第一話 赤と白(3)
「あら、橘さん」
食堂にある自販機から、三つ分の飲み物を抱えた杉村明里が戻ったとき、橘夕はすでに図書館前の廊下に上がって来てた。
「ああ、副会長。彼女、やっぱり気分が悪いので奥で横になるそうです」
開いた掌には、百円玉ひとつと十円玉が二つ。「手間をかけさせて申し訳ない、だそうで」
橘が肩をすくめ、明里もため息をつく。
「ま、あの人のことだからね。驚きはしないけど」
浮世離れしている、というのだろうか。あの喋りに雰囲気。彼女が何を考えているのか、いまひとつ分からない。「とりあえず、座りましょう」
多目的室にあるソファーに腰掛けて、三つある紙パックの飲み物を差し出す。
橘は一瞬迷ったが、「お礼はいずれ」と言ってオレンジジュースにストローを突き立てた。
しばし二人して黙って喉をうるおす。それから杉村は出来るだけ何気ない風を装って、橘に話しかけた。
「何か、話した?」
「いえ。図書館の本について、聞いていただけです」
「そう」
そっけなく言い放つ橘から、その内心は窺えない。何か良くないことでも吹き込まれていないといいのだけれど。
「ええと、さ。……こういうのは、なんだけど。霧生さんは、どういう人だと思った?」
「結構な性格をしているようですね」
苦々しげにそういった橘を見て、杉村は思わず破顔した。
「うん、それがわかってるなら十分。私からはあんまり何か言いたくないけれど、まあ、ああいう人だから。適当にね」
はい、と橘か答えるのに満足する。彼女なら、まあ大丈夫だろう。適当な距離での付き合いが出来るはずだ。
たとえ、あの図書室の魔女相手でも。
*
霧生詠とは何者か。それは多くの人間にとって、学園内でも随一の「怖い人」だという認識である。
容姿端麗にして頭脳明晰。病気がちのため、一年留年して年は十九。ただし基本的に学習は保健室登校という名目で行われ、彼女を見ることがあるのは授業が終わった後の、図書室だけだ。
普段は司書のようにカウンターで読書にいそしみ、外界のことなど素知らぬ顔で佇んでいる。話しかけても笑顔で応対するが、決して深くはかかわろうとしない。それで
それだけならいい。病弱な深窓の令嬢というだけなら、今のように恐れられはしない。
皆が恐れるのは、、時折思い出したように出会った人にちょっかいを掛けてくるときだ。
「あなた、人の恨みを買ったでしょう。足元には気をつけなさい」
そう言われた生徒は、一週間後に足を滑らせて怪我をした。
またある生徒は、「手を大事にした方がいい」と言われたその日のうちに指の骨を折った。
そんなことが何件も続けば、誰だって気味悪がり始めるのも無理はない。彼女自身に直接の原因がなくとも。そんな風に積み重なった噂は、彼女を魔女として皆から遠ざけた。
そうしてついたあだ名が、図書室の魔女。近寄りがたく、そして近寄りたくない。アンタッチャブル。
それが霧生夜見に対する学園の少女たちのイメージだった。
その彼女に次いで、別の意味で近づきたくない相手がいるとしたら、誰か。
「と、いうわけで夕ご飯一緒に食べない?」
東校舎の屋上手前の階段。そこが彼女の定位置だった。
浜形路子。
「……」
身長178cm。ざんばら髪から鋭い視線をのぞかせる彼女こそ、学園内でも要注意人物と目される一人だ。その長身をいかし、バレーの選手だったらしいが今は特に部活動には参加していない。
一説には部活内の暴力事件を元に退学を起こしたとも言われており、本人はそれを否定していない。もっとも、肯定もしていないのだが。
なぜなら彼女は転入時から変わらず、この半年徹底した沈黙を貫いている。意思の疎通にさえ億劫さをのぞかせる態度をして、彼女のスタンスを定めていた。即ち、孤立。
「黙ってばっかじゃ、分かんないわよ。何か答えたらどうよ」
「……」彼女はそう言われてようやく此方を向き、首を振った。そうしてまたふいと空の方を眺めている。
万事が万事、この調子である。教師からの質問には答えず、回答を求められても無視し、気が向いたときにぶらりと校内を徘徊する。
自由と言えば聞こえはいいが、要は素行不良のただの問題児である。もちろん校内でもそれなりに問題にはなっているが、その恵まれた体格と本心を覗かせない態度から、教師陣も半ば彼女には匙を投げているというのが実情だ。
「ちょっと、そういう態度は……」
響が肩をつかむ。するとその上から浜形は手を掴んできた。
そうして、両者にらみ合う形になる。響も背は低くないのだが、それにしたって相手が悪い。響が見上げる形になってしまう。
