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Journals of the Dead  作者: 数奇者星
第一部 学園監獄編
31/33

第五話 聖者は夜に去っていく(5)

廊下の奥、用具室である程度事情を聞いた名雲文香なぐもふみかは、深いため息をついた。

「なんてこと」

名雲はどこぞの売れない劇団俳優みたいに天を仰ぎながら、そうつぶやいた。

「……絵美さんは、部屋にいるんですわね」

そうだ。彼女は自分がこれからどうなるともしれずに、怯えながら横になっている。

大森響はひどく平坦な口調で告げた。時間と共に冷え切った頭と言葉で告げられたこれまでのいきさつは、自分自身嘘じゃないかと思えるくらいに現実感がなかった。

ひょっとしたら何かの見間違いじゃないか。勘違いじゃないか。これは夢なんじゃないか。肌を切る様な風にさらされながら、ふとそんな風に思ってしまう。

そんな感情を見せない響が癇に障ったのか、名雲は詰問口調でいった。

「あなた、ご自分がやっていることの意味をおわかりになっていますか?」

「わかってるよ。だからこそ、今こうして相談してるんじゃないか」

返す刀でそう言えば、名雲もうっと黙るしかない。せわしなく瞬きを繰り返す彼女に、響はゆっくりと告げた。

「とにかく、クリスや霧生だ。連中から絵美を守らないと」

はっきりとその名前を口にすると、名雲が緊張を見せるのがわかった。

霧生詠。今最も大森響が怖れている相手がいるとすれば、間違いなく彼女だった。現在の学園を取り仕切る実力者にして、最大のタカ派。感染者に対して容赦ない選択を取れる彼女を、なんとか押しとどめなければ絵美の身が危ない。

幸いにも教師陣の動きによって、感染者を捜すことよりも生徒の安全を確保することに学園では重点が置かれることになった。幸い、まだ遺体も見つかってはいないようだ。教師たちが捜索するんなら、人手も減るだろうし、そのおかげもある。時間的猶予はまだあるはずだ。

何とかその時間を使って、彼女の身の安全を確保しなければ。彼女に危害が加わらないようにしなければならない。

そのためにも生徒たちにも一目置かれている名雲の協力が必要なのだ。彼女に他の人たちにも呼びかけて、なんとか連中に対しての防波堤として働いてもらわなければならないのだ。

状況を理解してもらうべく言葉を尽くす響に、しかし名雲は、ふと別の質問をした。

「それで、遺体は……そのままなんですのね?」

そうだ。響が首肯すると、名雲は何かの情感がこもった瞳で此方を見つめる。

彼女の言わんとしていることは、わからなくもない。

だが、今の響にあの少女の遺体を隠してきたこと、置いてきたことに罪悪感はなかった。首つりなんて半端な死に方だから、化けてでるはめになった。普通に窓から飛び降りれば、話は簡単だったはずなのだ。

いや、そんなことは今はどうでもいい。

どうでもいいのだ。

響の鬼気迫る様子が伝わったのだろう。名雲はまわりをきょろきょろと見まわして、人の気配がないことを確認して、声をひそめた。

「わかりましたわ……。ちょっと、待ってくださる。具体的な方法について、もう少し話したいですわ。向こうの寮、私の部屋へ行きましょう」

廊下に顔を出して、寮にいる生徒たちを見つめる。不安なせいか、まだ結構な数の生徒たちが一階にたむろっていた。

「そうだな。そうしよう」

席をはずし、向こうにいることを告げてくるといった名雲の背中を見ながら、響は思う。こんな時に日和良がいてくれれば、と。きっと絵美もアタシも、もう少しまともな気分だったんじゃないだろうか。的外れな怒りだとは思っていても、そんな風に思わずにはいられない。そして自己嫌悪。響は自分の頭が、袋小路に陥りつつあるのを実感していた。

