第四話 ハイキング・デッド(5)
遅れてすいません。ノロウイルスにやられていました。
でもおかげで今度からゲロ描写だけやたら詳しくなります。お楽しみに!
「何……これ」
なんだ、これは―――。
それを目にした日和良は、一瞬それが何なのか理解することができなかった。
いや、困惑以外の感情が湧きあがってこなかったと言ってもいい。
それは、人間の脚部だった。
人間の腰から下、下半身ものが地面に投げ出されていた。
なぜそんなものが落ちているのか。その理由については、よくよく観察してみて日和良も気付いた。
途切れた足の先が、金具のようなものに掴まれている。
いや、正しくは挟み込まれている、と言った方がいいのだろうか。ぎざぎざ状の刃がふとももに両側から突き刺さっている。
おそらくは獲物が仕掛けの上に乗ると、それを挟み込んで捕まえるための罠だ。感染者がそれに引っかかったのだ。
そうしてそいつはそこから出ようとして、なぜだが腰ごと引き千切れてしまった。
信じられないが、そういうことなのか。
しかしそもそも、なぜこんなものがあるのか。身体に食いついて離れないギザギザを見ながら、日和良は眉根を積める。
いや、そういえば猟師がこのあたりの動物の駆除にもあたっていると聞いたことがある。それに関係しているのかもしれない。
いや、違う。まだ自分は混乱している。
いや、そんなことよりも。そんなことよりも、問題は―――
「駄目!気をつけて!」
そうして思考に身体を取られてた日和良の体を、衝撃が襲う。
―――問題は、この足の持ち主が、どこに行ったのかということ。
その答えを、日和良は最悪の形でつきつけられる形となる。
頭上からもたらされた衝撃と共に。
*
いったいなにが起こったのか。
背中にのしかかる重さと、理性の窺えない唸り声。
そして何より、肩に食い込む二つの手。
それらの事実から、日和良は自分が今感染者にのしかかられていることを理解した。
地面にたたきつけられる形となった日和良は、首を逸らして見つけた木の幹にこびりついた血の後を見て、改めてその裏付けとした。
ーーーこの木に上っていたのか。
よく見ると、へし折れたらしい木の枝も地面に落ちている。
もっと自分が注意深く警戒していさえすれば。日和良は全身にはしる痛みに顔を歪めながら、公開する。
いや、そもそも木の上に上るなんて行動自体を予測することが不可能だったはずだ。
今はそんな失敗を悔やむべきじゃない。
背後を振り向くことすら満足に出来ない状態で、日和良は必死に身体を振り乱す。
そうして相手の身体が離れないことに絶望を感じながら、同時にその違和感に気付いた。
自分がのしかかられているのは確かだ。だがその割には妙に、軽い。その疑問の答えは、目の前にある脚部そのものだった。
つまり今私は、上半身のみになった感染者に背中に張り付かれているのか。
背中にある感触のなさの理由を理解した日和良だが、いかに動きを加えても、一向に感染者はその手を話そうとしない。自分の力では、引き剥がせない。
だが。日和良は自分に駆け寄るもう一人の人間のことを思い出した。
「先輩……!!!」
驚きながらも、橘がこちらへ駆け寄ろうとしてくる。手にした槍を構えながら。
しかしその動きは、茂みから飛び出してきた新たな感染者によって阻まれる。
注意を日和良にとられていた橘は、頭から突撃してきた感染者に、なすすべなく押し倒される形となる。
後頭部になまなましい火傷のあとを残している感染者は、唾液をたらしながら首をよじらせて、必死に橘にかみつかんとする。
「……ヵッッ!!!」
苦悶のうめき声を漏らしながら、必死に相手の首すじをつかんで、体から引き離そうとする橘。
しかし態勢は危うい。側面からの突撃に左腕一本でほぼ相手を抑える状態で、身動きは取れそうもない。加えて武器は取りこぼされ、地面に転がっている。
あのままでは、やられるだろう。
そしてもちろん、日和良自身も。
困惑と混乱に乗じた襲撃。
最悪の事態が、二人に訪れていた。
