヌーイは眉宇一つ動かさぬ。

「御貴僧の尊ぶ教義――これは、それがしには解りませぬ。しかしながら、これは、御貴僧にとっても、またとない好機ではござらぬかな? 腐敗不正に麻痺した上司、そしてオドアケル。勝手ながらの意見にござるが、御貴僧は、理非曲直が解る御仁とお見受けいたす」

 ベルヌーイの反応はやはり薄い。だが、

「私に……裏切れ、と?」

 静かに、そう訊いてきた。しかし、その答えを待たず、ベルヌーイは首を振った。

「それは、出来ません」

「なにゆえに?」

「教義ゆえに。……私は、確かに、司教様やオドアケル様のなされている事に嫌気が刺しています。ですが、ウルミーヤ派の教義が、御二人の非を問う事を許しません」

 梅雪軒は、黙った。想定内の答えであった。否、むしろ、そう答えてくれるのを待っていた、とも言えた。

「……」

 いくばくかの静寂ののち、動いたのは梅雪軒であった。

「殉ずると申される? それは、あまりにも愚かであろうと、存ずるが」

「いかようにも。私は、信念を持って、この道へ入ったのです。……それを今日、思い出しました」

 ベルヌーイは強固な意志をその瞳に宿らせていた。しかし、梅雪軒は、告げた。

「拙者の目からは、御貴僧は教義に忠実なのでは無く、ただただ上司に忠実なだけ」

「――!」

「……。御貴僧の上司か、オドアケルかは判らぬが」

 そこで梅雪軒は、ただならぬ表情となり、

「どうやら御貴僧を亡き者としたいようでござるが――?」

 左手で、傍に置いていた大刀を引き寄せた。

 既に拓郎も隙無く静かに障子の前に、動いていた。

「若菜殿――」

「切羽殿は、ベルヌーイ殿を」

「承知」

 拓郎は言い様、障子を引き開け、ベルヌーイに飛び掛った。

「あっ! 何を!」

 ベルヌーイが短い悲鳴をあげる間にも、梅雪軒は鞘を引き払い、庭を厳しく眺めた。庭と呼ぶのもおこがましい、狭い庭であった。人影は無い。だが――間違い無く居るのだ。

「……お主であろう、死神心剣」

 梅雪軒はそう決め付けた。

「お主か……生きていたようだな」

 梅雪軒はちらと、拓郎とベルヌーイへ視線を送った。拓郎がベルヌーイを庇う体勢であった。

「先日の決着――つけるか。お主の登龍落としとやら、破って見せようぞ」

 姿を見せぬ死神心剣へ、梅雪軒は挑発をしてみたが、

「ここでつけずとも、いずれ、近いうちにつく事になろう」

 心剣は言って、姿を現さぬまま、気配を消した。


 三


 死神心剣が、オドアケル・スピレインの屋敷に戻った時、オドアケルは、高科乙からの文を受け取っていた。


 文して申し上げ候。

 当地のしきたりを知らぬ故とは云えど、御領主配下の者四名斬り臥せし候の儀、他に致し様無く候故、先ず御納得して頂きたく候。

 他方、諸事事実を鑑みるに、御領主が秘密の鉱山で為されている所業、真に度し難く、許しまじく候。よって、此の文にて御領主へ御報せしたき儀は次の如し。

 近く来訪されたる御老中殿に、事次第、申し上げ奉り候。御領主には、御老中殿の沙汰ある迄、大人しくなされるべしと、御忠言申し上げ候。

 構えて御忘れにならず、又、御覚悟被下度(くだされたし)

