第四話 ハイキング・デッド(1)
小林日和良:反骨精神旺盛で、脱走経験のある活発系女子。HDDの一人。
木中絵美:小動物系だが芯の通った少女。HDD。
大森響:ややアウトローな、シニカル系。HDD。
橘夕:冷静沈着でありながら行動派の女子。正体不明気味。
杉村明里:生徒会副会長。真面目で苦労人。
浜形路子:寡黙な巨女。
霧生詠:魔女と呼ばれる少女。人をまとめる才能がある。
クリスティーナ・稲葉:金髪関西弁。常識人。
松浪曜子:心やさしい少女。
哀川勇太郎:悪運と観察力の優れた教師。
「教員等にいる先生方!こちら女子寮から来ました!生きている人はいますか!いたら返事してください!」
それから訪れた沈黙を答えとして、杉村明里は背後を振り返った。
「行くわよ」
外付けの非常階段の下、校舎の脇。そこには五人ほどの学生が集まっていた。
どの顔にも緊張が浮かんでおり、その手には武器となる得物が握られている。
「浜形さん。先生達は全員中にいると見て、いいのよね」
明里の問いかけに、一際目立つ長身の少女―――浜形路子ははっきり頷いた。
*
放送で明らかになった教務棟三階でのパニック。その真下、同じ教務棟にいた学生の中で、浜形は冷静に動けた数少ない生徒だった。
二階ですでに学園外への避難の準備をしていた十人ほどの生徒たちと、現国教師の南を置いて、彼女は単身確認しに向かおうとした。
だが階段を上ろうとしたところで、三階と二階の踊り場に向かって落下してくる影があった。
数学の北壁教諭だった。ほとんど落ちるように飛び込んできた彼には、顔の半分がなかった。
正しくは、顔の半分の皮と、片耳がなかった、になる。えぐり取られた顔から、しまう場所を失った目玉がぎょろりと階下の生徒たちを見据えたという。北壁は痙攣しながら、そのままこと切れた。
それを見て生徒たちは確信した。三階はすでに地獄だ。
恐怖の叫びがあげられる中で、階段を繋ぐ防火壁が閉じられたのは妥当だったといえるだろう。非情な判断ではあったが、まずは自分たちの安全こそ確保しなければならない。
外に飛び出そうとする学生たちを必死になだめつつ、鐘によって感染者たちがいなくなった後で、職員棟にいた生徒たちは一旦脱出を果たしたのだ。
三階の職員室でむさぼりあっているであろう死者たちを置き去りにして。
明里としては、彼女たちの判断についてとやかく言うつもりはなかった。多分自分でも同じことをしただろう、と思えるからだ。
なんせ戦える人員がいないのだ。闘争してきた生徒たちは、いずれも怯えきっていた。
上階にいた十人近くの職員たちでさえ手に負えないような事態だとすれば、それこそ単身で迂闊に動くべきではないだろう。
だが、今は。明里は改めて後ろにいる生徒たちの顔を見る。
皆緊張しているが、しかしどこか腹を決めたもの独特のさっぱりとした感覚があった。
何も彼女たちはそもそもが学生寮からわざわざ感染者を「片付け」に来た生徒たちだ。彼女たちなら、必要に応じて武器をふるうことをいとわないだろう、と背中を預けるに足る面子だった。
*
体育館でただ事態の推移を見守りながら、少しずつ周囲の様子をうかがっていた明里たちのもとに、彼女たちは現れた。
これからあのゾンビどもを倒しに行く。弓矢にモップやバットにスコップ。大型の鈍器を抱えた少女たちはそう言ってのけたのだ。学生たちの提案に明里も驚きはしたが、その後広場の方へ出てきた生徒たちが、唯一広場に残っていた佐志場を相手にーーー対処しているのを見て、その本気を理解したのだ。
その中でも、霧生詠は異彩を放っていた。烏合の集であるはずの女子生徒たちの陣頭指揮を、見事にとっていた。
方針はとにかくシンプルだ。まず、ゾンビ―――彼女たちは、こう呼んでいた―――の足を払う。それから、背中を抑える。動くことが出来なくなった相手に背中から近づき、後頭部を叩きつぶす。
それを複数人で取り囲むようにすれば、常に安全に奴らを狩れる。彼女はそれを命令する。
「やりなさい」いつもの調子、いつもの様子で。声に迷いもおびえもない。
みながやるのは一つ一つのアクションでいい。それをやり遂げさえすれば、相手は動かなくなるからだ。