*
英子が目にしたのは、最悪の光景だった。くちゃぺちゃと不快な租借音だけが、そこにあった。
桃園は、トイレ代わりに掘っていた穴のくぼみに、頭をはめこむようにして倒れ込んでいた。
顔は見えないが、首があらぬ方向に折れ曲がっているのが見えた。生きてはいないだろう。
いや、それはむしろ幸いだ。そのことは、食人鬼達の餌食となっている身体をみれば一目瞭然だった。
少女の投げ出された足は、ひざ裏の肉をえぐり取られていた。肉と肉の間から、華奢な骨が露わになっていた。
足には下着がひっかかるように残されていた。おそらく用をたす途中だったのだろう。
彼女はその時に命を落としたのだ。
だが、それよりも憐れむべきはもう一人の少女だった。
浅黄。彼女の仰向けになった体には、貪り食うようにして二人の食人鬼が絡みついていた。
裂かれた腹からは幾つものぴんくのてらてらとぬめっている臓器らしいものが闇の中に浮かんでいる。それを両手でなめとるようにして、二人の悪鬼は口元に運んでいた。
少女の両目からは涙の筋がこぼれ、顔は苦悶に歪んでいる。
そして投げ出された手は、まるで平屋の方へ助けを求めるようにのばされている。手にはなにもない。
だが、何よりも。何よりも憐れむべきは、その少女の瞳が動いたことだった。
此方の存在に気付いた彼女の瞳が、英子の顔を捉える。
涙をこぼしながら、その口が、かすかに動く。
たすけて。
そう理解した英子は、しかし一瞬判断にまよう。
しかしその動きに呼応するようにして、腸を引きずり出していた感染者の一人が、こちらを向いた。グロテスクに変色した顔が露わになり、人を食い物とする瞳が英子に向けられる。
一瞬体を硬直させながらも、立ち上がった感染者を見て英子はその体を翻した。
彼女はもう手遅れだ。自分にそう言い聞かせながら、英子は平屋の中に倒れ込むようにして入る。
英子は必死に声を上げる。
「や、奴らが来たわ。……早く、早く閉めて」
暗がりの向こうからこちらへ歩いてくるそれを理解して、根本は直ぐに戸を締めた。
「桃園さんと浅黄さんは・・・・・・?」
問いかける青川から顔を逸らして、英子は首を振る。
「だめだった。もう・・・・・・手遅れだった」
英子の言葉に、茜と青川の表情に絶望の色がともる。
「でも、でもどうしたらいいんですか!」
「戦うしかないわ。とにかく、やるのよ」
火にくべるものを集めていた時に、壁に立てかけていた大きめの木材を手に取る。武器としては頼りないが、他に選択肢はない。
「ここから逃げ場所はもうないわ。覚悟を決め・・・・・・」
必死に皆を鼓舞しようとした時に、窓際からもう一体が入り込んできていた。ガラスの破片をかぶりながら、室内に進入するそれに、悲鳴が室内であがる。
「……嫌……!!!」
咄嗟に青川が扉からにげだそうとする。だが扉を開けた瞬間、脇から飛び出してきた感染者に彼女は組伏せられていた。
英子は必死になって木片で頭を打ち据える。しかし、黒ずみの影は容赦なく組み付く。
「助けて」
英子のひきつったのどが、そう悲鳴を発する。しかし助けを求める相手を見たとき、そこにいたのは同じように
感染者に組み付かれた少女の姿だった。
「……あツ!!!ああああああ!!!!!」
そして英子が再び感染者と向き合った時、そこには喉笛に食らいつかれ鮮血を噴き出す青川の姿があった。
*
くそ、どうすればいい。
背中に張り付いた感染者を、日和良は必死に振りほどこうとする。
しかし、指先は一層両肩に食い込み、離れる気配はない。相手の姿はほとんど見えないが、唸り声を発する口は、今まさにのど元にかみつかんとしていることだろう。
全身を総毛だたせながらも、そこでようやく自分自身の最後の武器に日和良は手を伸ばす。
地面に取り落としたボウガンを相手に突きつけるべく、日和良は体をよじる。
しかし肩がつかまれているせいで、ボウガンを向けることはおろかたたきつけることも満足にできない。相手の頭に打ち込むことはできそうにない。
