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Journals of the Dead  作者: 数奇者星
第一部 学園監獄編
32/33

第五話 聖者は夜に去っていく(6)

いったいどうして俺がこんな目にあわなきゃならない。

かつての同僚の顔面に、何度となくハンマーを振りおろす。そうやって凹んでいる部分と出っ張っている部分が出来るだけ平坦になるように、何度も何度も打ちおろす。ぐしゃぐしゃになった顔面から飛び出た眼球をつぶさないようにしているのは、ただはじけたときにかかる血が不快だからにすぎない。

そんな単調な作業を繰り返しながら、柿谷は自問自答する。

一体どうして俺がこんなひどい目にあわなきゃならないのか、と。


 トンネル横で奴らに置いてけぼりにされた後。柿谷はその場を必死に逃げようとした。下には焼けただれたゾンビどもが集まりだしていたし、いくとしたら斜面を登りきって、そこから下山していくしかなかった。

背後から聞こえるうめき声に追い立てられるように、柿谷は必死に斜面をよじ登った。かじかむ手で必死に残雪をかき分けながら、なんとか山道まででることに成功した。

 そうして振り返ったとき、連中が斜面を落ちていくところをみて、自分のとった行動が正解だったことに安堵した。奴らは四肢を使って移動することに長けてはいないのだ、と。

 しばし山の中を、道路沿いに走っていった。先は長いが、幸いにも手荷物だけは持ちっぱなしだった。

 

予想外だったのは、そこにもまた、逃げてきた人間が―――人間だったものがいたことだ。


 気づいたときにはもう遅かった。全身に傷を負ったその感染者に、柿谷の足はかみつかれていた。靴の上から先を食い破るようにして歯が付きたてられるはめになったのだ。

 激情のまま、柿谷はゾンビの首をへし折った。それからその傷口をふさぎ、いったいどうすべきか絶望に打ちひしがれているとき、車の走行音が聞こえた。

 この時柿谷には二つの選択肢があった。このまま傷口をさらして、車を呼び止めるか。それともザックの中の革靴にはきかえて、彼らの前に飛び出すか。


そして彼は選んだ。



帰ってきた自分に、連中はなんと言ったか。

すまなかった。そんなきはなかった。どうようしていた。あのときはああするしかなかった。

ほとんど意味をなさない言葉に、いちいち神妙な顔でうなずきを返すと、連中はほっとした顔をつくりだした。


そうして謝罪を受け入れた振りをしながら、腹の中でずっと考えていた。こいつらをどう始末するのかを。

柿谷は自分のやっていることを正しいと思っていた。誰のせいで自分がいつ化け物になるともしれない身の上になったのか。死ななきゃならないのか。それを贖ってもらう方法があるとすれば、それは死以外にはないだろう。孤立した学園でそれを執行することが出来るのは、自分以外にはいない。

そしてそんなゴミどもを排除したのちに、自分も死ぬ。柿谷はすでに帰りの車内でそう決意していた。


激痛にもだえ、生まれてきたことを後悔するほどに痛めつけてやるにはどうするか。そうした暗い欲望ノ炎を燃やしながらも、柿谷の頭は冷静に目的を達成するための手段を考えていた。


最大の障害は、学生達に他ならない。


この騒動が起こってからの、学生たちの自立心、行動力は目に余るものがある。返ってきた途端、人様に銃を突きつける時点でもわかる。彼らは自分たちの頭で考えている。

だが、今はそれこそが厄介だった。柿谷は自らの立場を活用して生徒たちを寮に押し込めて、職員達と分断させた。生徒たちには自分たちの身を守ることだけを考えるように言いつけ、邪魔にならないようにした。

そうなれば、後の話は早い。

適当に各々を言いくるめて部屋に戻らせるのは簡単だった。どいつもこいつもなにもしたくないというのが表情からもありありと見て取れた。全てを柿谷がひっかぶるようにして、そうして適当な理由をでっちあげて一人ずつ連れ出して、とそれぞれを近場の道場やトイレなどに連れて行った。


隙を意識を奪い、手足を拘束してガムテープを口に張り付ける。意識がもどったならば、抵抗する相手を押さえつけたまま胸の内を語り、自分の傷を見せつけ、恐怖におびえる様をみやりながら息の根を止める。それだけだ。

復讐。それは柿谷にとっては、正義の行動に他ならない。血なまぐさいその手順に、柿谷は嬉々として取り組んだ。自分が思いつく限り最も恐怖を与え、苦痛を味わえるように努力した。

とはいえ三人もそれをやっていると、さすがに柿谷も疲れた。連中の無責任さには確かに怒りを覚えたが、それとて無限ではない。どこか冷めた気持ちを同居させながら、粛々と柿谷は始末していった。

道場で半分近くを始末した後は、一人職員寮で一人ずつ片付けて行くことにする。残ったのは女ばかりだ。


しかし疲れは思わぬトラブルもあった。血で塗れたハンマーを持った姿で、哀川と廊下でかちあったのだ。哀川は硬直していたが、こちらの雰囲気から事情を察したらしい。だが、柿谷は既に理解していた。この男には、だからといって、何かをする勇気も度胸もない。