壁に額をつけて、必死に脳味噌を冷やす。

そうこうしているうちに、名雲が戻ってきた。

「行きましょう」

玄関から隣の建物へと移動を開始した。

ロビーでこちらをいぶかしげに見ている生徒達に一瞥をくれて、響もそれに従った。

肌寒いが、隣まではあっという間だ。ジャケットの前を閉めるかしめまいか悩み、そのまま行くことにする。今の笑みに比べれば、これくらいのつらさなんて。そんな胸中に飛来した思いから、ふと背後を振り返り、絵美のいる部屋を向いた。

そこでふと、響の視線があるものを捉えた。

上向けた視線の先には、階段に備え付けられたはめ込み式の窓がある。

そこから階段を上っていく生徒たちの姿が、しっかりと見えた。

「……ちょっと待て」

響は生徒たちの顔なんて殆ど記憶していない。それでも、連中がどういう連中なのかは今日何度も顔を合わせてきて分かっている。

霧生隊。それぞれが武器を抱えた女生徒の一段が、階段を上っている。

響はそれが意図することを予測して、思わず名雲に視線を落とす。同じように首を上向けていた名雲が、此方の視線に気づいてハッと向き直る。

その反応で理解した。

「てめえ……」

「大森さん。落ち着て、私の話を……」名雲がてを広げて、此方ににじり寄ってきた。

響は名雲を押し退けるようにして寮の中に戻る。そうしてロビーで何事かと此方へ顔を向ける生徒たちの間を突っ切って階段を上る。

二段飛ばしで絵美のいる階へとたどり着く。

廊下へ視線を巡らせると、日和良と絵美の部屋の前にはすでに四人の女生徒がノブを回していた。

「木中さん。開けてください。大森さんが呼んでいます。木中さん」

廊下では女生徒達が、スコップ、槍などの長ものを構えて、待ち構えていた。

やがてノブが勝手に回りだしたのを見て、響は廊下を全力で駆け抜ける。

「……!!!」

此方に気付いた時には、響は肩口からつっこんでいた。予想外の方向からの攻撃に、為すすべもなく吹き飛ばされる。

「どけ!!!」

怒声を挙げながらバールを振り回すと、気押された少女達は慌てて距離をとる。

異常に気付き、うっすらと開いたドアから、絵美の顔がのぞく。

「響ちゃん……どうして」

「閉めろ!」

青い顔で驚きの表情を見せる絵美を抱えるようにして、部屋の中へと入る。そのまま閉じられるドアに延ばされた手を蹴飛ばして、バタンと音を立ててドアを閉める。

「……響ちゃん?どうしたの?」

「いいから。奥に行ってろ。」

どんどんと乱暴にたたきつけられる音を聞きながら、そっけなくそれだけ答える。響はテーブルの上にあった雑貨を払い落としながら、ドアの前に押しつけ、背中で蓋をする。

「大森さん!開けてください!大森さん!!」「開けなさい!」

「クソ野郎!とっとと失せろ!」

背後から聞こえる怒声と戸惑いの声を入れないように、思いっきり背中を押しつけながら、響は歯を食いしばる。

くそ、なんてバカだ。霧生はきっと遺体を見つけていた。それで気づいてたんだ。誰かが噛まれているって。だから準備していた。すぐに取り押さえる準備を。

そして、名雲ももう知ってたんだ。だから、あんな短時間で事情を伝えて、絵美のところに来させて……。


出し抜かれていた。裏切られた。そんな感情が響の胸の中でぐるぐると渦を巻く。

「てめえらなんかに……絵美を渡してたまるか!」

激情をそのまま声に乗せて、響はドアをたたき割るように拳を叩きつけた。



木中絵美が感染している。衝撃の事実を聞かされた杉村明里は、遠く山の向こうにいるであろう彼女の親友を思った。それを知ったなら、彼女はなんて声をかけるだろうか、と。