「チッ」
そうして結局、先に目を逸らしたのは、響だった。舌打ちしながら、手を離す。
すると浜形はもう興味はないとばかりに、再びあさっての方を向いてしまう。
そんな背中を響は忌々しげに、絵美はおろおろしながら見ている。
けれども日和良だけは、彼女に向かって真摯に語りかける。
「浜形さん。あなたが一体何を考えているのか、どんな人なのかは知らないわ」
背中は動かない。けれども、聞いている。声は届いているはずだ。日和良はそう信じた。
「けれども、ずっと空を見上げる人間がどういう人なのかは、知ってるわ。今いる場所に、不満を抱いている人よ。大なり小なり、ね」
ゆっくり、噛んで含めるように言う。浜形は動かない。
「また、話しかけるから。覚悟しといて」
今日はここまでだろう。そう判断して、日和良は踵を返した。
響も絵美もあっけにとられていた。浜形に向かって静かに語りかける
会談を降りたところで訪ねてきたのは、そのことだった。
「いいのか?」
「ああいう性分の子は、時間をかけて付き合うしかないでしょ。三顧の礼。急がば回れ」
二人はそんな絵美をどこか感心したように見つめていた。
「てかさ」
日和良が言った。
「どうよ、さっきの私、ちょっとかっこよくなかった!?どや。どや!」
「……ひよちゃんは、もうちょっと黙ることを覚えようよ」絵美は苦笑した。
それよりもさ、と響は声のトーンを落とす。
「あいつを誘うくらいなら、やっぱあっちを誘うほうがよかったんじゃないか?」
そう言って、響は窓の外のある方向を指さす。それだけで日和良は何を言わんとしたか察する。
「まあ、確かにあっちは悪い奴じゃないけどさ……」
日和良が絵美の方に視線を向けると、彼女も困ったように笑う。考えていることは同じようだ。
「「何を考えているか分からないやつ」よりも、「何でそう考えるのかわからないやつ」のほうが苦手なんだけどね、私は……」
そう言って、ため息をついた。
*
渡り廊下をすすむと、途中で何かが飛ぶような音がするのに夕は気がついた。
「何の音だと思う?」どこか誇らしげに語りかける杉村に、すぐに察しがついた。
「これは、県大会優勝したという……」
「なんだ、知ってたの?ああ、理事長から聞いたのね。学校の唯一の自慢だもんね、無理ないか」
そういわれて、体育館隣へと案内される。
言われて開けた空間に、黄色、赤、黒、白と色分けされた円が描かれた的が並んでいた。
そうして風を切る音と、衝撃音を感じ、それからその的に何かが突き立っているのに気づいた。
「ド真ん中。流石ね」杉村が呟く。夕はそのまま頭を巡らせて、その矢をつき立てた本人を見つめる。
黒い肩あてに手甲。下は体操服か。名前は見えない。
やせぎすで、ややくまの見える顔であったが、その眼が剣呑なものを孕んでいるのが夕には見て取れた。
視線は一切的から逸らさない。そうして踏み込み、構え、弓を番える。
無駄のない動き。素人目にもそれが自然で無理のない動きだと感じられた。
はたしてその体制から再び矢が放たれたそれは、見事再び真ん中の黄色い部分を貫いた。
アーチェリー。西洋弓ともいわれるそれの高校生の大会でも、見事好成績を残している少女。
砂野一世だった。
しばらく二人はそうして彼女の腕前をみていたが、四本ほど突き立ったところで、杉村が手を振り上げた。
「砂野さん。おーいー」
ようやく砂野も気が付いてくれたようだった。
すると先ほどまでの毅然とした態度とは打って変わって、大慌ての体で此方に向かってきた。
「ど、どうも、すいません、すいません」
おどおどした態度で遮二無二頭を下げてくる。
「ご、ごめんなさい、ほんと、気がきかなくて。気がつかなくて。本当に、誰かいるなんて思いもよらなくて、ずっと前しか見てなかったし、その、」
何か杉村に怯えているようだ。夕が問うような視線を杉村に送ると、
「大丈夫よ、砂野さん」ひきつった笑顔を浮かべながら、ちがう、と首を振る。
「え、ええと、す、すいません。す、砂野です、じゃなかった、砂野一世です、はい」
まるでおびえた子犬のような素振りと目つきで、応対してくる砂野。ほとんどこちらと目を合わせようとはせずに、あちこちに視線を飛ばしている。
そう言って卑屈な笑みを浮かべる砂野。もう一度視線を杉村に寄越すと、なにやらしかめつらしい顔を作って頷いて見せた。こういう子だということだ。
「先ほど射を見せてもらいました」
「そ、れはそれは、お目汚しを……おはず、かしいですよ」そう言って視線をさまよわせる。