「安心しろ。要があるのはお前以外だ。黙ってろ」

そのときの哀川の媚びた様な表情といったら、傑作だった。奴はそのまま大慌てで部屋に戻って、鍵を閉めたのだ。


ただし、最後の一人だけは別だった。その前に何かを感じ取っていたのか、わざわざ寮食堂で話をしようとしてきたのだ。

こちらもそれを受け入れ、一階に降りようとしたところで、案の定仕掛けてきた。手持ちの果物ナイフで、柿谷に襲いかかったのだ。

しかし、このときの柿谷の胸中は動揺とはほど遠い。むしろ突然のトラブルを、楽しんでいたといっても過言ではない。

手こそ切りつけられたが、自分が噛まれているであろうことをつげて、血にまみれた手を伸ばすと、大慌てで逃げ出していた。

そこから食堂に追い込んで、顔面を叩きつぶして殺した。

あっけないものだった。

そうして、柿谷の復讐は終わった。目的は、もう達成したのだ。

何の感慨も浮ばない自分に戸惑いながら、柿谷は自分がどうやって死ぬかを考えようとした。

―――柿谷の目的は、終わったはずだった。

「すいませーん!」


そこに、杉村明里と言う思わぬ来客が来るまでは。



学生寮では二十分近くの時間がたっても、膠着状態が続いていた。霧生に従う生徒のみならず、他の生徒も大勢がことの推移を見守っている。

本来ならばドアを開けるのに強引に押しいるという方法もあり得るのだろうが、完全に立てこもられたらしい状況に陥ってしまって、どうするべきなのか判断がついていないようだ。中にいる響の迫力に、気押される程度の覚悟しかない連中だ。皆が二の足を踏んでいるらしい。

「―――私です。大森さん」

ドアの前に持ってきた机を、背中で支える響の目が見開かれた。

名雲文香。

ドアの外に耳を澄ませながら、大森響は、こらえきれない感情のささくれを、ドアにぶつける。

「何の用だ、クソ女」

一瞬ドアの向こうが静まり返るが、まもなく静かな声音で返答が返ってきた。

「お聞きなさい。あなたたちがどういう状況に陥っているのかは、もう見当がついています。だから、霧生さんはずっと誰かが接触してくるのを待っていたのよ」

「私のやったことは、無駄だったって言うのか」

「そうじゃありませんわ。どちらにせよ、このままで居続けても」

「だったら……なんで、わざわざ先にアタシと絵美を引き離そうとした。そんな風に武器を持ち寄って部屋に来たんだ!それこそ、人間扱いしているっていえるのかよ!」

思いの丈をぶつけても、あくまで名雲は冷ややかな声音を崩さない。

「……お聞きなさい。確かに絵美さんへの態度としてあなたが納得できないところもあったかもしれませんわ。でも、それは私たち自身も身を守る必要があったから。あなたがずっとひた隠しにしてきた絵美さんと向き合うに当たって、ね。……それにね。大森さん。私たちはあなたのことも心配しているのよ。これからどうなるかわからない状況で、あなただけに絵美さんを任していたのなら……最悪の事態だって、考えられるのよ。それを避けるのも、私たちの目的なの」

ゆっくり、ドアの向こうから言い聞かせるように聞こえてきた言葉に、響の激情は既に収まっていた。


結局、そういうことだった。

どんなに響が彼女らを攻め立てようとも、結局は理は向こうにある。響が言っていることは、自分の感情でしかないことはわかっている。わかっているのだ。だが。

「くそったれ。なんだって、アタシのことまでだしにされなきゃいけないんだよ」

「大森さん、おちつきなさい。仕方ないことなのよ。他のみんなを危険にさらすわけには行かないの。それに……絵美さん。あなたも聞こえているんでしょう。あなたにはもう、どうすればいいのかわかっているはずです」

言われるまでもなかった。

身体を横たえていたベッドから、すでに絵美は立ち上がっていた。

そうして青ざめた顔をしながら、此方を見つめていた。その瞳に浮かんだ色が、しかし、響にはどうしても許せなかった。

「何だよ。何なんだよ!何様だよ!そのためだったら、絵美だけは無茶をさせてもいいって言うのか。ふざけるなよ!」

どすん、とドアの向こうまで吹き飛ばすように拳をぶつけながら、響は崩れ落ちる。

「響ちゃん……」

こちらに歩み寄り、そっと絵美が手を伸ばす。響は精一杯の虚勢を張って、絵美に笑いかけようとする。

「大丈夫だから。絵美は、私が」守るから。そう言おうとした唇は、そっと指先でとじられた。


「響ちゃん。もういいよ。もう……無理だよ」


それは最後通告だった。必死に守ろうとしてきた相手、その人物から告げられた終わり。響の心臓の鼓動が、大きく跳ね上がった。

「そんなことを言うな!絵美は、絵美なら……大丈夫だよ」無責任で無価値な言葉。わかってる。しってるさ。自分に何もできないことは。

絵美は首を振りながら、響にそっとほほ笑んだ。響が浮かべようとした笑顔よりも、ずっと強い意志がそこにはにじみでていた。

小さくふるえている体を抱きしめながら、絵美がつぶやく。

「さっきから、ぜんぜん血が止まらないの。体温も、測ったら、だんだんと下がってるみたい。たぶん、もうすぐ私も……」

「嘘だ。信じない。イヤだ、そんなの絶対に……!!!」

「響ちゃん……」

「おかしいだろぉ……。なんだよ、これ……。なにしたってんだ。絵美が」

どこにもいきようのない感情。なにをすればいいのか、なにができるというのか。

泣き崩れながら、響はその体にすがりつく。

これが最後の一時になることを予感しながら。

強く。

強く。

強く。



突然の告白を受けて、柿谷の心は揺れた。

杉村明里は、それなりに魅力的な少女だ。


鳳凛はそもそも健全な女生徒の育成を謳って建てられた学園だ。陸の孤島として生徒が純粋培養される様に経営されてきた。基本的に、教師による生徒との恋愛など認められるはずもない。そのために精神科医によってメンタル面でのチェックや自制心のテストも行われていたし、すればその後のキャリアが失われることもわかっていた。