いや。今はそんなことを考えている場合ではない。嘆息と共に想像は吹き払い、明里は一階ロビーで状況を聞いた。


「それで、どういうことなの?」

「ですから、名雲さんに外に出してもらっている隙に、取り押さえようとしたんですけど……」

失敗した。くそったれめ。

いずれ、感染者は自分たちで名乗り出てくるだろう。彼女の言葉通り、前もって事情を話した数人の一人―――名雲文香に対して、犯人は名乗り出てきた。大森響と、木中絵美。

そこまではいい。そこまでは。

「どうして、こんなことになったの」

明里は頭を掻き毟る。

捕まえようとして失敗。自体は厄介な方へと動いた。

響と絵美は部屋に籠城している。最悪だ。

現在では野次馬も合わせて、十人程が今絵美と響がいる部屋を見はっている。

現在の口ぶりから、絵美が発症していないらしいことは分かっているが、いつまでもこのままと言う訳にもいくまい。なんとかして二人を部屋から出さなければ。


かくして、明里は一階で対応策に関しての話し合いを続けていた。

「それで、先生達は何て?もう呼んであるの?」

明里がそう尋ねてみると、霧生隊の顔色が目に見えて変わった。お互い顔を見合わせている。

「まさか……なにも連絡していないの?」

先ほど新しい感染者が見つかったらしいことを伝えるか迷った時に、霧生達に伝えるよう言ったのだ。一部生徒で相手が「網」にかかるまで、きっちりまっておくと。だが、彼女達は


「あなた。そこのあなた、確かあの時に言ったわよね。どういうこと」

「すいません。忘れていました」

悪びれもせずにそう言い放つ。さすがの明里も、これにはかちんときた。

「あなた、本気で言ってるの。どういうつもりなの、そんなことして……」


「落ち着いて。杉村さん」


その場を鎮める第三の声。霧生詠が玄関へと入ってきた。

「彼女には、私が伝えないように指示したのよ」

「どうして」明里は短くそう聞いた。

「そうだったわね。でも、先生達に知らせて捜索するふりをしてもらうのは心苦しいし、いざとなったら寮の中で素早い問題の対処が必要なの」

わかるでしょ、とでも言いたげに首を傾ける。

「だから、無駄に連絡をとって動きを遅くするのはナンセンスよ」

「貴方達の早まった動きが、この状況を引き起こしたのに?」

明里と霧生は、しばしにらみ合う。口元には笑みを浮かべているが、霧生の眼は笑っていない。

「大森さんの勘が冴えていたから、不幸にもこうなったの。判断自体にミスはなかったわ。まあ確かに、先生達に伝えていようがいまいが殆ど職員寮から動いていないあの人たちに気にする意味があったとは思わないけど」

「動いていない?」初耳だった。

「ええ。どうやら、職員寮に戻ってからずいぶん長い間校舎の方にも寄りついていないみたい。頼りになる先生方ですこと」

そう言われて、明里も一瞬視線を逸らした。

実際、教職員連中はほとんど捜索自体にも乗り気ではなかった。そのあたりで揉めているのだろうか。

「とにかく、そのあたりも含めて先生を呼んできてくださる?釈明はそのときに」

かすかな懸念も一瞬のこと、眼前の相手に向けて明里の胸に怒りが沸き上がる。どう理屈をつけようが、勝手なことをして事態の混乱を招いた以上はどしがたい。

しかし相手の反応はあくまで冷ややかだった。

これ以上何を言っても相手にはされまい。ちらりと周りの様子を窺う。周囲の空気は霧生と明里の論戦のないようそのものよりも、ぴりぴりした空気そのものに居心地悪さを感じているだけ。どうにも動かせない。