                       高科乙


 オドアケルは目を通したが、何を書かれているのかが、そもそも判読できないのであった。

「どれ、俺が読もう。――ふむ。達筆」

 葡萄酒を呑んでいた心剣が、オドアケルから文を受け取り、一読するや、この男としては非常に珍しいことに、呵々(かか)としたものであった。

「心剣! 何と書いてある」

 心剣は最初から読み上げたが、やはり、オドアケルには理解の他であったようだ。

「御前。早い話が、覚悟をしろと書いてあるのだ。御老中――これは、宰相の事であろう。金山の秘密、宰相に伝えるとの事だ」

 それを聞いたオドアケルは、顔をしかめた。そこへ心剣は、ふと、思い出したかのように、

「ベルヌーイだが、奴らの手に落ちたぞ」

「――なにっ!?」

 オドアケルは目を剥いた。

「御前、決断するなら、今のうちだな。あの商人の言うままに待つか、早々にケリをつけるか――」

「分かっている!」

 忌々しげに吐き捨てておいて、オドアケルは葡萄酒の壜を引っ掴んだ。そのまま口に運び、液体を咽喉に流す。

「こうなってはなりふりも構っていられるか!」

 鼻息も荒く、叫んだ。心剣は相変わらず、感情の無い貌をしながら、葡萄酒をあおった。


 四


「明日、夜更けて、オドアケル様は動くそうです」

 商人ハンロンは、賢者ガイエルへそう言った。

「ほほう。奴め、副司教を奪われ、乙ちゃんに手紙を送られて、焦ったな」

「そのようで。おかげで、こちらも急がされましたが」

 ハンロンは、厳しい顔つきになって、

「さて、ですがそうなると、こちらとても、考えを改めねばなりません」

「ほう?」

 片目を大きくするガイエルにハンロンは薄ら笑いを浮かべながら、言ったものである。

「あたしを信用して下さらなかったようですからね」

「信用、なぁ」

「あたしは商人ですからね。今後はその時その時で、儲けの大きい方を選ぶことにしますよ」

 それを聞いていた高科乙が憮然として口を挟んだ。

「日本には、損をして得をとれ、との諺があります」

「こちらにも、ございますが。ですがそれも、信用あってのこと。なに、あなた方がお勝ちになれば良し、そうでなければ、あなた方は屍体になる。もしやすれば、ゼクス様も。向こうには、稀代の遣い手が居ますからね」

「乙ちゃん、こやつの言う通りじゃ。商い人が金算用せんようになると、いかにも不気味じゃて。じゃがな、ハンロン、これも計画の内じゃったんじゃよ。そう怒ってくれるな。ゼクスには、よろしく言っておく」

「敵を騙すには、というのですね。ふふ、わかっていますよ。ですがね、あたしがヘマをすると思われたのが、気に入らなかっただけですよ。ご安心を。ともかく、あたしはこれで失礼します」

 恭しく一礼してのち、ハンロンはガイエルの部屋を去った。

 深夜一時を回っていた。

「明日か――急じゃの」

 ガイエルの視線の先には、例によって辛気臭いオーラを漂わせる、ベルヌーイ副司教の姿があった。

「もう少し、喜んでみてはどうじゃな? 凋落腐敗した教会に、風穴を開けることになるんじゃぞ?」

 ベルヌーイは静かに首を振って、否定した。

「ふん――難儀なやっちゃ。宗教なんぞに凝る奴の気が知れん。生き辛くなるだけじゃろうに」

「ガイエル殿。失礼ながら、些かお言葉がお過ぎではありませんか?」

 留伊の言葉は、乙が言おうとしたそれと、同じであった。

「神仏の教えとは、人がいかに生きるべきかを説いたもの。わたしは仏教徒ですが、耶蘇にも、耶蘇なりに導ではありましょう。教えに反する行為は、大きな、覚悟を必要とするものです」

 乙は、留伊の後を引き継ぐ形で、そう言った。

「おっと、薮蛇じゃったか」

 ガイエルは禿頭を手で叩いた。

「悪いが、俺達は無宗教主義なんでな」

 デューク・ミレイリアはそう言い捨て、シド・ミレイリアは、乙らに申し訳無さそうに頷いた。メアリーの姿は無かった。彼女は、乙たちが強く勧めて、すでに休ませていた。だが、仮に彼女がこの場に居ても、血の繋がらぬ兄二人に、同調したであろう。