地面に四つん這いになり、身動きがとれない状況で、日和良の胸を焦燥感が襲う。
いちかばちか。当たるかどうかはわからないが、矢を発射すべきか。あるいはかすった衝撃で体から離れるかもしれない。
だが、この食人鬼達がそんな手ぬるい相手か。
もしこれをはずしたり効果がなければ、それこそ一巻の終わりだ。
そのまま私はなすすべなく相手に首筋から噛みつかれて、出血多量で死ぬだろう。その後は、考えたくもない。
この体勢で撃つことは、間違いなく危険なかけに出ることと同じだ。
何かないか。何か、いい手はないか。
あった。一つだけ、あった。
日和良の頭の中のだれかが、その考えを思いつく。
無謀だ。いや、馬鹿げている。
頭の中で幾重にも響くそんな制止の声を覚えながらも、
彼女の身体はすでにそうするための動きに入っていた。
まずは、時間を稼がなければならない。
日和良は地面に落ちている一番太い枝をひっつかみ、それを思いっきり首筋の横に向けて突き刺した。
重い手応え。首から上の何処かにはだが、日和良の体から離れようとはしない。
しかしそれで十分だ。彼女は木の枝をさらに押し込み、相手と自分の身体の間に入れる。
そしてボウガンを両手でつかみながら膝射の体制をとる。
「夕!!!こっちに、向けて!」
一発勝負の逆転の一撃。
その一矢は、橘夕に向けられていた。
*
それを見たときの橘の心中は、想像に余る。
今自分がまさに食われようとしているとき、いったい何をしているのか。
同じように感染者と組み合い、身動きをとれなくなっていた橘が、一瞬我が目を疑うような顔でこちらを見つめるのも無理はない話だ。
しかし間もなくその意図をつかんだらしく、一瞬その瞳が驚愕に見開かれる。
馬鹿な。信じられない。その瞳がそう言っている気がして、思わず日和良はもう一度叫んでいた。
「さっさとしろ!!!」
二度目のどなり声。それで覚悟を決めたのか、橘はなにか此方を眇めるような眼で見つめる。
どうなっても、しらないからな。
そう言いたげな顔の少女は、歯を食いしばり最後の賭けに、乗った。
「ッ!!!!!」
そうして渾身の力を込めて、つかんだ首根っこを押し上げて感染者の頭を宙に掲げた。
よし。
日和良は膝射の態勢を崩すことなく、台尻を肩に押し付け、片目をつぶって狙いをつける。
距離は三メートルほど。チャンスは一度。背後には死神。
外せば死ぬ。当たれば―――彼女は助かる。
「ーーー上等じゃない」
吐き出された言葉と息に合わせ、指先に力が込められる。
張り詰められていたばねは一瞬でその力を解放し、押し込められていた矢を自由にする。
射出された矢は高速で飛び立ち、空気を切り裂くようにして真っ直ぐ進む。
そうして向かった刃先は、狙いを違うことなく感染者の頭の頭に突き刺さる。
日和良の放った一撃は、脳髄を破砕し相手を崩れ落ちさせた。
*
やった。当たった。
おどろくべき集中力を以てして射ちはなった一矢が、相手を倒したのに日和良は安堵する。
しかし直後にへし折れた木の枝が地面に落下するのを捉えて、絶望が胸によぎる。
相手の動きを塞ぐためのそれが亡くなったということは。もはやいつ噛みつかれても、おかしくはないということだ。
思わず橘の方を向くが、彼女はまだ立ち上がってすらいない。
駄目だ。間に合わない。
食われる。
その事実を認識した途端に、正しく背筋から悪寒が這い踊る。
日和良は目を閉じて衝撃を覚悟する。
だが、夕は助けられた。連中に、ひと泡吹かせてやった。それだけでもーーー
「動くな」
低く、押さえつけるような声が耳朶に響いたのは、その時だった。
目を開け、そちらを向いた瞬間日和良の目が捉えたのは、中腰のまま懐に手を差し込んだ橘の姿だった。
そして瞬きした間に、ジャケットの裏側に差し込まれた橘の腕が、一閃した。
日和良にわかったのは、その手から銀光が放たれたこと。
そしてなぜか突如として体に捕まっていた半身の感染者が力を失いながら崩れ落ち、その額に一振りのナイフが突き刺さっていたことだった。