しかしそもそも、そんなことを心配することにいみはあるのか。理事長は死にかけているし、なにが起こるかわからない。そんな状況で、操をたてたところで、なんのいみがあるのか。


いや、大体自分の命は後のこり少ない。それなら、最後に楽しんだって、誰が攻められようか。

むろん、杉村がその後どうなるかがわからない柿谷ではない。感染者との性交渉は、AIDSなどと同じように悲惨な事態を招きえるだろう。

だが、そんなものを省みるほど他人のことを思いやる力は残っていなかった。


突然湧いて出た様な杉村からの告白を、柿谷に断れるはずもなかった。


せめて死体を見られる事がなければ、もう少しスマートに楽しむことができただろうに。

そう思う反面、こうして無理やり組みふせていることに興奮している自分がいることにも柿谷は気づいていた。激情と鮮血にまみれた本能は、すでに獣のそれに近づいている。

だが、しかし恐怖におびえる杉村の顔を見やりながら、

「や、やめて。お願い。やめてください!!やめて!」

涙目で懇願し、手を伸ばして払いのけようとして、必死に抵抗する姿。

そうして嫌がる杉村をみてふつふつと柿谷の胸に、沸き上がってきたのは怒りだった。

すでに何人もの人間を殺めた柿谷に、自制心などなかった。

感情の赴くままに、握った拳を杉村の左の頬めがけてふりおろしていた。

「ふざけやがって。ふざけやがって!!なんだよ。何様だよ。おいこら杉村ぁ!」

半ば絶叫のような声。激痛にもだえる杉村に、柿谷はさらなる一撃を加える。

「俺をそんな目で見るな!見るな!」

感染している。自分が連中に噛まれてしまっているという事実を改めて思い知らされて、柿谷の心は再びささくれ立っていた。

先ほどまで死のうとしていた自分が、杉村の告白を受け入れようとした。

それは最後の楽しみで、ささやかな褒美になるはずだった。自分にとって。

だがそれは違う。

生殖行動であるそれらの行為と向かい合うに当たって、柿谷は気づいたのだ。

生きようとしている自分に、気付いてしまったからだ。


「おまえが!おまえが!」

言葉にならない言葉を憎悪と共に吐き出しながら、杉村の首にかけた手に、力を込める。

目じりには涙さえ浮かべながら、青ざめる顔を睨みつける。


こいつが。この女さえいなければ。


じだばだと腕を振り払おうとする杉村の力が弱まり始めていたところで、柿谷はその首をへし折ろうと最後の力を込めようとした。

―――死ね。死んでしまえ。


「そこまでや!」



クリスティーナ・稲葉がやってきたとき、すでに状況は最悪へと片足をつっこんでいた。

砂野からの証言を聞いたクリスと曜子は、大急ぎで職員寮へと駆けだしてきた。

杉村の怒声が聞こえてきて、クリスは食堂へ。曜子は助けを求めるために階段を上ってもらった。


だが食堂で待ち受けていたのは、クリスが想像していた以上に凄惨な光景だった。

ロッカーから飛び出したような死体。

顔の半分をはらして、着衣を乱れさせられている杉村。そして彼女を絞殺さんとしている、柿谷。

死んでいるのか。クリスも思わず硬直してしまいかけた。

しかし杉村が微かに残った理性の光が、その口で言葉にならない言葉を紡いだ。

「助けて」

それがクリスをもう一度奮い立たせた。


柿谷が真っ先に反応した。首根っこをつかんだまま、もう一方の手でその顔を打ち据える。

「黙れ。黙れ!」

すでにその目の色は尋常ではない。

クリスは反射的に彼の頭上めがけて引き金を引き、食器棚を破砕する。

ガラス片と食器片が舞い散る中で、さすがの柿谷も杉村から手を離した。


クリスの威嚇射撃は、柿谷の蛮行を停めるためだったが、それが新たな問題を引き起こした。

「……!!!」

柿谷も冷静な頭を取り戻したらしい。

柿谷は近くにあった鉈らしいものをひっつかむと、そのまま杉村の体を抱き寄せながら鋭利な切っ先を首筋につきつけた。

「動くなよ、稲葉」

柿谷の下半身に狙いをつけようとしていたクリスは、これには固まるほかなかった。

クリスが持っているのは、散弾銃と呼ばれる対応の銃だ。破壊力と射撃範囲に優れている反面、緻密な射撃には向いていない。杉村に接近された状態で、撃つのは得策ではない。


くっ、とほぞをかみながら、クリスは必死に相手に語りかける。

「何でですか、先生。あなたは……大人でしょう!」

「はん、俺だってただの男だよ。他人に腹も立つし……女に欲情もする」

直接的に漏らされた言葉に、杉村が体をこわばらせる。自由な方の手を首筋にはわせながら、柿谷は舌をだす。