「……分かったわ。とにかく、一旦先生達を呼んでくる。それまでは、絶対に部屋から目を離さないでいること、何もしないこと!いいわね」

霧生は何も言わずに、肩をすくめるだけだ。周りの何人かに言い含めて置いたが、頼りのない頷きが帰ってくるだけだった。

くそ、くそ。どいつもこいつも、勝手だ。

普段は体のいいようにこちらに面倒を押し付けてくる癖に。いざとなったらろくに言うことも何も聞こうとはしない。

副会長なんて役職にされたのだって……。

会長がいれば。霧生なんていなければ。

さまざまな言いようの怒りを胸にして、明里は職員寮へと駆けだした。



暗闇の中。壁越しに小走りに移動して、間もなく。

「すいませーん!」

職員寮に入ったのは久しぶりだった。鉄筋で作られた寮は外観自体は学生寮と大差ない。その性質上ややこぢんまりとしているだけだ。階数も量より一階少ない。

ドアを開けると、玄関口は電灯が切れかかっているのか、ちかちかと落ち着きなく瞬いていた。

「せ、先生。いますかー?」

ロッカー前から声をとばすが、返事はない。

捜索に出たのか、それとも他の用事で外にいるのか。しかしふと入口に立てかけてあったものを見て考えを変えた。スコップに斧、鉈などが立てかけてあったからだ。

先生達が持っていた武器。それが置いてあるということは、彼らは中にいるということだ。

「先生ー!いるんなら、来てください!」

なぜだか電気がついていないことを不審に思いつつ、今こうしている状況が限りなくホラーなのだと気づき、明里は思わず鉈を手に取った。

中に土足で足を踏み入れた。

ロビーから食堂、用具室にかけてどこに移動するか迷ったが、外から見たときに二回に電気がついていたのを明里は思い出し、階段へと進んだ。

しかしここもまた電気がついていない階段に至り、なにか妙な感触を足の裏に覚えた。恐る恐るそれを拾い、電灯がついている廊下側に移動して、まじまじと見つめる。べっとりと血の付いたはんかちだった。血液を吸いこんでから時間が立っているのか、やや黒ずんでいる。

なぜ、こんなものが落ちているのか。

「おい」

「きゃああ!」

思考する間もなく、背後から突然かけられた声に、明里は思わず飛び上がった。しかしその相手を見とめて、胸をなでおろす。

「柿谷先生……。よかった、此処にいらっしゃったんですね」

「ああ、そうだ。ちょっとな、手が離せなくて。……どうしたんだ、いきなり」

息も荒く、そう尋ねてくる柿谷。しかし明里が手にしているものをみて、一瞬硬直した。

「それか。ああ、なれない料理なんて、するもんじゃないな。すまん、後で処分しとくよ」

柿谷が苦笑い手に巻いた包帯を見せる。どうやら切ったものらしい。明里はほっとしながら、それよりも柿谷の様子が気になってしょうがなかった。

「先生。大丈夫ですか?汗が……」

「いやなに。年だからな。疲れがあとからくるんだよ。それより、どうしたんだ」

どうしたんだ、と言われても。むしろ先生の方こそ、と言うのが明里の本音だった。

ピタッと張り付いたシャツに、乱れた髪。胸の上下は激しく、視線には定まりがない。

明らかに平常とは言い難い様子だった。

「……まあ、いろいろ。大人にも悩みなりなんなりあるんだよ。すまないな」

納得していないらしい明里にそう言い含んで、彼女も納得することが出来た。

ああ、そうか。その落ちくぼんだ瞳をみて、改めて彼の闇を見た気がした。職員室での顛末を知っていれば、なおさらだ。

「ほかの先生は?」

明里は柿谷の身体越しに食堂の方を見ようとするが、ひょいと手でさえぎられてしまう。

「そっちじゃない。こっちだ」目前の手が上をさししめす。

それを見て、明里は思わず顔をしかめる。「部屋にいるんですか?こんなときに?」

「ああ、先に休んでもらっている。夜中の見張りを任せたいからな」

「寝ているってことですか。本当に?」

「彼らもおびえてるんだ。許してやってくれ。それで?」

そう言ってからようやく明里がやってきた理由に思い当たったようで、目を見開く。

「ああ!いや、すまない。感染者をみつけるんだったな。いや、なかなか皆がまとまらなくてな。とにかく、夜はあぶないのでそれぞれが見回りをするようにしようということで、今は、皆に休んでもらってるんだ」