動くことを停止したそれは、突如として日和良をつかむ力を緩めて、背中からこぼれおちていった。
助かった、のか。
まだ現実感がわかないその事態の推移を前に、日和良は立ち上がってその相手を見つめる。
内臓を露わにしているその姿を、ようやく目の当たりにした。
頭にこんなでかい刃物が突き刺さっていれば、よもやもう一度動くことはないだろう。
その事実を理解して気が抜けた日和良はそこからはなれようと一歩を下がり、そのまましりもちついた。そのまま火照った体を地面に投げ出す。
「助かった……」そういって興奮したままの体に、必死に酸素を送り込む。
「ねえ、大丈夫ー!?倒れたの、やられたの!?」
遠くから問いかける声には、不安の色があった。。離れているはずだが見えているらしい。カメラのズーム機能があるせいだろうか。
白い息を吐き出す勢いが落ち着いてから、ようやく日和良は体を起こした。
「大丈夫ー!!片付いたから!」
もう一度身体を起こした日和良は、傍らに歩いてきた橘に、にやりと笑いかける。
「隠し武器は、もうそれでおしまい?」
橘が、ばつが悪そうにつぶやく。
「当たるかどうかわからないものを、武器として数える気はありませんでした」
そう言って何か釈然としない表情の橘をしり目に、日和良はこちらに駆け寄ってくる少女に手を振った。
「……生きてるのね、私たち」
なんとか。日和良と橘は、死地を脱したのだった。
*
捜していた女生徒を無事見つけ出した日和良たちは、定められた場所で泉達と合流を果たした。
「うわあー、本当に助かった、嗚呼よかった、よかったー」
一年B組の女生徒ーーー河瀬幸は、目に涙を浮かべながら泉の手をぶんぶんと振り回し、歓喜を表した。
「正直、山中であいつに遭遇したときは、もう、本当、だめかと思っててね。いや、バスから逃げてくるときに、他の子とはぐれたときは本当怖かったんだけど、いやもう一人で逃げてて誰か誰かー、って叫んでいてあ、いた、と思ったところで現れたのがさっきので、いや真剣で死ぬかと・・・・・・」
「あの、河瀬さん。落ち着いて。落ち着いて。わかったから、ね」
そこまで一気にまくし立てる河瀬を、日和良は必死になだめる。
まあ、ほっとする気持ちがわからないでもないが。
さきほど最初にあった時もこの調子で、ほんとうに橘などもはや目が点になっていた。先ほどよりも疲れた表情になっていたのは、気のせいではあるまい。
「ああ、ごめんなさい、ごめんね。いやほんと、やばいっていうか、こういう性分だから、いろんな人からおまえは口から生まれてきたんだなっていわれたりして大変で」
話が脱線してきた。泉は脂汗を浮かべなから、必死に逃れようとするが両手をふさがれそれもかなわない。助けて。此方にそう言いたげな視線を向けるが、日和良はそれを見ないふりをした。
まあ、とにかくこれで改めて助けに向かうことが出来る。
そわそわと落ち着かないらしい青川の方を向いて、日和良は頷く。
「とにかく、急いで山小屋に行きましょう。真っ暗になったら、本当にやばいから」
視線を向けると、泉達から防寒具を受け取った河瀬もうなずいてくれた。彼女自身の怪我はまだ大したことがないし、助けがいる相手がいることに納得もしてくれた。
「なんなら、怪我をした人を運ぶのも手伝うつもり。足はちょっと痛いけど、涙をのんで我慢するわ。あ、荷物も何だったら私に持たせてくれてもいいわ。こんな時だしね。お互い助け合わないと。それから名前は呼び捨てでいいから。私も呼び捨てでいくから、それでいいでしょ」
「あ、ああ」とたじたじの泉と青川を尻目に、河瀬は笑顔で声を張り上げる。
「後一息よ。さあ、みんな!頑張って急ぎましょう。レッツゴ―山歩き!ウェルカム生徒会長!」
こいつならひょっとして、私らが慌てなくても下山出来たんじゃなかろうか。
一同の胸中に、そんな思いがよぎったのかどうかは―――定かではない。
*
「ひとつ、教えてくれませんか」
