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Journals of the Dead  作者: 数奇者星
第一部 学園監獄編
9/33

第二話 攻撃的な死と再生(1)

脳に響く音を聞いて、橘夕たちばなゆうは瞼を開けた。

冬の朝。まだ温もりが残るベッドからのそりと起き上がり、まず服装の乱れを確認した。

寝間着には上下ともにだぼっとしたスウェットを着ているので、体の線は見えていない。とはいえ油断は禁物だ。姿見で自分の姿を確認していた矢先に、部屋のドアを控えめに叩く音がした。

「おはよう、夕さん。昨日はよく眠れた?」

案の定、ドアの向こうには副会長が来ていた。

「ええ。思っていたよりもずっと快適でした。それに、朝も。……目覚まし時計はいらないって言っていたわけがよくわかりました」

副会長は窓の外を見やりながら、笑う。

「すごい音だったでしょう。学園中に響くのよ」

耳を澄ませなくても、聞こえてきた。遠くから聞こえる鐘の音が。


学園の隅。そこにはぽつんと忘れさられたように礼拝堂が建てられている。

なんでも学園が立てられる以前からあったというその礼拝堂は、よくいえば歴史のある、悪く言えばぼろちい、隙間風が冷たい建物だった。

長椅子が等間隔で並べられ、日の光が集められたグラスが中を照らす。

いかにも人の良さそうな少女が、せっせと掃除をしているのが印象的だった。確か檜尾ひおといっただろうか。

彼女自身は一生徒なのだが、熱心なクリスチャンらしく自主的にせっせと拭き掃除に励んでいた。

「何か一人思い悩むことがあれば、どうぞ此処へ来てください。神は迷えるものの味方です」

そういって穏やかな笑みをこちらに見せていた。


「そうなると鐘というのは、やはりシスターがついているんですか?お寺みたいに?」

着換える時にまで入ってこられると面倒だったが、相手もそこまでは踏み込んでは来ないあたり、節度は心得ているらしい。三分ほどで着替えると、連れだって階段を降りた。

昨日副会長に紹介された他の学生と挨拶をかわしつつ、玄関からでる。

「いいえ。自動式よ。元々学長、理事長の旦那さんが鳴らすようにしていたらしいんだけど、お年を召してからは機械に任せるようになったらしいわ。おかげで私たちは、休みの日にまで早起きを強制されるってわけ」

寝ぼけ眼をこすりながら、そう言うのだった。


食堂までは、歩いて五分ほど。

普段は寮、食堂とばらばらに分けられて食事をそれぞれするらしいのだが、休暇中は一か所で片づけられるらしい。

食堂につくと、配膳場所から料理の乗ったプレートを手に取った。

朝食の内容はパンにオムレツやハムがついたもの。それにから空のカップが置いてある。

「基本的に鳳凛の朝食はパンとご飯が交互に出るわ。それとスープはご自由に。昨日の夕食と同じ奴だけどね。あ、足りなかったら食堂のおばさんに言ったら、パンおまけしてくれるわよ」