柿谷が大慌てでそう説明する。そのあたりのことをろくに知らせにもこないで。

明里はかすかに大人たちに対する不信感と怒りを抱いたが、それよりも目の前の姿の方が気になった。

「それはともかく、困ったことが……あの、先生、大丈夫ですか本当に」

柿谷が脂汗を流しながら必死に聞こうとする様子に、明里は耐えられなかった。「ちょっと座って話しましょう」

「すまない、ちょっと座らせてくれ。お茶がそこにあるはずだ」

明里の提案を、柿谷は受け入れた。



明里は柿谷以外の教職員への不信感を募らせながら、現在の状況について伝えた。

本来ならばお茶なんてするべきでないのかもしれない。しかしいろんな意味で今はゆっくりと事態の整理が必要だった。説得が必要になるのなら、なおのこと。明里は自分をそう納得させた。

ポットから注いだお茶を手に、二人はロビーにある三人掛けのソファに並んだ。

「なるほど。とにかく、感染している生徒は一人だけなんだな」極めてシンプルに、柿谷は状況をまとめた。

「ええ。警備する必要はなくなりましたけど……このままでは。どうにかしないと」

柿谷は渋面を作りながら、うなずいた。

「大森さんは友達思いな人です。あの人たちは、特にそう。だから、もしも発症したりなんかしたら……」

明里はかぶりを振って、最悪の想像を振り払う。その前に、彼女達をひきはなして置かなければ。

「わかった。とにかく、こっちも準備したら説得しにいく。おまえはとにかく、ほかのみんなをなだめてくれ。頼んだぞ」

ええ。湯気の上り立つカップを手にしたまま、明里は生返事する。

「どうした?お前まで元気がなくなったのか?」

「いえ、そういうのじゃなくて……」

明里は参っていた。長すぎる一日だった。

感染病による混乱で、あまりにも多くの命が失われてしまった。

だが今の明里を苛むのは、つい先ほどの視線だった。

「何で私が副会長なんだろう」

ぼそりとそうつぶやいてしまう。

自分にリーダーシップはない。だから生徒会でも副会長として、会長をサポートする、という立場でこれまでがんばってきた。

だが、今皆はリーダーを求めている。それこそ霧生のように、はっきりとした道や行動を示してくれる人物を。皆は副会長なんて求めてはいない。先生にいちいちお伺いを立てたり、どうすればいいのか悩む副会長なんて。

せめて自分に、生徒会長のようなカリスマや人徳があれば。もう少し、私のいうことを聞いてくれたんじゃないだろうか。先生達のいうこともきこうとせず、自分たちだけで話を進めようとする霧生隊達を思い返して、明里はため息をつかずには居られなかった。