河瀬を先頭にして騒がしい一団が出来上がる中で、橘と日和良は少し後ろを歩いていた。
感染者との格闘を演じた二人が疲れていることを知っているからか、気を効かせてくれているらしい。
「なに?好きな相撲取り?カロヤン・ステファノフ・マハリャノフだけど」
「いや、琴欧洲のことはどうでもいいですけど……」
こ、こいつやりおるな。等とどうでもいいことを考えてる日和良をよそに、橘は思いつめた顔で問いをツ続ける。
「どうして、さっきみたいなことをしたんです?」
ああ。日和良は思わず相手の瞳を見返す。
やはり、そのことか。
彼女の瞳の中の疑問にどうこたえるべきか。日和良は迷った。
そのことに関しては、彼女自身明快な答えを返すのは難しい、と言うのが本当のところだった。
けれども、ただわからない、とだけで彼女に答えようとしないのはきっと間違いだ。
自分なりの、答えをぶつけるしかないだろう。
んー、としばし唸り声のようなものをあげてから、日和良は口を開いた。
「橘さんさ。さっき言ってたよね、人間は恐怖を基準にしてしか、動けない、とかさ」
自分自身の話を引き合いに出された、橘は一瞬困惑したような表情を見せて、頷く。
「一理あると思う。……でもね。怖いっていう感情がすべてじゃないと、私は思うのよ。そりゃ人間って臆病よ。……皆自分が何かをなくしたり、傷ついたりすることに怖れて、動けなくなる時はあるわ」
でもね。
「それと同じように、他人のために勇気を出せるものだと思うの。怖い物や、おっかないなにかから、自分以外の人を守ろうとすることが、出来るんだと思う。それは別に、強いからじゃない。弱いから出来るんだと思う」
「弱い……から?」
「そう。失われる痛みや、損なわれる悲しさを知っているからこそ、そんな目に他人を合わせたくない。そういう気持ちのために、人間は動くことが出来るとおもうの」
橘は眉間を抑えるようにしながら、彼女なりの答えを纏める。
「人間は、自分の身だけじゃなく、他人のことも同じくらい大切に思える。……さっき私を助けたのも、そういう理由だった、と?」
「まあ、そうじゃないかなって、思いマス。……いや、まあそんな深く考えての行動じゃあなかったんだけどね。でも、まああなただったら、どうにかしてくれるんじゃないかっていう期待もあったし」
「……貴方と言う人は」
橘がため息をついたのを見て、日和良は頭をかく。
「いやいやさっきも言ってたじゃない。待っている人もいないのに、どうしてここからでようとするのかって。それと同じ。ーーー先のことなんて、考えていないのよ。ただ、やられっぱなしはしゃくだし、そうしないと負けた気がするから、目の前の相手と戦う。その程度よ、私が動く理屈なんてね」
何か言いたそうな顔をした橘に、日和良は指を突きつける。
「確かに。あまり賢明とは言えないのは、認めるわよ」
でもね。突きつけた指を閉じながら、握ったその手をそっと橘の胸に当てる。
「先ばっかり見たり人間の悪いところばっかり見るのも何か違うんじゃないかって、私は思う。未来のことはよくわかんないし、いろんなしがらみもあるし、人間はみんな恐がりだし、間違ったこともするけどーーーそれだけじゃないわ。それだけが全てじゃないって、私たちは知ってるはずよ」
とんとん、と薄い胸を叩くと、橘は慌てるように後ろに下がる。その様が何だかおかしくって、思わず日和良は顔をほころばせる。
「今ので答えになってる、かな」
今日はずいぶんいろんなことがあったせいで、いろいろなことを考えてしまった。
そういういろんなことをそのままぶつけてしまったことに何かきまずさを覚える半面、すっきりしたものを覚えたのも確かだった。
そうした日和良の複雑な胸中を知ってか知らずか、橘もどこか複雑な答えを漏らす。
「……少なくとも、あなたにとってはそれが答えなんでしょうね」
あなたにとっては。それが自分の言葉と他人の言葉を分かつ意味をはらんだ言葉であろうことは日和良にはわかった。