それを見かねたのか、杉村がこれから校舎を巡る胸を伝えた。
「そ、そうですか。それじゃあ、どうぞ、お気をつけて。何かあったら、呼んでください」
そう言って、弓を掲げる。面白い冗談が言える人間なのだと、夕は思うことにしてその場を後にした。
「それで、次はどんなユニークな人に会えるんですか?」
「ううん、まあ、今日はここまでよ。最初に難しい問題から解くタイプなの」
「さて、後は簡単なものよ。ここからは、本当になんてことない紹介だから。ね。あと少しよ。頑張って」
杉村の言うとおりになった。残る案内は極めて無難なものに終わった。
そして、夕食の時間が訪れた。
*
鳳凛はミッション系の学校であるが、それも今は昔のことだ。礼拝堂はぼろぼろのまま回収されておらず、食事の時に全員でお祈りを捧げることもない。せいぜい授業の中に「宗教」という科目があったり理事長が聖書にまつわる話を朝礼などで話すくらいだが、そのどちらも居眠りしている人間には意味がない。
そんなわけで、食事も極めて普通だった。夕食の時間の間に食堂に行き、各々が勝手にトレイをもって食事を済ませる。とはいえ娯楽が少ないこの学園内では、癒しの時間であることも確かだった。
しかし長期休暇中はそうもいかない。普段人でひしめき合っている食堂は空席が目立ち、それぞれが島を形成してお喋りに講じているだけ。食堂は静かなものだ
しかし日和良たちの席は、いつもよりかしましかった。
「どうもおおきに。今日は誘ってくれてありがとな」
クリスティーナ・稲葉だ。
「自分ら有名人やしな。はなしてみたいとは思っててん」
それを言うなら、間違いなく彼女もそうだ。アメリカ人と日本人のハーフの彼女は、否が応でも人目を引く。
すきとおった白い肌に、きらめく金色の髪。それに加えて関西弁。美しさと親しみやすさを兼ね備えているだけあって、彼女の友人は多い。人気者という奴だ。
「それはうれしいわ」
いやいや、とのけぞりながら手を振る。
「外人言うだけで、やっぱり距離はあるからねー。あと中身がおばはんくさい言われて、がっかりされるしさんざんやで」
そういって快活に笑う。
「ナイス自虐風冗談ね。そっちの方がいかしてるわよ」
親指を立てると、照れたように頭の後ろを描く。
「そういってもらえると、うれしいわ」
そのあとは教師の悪口トークで盛り上がった。
クリスとはあっと言う間に打ち解け、お互いに下の名前で呼びあえるくらいになった。
基本的にはクリスと日和良が場を作り、ほかのと三人が要所要所でつっこみと詳細をはなすという流れだった。舌鋒鋭いクリスの喋りに、情感豊かな日和良の喋りが重なって、場は大いに温まった。
「あいつ字が汚いくせに、こっちが板書が読めなくて困ってたりすると、授業を受ける気がないのか、とか言い出しやがるのよね。あのM字メガネ」
「M字禿で、メガネやろうな」「Mの字のメガネだったら、おもしろい先生だよね」
「柔道部でもマッサージやなんやいうてセクハラ紛いのこととったらしいしな。エロおやじやで」
「ここの教師になれたのも、理事長のコネだとか聞くし、あんまりいい噂は聞かないよね」
なんやかんや、久しぶりに楽しい食事だった。
「ところで、あの子見かけないわよね」
「ああ、転校生かいな。へえ、こんな時期やったら、訳ありかな」
「まあ、そればっかりは人のこと言えないよな」
響きがそうぼそりとつぶやく。
「それにしても、なんか……」
クリスはしきりに首をひねる。
「いや、なんか……変わった雰囲気の子やなって」
「まあ、せっかくやし。声掛けてみよか」
「うーん、そうだなあ」
響とクリスは乗り気だ。そうしてクリスが椅子をうかせようとしたところで、食堂のドアが開いた。
「げ、理事長」言ったのは響だが、日和良も同じことを考えていた。
「なんやろ。なんかもっとるけど……」
皆がひっそりと様子を窺っていく中で、理事長は毅然とした足取りで杉村達のテーブルに向っていった。
*
「これを、あなたに持ってきたの」
突然食堂に現れた理事長があいさつもそこそこに夕に突き出してきたのは、一冊のノートだった。
しかも珍しいことに、小さな錠前がその表紙には取り付けられていた。
「これは?」
プレゼントよ、と理事長はほほ笑んだ。
「これは、私の癖でね。自分の中にどうしても吐き出したい気持ちがあったり、出来事があったときには、書き留めるようにしているの。ここが若者にとってはそれなりに不自由なことは、私にも分かっているわ。誰かに聞かせるには過激な気持ちや、悩みを抱える生徒がいるときも。そういうときに、このノートを使ってほしいの。自分だけがみれる、自分のための日記帳。鍵をかけさえすれば、人に見られることもそうはないでしょう。だから、ね」