そんな風に悩む明里の頭を、なでる大きな手があった。

「……お前は自分が思っているよりも、ずっと皆の役に立っているよ」

柿谷衡平の、不器用な言葉の端々から感じられる優しさに、明里は思わず涙ぐんだ。

ずっとこらえてきたものが、こぼれそうになっていた。悲しみだけではない。彼女がこらえてきた感情の数々が。

そんな彼女の様子を察してか、柿谷は優しく話しかける。

「杉村。おまえは頼りになる生徒だよ。しっかり者だし、よけいな苦労も引き受ける。こんなときでも、大変だと思う。だから、もしも俺達が―――」

「違う。違うんです」

明里はうつむいたまま、かぶりを振る。

「私はそんないい子じゃないんです。ただただ、その、自分をよく見せたくって、ほめてもらいたくって……」

それは明里自身が驚いた言葉だった。思うまま感情の赴くままに吐き出された言葉だった。

「だから、私はそんなのじゃなくって……」

そうしてあふれ出る言葉に身を任せそうになった時、ふと別の言葉を思い返した。

後悔だけはないように。そうだ。こんな時だからこそ、後悔だけは―――

「先生!」

気がつけば、明里ははっきりと柿谷の眼を真っ直ぐに見詰めていた。

「その、先生は、私のこと、どう、思ってますか」

頬が上気しているのを感じながら、うわずった声でそう問いかける。

「どうって……いや、こんな時に」

止まらない。止められない。たじろぐ柿谷に、明里はたたみかける。

「聞かせてください。お願いします」

だって。

だって私は―――


「私は、先生が、好きだから……」




言った。言ってしまった。

明里の頭の中はぐるぐると渦を巻いていた。


この状況。二人きりと言うシチュエーション。

完璧な告白とは程遠い。だが、この機を逃せばいつ言えるか。言うチャンスが来るかわからない。

だから、後悔すべきではない―――とはいっても、勢いに任せてしまったことに違いはない。

明里は混乱しながら、無言の空間で佇んだ。


柿谷はしばし呆然としていたが、視線を部屋に彷徨わせた後で、身体の向きを変えた。

「あっ……」

柿谷は此方を見ていられなかったのか、向こうを向いてしまう。思わず伸ばした手を、明里は宙をさまよわせる。

別に結ばれようとか、そういうのではない。だが、ただ止められなかった。だからここから先、どうしたらいいのか、明里にも皆目見当がつかなかった。

「いきなりで、戸惑っている。その……いや、意識していないことはないんだが、なんていうか……」

背中を向けているためその表情こそ伺えないが、声色には明らかに戸惑いが浮かんでいる。

「今日は、びっくりすることばっかりだ」

ははっ、と乾いた笑いをもらしながら、柿谷は言った。

「……すいません」

明里はそう言って頭を下げた。

言わなきゃよかった。こんなこと。

急速に胸の中が冷えて行くのを感じた。一人で舞い上がって。苦しいからって人に縋って。何なんだ私は。何なんだ。俯きながら、震える唇を固くかみしめる。

「違う」

そんな明里の気持ちが沈んだのを察してか、柿谷は強く言った。

「いや、そういうわけじゃない。嫌だってわけじゃない」

明里は、面を上げた。

真っ直ぐ此方を見つめている、柿谷の顔があった。

「あの……先生だって、なんていうか、そういうのはうれしい。ありがとう」

そして返ってきたのは、意外な言葉だった。

「ただ、状況が状況で、その……どうこたえるべきか、混乱していて……」

これは、肯定のサインだ!否定的な響がない柿谷の言葉に、明里は確信する。

告白は、成功しつつあるのだ。

「今、言うべきかな。その、はっきりと。自分の気持ちを。……先生だけど、さ」

「先生……」

はにかんだ表情の柿谷をみて、明里の胸に一気に温かいものがあふれるのを感じた。

笑いだしたくなるのをこらえて、必死に相手の言葉に耳を傾ける。

「でも、その、今すぐじゃなかったら、これからどうなるかって話になるし……その……」

しかし今度は、明里の方が限界だった。

「あ、あの、返事はそんな、いそがなくても、いいですから、あの……」

これ以上聞いていると、なんだかもう奇声を挙げて彼に抱きついてしまいそうだ。しかし明里のプライドがそれを許さなかった。ていうか無理だ。逃げるしかない。

屁垂れた根性と知りながらも、明里は一時撤退しようとした。とはいえ作戦としては成功なのだから、あとはベッドに顔をうずめてにやにやしながら明日を待てばいいだけのことだろう。