「……でも、あなたがさっき助けてくれたのは本当だ。本当の、ことだった。礼を言います」
こっちこそ、ね。屈託なく笑って見せた日和良の顔を、橘は何とも言えない顔で見つめる。
彼女なりに、思うところがあったからこそ、さっきはあんなにムキになって話してくれたことは日和良にも分かっている。彼女の胸中は、依然として知れない。けれどもさっきみたいに助け合って、こうして言葉を交わし合っている限りは、きっと私たちは―――
「ほら、二人とも。何見つめ合ってんの。ちんたらしてない!」
前を行っていた河瀬の声に、思考は中断される。いつの間にかずいぶん置いてかれていたらしい。日和良は手を挙げて答える。
「……とにかく、行きましょう。小言は御免だ」
そう言って少しだけペースを速めた橘に続きながら、日和良はふと尋ねてみた。
「ねえ。橘さん。さっき、名前で呼んじゃったけどさ。今度から、下の名前で呼んでも良い?」
歩調を緩めることなく四歩ほど進んでから、橘はそっぽを向きながら呟いた。
「……お好きにどうぞ、先輩」
ありがとね、夕。
さっきよりも少し柔らかくなった横顔を見ながら、日和良は屈託なく笑った。
「ちなみに、さ。さっきいってた、ナイフを投げる命中率だけど……実際、どんなもんなの?」
「……ほんとに、聞きたいですか」
奈落の底から出されたような声でそう問われ、日和良はしばらく考えた後で、乾いた笑いをたてながら、やっぱりいいです、とつぶやいた。
まあ、余計なことは考えないに限る。行動あるのみだ。
そう。あと少しで、たどり着けるのだから。
あと、少しだ。
*
自分がしたくしゃみに驚いて、彼女は目を覚ました。
囲炉裏に燃える火を目の前にして、横になっていた身体を起こす。
「……目が覚めた?大丈夫?」
いつの間にか、眠っていたらしい。
くるまっていた毛布をかけ直しながら、、彼女はうなずいた。
「ずいぶんうなされていたわね」
カップに注がれたお茶を受け取りながら、ええ、と彼女はうなずいた。
「でも、無事でよかったわ。ほんとうに、よかった」
少女は―――小林日和良はそう言って、さびしそうに笑う。
その顔が意味しているのはただ一つだ。
皆が生きていれば、それが一番よかったのに。
ええ、本当に。
場をとりなすようにしきりにうなずく小林に、彼女は―――根本碧は曖昧に頷いた。
*
日和良たちがそこにたどり着いた時、中にはただ一人の女生徒の姿があるのみだった。
血塗れのまま呆然としている根本に話を聞いたところ、追跡してきた感染者に教われて、立てこもっていた皆は死んだのだと告げられた。
そして息の絶えた彼女らを、根本はーーー古井戸の中に投げ捨てたのだという。
おそるおそる井戸の中へライトを差し込んだ日和良たちは、絶句することになった。
根元の言葉通りの光景が中では繰り広げられていた。
黒ずみの死者と、体を噛みちぎられた無惨な遺体。それらが何体も折り重なっていた。
その中には、赤塚の姿もあった。
美人で文武両道で情に厚く、人望もある皆のリーダーだった生徒会長。
悪臭と醜悪な中身を見せつける身体を目の当たりにしても、日和良には現実感がわかなかった。
自分のようなはぐれ者には天敵ではあったが、決して性根からいみきらってはいなかった。
ぽっかりと胸に穴のあいたような感覚を覚えながらも、涙はでてこなかった。
自分にとって、彼女はそれほどの意味がなかったか等か。それとも、人がしにすぎて、自分の感覚が麻痺しているのかもしれない。
青川の姿を尻目に、日和良はそう感じてしまった。
彼女は地面にへたりこみ、ただただ滂沱の涙を流していた。放心したようなその顔からは、言葉とも嗚咽とも判断の付かない音が漏れでていた。
そうして一同は山小屋の中で話しあい、河瀬のもたらした情報に従って、一旦学園に戻ることを決めた。
日和良たちは、帰って伝えることにした。
生存者は、二人だけ。
そんな救出作戦の結末を。
*
翌朝、日が昇ると同時に六人は廃屋を出た。疲れがたまった体に鞭打ち、神経をすり減らしながら、もと来た道を戻って行った。