ミッション系ということで慎ましやかな料理しか出ないのでは、という危惧は幸いにも外れた。夕はパンをもう一つ追加でもらいに、調理場に居るおばさんに声をかけた。

「あら、貴方……は転校生の子ね」

はいそうです、どうぞよろしくお願いします。昨日何度も繰り返した挨拶を返すと、タヌキ顔のおばさんは破顔した。

「かわいらしいわねえ。はい。これ、もう一個ね。朝は食べた方がいいわよ、ちゃんとね。いやそれにしても、うちの娘がこれくらいかわいかったら……」

「あ、すいません、横江さん。お腹がすいてしょうがないんで……」

あらそれはごめんねえ、と笑顔を崩さないオバさんの会話を必死に切り上げて、四人がけのテーブルに陣取った。

「横江さんは話し好きだから、食堂が混んでない時は気をつけてね」

はい、と夕は殊勝に頷いた。なるほど、学園生活は危険がいっぱいというわけだ。

「まあ、基本的に内の学校はみんないい人ばかりだから。キチンとした態度でいれば、悪いことにはならないからね」

そいつはどうだろうな。背中を向けた杉村に対して、夕は薄い笑みを浮かべた。



背が高いのが駄目だった。目つきが悪いのが駄目だった。性格が暗いのが駄目だった。

存尾ありびの駅前のショッピングセンター。垢ぬけないブティックの前で、くすんだショーウィンドーに映る自分の姿を見て、根元碧ねもとみどりはため息をついた。


登校日。彼女にとっては憂鬱以外の何物でもないその日が、とうとうきてしまった。

朝食も殆ど喉を通らず、昨日の夜も不安な想像で眠れることはなかった。

いったい、自分の何がいけないのか。

碧は思い返す。自分が如何にしてこれまでの人生で辛酸をなめるにいたったかを。


背が高かったから、人を出来るだけ真っ直ぐに見ようとして猫背になって、笑われた。

眼が生まれつき悪く、度があっていない眼鏡を買われたせいで、時折睨むような目つきになって、舌打ちされた。

「むかつく」という声を聞けば、相手手御どう接すればいいのか分からなくなった。


だからそんな自分がどうなるかは決まっていた。

嫌われ、疎まれ、誰からも無視される。だからここに逃げてきた。

でも、それでよくなる保証なんてなかったと、どうして自分は気付かなかったのだろう。


うじうじと思い悩みながら、時計を確認する。

十五分ほどで駅前を一周してから、もう一度バス停まで戻ってきた。手持無沙汰のまま皆で集まる空間というのは、碧にとっては苦痛以外の何物でもなかったから、時間を潰していたのだ。

今度はバスが到着しているのを見て、ほっとする半面、落ち込んでいる自分がいた。

必死に誰とも眼を合わせないようにして、列に並ぶ。

離れ過ぎて注意を引かないように、近すぎて煙たがられないように。

「あ、ネクラさんじゃん。来てたんだ」

声を掛けられて、心臓が止まりそうになる。

「もう来ないかと思ってたー」

「ほんとほんと。偉いよねーわざわざ」

三人の女性とが、碧の周りを取り囲んできた。そうして、手で体を叩いてくる。

肩で押し合うだけの、ただの嫌がらせ。当たり前だ。まだ近くには先生がいる。

獲物をいたぶる猫のような眼を三人は向けながら好き勝手に話しかける。

「……ねえ。何か言ったらどうなの。ネクラさーん」

ネクラ。それが今の自分のあだ名だ。

逃げ込んだ先でも、結局同じことが繰り返されることになってしまった。

ちょっとしたことでもからかわれるようになり、それにまごついていると段々と怒りをぶつけられるようになる。友達だったはずの相手たちはいつの間にか彼女を侮蔑の目で見るようになっていた。

少女たちはまるで悪質さを自慢し合うかのように、ちょっかいをかけては笑いの種にしている。

自分は玩具だった。

「こんにちは。すいません」

三人はドッと笑う。どうせ何かを言い返したり答えたりしても、ナマイキだの調子に乗っているだの言われるのが落ちだ。だったらこうやって最初から笑い物にされる方がいい。

三人はじゃれ合っていると主張できる程度に碧の体にふれあってくる。碧は必死にそれらを表情を変えることなく受け流し、荷物を預けて、先にバスへと乗り込んだ。

バスの真ん中当たりで、一つだけ開いている座席に滑り込む。

桃井たち三人組は碧の近くに陣取れないのを見て、にやりといやらしい笑みを浮かべて後ろの方へむかった。それを見て、碧はようやく人心地つくことができた。

まだだ。まだ私は大丈夫。

深呼吸しながら、必死に自分に言い聞かせる。そうしていざという時のためのお守りを、翠は手に取るため鞄の奥に手を伸ばす。昔本当のお父さんに買ってもらった小ぶりなナイフ。