「止める気はないんですね」

「……別にいいだろう。なあ。最後に一発すっきりさせたいだけなんだ。それくらい、させろっつってんだろ!!!」

突然感情を露わにする柿谷。すでにまともな精神状態ではない。男性としての醜悪な姿を見せつけられたクリスは、嫌悪感を丸出しにするようにして相手を睨みつける。

柿谷は血でぬれた唇をなめとりながら、歯をむき出しながら笑う。

「まさか一日で二回も教え子に銃を突きつけられるなんてな。なあ。撃てるのか、お前に」

挑発してくる柿谷だが、迂闊に近づくようなまねもしてこない。瞳の奥にはあくまでどうやって現状を切り抜けるかと言う計算が浮かんでいる。

「さあ。どうでしょね。今度は、撃たんと自分が死ぬやろうし」

だが、何も急ぐ必要はない。此方には味方がいる。

どたどたと背後から近づく足音を背に、クリスもにやりと笑った。

「だめ!クリスちゃん、ほかの先生はみんな……死んでる」

だが、聞こえてきた曜子からの言葉は思わぬものだった。

他人に腹が立つ、という言葉の意味を改めて理解して、クリスは柿谷を睨みつける。

しかし足音は一つではなかった。それに思い至った時、「ひっ」と短い悲鳴が上がる。

哀川か。クリスは失望と共に小さくため息を漏らす。あまり頼りになる人物ではない。

しかし柿谷はその姿を見て、にっこりとわらった。


「おい、ちょうどいい。哀川先生、車を回してきてくれませんか」


「「な!」」

その場にいた一同が絶句する。柿谷もぐるか。クリスは思わず。横に飛びずさって両者を視界にとらえながら、柿谷をみやる。

だが彼も困惑したような表情で、此方を見つめ返すだけだ。

どういうことだ。

「おまえらもわかるだろ。こいつは俺が何をするのか、気づいてた。そのくせずっと穴熊を決め込んで、必死に隠れていた。そんな男を、これから信頼していけますかね」

皆に言い聞かせるような口調で話し始め、やがてそれは哀川自身に語りかけるものにかわる。

「ねえ、哀川先生。こいつらと一緒にいても、あなたはこれからどうなるか知わかりませんよ。貴方のせいで、死にかけた生徒だっている。頼りにもされていない。おまけに、こいつらは容赦なく他人を殺せるクソガキどもです。そいつらと一緒にいても、いいことなんてありませんよ」

哀川はうつむきながら、視線をさまよわせている。

「だめです、先生!柿谷は感染してるんですよ」曜子が説得するが、


「いってるだろ。俺はやることだけやったら、死ぬつもりだって。

どうせここにずっといても、こいつらから何をされるかわかったもんじゃない。だろう?」

にまりといやらしい笑みを浮かべて、柿谷は言う。

「それならさっさとこんなところでていかないと。山さえ越えられれば、あんたならなんとかなるだろ」

「それから、ついでに。こいつを好きにさせてやるよ」

視線がはだけた衣服の間を這いずる。杉村は屈辱に涙を浮かべる。クリスは思わず嫌悪感を露わにして哀川をにらみつける。

だが、それが決定打になった。その目が哀川と合ったとき、彼の瞳にははっきりと恐怖の色が浮んだ。

おぞましいものをみつめるクリスの瞳を、彼は自分の末路を見たのだ。

「……!」

哀川はそこから踵を返そうとした。

「待て!」クリスが咄嗟に銃を向けようとする。

「おまえらは動くな!」

だが、柿谷の恫喝に、クリスと曜子は動けない。

二人はただ表へと出て行く足音を聞いているほかなかった。



駐車場へと走り寄りながら、哀川は一人ごちら。こうなるとおもったんだ、と。

先ほどの惨状を見ても、驚くには値しない。もともと柿谷はこういう奴だ。

学園で働くに当たって、わざわざこんなところにまできたのは、それなりに後ろめたい過去があるからに他ならない。柿谷もその例に漏れず、DV歴があった。現在でまともに見えるが、ほんの三年ほど前までは妻を半殺しにするなどの問題行為が目立つ教師だった。

こんなご時世だ。まともに報道されていれば職を追われて、一巻の終わりだ。それを理事長が救ってやったのだ。様々な有力者のパイプを使って、柿谷の身辺に傷がつかないように、助けてやった。

もちろん、打算あり気だ。狩りを作っておくのは、学園長が、よけいなことをいわないようにする上で便利だからにほかならない。

そんな奴なのだ、柿谷は。あいつはまともじゃなかったのだ。

「あんたに恨みはない。黙っていさえいれば、なにもする気はない」

そんな奴にそういわれて、こくこくとうなずく以外になにができる?