「す、すいませんでした。とにかく、私は向こうに戻るので……」

慌てて立ち上がったひょうしに、明里はお茶を倒してしまった。しかも丁度此方を引きとめようとした柿谷の膝もとへ。

「熱っ!!!」

「す、すいません先生。あの、その、すぐに、直ぐにふきますから」

なにをやってるんだ、私は一体。

テンパったまま、明里はお茶をふくものを探す。しかしなぜだかこんな時に限って見つからない。

慌てた杉村は、掃除用ロッカーを見つめて、そこへ手を伸ばした。

「待て!杉村!」

制止の声も聞かずに、明里はロッカーの戸を引いて―――


「え?」


そして、中に入っていたものが、倒れてきた。



状況を改めて聞いて、クリスはため息をついた。どうやら自分は色々と間違ってしまっているらしい。

「なんだか、信じられないよね。木中さんが……」

「ああ。礼拝堂へ助けに行っても、大丈夫やったんやろ。それやのに……」

運命は残酷だ。たとえ一時幸運に見舞われていたとしても、それがいつまでも続くとは限らない。

天井の明りをぼんやりと薄めで見やりながら、クリスは嘆息する。自分達もこれからどうなることか。それこそ想像もつかない。

いや、それ以前に。昼ごろに響の目の前で、自分があんな態度をとって銃を構えていなければ。木中さんを助けるために、大森がこうなるまでかたくなにはならなかったかもしれない。それを思うと、胸が痛んだ。

クリスは銃を操る人間として、立てこもった響を刺激しないために隣の寮で待機していた。殆どの生徒は向こうで息をつめて様子を窺っているので、こちらは閑散としていた。ロビーにはクリスと草薙、それに松波曜子くらいしかいない。

「今、柿谷先生を呼んできてもらってるみたいだけど。どうなるかなあ」

「ほんま、どうなることやら」

ぼやく草薙に、クリスも追従する。今のところは、自分たちにできることなど何もない。

そうして無為な時間を過ごしているうちに、曜子がちょいちょいとクリスの袖を引っ張っていた。

「?」

「あの、どうかしたの?」

声をかける方へと目を遣ると、砂野が廊下から此方を窺っていた。

「え、ええと、あの、その……」

砂野はいつものようにもじもじと落ち着かない様子で、視線をさまよわせている。

「ねえ。クリスちゃん」

曜子が言うまでもなく、クリスは直ぐに頷いた。ソファの位置をずらして、「どうぞ。あっためておきましたで」

砂野はへこへこと頭を下げながら、ソファに身を沈めた。

しかし、砂野は黙ったままで何も言おうとはしない。

彼女との親交がある人間はほとんどいない。彼女自身の性格にも問題はあるが、そもそもそれを自覚している彼女は自分からコミュニケーションを図ることをしようとしないところがある。

だからわざわざここに来た以上は、何かしらの話をするつもりがあるのだ。クリスにもそれは分かった。

しかし、それを聞きだすとなると。クリスの生来の明るさを以てしても、目の前でせわしなく視線を動かす少女が難敵なのは間違いがなかった。

「どうしたの、砂野さん。何か話があるんじゃないの?」

曜子が、優しくそう問いかける。こういうたおやかなところは、クリスにも真似できない曜子独特の技だ。

それにつられる形で、砂野もようやく口を開いた。

「え、ええと、その、お、思ったことはその、言った方がいいって言われて……あ、大森さん、大森さんに。そ、それで」

目を見つめ、相づちを打ち辛抱強く相手の言葉に耳を傾けながら、曜子は話を引き出していく。

「うん。それで、どうしたの?」

「お、おか、っおかしいんです!」

突然声をあらげたあとで、自分を見つめる奇異の視線に気づいたのか、砂野は身を血ヂ込ませてしまった。

「ごめんね。砂野さん。ちょっとびっくりしたかな。落ち着いて。ゆっくり、教えてくれるかな」

曜子が再びなだめて、口を開いてくれた。

「あの、その、く、靴のことです。正門で、きづ、きづいたんです」

靴?