「ですが己を律する確固としたものを持つのが、人、と言うものです。それが無いのであれば、犬畜生となんらの変わりも――」

「姫。畏れながら申し上げますれば、それが、この国であり申す」

 梅雪軒は慌てて主をなだめた。

「それでも、彼らは、人らしく生きており申す。それらは、親の教え、世間の教えと申すものでありますれば……」

「う、む……」

 梅雪軒は、もう、十年も前にこの世界へ来、人々を眺めているのである。来歴ひと月にも満たぬ乙よりも、ずっと、説得力があった。

「申し訳の無い事でした。よくも知らぬ事を、わたしの常識に当て嵌めて述べ、非難するとは……」

 乙と留伊は素直に頭を下げた。非を素直に認めるこの態度は、ベルヌーイの目に健気なものとして眺めさせるに充分であった。

「とにもかくにも、明日は奴らめが襲って来よる。撃退には、乙ちゃんと留伊ちゃんの二人が積極的に動かねば、大望成就の足掛かりにはならん事じゃ」

「心得ております」

 言って、乙は口を真一文字に結び、頷く事で、覚悟の表れとした。

「うむ。ところで、梅雪軒。二人には、ちゃんと話しておるのか?」

 急に、そう言われて、梅雪軒は少なからず戸惑った。

「何を――でしょうか」

「魔法のことじゃ」

 梅雪軒は思わず、

「あっ!」

 となったものである。死神心剣が操る『登竜落とし』に対する工夫にばかり気が行っていて、あろうことか、全く失念していたのであった。

「魔法とやら、手妻か何かの類かと、思っておりましたが」

 神妙な面持ちで、乙は言った。その時の彼女の脳裡には、先日吹き飛ばされた扉の光景が、よみがえっていた。シドの仕業である。しかしよくよく考えてみれば、それを間近で見ていたはずの留伊でさえ、仕掛けを看破することは出来なかった。

 留伊が、仕掛けを見抜けなかったのも、無理ない事であった。そもそも、仕掛けなど、無いのである。敢えて、これが仕掛けである、とするならば、それは呪文をさしていよう。

「それなりに疲れるので、日によって、使える回数は違ってきますが。一つ、お見せしましょうか」

 シドは蝋燭を一本、火を吹き消すと、テーブルの上に置いた。

「さ、お師匠、お願いします」

 てっきり、シドが見せてくれるのかと思っていたので、乙は少々肩透かしを食った気分ではあったが、おくびにも出さずに、ガイエルへ視線を固定した。

「お前は不安定じゃからなァ」

 別段、不快の色も見せず、弟子へそう返すと、小さく、何かを口の中で転がすようにして呟いた。

「ファイアー」

 不意に、ガイエルが右人差し指で蝋燭を指差すと――

 奇妙! 

 細い煙を立ち上らせていた蝋燭の灯心が、にわかに一寸ほど光ったかと見るや、次の刹那には、消えていたはずの火が、再び燃えているのであった。乙と留伊は、思わず目を瞠った。

「なんと……」

「むっふっふ。いつもながら、免疫の無い人間に見せるのは、気分がええわい」

「そうですね。ファイアー一つで、ここまで驚いてもらえるとは。本来は、それなりの長さの呪文を、はっきりと詠唱する必要があるんですけれどね。お師匠の場合、魔力が強いので、こういったことも出来るんです」

 後半を、乙と留伊へそう説明したシドは、蝋燭を元の場所へ戻した。

 乙たちは驚いて、言葉も無い。ただ、

 ――陰陽の術のようなものか?