下りの道が多かったおかげで、昨日ほど時間をかけずに帰ることができた。
しかし足がずっと重かったのは、何も疲れだけのせいではないだろう。
脱出者六人のうち、助けられたのは二人だけ。生徒会長や桃井、青川の妹は死んだ。
青川はあれから一言も口をきこうとも、目を合わそうともしなかった。
河瀬もさすがに空気を察して、昨日のおしゃべりはなりを潜めている。泉は青川を元気づけるように目を離さない。
根本碧。山小屋で生き残ったただ一人の少女は、不思議とさっぱりした顔で歩いていた。彼女も心の中の何かを失ってしまったのかもしれない。橘夕は何か考え込むようなそぶりを見せつつ、足取りは揺るがない。昨日と同じようにその背中を皆にさらしてくれた。
そして、自分は。
救えなかった、という失意の念が強い。いや、助かった人間もいるということは確かだが、しかしそれを以て自分の行動をすべて肯定するのは難しかった。
学園に戻った時に、皆にどんな顔をすればいいのか。果たして、どう伝えるべきなのか。
迷っているうちに道路にたどりつき、薄く氷が張ったコンクリートを歩いていく。
晴れ渡る空を見つめながら、日和良はため息を漏らした。
*
根本碧の心は、晴れやかだった。一月の澄んだ空のように、不純物がない感覚。
すべて壊れてしまえばいい。なにもかもめちゃくちゃになってしまえばいい。
そう願っていた世界。自分を拒み、とり殺そうとしていた悪魔たち。
それらはすべて駆逐された。気分が悪いはずはない。
昨晩のことを思い起こすと、今でも碧の心には喜びが満ちる。
あの時。化け物たちが侵入してきた時。
偉そうにしていた赤塚も、流されるだけだった青川も死んだ。
そして何より、茜。あの女のとどめを刺してやることが出来た。
胸の奥で喜びに打ち震えるその感覚を忘れないように、押しとどめるように碧はポケットの奥に手を差し込む。
そこには、彼女自身を化け物たちから助け出し、そしてあの女を死に至らしめたひと振りの刃があった。
こんな小さな、こんなちゃちなものでも人間は死ぬ。どんなに偉そうでも、どんなに強靭でも。
おどろくべきその真実の一端を碧に知らしめてくれたナイフは、もはや彼女自身にとっては敬愛すべき道具であり奇跡を起こす神具であった。
あんな連中に、私が苦しめられていたなんて。なんてちゃちな世界に、自分はいたのか。
その事実に愕然としながら、しかし今自分が足を踏み入れた世界を思うと、うれしくてたまらなかった。私がしたことを、誰も知らない。あの女の顔に刃を突き立てたのも、喉元をかッ斬ったのも、耳の中をぐしゃぐしゃにしてやったことも。
暴力。圧倒的な力の行使に酔いしれることを知った碧に、もはや怖いものなど存在しなかった。
感染者も人間も、大差ない。殺し方が違うだけだ。
これから、この世界で自分が何をできるのか。どうしたいのか。それを考えると、胸の高鳴りを覚えずには居られなかった。
そうして高まる鼓動を抑えていると、ふと、河瀬が立ち止まって写真のフラッシュを道端で焚いているのが眼についた。
どうやら何かの写真を撮っているらしい。
写真か。ふと、碧は思い出す。あの連中は、街に出たときによく写真をとっていた。
水浸しだったり泥まみれになった私の姿を見て、よく写真を撮っていたな。
あいつらはよくいっていた。笑えって。笑顔で。笑えよ。
あの時は思っていた。笑えるはずがないって。こんなにつらいのに、どうやって笑えばいいのかって。
「……へへ、へ」
誰も見ていない列の一番後ろで、碧は笑った。
唇をゆがめ、歯をむき出し、まなじりをさげて笑った。
それは鳳凛に来て以来、おそらく初めてとなる、心からの笑いだった。
*
それからたっぷり三時間近くかけて、日和良たちは学園にたどり着いた。
すでに日は高い。凍えるような夜の空気は朝の中に溶けだしている。
正門が見えた時には、一同が顔を見合わせてほっとした。昨日から感染者と遭遇することもなく、無事に帰ることが出来たのは喜ばしいことだろう。