ほかの職員どもにも、哀川はなにも思ってはいない。自分は嫌われ者だ。容姿にも頭にも、人付き合いにも恵まれなかった。連中が軽蔑の目で自分をみていることは知っている。だから、どうなろうと知ったこっちゃない。

そうだ。知ったこっちゃない。

駐車場にある車にキーを差し込みながら、哀川は自嘲的に笑った。



響と絵美。

二人の最後の抱擁は、にわかに外が騒がしくなってきた事で破られた。

「……何だろう?」

廊下のあちこちから聞こえてくる声と、どたどたと走りまわる音。やがて部屋のすぐ前、名雲らが離す声がぼそぼそと聞こえてくる。

「名雲!説明しろ、何があった!」

「それが……!それが……」動揺しているらしい名雲は、何から話したものかと言う体でずいぶんとつっかえながら話をしていた

「私が説明するわ」

霧生だった。落ち着きはらった声で、そう答えた少女に、響はぎょっとする。どうやらずっと面で待ち構えていたらしい。黙っていたのは、こちらを刺激しないためか。

霧生の口から知らされたのは職員寮で起きている異常事態だった。柿谷が感染していた。それと知らずに招き入れてしまった自分に憤りを感じるとともに、妙なところで納得もしていた。脱がされるのを嫌がったわけだ。

「それで、今杉村がつかまっているらしいって……ああ、もう」

「名雲さん、落ち着きなさい。とにかく、私たちは一旦先生達を止めに行かないといかないわ。もうおかしなことをするとは思っていないけれど、ここから動かないように。いいわね」

「……わかったよ」

絵美との最後の時間に水を差されたようで、何か嫌な気持ちになりながらも、響は頷いた。世界は私たちを中心にしてはいないし、悲しみはここにしかないわけじゃない。

だがこれで、最後の一時を二人だけで過ごせる。そう思い、響は振り返って絵美に笑いかけようとした。

「絵美!聞いてほしいことが……絵美?絵美!」

響は一瞬それを見てぎょっとする。

「……かっ」

身体をくの字に曲げた絵美の口からこぼれおちる血。

そうして再び此方を見上げた絵美の瞳が、響を映した。



砂野によって柿谷に感染の恐れがあることが知らされて、生徒たちは一気に目を覚ました。

だがほとんどの学生は事態を把握しても、哀川までが加担しているとは理解していなかった。


瞬く間に柿谷は車に乗り込んで、職員棟にまで車を走らせてしまった。

それに追随する形で生徒たちは建物を囲むが、もう遅い。

玄関から杉村に刃物を当てた柿谷がでてきて、皆は一気にどよめいた。

「先生!あきらめてください。逃げる場所なんて、ないでしょう」

「いけるところまで行くだけさ。だが、お前たちに殺されるのだけはごめんだ」

柿谷のゆがんだ笑みをみながら、クリスは後悔を必死に押さえつける。

あの時、正門で撃ち抜く意志があれば。あるいはさっきのうちに引き金を引く覚悟があれば。

恐怖に目尻をぬらす杉村を引っ張りながら、柿谷は車に近づいていく。

「逃げたとしても、どうするつもりなんです」

「さあね!お前らが知ったこっちゃないさ。せめてやることやるだけだ。わかるだろ」

杉村の首筋にその舌をはわせながら、ねばっこく醜悪な視線をこちらに投げかける。クリスは怒りで構えた銃を握る力がこもる。

「そんなことしたら、杉村が……」

感染者との性交渉。それがいったいどういった危険があるのか、わからないクリスではない。だが、もはや柿谷にとりつくしまはない。

「知ったこっちゃないっていってんだろ!だいたい、誘ってきたのはこいつなんだぜ。それを、今更病気持ちだからって……くそあまが!」

膝で腹をこづくと、杉村が苦悶の声を漏らす。周囲の生徒たちはどよめくが、いずれも変貌した柿谷の振る舞いに、恐怖を覚えているらしい。みな動くことができない。


「哀川!さっさと来い!」

哀川がきょろきょろと神経質そうな目をしながら、車をまわしてきた。

「は、はやく。はやく、乗って」

「哀川先生!止めてください!」

だが哀川は耳を貸そうとはせずに、後部座席を開けようとする。

しかし車体に妙な赤い点が動いているのを見て、哀川の動きが止まる。

「あ!」

突然声をあげた哀川につられて、柿谷も体を反転させる。

瞬間、飛来してきたそれが哀川の膝に突き刺さった。夜の帳を切り咲くような悲鳴をあげて、哀川は激痛に転げ回る。突き刺さった矢じり一瞬顔を青ざめさせながら、矢が放たれた方向へ柿谷は脅しつける。