だけど、それがなんだというのだ。そんなものがあっても何が変わるはずもない。どうせ自分には、何もできはしないのだ。

憂鬱な日々。手首にまいたリストバンドをさすりながら、できるだけ意識を殺しながら思う。

どうか出来るだけ早く、この日々が終わることを。



まったく。なんて日だ。

哀川勇太郎あいかわゆうたろうは、今日何度目かというため息を漏らした。

しかしそれは彼だけではない。同僚である鳳稟の教師はみな、同じ気持ちだろう。

バス、電車の遅延。各地での交通網のトラブルによって、登校のための予定はめちゃくちゃだった。

「どうやら、ずいぶん遅刻しそうですね」

隣の席の柿谷は、そう言って空手でならしたらしい頑強な肩をすくめる。

「こ、困りましたね。まだ何十人も残っている」

チャーターされたバスは三台ほどだったが、結局駅まで現れたのは二台だけだ。もう一台は、どうやら別のトラブルに巻き込まれたとかで、遅れてくるらしい。

そのため、やむなく来ている生徒の一部とバスだけでも先に学園へ向かうという形で、ついさっきようやく動き出したばかりだ。生徒を優先するため、教師陣は一部を除いてほとんどに駅で待ってもらう形となった。まあその連中に比べれば、いまこうして暖房のきいた車内にいる自分は幸運かもしれないが。

「仕方ありませんよ。交通網はどこもかしこもこの調子です。急げというほうが無理です」

十時二十分。本来ならばとっくに学園へ向かっているはずだが、すでに小一時間は遅れている。あとで理事長がどんな難癖をつけて説教を垂れようとしてくるのかを考えると、哀川はもう一度ため息をつかざるを得なかった。

大体、あんな山間に学校を建てるのがおかしいのだ。哀川は心の中で日頃の鬱憤を漏らす。そのせいで、わざわざ車で乗り付けなければいけないという不便を享受しなければならない。

そのおかげで教師の給金が弾まれるのは結構だが、独身で無趣味の自分には、どうせ使い道もない。隣の柿谷や立木のように妻子ある身なら、単身赴任だと納得もできようが。

そもそも、自分はそれほど教職とやらに興味があるわけでもない。女子生徒から人気があるわけでもない。自分の風采がさえないことは、自分が一番よく知っている。口下手だし、授業だって単調そのものだろう。

要は金だ。こんな不便なところ、仕事にあぶれるか街に居づらくなったか、女生徒におかしな幻想を抱いた奴らくらいしか働きたいと思わないだろう。少なくとも哀川の周りにいる教師は皆そうだ。このバスに乗っている連中だって。

そこでふと立木のほうに目をやると、何やら穏やかではない雰囲気だ。騒ぎ出す車内にあって、通路を隔てた向こうで、哀川は立木と柿谷が教師たちが声をひそめて話し合うのに耳をすませた。

「原因はやはり、例の感染病の件ですかねえ」立木が、あごひげを撫でながら呟く。

「まさか。あれは北九州で食い止められたんでしょう?外国からの旅行者へのチェックだって万全だって聞いています、けど」

「そりゃあね。まあお上はそういうだろうがね。世の中には建前っていうものがあるでしょうが」

「いやでもまあ、大丈夫ですよね。今のところ、そんな騒ぎにはなっていないし」

「ああ政府も今のところは何も言っていないですしね」

不安と期待の入りじまった勝手な憶測を話す二人を、哀川は内心で笑う。ふん、馬鹿丸出しだな。

騒ぎになっていないほうがおかしいんだ。いつもちょっとしたことでも右へ左へと大騒ぎするマスコミ各社が、ここに至ってだんまりを決め込んで普段通りの報道を取り繕っている。それこそが今はやっている「感染病」の異様さを物語っている。

報道規制。そんな言葉が頭に浮かぶ。おそらくはそのせいだろう、と思う反面それ以上のことを考えられない自分がいる。

哀川は複雑な思いで携帯から電子掲示板を覗く。そこでは様々な局所的なニュースや時事問題に対しての話題が取り上げられているが、いずらも無駄に煽りたてるだけか騒いでいるだけで、問題の本質に触れているような情報は殆どない。

気になったものと言えば、せいぜい、「中国からは既に大勢が逃げ出している」という情報があるだけだ。それならば感染病の規模がつかめないのも、その正体が漠として知れないのも納得はできる。

つまりは大国の事情だ。政治とやらが絡むと、世の中は途端に面倒くさくなる。社会化の教師としては、それくらいは常識だ。

だがそれだけでは、一体何をすべきか、どうすべきかの指針は全く立たない。皆が食料を買い込んだり、マスクを買い占めたりしているのも、なんだか間抜けに思えてくる。

まあいい。どうせ今度もあれこれ言っていたとしても、結局は大したことにはならないという落ちだろう。取り越し苦労ばっかりするのは、御免だ。

哀川は都合何度目かというため息をつきながら、バスの外に流れる風景を見つめる。取り繕って華やかさを演出された駅前を抜けると、すぐさま地方らしい憂鬱で沈鬱な町並みが過ぎ去っていく。