 と考えれば、何とか、納得できるような気がするのであった。

「まあ、人によって魔力は様々ですし、勉強もしなければなりませんが、魔力さえ有していれば、ファイアーぐらいならすぐに使えるようになりますよ」

 にっこりと微笑んだシドであった。そこへ、一つ嘆息して、デュークが言った。

「片手落ちだな。俺のように魔力があっても、素質の無い奴だっている」

 ガイエルも口を出した。

「両方あっても、誰かさんみたいに覚えが悪くて成長のおっそい奴もおるしのう」

 シドは一つ二つ咳払いした。

「……とにかく。先ほども言いましたが、効果の割りに疲れます。乱発や連発すると、すぐにバテちゃいますから、そうそうしてこないとは思いますが、気をつけてくださいね」

「遣い手によっては、炎を矢のように飛ばしたり、稲妻を呼び寄せる者もございます。何卒、ご留意を」

 更に注意を促す梅雪軒の言葉の後に、口を開いたのは、意外にもベルヌーイであった。

「ビシュケ司教さまも、オドアケルさまも、魔力はごく僅かです。ファイアー一回が、限度でしょう」

「ほう、腹を括ったようじゃな」

 ベルヌーイは変わらず陰気な顔であったが、それでも、小さく頷いた。

「ずっと……信仰とは何かを……考えておりました。僅かですが……答えを見つけた気がいたします」

「さよか」

 ガイエルはつまらなそうに相槌を一つ打つのみであった。

「しかし、あのハンロンとやらのいう事、信用してもよいのでしょうか。明日の夜更けと我らに教えておき、その実、早朝に、という事はありませんでしょうか」

 留伊が懸念したが、

「それは無いじゃろう。ああは言っとったがな。ま、警戒しておく事に尽きるもんはないが」

「では、休んでいる所を心苦しいですが、使用人たちを、今のうち、避難させておきましょう」

 提案したのは、梅雪軒であった。


 五


 自室へ戻った乙は、ふと、思い立ち、

「留伊」

「なんでしょうか?」

「すまぬが、水を一杯、持ってきてはくれぬか」

「はい」

 乙に忠実な留伊は、嫌な顔一つせず、再び出て行った。

 一度、部屋を眺め回した乙は、しばらく何かを考えていたが、窓まで進むと、開いた。

 夜気が部屋へ入り込んでくる。昼間、じっとりと汗ばむほどの暑さではあったが、この時間の夜風は、驚くほど冷たかった。

 見上げれば、満天に無数の星が輝いている。

「……よし」

 乙は何かの決意を持って、小さく呟いた。

 ――確か、それなりの長さの呪文を唱えるのであったな。

 決意は、これであった。おそらく、成功などしようもないが、万が一成功して、何かに燃え移ってしまっては事である。それが為に、乙は窓を開けたのであった。

 ――ガイエル殿はどのような文言を述べられたのであろう?

 乙は思い出すが、あまりに小さな声であって聞き取れなかった。乙たちの時代にあっては、廃れて久しい陰陽の術など分からない。仕方なく、乙は自分で工夫する外無かった。

「……天照大神、南無八幡大菩薩、日光の権現、我に力を与えたまえよや」

 ――うむ。確か、これくらいの時間だった。

「天照大神、南無八幡大菩薩、日光の権現、我に力を与えたまえよや。……ふぁいあー」

 乙は空へ人差し指を立ててみたが、当然のことながら、何も起こらないのであった。

「……やはり、駄目か」

 もとより、分かりきった事ではあったが。

「何が駄目なのでございますか?」

 はっとして振り向くと、コップを持った留伊が、いたずらっぽい笑みで立っていた。

「あ、留伊」

 見られたくなくて、水を取りに行って貰ったというのに、しっかりと目撃されたようであった。

「う、うん。わたしにも、出来ぬかと思ってやってみたのだが、駄目であった」

 照れ隠しに咳払いののち、乙はそう言った。留伊は、コップを乙に手渡しながら、微笑した。

「実はわたくしも先ほど、御勝手で、こっそり試してみました」

「そうか。それで、どうであった」

「わたくしにも、無理でございました」

 そして二人は、どちらかとも無く、笑いあったものである。


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