「砂野!おまえ……出て来い!こいつを殺すぞ」

瞬間、さらなる一発が風を斬った。だが腰が引けている柿谷の脇を通り、続く二発目も車のタイヤに突き刺さるだけで終わった。

「砂野!撃つな!撃ったらあかん!」

木の向こうに隠れていたらしい砂野が、姿を晒した。手には弓矢。しかしよくみると弓には何か妙なスコープのようなものがとりついているらしい。

おそらく夜間射撃用に取り付けたレーザーポインターだ。

くそ。外した。砂野ならひょっとしたら、杉村を傷つけることなく柿谷を射抜くことが出来るのではないか。そうした期待もあったのは確かだった。

だが、その希望ももはや潰えた。

「おまえら、弓をおけ!そこから動くなよ、一歩でも動いたら今度は……こいつの目玉をつぶす!いいな!」

柿谷は口泡をとばしながら、血で塗れた刃先をその眼球のすぐ前につき当てる。杉村が悲鳴を漏らしながら必死に抵抗するが、全く動けない。

「ちょうどいい。洋弓部は全員でてこい。いいな!そうだ、そこ、ライトの下からお前たちは動くなよ。動いたら、今度こそこいつは殺す」

そうして柿谷は杉村を抱えたまま一人駐車場へと向かおうとする。

「いいな。お前たちに手を出すわけじゃない。俺はさっさとここを出たいだけだ。邪魔をするな」

皆も最早手を出せない。絶望によどみつつある杉村の瞳から、皆が目を逸らした。

それをみて顔色を変えたのが、哀川だった。

「先生。……柿谷せんせえええ!」

土にまみれながら、哀川が必死の声を挙げる。

「すいませんね。もう先生は辞めたんだよ、哀川センセイ」

だが助けを求める哀川をあざ笑いながら、駐車場へと後ずさっていく。


万事休すか。

あとには立ち尽くす生徒たちと、呪詛とも怨念ともつかない叫び声をあげる哀川だけが残された。




雑木林の間で視線を走らせながら、柿谷はほくそ笑んだ。

最善には程遠いが、連中を出し抜いた。自分は奴らとの戦いに、勝って見せたのだ。ギリギリの勝負だった。

予想外だったのは、車めがけて躊躇なく矢を放たれたことだ。ただどちらにせよ哀川は始末してしまうつもりだった。ちょうどいい。

それに、ちょうど正門の近くにまだ車が止まっていたはずだ。ワゴン車。山の中にでも適当に入って停めて、後ろの席を倒しさえすればちょうどいい具合に楽しめるはずだ。哀川は本当に使えない奴だ。だが感謝しなければ。そのおかげで、霧生や砂野たちをあそこに引きつけてくれているのだ。ほとんどの生徒があの場所で固まってくれている。

「はは、見たかあいつらの顔。最後は結局お前を見捨てたんだ。自分たちが傷つくのが怖いからな。わかるか。お前は見捨てられたんだよ!」

耳元でが鳴りたてるように言い含める柿谷。

この後どう楽しんでやろうか、下卑た考えを浮かべながら、必死に杉村を追い立てる。

噛まれた足は激痛を発しているが、それでもあとすこし、と必死に柿谷はふんばる。

だが、車を目前にして、足音が聞こえてきた。

鋭敏な柿谷の五感はそれをとらえると、片手で首根っこをつかんでいた杉村を再び抱き寄せた。

「おい!動くな。動いたら、こいつの命はないぞ!」

そういって脅しを入れるが、相手はいっさいを無視して歩を進めてくる。

なんだ。その並々ならぬ様子に、柿谷も違和感を覚え始めた。

そして近づくにつれて抱いたある種の予感が、電灯でその姿が明らかになるにつれて正しいことが分かった。


目の前には、紛れもなく感染者がいた。


生気が伺えない顔に、血管が浮いた両手。つま先と顔には血が滴っており、もはや

だがその顔だけは生前の面影が残っていた。

「くそ、木中か……」


木中絵美。自分と同じように、噛まれたという少女。

杉村がはなしていたとおりだ。感染は本当だったらしい。


彼女も級友の変わり果てた姿を見て短く悲鳴を上げる。


「あー」


虚ろな足取りで、こちらへ進んでくる木中。

―――こちらの混乱に乗じて、部屋の外に出てきたのか。柿谷はそう推測すると、どう立ちまわるかを考えた。

感染者に脅しは通用しない。逃げきれるか。いや、杉村を抱えたまま車に乗り込むのは難しいだろう。

相手をすることは可能かもしれない。だがそうすれば杉村に逃げられる。

周りこむにも、この足ではやり過ごすことも難しい。


はたしてその時の柿谷の頭に合ったのは、もはや正常な判断といえたのか。

あったのは、現状を切り抜ける最前の方法のみ。


柿谷は明里を拘束する力を緩めて、彼女の耳元に囁きかけた。

「杉村……じゃあな」

呼吸が自由になり、へたりこみながら必死に空気を取り込む杉村の顔面に、柿谷は拳をぶちこむ。

杉村は短い悲鳴を上げて、地べたに倒れた。底から慌てて距離をとると、案の定感染者はそちらへ軌道を修正する。それを見届けて満足した柿谷は、車へと急いだ。

門の近くにだれもいないのを確認してから、大慌てで車に乗り込む。後はここから逃げ出してしまえばいいだけだ。

理由などもはやなんでもいい。今は一刻も早く、この場所を逃げ出したい。突きつけられた銃口と弓矢で狙われ、向けられた殺意。それはすでに柿谷の精神をばらばらの行動に突き動かすまでに、心の内をむしばんでいた。

そして車が振動をはじめ、エンジンが回りだす。一気にアクセルを踏み込もうとしてふとバックミラーを確認したところで、ようやくそこに何かがうごめいていることに気づいた。