笑顔でそう語りかける理事長。夕は戸惑うが、杉村が頷いているのをみると、皆もらっているということなのだろう。
結局押しつけられたノートを、夕は両手で受け取った。
「ありがとうございます」礼を言う夕に、理事長は満足げにうなずく。
「いつもつけろとは言わないわ。何かあったときだけに、ね」
そう言って彼女は去って行った。
「まあ、あの人なりの歓迎の仕方なんでしょうね。私ももらったわ」
「副会長さんも、何か書いているんですか」
「まあ、私はあんまり。普通に手紙とかに書く方が好きだから」
暫く手の中で弄ぶ姿を見て、
「もらっても別に困るものじゃないし。いつか使う時が来るまで、寝かしておいたらいいと思うわ」
はい、といって夕はしばし白紙のノートを見つめるのだった。
*
学生寮は、二つあり、四階建てが二つになる。基本的に低学年が上で、高学年が下の階。これは校舎でも同じで、つまりどっちの方が楽に目的地に着けるかということで決められる。高学年の方が優遇されているというわけである。
そんなわけで、三階に位置する二年生の部屋。
隣の様子を伺えば、絵美はもう寝ている。絵美に比べて、日和良は寝つきが悪い。たまにぼんやりと何か形にならない思いが湧きあがり、こうして夜の闇を一人過ごしていた。
「……」
そうして、一階のロビーに降りる。
「……ゎ!」思わず、声を上げる。
ラウンジにある自販機の隣に、たたずむ陰があったからだ。
「失礼。声をかけたほうがよかったですか?」
自販機の光で、その顔が見えた。よく知らない相手。いや、車に乗っていた子。転校生だ。
「あ、いや、気にしないで」ははは、と情けない姿をごまかすように嗤う。そうしてお目当てのホットミルクのボタンを押す。
それから少し迷ったが、日和良も座ることにした。今日は話しかけられなかったし、せっかくだから少し話すのも悪くないだろう。
沈黙。紅茶をすする音だけが部屋に響く。
「ええと、転校生なのよね。私は、小林日和良。二年C組の」
「はいそうです。一年B組に入る、橘夕です」
お互いに、よろしく、と簡単に頭を下げると、そのまま二人して黙りこんでしまった。
そうして間が持たないことに息苦しさを覚える。相手は無愛想なたちのようだが、このまま無言で帰るのもあれだ。と、そこで適当な話の切り口を見つけた。
「あ。そのストラップ……かわいいわね」
何気ない一言だった。会話の糸口をつかむために。
「ねえ、それって……あはは、なんか変だねー」
そんな言葉が思わず口をついて出ていた。
そこで質問のバカさか現に気付いた日和良は、続きを口にしようとした。
だが、そこであることに気付いた。
「何がですか?」
その視線を受けて、ぞっとする。先ほどまでとは違う、湿度と冷度の同居した瞳。
橘夕が、こちらを射竦めんばかりの勢いで、見つめてきたからだ。
思わず言葉を失ってしまう。
「何が、変なんですか?」
闇のなかにもかかわらず、いやだからこそ明確な輪郭を伴った敵意。凶暴な意思が、そこにははっきりと感じられたからだ。
「あ、いや、ごめん、なんだか、橘さんのイメージと違ってかわいらしいからさ、その ごめん」
気まずい思いをしながら、必死に頭を下げる。
一体なんだ、この反応は?
非常に不可解なものを感じながら、相手の眼を見る。
それはどこか研ぎ澄まされた刃のような、鋭く野蛮な視線。
先ほどの浜形などとも違う。もっと別の―――。
そんな日和良の疑問は、突然肩を掴まれて吹っ飛んでしまった。
「わ!」
思わず飛び上がる。その勢いのまま目を見開いて映した相手は、誰あらん。
「ひーびーきー!!!」
「わはは、ビビった?びびった?」
肩をいからせ睨みつける日和良もなんのその、上機嫌に此方を指差してくる響。
よ、と軽い挨拶を転入生に投げながら、自販機に小銭を投入する。
「何?お友達になったのか」ココアを片手に、微妙に答えずらい問いかけをしてくる響。どうこたえるか、日和良は一瞬悩んだ。
「たまたま一緒になっただけです」転校生はあっさりとばっさりと解決してくれた。いい性格だ。
「そか。そんじゃ、こいつ借りるぞ。ひよ、ちょいつきあえ」
そう言ってげた箱の方へ歩き出す。
「え、ちょ、じゃ、じゃあね」
暗闇に半分溶け込んだ橘に手を挙げながら、日和良は表に出るのだった。