「え?」

一瞬、哀川は視界に奇妙なものをとらえる。しかし風景とともに消え去ったそれが、なんなのか。一瞬考えて出した答えは、信じがたいものだった。

「どうかしましたか、哀川先生?」

隣で雑誌を見ていた佐志場が怪訝そうな顔をする。哀川は騒然としている車内を見回すが、同じような反応の人間はいない。見たのは自分だけか。

「い、いや、なんでも、ないです」

哀川が卑屈な笑みを浮かべてそういうと、柿谷は肩をすくめて再び雑誌に視線を落とした。

何を見たのかなんてまともな社会人ならいえるはずがないし、見間違いに決まっているだろう。

まさかな。

先ほど見つめた光景は、錯覚だった。哀川はそう思うことにした。

倒れた人間の体に、何人もの人がかぶりついているように見えたその光景を。



「……それでね、会長は片付いたら直ぐ様また前みたいにごろんてしてね。ふふ、おかしかったわ。三年寝太郎ッて云うのは、ああいう人のことを言うのよね」

そう言って楽しそうに笑う杉村に、夕もほほ笑みを作る。

夕と杉村は、図書館に居た。朝食の後で一度別れたのだが、つい先ほど杉村が本を返しに来てそのまま夕ト出くわし談笑している。

ちなみに今は霧生はいない。

そこでいくつか学内にいない有名人についての話を振ってみたところ、生徒会の会長の武勇伝を聞かされる羽目になってしまっていた。

「面白い方なんですね」

「そうよ。ほんと、下についている人間としては仕事とか大変だし。腹が立つことも多いんだけど。……でも、ああいう人を、なんていうか、度量が広いとか、傑物とかいうんでしょうね」

そう言って、杉村は遠い目をする。どうやら、生徒会長である赤塚とやらはよっぽどのカリスマを持ち合わせているらしい。三年生でありながら、その人気ぶりから生徒会長を二年連続で引き受けたというくらいなのだからには、それこそよほどだろう。

学内の成績はトップで、推薦で国内一、二位を争う大学への推薦も決まっている。

性格にこそ癖はあるが、基本的にモラルを重んじ情にも厚い。

「でも、どうしても馬の合わない相手っていうのはいるんじゃないですか。そんな人でも」

そんな風に水を向けると、うーん、と杉村は唸った。

「まあ、そうね。一部の教師からは嫌われてるし……あとは、そう、小林さんとも衝突していたかな」

「小林さん?あの、髪を後ろでくくった……」昨夜会話を交わした少女の顔を思い浮かべる。

「そうそう。あのサムライみたいなポニーテールの子。あの子も結構な問題児でね……」

それからしばらく小林についての話を聞いた後、夕がくしゃみをしたのをきっかけに、寮に戻ることにした。「みんな、朝方は寮から離れないのよ。校舎は寒いから」鼻水を吹きながら、夕も頷いた。