「このクソ野郎!!!」


後頭部に鈍器がたたきつけられ、柿谷の意識は、そこで途切れた。



そろそろ行きましょうか。霧生の冷静な一言につられて向かった雑木林で、クリスは思わぬ人物を目の当たりにした。

「木中、さん?」

血に濡れたその姿を前にして一瞬硬直するが、

「ああ、みんな。大丈夫だよ。もう、杉村さんは大丈夫だから」

その足元には、ぐったりとした杉村が横たわっている。

「……わたし、は……」

顔の半分が腫れて、ひどい有様だった。だが、無事なのは確かだ。

「殴られたりはしたみたいだけど、噛まれてはいない。大丈夫」

草薙が傷口を確かめながら、そう診断する。皆がほっとして、安堵のため息を漏らした。

とはいえ怪我をしていることに違いはない。このまま寮へと連れ戻そうとする草薙を、霧生が止めた。

「そのまま連れて行った方がいいわね。けりをつけるために。浜形さん、お願いできるかしら」

ぬっとあらわれた浜形はそのまま杉村を背中に担いで歩きだす。霧生達も一緒だ。

「どういうことなん?」

霧生に説明を求め、行けば分かる、と言われクリスは正門へ向かった。


「おーい」

そこではまた、予想外の人物がいた。

車の前には、大森響がいた。先ほどまで、絵美と共に部屋に立てこもっていたはずの人物だった。

彼女の前には、後頭部から血を流しながら、地面に横たわった柿谷の姿があった。

「つまりは、私が彼女たちにお願いしたのよ。杉村さんを助ける手伝いをしてほしいって」

簡単に言えば、こうだ。大森と木中は、待ち伏せを仕掛けていた。二つの罠を。

一つ目が、木中の罠。感染者として一本道の前に立ちふさがり、相手から杉村を奪い返す。そして二つ目が、響。車の後部座席に毛布をかぶって隠れ、奴が乗り込むのを待っていたのだ。

「もしも絵美が失敗してたら、杉村が後部座席に積まれる時にばれたかもしれない。運がよかったよ」

「危ない作戦だったのは確かだけど、杉村さんを無事取り返すのならベストだと思っていたわ」

相好を崩すことなく霧生はそう言い放つ。やはり彼女の差し金だったわけか。クリスは脱力する。

もちろん、その下準備も怠ってはいなかった。

「あ、あ、あの。杉村さんにはあてなくていいって。……ええと、車と、足さえあてればいいって。それで」砂野がそう弁解する。狙撃は失敗したわけではなかったのだ。

霧生たちと相手がもっとも用心していたであろう、射手。それらの動きを止めて、相手が安心したところを、十重二重の策で襲う。相手の心の動きを読み、そのうえで罠へと誘導していく。