見張りらしい生徒があわただしく動く中で、果たしてどう皆に事情を告げるべきか日和良は迷った。
彼女たちが慌てているのも無理もないだろう。本来ならば今日戻ってくるはずはなかったし、頭数だって予想より少ないのだから。
よくない知らせを自分たちは告げなくてはならない。二つも。
疲れ以外で重くなった気がする足を、必死に前に進める。
そうしてようやく正門にたどり着いた時、クリスティーナ・稲葉が寝ぐせのついた頭で、出迎えてくれた。
何か、あったのか。少女たちの所作からただならぬ気配を察した日和良は、先に話を切りだした。
「ええと、とにかく詳しい事情は中に入って……」
ぶんぶん、とクリスが首をふる。何だ。何が言いたいんだ。
「小林さんは、こっちに来て」
別の生徒が日和良の手を引くようにして、学園の中へと促した。
なにが起こってるんだ。
胸中の新たな不安を抑えながら、日和良はその後に続いた。
*
小林は一人だけ、正門から連れ去られていった。何かあったのだろうか。
碧は訝しく思いながらも、その後にクリスティーナが橘に話しかけているのを見た。小林の次に話しかけられたということは、彼女もどうやら今は頼りになる相手として認められているらしい。
「戻ってきた理由は?」
クリスの質問に、橘は河瀬を呼んだ。憔悴した表情の少女が前に出てきて、胸ポケットをまさぐる。
「……最初、私は町の方へいこうとしていたのよ。でも、国道にさしかかる前に……見ちゃったの」
なにを、と促す視線に、何かためらうような仕草を見せた後で、河瀬はデジタルカメラを取り出し、操作した。
「直に見てもらった方が早いと思う」橘がそう告げると、クリス他の生徒たちがデジカメの前に集まった。
「あの様子じゃ、下りて行っても助けてもらえるかはわからない。そう思ったのよ」
その画像を、山小屋にいた一同が見せられた画像だ。
生徒たちの顔に、落胆と失望の色が微かに映る。だが誰しもそれを信じられないとは言わない。
当然だ。みんな予想はしていたはずだ。
「……もう、みんな手遅れだったのよ」河瀬の呟きが、清涼な朝の空気に溶けて行く。
その眼に映るのは、絶望だ。
山の向こう。
街があるはずの場所から、無数に立ち上る煙が移った、その写真をみる瞳の色は。
*
日和良が導かれたのは、駐車場にある一角だった。
「嘘でしょ・・・・・・」
飛び散っていたのは血。脳漿。
何者かの無残な遺体が、そこには横たわっていた。
ビニールシートがその頭部を覆っていて、顔は見えない。
いったい誰のものか。
心臓が早鐘のように脈打つ。
嫌な予感ばかりが募る中で、日和良は遺体に駆け寄る。
「……んな……」
そうして直ぐ隣から目の当たりにした時、日和良は気づいた。気付いてしまった。
その手に巻かれた絆創膏が、包帯が、白い肌が、細い手足が。
自分のよく見知った相手であることを。
その正体を、雄弁に語っていることを。
「シートは……めくらない方が、いいと思う」
女生徒がかすれた声でそう忠告するのを無視して、日和良は震える手を顔に掛けられた布に伸ばそうとする。
まだだ。まだ、そうときまったわけじゃない。痛いくらいに脈打つ心臓に促される様に、その顔を明らかにしようとする。
しかし布をつかむ直前に、日和良はそれに気付いた。
ブロック止めの直ぐ隣に、それが落ちているのに。
信じたくない。
見たくない。
考えたくない。
そう思いながらもすっと伸びた手は、それを拾い上げていた。
それは、何か。
それは、ひしゃげた髪止めだった。
いつも、彼女がーーー絵美が、つけていた、髪止め。
「―――――――――!!!!!!!!」
それを理解した瞬間、日和良の理性は崩壊した。
絶叫が、朝焼けの空に響いた。
第四話 了
今週遅れてしまったので、来週は二回更新します。一個は手記ですが。
今回まったく短くならなかったけど、次回からは、もう少し短めになると思います。たぶん。今度こそ。
第五話「聖者は夜に去っていく」お楽しみに。