戻る道すがらで、エプロンをつけたおばさんに出くわした。

「ああ、貴方達。どこの寮の人?」

「ミカエル寮ですけど、どうかしましたか?」

「それなら、ちょっと生徒さんたちに伝えておいてほしいんだけど。ごめんなさいね、ちょっと昼御飯が遅れるかもって」

杉村は笑顔で答えた。

「はい、かまいませんよ。なにかあったんですか?」

「いやね、横江さんと隅田さんがね、戻ってこないのよ」

どうやら、買い出しに行った二人がまだ戻ってきていないらしい。おばさんは首をひねる。

「何かあったのかしらね」

調理のおばさんたちは存尾市から通ってきているらしい。トラブルがあれば学校所定の番号まで連絡がいくはずなのだが、それもないという。

「何もなければいいんだけどねえ」

不安げな言葉を投げかけながら、おばさんは去って行った。

横江さん。知った顔だ。今朝がた会話を交わした、タヌキ顔のオバサンの顔を思い浮かべる。

……呑気に、道草を食っているだけじゃないのか。



バスは九十九折りの山間を走り、トンネルを抜けて、なだらかな斜面にさしかかった。

再会を喜ぶ気持も、お互いの近況報告も終わり、車内が少し静かになったころ。

「ちょっとあれ!」

向かう途中で一人が声を挙げた。

「ねえ……あの車、調理のおばさんたちのじゃないの?」

その声を皮切りに、車内は生徒たちの声で満たされた。

「車が、壊れている」「ウソでしょ、あれ」「え、マジなの」

少女たちがどよめきながら、左方の窓にへばりつく。碧も文庫本から視線を挙げて、肩越しにその様子を窺う。

なだらかな勾配の途中でやや右にカーブした道路。

そこから真っ直ぐ飛び出し、木の幹に鼻先を突っ込んでいる車が見えた。

ボンネットのひしゃげている様子から、根元はつぶれた紙パックを連想した。

運転ミスだろうか。

おそらく中に居る人は生きてはいまい。しかし所詮は他人事。生徒たちは眉をひそめて車を眺めつつ、好奇の視線をスクラップになったそれに注いでいる。自分とて例外ではない。

そのことに気付き、嫌悪感を抱いた碧は、視線を車内の前部に向ける。

前の方に居た教師たちが、額を突き合わせ話しあっている。そうして一人が運転手に向かって何かを告げると、そのままバスは速度を落とし、停止した。道の揺れが亡くなり、エンジンの振動だけが体に響く。

再び運転手と話し合い、間もなく教師が此方を向いて「静かに!」と大声をあげた。

「えー、どうやら事故があったようです。本車は一時停止して、これから我々で運転者の安全を確認してきます」

バスに備え付けられていたスピーカー越しに新任教師である上坂が、緊張が地に話しだすと、生徒たちの話声も収まった。

「皆さんは、このまま座ったまま待っていてください。後ろのバスも止まりますので」

「あれ、うちの学校の人の車ですよね!」

「中の人は、死んでるんじゃないですか!」

車内が混然となりかけた時、隣にいた禿頭の男が、ハンドマイクをひったくる。

「お前ら!いいから落ち着け!」投げかけられる問いに、化学を担当する下野が怒鳴り声で答えた。

「とにかく、俺たちが現場を確認してくるから動くな!いいな!」

皆不満を顔ににじませつつ、沈黙する。ため息が、露骨でこそないが皆の口から洩れた。

「みなさん、人の命にかかわることですよ」

シスター早瀬が嗜めた。老眼鏡のずれを直しながら、車内に視線を走らせる。

鋭い眼光で射すくめられ、反論を返す人はいなかった。

「……ええ、とにかく、みんな落ち着いて。確認してくる」

上坂がそうしめくくり、男性教師陣は全員降りて行った。



まったくついていない。新年早々から知り合いが事故に出くわすなんて。

都合何度目かのため息をもらしながら、哀川は教師の一団についていく。

相手が誰なのかは、車内からでも見当がついていた。車種やナンバー、こんなところを走っていたことからもおそらくは鳳凛の職員なのは間違いない。車自体は地元から来ているおばさんたちが兼用で使っているものだから持ち主は知らないが、少なくともその四人のうち一人以上があの車内に居るのは確かだろう。

警察にすべて任せてしまいたいが、少なくとも安否の確認はこの目でしなければならない。教師たちはため息を隠しながら、真面目腐った顔でバスを降りなければならなかった。

アスファルトから、雪が解け湿った地面の上に足を運ぶ。

道路が凍っていた様子もなさそうだし、見たところは、運転ミスといったところだろうか。

のろのろとした足取りで、一同は穂を進める。

「先生方、早く」

そう言って先頭をはきはきと歩く立木は、早く動くことを促してくる。くそ、脳味噌筋肉のゴリラめ。中の惨状を想像する力があれば、とてもじゃないが足が軽くなるはずもないのが普通だろう。

立木は真っ先に車にまでたどり着いた。皆いやいやながら、小走りになって後を追う。

案の定、車内に視線を落とした立木は顔をこわばらせていた。想像力がないことと感受性がないということは別らしい。唇を固く結んだその顔は、先ほどよりも幾分か血色が悪く見えた。