霧生詠。彼女は本物の魔女かもしれない。クリスはそんなことを思わずには居られなかった。

「……まあなんにせよ、みんな無事でよかったよ。さすが」

全員にはやはり作戦が知らされていなかったらしい。雨宮らは憧憬の眼差しで、霧生を見ていた。

なにはともあれ、杉村は無事取り返したし、柿谷もひっ捕まえた。

一件落着。


いや、そうはいかない。いかしてはいけない。


「うう、んん」

柿谷が意識を取り戻したのか、声を漏らす。

「お目覚めか。ええ御身分やな、ええ!」

クリスが怒りを込めた視線で、柿谷を睨みつける。後ろ手に簡単に縛られている柿谷は、状況を把握したらしくうろたえながら、周囲を見渡す。

「……」

「何か言うことはありますか、先生」

霧生が凍てつく眼差しを注ぎ、柿谷は絶望そのものといった形相で点を仰ぐ。

「なんでだよ、何で俺なんだ。俺だけが、どうしてこんな目に遭わないといけない!」

癇癪を起こす子供のようにじだばたと地面をはいずりながら、柿谷は叫ぶ。

「お前らのために働かされてきた俺が、どうして死なないといけないんだ!おかしいだろうが。おかしいだろうが!」

血の混じった唾を吐き散らしながら、四方の生徒達を睨みつける。

「あいつらが!あいつらさえちゃんとしていれば!さっさと殺しちまえばよかったんだ!俺は悪くない。俺は……」


「黙れ!」


クリスが一喝する。手に持っていた猟銃を曜子に渡すと、そして手の震えを必死に押さえながら、指先に力を込めて、拳を握った。

そうして、呆気にとられたようにこちらを見つめる柿谷めがけて、その拳を向けた。

「なんと言おうと、あんたがやったことはかわらんやろうが!ふざけんなや!くそ。くそ!」

拳で二度、三度と殴りつける。自分の手が痛いのは気にならなかった。それよりも胸の痛みだけが大きくなっていった。知らないうちにあふれてくる涙がつめたかった。

「くそ……くそ……」

口から血をこぼしながらぐったりとする柿谷の首根っこをはなして、クリスは歯を食いしばる。


何に憤ればいいのか。何を悲しめばいいのかわからなかった。

自分だけの悲しみではない。ほんの少し前まで確かにあった日常。それが永遠に失われたことを、拳からあふれる熱がはっきりと語っていた。

死んでしまった教職員達。感染して失われた正義。見せつけられた、醜悪な人間の習性。


「なんで……なんでみんな、力をあわせて……。それだけで、ええはずやろ……」



クリスの慟哭を、どこか冷めた目で見つめている自分がいるのに、響は気がついていた。

私たちは、一人ひとりが違うんだ。自分がやるべきこと、自分が決められる事はたかが知れている。

そうだ。だから、アタシがするべきことは何なのか。

絵美とここから逃げ出すことだ。響は、出されたままの車をつかって、学園から逃げ出そうとしていた。

このまま絵美を連れて、逃げ出す。その手はずは絵美ともう話してあった。

杉村を助けた後に、銃を奪って、車で逃げ出す。霧生からの助けを受け入れてから、それは二人で決めたもう一つの作戦だった。

クリスが車を回す準備をしている間に、絵美は徐々にクリスに近づいていた。そしてちょうどさっきクリスが銃から離れた。チャンスだった。

皆がクリスと柿谷に気を取られていた。そして、一瞬のすきを見て、絵美は銃を奪った。

「きゃ!」

「ちょ、待て。何してんの、木中さん!」尻もちをついた松波を支えながら、雨宮が慌てる。

よし。響はさっそく車に乗り込もうとする。

だが

「おい。……待て、絵美」


絵美は、猟銃を自分自身の頭に突きつけていた。



「ごめんね、響ちゃん」


「何してるんだ。落ち着け、絵美」

「木中さん、ゆっくり、ゆっくりとその銃を下ろして」

一同から向けられる言葉にも、絵美は荒い呼吸を落ち着かせながら、ゆっくりと首を振る。

「すいません。私、もう無理みたいです。もう……手の感覚とか、なくなってきて」

そう言って、絵美は再びせき込む。いや、ちがう。抑えた手からは血がぽたぽたとこぼれ出ていた。

「……だから、こうするしかなくって」

決意はもう、固まっている。いや、いや、駄目だ。響はそれを認めない。

「絵美。やめてくれよ、なあ。日和良に逢いに行くんだろ。最後に一言言うんじゃなかったのか」

あの体調じゃ無理だ。やめろ。アタシだってわかってる。やめろ

「響ちゃん。伝えておいてくれるかな。ひよちゃんに。……これまで、ありがとうって」

どうして、笑うんだ。どうして、こんな時に笑えるんだ。響はへし折れそうな足を必死にこらえて、絵美を見つめる。けど絵美は顔を周りのみんなに巡らせて、そっと頭を下げた。

「お騒がせして、すいませんでした。ごめんなさい。でも、響ちゃんは私のためにやってくれたんです。だから、響ちゃんを責めないで。お願い」

いまわの際の言葉。それを感じとれて、頷かないでいる者はいなかった。

「わかった。わかってるから。絵美ちゃん。そんなん……そんなやり方は」

「ごめんね、クリスちゃん。奴らになりたくないの。私が、私のまま死ぬには……これぐらいしか方法がないの」

そういって銃口を顎先に突きつけて、天を仰ぐ。

やめろ。

「あの……出来たら、見ないでほしいかな。数字を数えるから、目を、閉じていて。お願い」

「嫌だ。嫌だ」

響はかぶりをふる。子供のように。赤子のように。

「響ちゃん。これまでありがとう」

そうして、慈母のように、はにかむようにして、絵美は言った。

「私、響ちゃんと友達になれて、うれしかった」

馬鹿。バカ。ばか。

お礼を言うのはアタシの方だ。一人で何もできず、何かになれるとも思えず、誰のためにもなれるとも思えなかった。それを救ってくれたのは、絵美じゃないか。

けれどもあふれ出る思いは、嗚咽にかき消されて言葉にならない。

だから絵美は、ただただ微笑みながら、此方をみやりながら、始める。

「3」

やめろ。

やめてくれ。

嘘だ。

嘘だと言ってくれ。

「2」

絵美だ。

絵美なんだ。

私の友達だ。

喩えどんなふうになっても、私の友達だ。

だから、目を逸らさない。

「1」

絶対に、目を逸らしはしない。此方を見つめる絵美の瞳を合わせながら、揺るぐ様を全く見せないその瞳を交わらせながら、この一年ずっと隣にあった視線を絡ませながら、響は見つめる。

それが絵美を止める手段だと信じるように。彼女が引き金を引かない、その結果を信じるように。

絵美。撃つのを、止めてくれ。

ありったけの思いを視線に込めて、響は祈った。

神様、どうか。どうか、絵美を。




「 」










銃声が、学園に響いた。




雪と霰と雨の間。

昼頃から降り始めた雪と雨、そして霰のつぶ。それらによって、学園から出ることをためらわせた。

あれから、丸一日が経っていた。

「……別に神様がいるなんて思ってない。ろくでもないことばっかり起こしやがって」

日和良達が帰還し、生存者と情報を持って帰ってから。絵美との長時間の接触があったということで、響も軟禁状態にあった。一回の用具室に押し込められて、一日中見張られていた。

そうして自由になってまず、響は礼拝堂へと足を向けた。

ガラスなどが我れて、吹きっさらしになった建物。誰かが神に祈りをささげていた、場所。

「けど、せめて……せめて死んだ後くらいは、神様が面倒を見てくれねーのかな」

結局、今のところ感染した遺体は、どれもビニールシートや布類でふんじばって、用具室に並べてある。

埋葬するにも、どこに埋めるべきか、どう弔うべきか。誰にもなにもわからないからだ。

「老後の心配よりも、死後の心配をしなきゃならないなんて。……なんて世の中だ」

「……それでも、まだ私たちは生きていかなければいけませんわ」

悪夢はまだ終わっていない。そして自分がやるべきこと、求められるべきことはまだある。

「……」

立ち上がって響と向き合いながら、名雲は頷いた。


「いきましょう―――街へ」



第五話 了


いかがだったでしょうか第五話。話が入り組み過ぎて、超長編になってしまいました。

次回からはようやく街に降ります。正直このまま一生学校から出られねーンじゃないかと思っていましたが、自分でもほっとしています。

次はもっとストレートな話になると思うので、なんとかせっせと書きたいと思います。

第六話「ターザン都会へ行く」お楽しみに。


あと、その前に今度こそ誤字脱字変文を訂正していきたいと思います。そちらは活動報告で知らせて行きますので、どうぞよろしくお願いします。

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