一同は顔を見合わせる。確かに今、皆は土足で建物の中でも歩き回っているが。

「ど、泥がぜんぜんついてなかった、んです。泥が。あの、山にいたはずなのに。ズボンにもついてたのに」

「待って、砂野さんは、誰の話をしてるの」

草薙が慌ててそう問いかける。クリスも焦る気持ちを抑えて、頭を働かせる。

山?学園の外に出た人間の話か。

なにか嫌な方向に話が進んでいる。

「その、だから、変なん、です。ズボンのすそに泥が付いてたのに。あの、革靴だけ、汚れてなくって。どうして、わざわざ履き替えたのかって。そんな、逃げてる途中なのに。それに、服は脱いでも、くつ、靴を絶対に脱ごうとしなくって、変、変だって……」

「言って、砂野さん!誰。誰のことを、いってるの!?」

我慢できなくなった草薙がそう問い詰めると、あらぬ方向を向きながら絞り出すように、裏返った声で砂野は言った。


「その……だから!柿谷先生が!あの、靴だけはきかえたみたいに、そこだけ変なんです……。やっと言えた」


ほっと一息ついた砂野とは反対に、それ以外の三人は全員血の気が引いた顔になっていた。




ロッカーを、開けた瞬間、中に押し込められていたモノが倒れ込んでいた。

それは、明里もよく知る職員だった。

いや、職員だったものだ。横向けになったそれを、明里は観察する。

この遺体はおかしい。何が?

今日何度も見てきた遺体とそれが違うのが、首に突き刺された包丁以外の傷痕が、見当たらないこと。

服を着ているからわからないだけかもしれない。違う。違う。

自分の頭の中で誰かが警鐘をならしている。なぜ隠されていた。なぜ顔がおどろいたようなままなんだ。なぜ柿谷は―――黙っていた。

なぜ?どうして?頭のなかを疑問符が掛けめぐる。


「……だから、開けるなって行ったのに」


その一言で、明里は心臓を背後から掴まれたような感覚を捉えた。


ゆっくり、ゆっくりと明里は背後を振り返る。


果たして柿谷は立ち上がり、薄暗がりの中から此方を睥睨していた。

すでに先ほどまでの甘ったるい空気は霧散していた。あるのはただ底冷えのする、外気よりも寒い空間だけ。

先生、どうして?

「当然の報いだよ。こいつらのおかげで、俺の人生はもうおしまいなんだ」

柿谷は大儀そうに、濡れた革靴から足を出して、それをみせる。

真っ赤に染まった包帯で汚れた右足。小指のところだけ不自然にくぼんでいる。おそらくは噛み千切られたのか。

「こいつらが、山の中に置いておかなければ、俺は……」

虚無と狂気を湛えた瞳で、死体を見下ろす柿谷。それはもはや、明里がよく知る人物のモノとはまったくことなる、ナニカだった。

そして、もうひとつ。

こいつら。こいつら、と柿谷は言った。

それで明里は全てを理解した。おそらく、他の教職員の皆も、すでに……。

「……!!!」

靴が脱げているのを千載一遇と見た明里は、そこから逃れようとした。ドアへと駆け寄ろうとする。

「おっと」

しかし、捕まれた腕によって、そのまま倒れ込んでしまう。

「ぐっ!」

とっさに近くに落ちていたカップを顔に投げつけるが、手は離れてはくれない。

「ひどいじゃないか。おい。自分から告白しておいて」

ぼたぼた、と鼻筋から血を垂らしながら、柿谷は笑う。

「た、助け……」

「なにを言ってるんだ。おまえが望んだんだろう。俺にこうされるのを」

掴まれた腕からは全身に痛みが走る様に強く握りこまれていた。振りほどこうにも、恐怖と同様に震える体では、それもかなわない。いや、この体格差ならばどちらにせよ……。


そして再び、二人は視線を交わし合う。

かたや恐怖に崩れる顔で。かたや地獄の悪鬼のごとき笑いで。

柿谷は自分の唇に滴る血を、舌でなめとりながら、言った。




「―――さあ、最後に楽しもうじゃないか」

 

まだ続きます。最長EPになってしまった……。

本当は、今回のラストが前回のラストに当たるはずだったんですが。どうしてこうなったんでしょう。

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