そうして少しばかり気が楽になった哀川は、生唾を飲み込みながら車内に視線を転じる。

「こいつは……駄目ですな」

そんなものは、言われなくてもわかる。

皆、車内の惨状にしばし言葉を失った。

本来衝突事故の場合は、シートベルトに固定されたおかげでしばし外傷が目立たないこともある。だが、今回はそれに当てはまらなかった。

大木にぶつかり行き場を失った運動エネルギーは、車のフロントガラスを破砕し、その破片を車内に飛び散らせるに至っていた。そしてその破片が降り注いだ人体が結果どうなるか。

「う……」

思わず哀川は手で口を押さえて、車に背を向けてしまった。だが既に血だらけの頭部は、自分の網膜の中に焼き付いてしまっているようだった。

「痛ましいですな……」下野が、つぶやく。

「ちょっと……これ」

しかし反対側から回り込んだ柿谷が、ぼそりと呟いた。

「ここ……もう一人、座っていたんじゃないですかね」



後部のバスからも、男性教師たちが社内の確認に出て行き、車内は再び雑然とした声で満たされる。

「あれ、生きてんのかな?」「爆発しないよね」「絶対やばいでしょ」

にわかにざわめきだす車内を、シスター早瀬が必死に鎮めようとする。

運転手は無線を手にとって、何か話している。おそらくは警察か、病院か。

碧はそんな様子を、冷ややかな視線で見つめる。

「あ、立木が中をみたよ」

碧の意識は窓の向こうに引き戻された。

車内の弛緩した空気とは裏腹に、どこか緊張した背中で近づいていく。

「足跡は、見える?」

「え、あれ、血の跡じゃないの?車内に居るじゃない、まだ」

「あ!あっち!誰か、歩いてる。歩いてるって」

一人が指差すと、車内は一層騒然とした。

信じられない、といった風の声があがる。

だが少女たちの眼差しの先。

そこには確かに、林からふらふらと歩いてくる一人の影が見えたのだ。



同じように反対側に回った下野と哀川は、柿谷の説明を受けた。

「助手席のほうは、ガラスがなにか突き破って出たように見えませんか?それに、ほら」

「……ほんとだ。お茶が二つ入ってますね」

しかし、そうなると遺体はどこへ消えたのか。皆が怪訝な顔をする中で、下野が大声をあげた。

「あ!あそこ、隅田さーん!大丈夫ですか!」

林の中で、ふらふらと歩いてくる影が見えたのだ。食堂で働いている、隅田だ。

うつむいているため表情は見えないが、確かにこちらに向かってきていた。

「大丈夫ですか!」「今、そっちに行きます」上坂と下野が駆けよっていった。

「ここから飛び出して、生きているとは……ありえない」柿谷がつぶやく。

「まあまあ。何かクッションになるようなものがあったのかもしれませんよ」立木が少しほっとしたような顔をしながら、車にもたれかかる。「一人だけでも生きていて、本当によかった」

どうも妙だな。違和感をぬぐえない哀川はそう思いながら、もう一度車内に視線を落とす。

すると、遺体の左肩に他とは異なる傷があることに気づく。

ガラス片のように、その身を切ったのではない。まるで何か刃物でえぐり取られたような傷だ。

悲鳴が上がったのは、その時だった。

下野にもたれかかるようにした隅田が、そのまま倒れこんだのだ。

だが下野の絶叫は、尋常ではない。

なんだ。何が起こった。隅田の下で、もがき苦しむ下野の体からは、赤いものが噴き出しているのが見えた。血?

いったい、横江は何をしているのだ。いや、その答えは出ている。


噛みついているんだ。


「上坂先生!」

傍らにいる上坂は、あっけにとられたような顔をしていたが、立木の声に、ようやく事態を把握したらしい。隅田を羽交い絞めにして、体を引きはがそうとする。


思わず一歩後ずさる。そのせいで、哀川の眼は予想外のものを再び見る羽目になった。

つい先ほどまでうなだれていた、横江の死体。それがいつのまにか、じっと、立木のほうを向いていたのだ。

背筋が凍る思い。喉から何の声も出ない。立木は気付いていない。

「……あ、は」

横江だ。その時、哀川は彼女の名字を思い出した。

そして横江の遺体だったはずのものは、窓枠にかけられた立木の手に頭を向けて、口を開けた。


離れろ。その言葉は哀川の口から発せられる事はなかった。


その代わりのように、哀川の傍らで、立木の絶叫が響いた。

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