そうして自分たちの選んだ道をはっきり示しながら、再び彼女らは問うたのだ。
このまま見殺しにするか、否か。
その強い意志に押される様にして、迷いながらも、体育館にいた人員もその流れに乗ることを選んだ。
感染者を、ゾンビを、駆逐する動きに。
*
階段を駆け上りながら、明里は思う。果たして自分がしていることはまともなのか、ということ。
そしてみんなも、まともなのかということだ。
皆が、自分がしようとしていることがどういうことなのか。どういう意味を持つのか。
分からない明里ではない。いや、皆だってそうだろう。
だが、それでも。
それでも、今やろうしていることだけは正しい。そう信じたかった。
教務棟の中の様子を窺うことについては、霧生からの発案ではなかった。
迷いながらも明里とて、すでに自分がなんら暴力とは無関係だなどと言い張れるような身の上でないことは知っていた。だからこそ責任と危険を負う役目を自ら買って出たのだ。
それが教務棟の救出作戦。礼拝堂でまだ彼らが無事だというのなら、教務棟の職員達も助けられるかもしれない。当初霧生は戦力を分散させることを渋ったが、他の学生達の声を受けて了承した。
もしかしたら、どこかに閉じこもって生きている先生がいるかもしれない。そんな一縷の望みを確かめるための問題は、建物の中に入る方法だ。
中はおそらく、すでにほとんどの教職員が感染者ーーーゾンビ化していると思われている。その数は、多ければおよそ十。侵入すれば、容赦なく彼らが襲いかかってくるだろう。
死者たちに対しての生者のアドバンテージである素早さが室内では失われる。だとすれば、相手を外に引っ張り出すことこそ重要となる。
そのうえで彼らを引きずり出すとなると、実質的に非常口しかなくなる。
三階の非常口のドアを開けて、声を挙げる。それで生者が出ればよし、死者が出てくるなら、一階まで引きずり出し、叩きのめす。それが明里たちが考えた戦術だ。
階段口の間は狭く、二人がすれ違うのが精一杯。ここなら感染者に雪崩打たれても、逃げ切ることは可能だろう。
ただ、突然出てきたときには一瞬でも時間稼ぎをしなければならない。そのため、浜形がその少し下から槍を構えて、いざというときに備えた。後の人間は、一階で待機させる。
藪蛇という奴を、自分をしようとしているのだろうか。そんな自嘲気味なため息をもらしながらも、明里の脳裏にはやはり一人の人物のことが引っかかっていた。やるしかない。そう思わせる相手。
非常口のドアに手をかけた明里が、背後の皆に指を立てる。三本。二本。一本。緊張が最高潮に高まり、ドアがまさにあけられるかと思った瞬間、明里は電流に打たれたようには飛びずさった。
とたんにドアノブが回され、中から人影が飛び出してきた。
すぐさま浜形が明里を押し退けながら、相手の胸元につきこみを入れるべく、踏み込んだ。
「待て!」
そう叫び声が届いたのと、浜形の突きが止まったのは同時だった。
「だ、大丈夫だ……無事だ、生きてる。僕は、生きてる」
そこに現れたのは、誰あらんーーー柿谷衡平だった。
*
「まったく。冷や冷やしたぞ。もう少しで、死ぬところだった」
階段の手すりにもたれ掛かるようにして、柿谷はそう漏らした。
三階から無事に出てきたのは、三人だけだった。柿谷、西浦、それから哀川。
どの顔も憔悴し疲れはて、まるで別人のようだった。特に柿谷には普段の優男風の余裕はみじんも伺えず、一気に十は老けたように見える。
それでいて、目の奥だけはどこか野生的な光をともしており、陰影のこく見える顔に迫力を与えている。
明里は動悸を抑えながら答えた。
「どうして、答えてくれなかったんです?」
問いかけの口調が強いのは、自分自身でもいろんな思いを整理できないからだ、と分析する。
「ああ。そうだな。すまない。……トイレでもどしてたんだ」
そう言って、柿谷は新鮮な外の空気を吸い込むようにして、空を仰ぐ。他の二人も、力なくうなずいた。よく見ると、哀川などはシャツの脇腹のあたりに吐瀉物らしい汚れが見えた。
「まったく……本当に、世話をかけるな、お前たちには。それで大丈夫か、皆は」
そうして少しばかり気を緩ませながら、ようやく見せてくれたいつもの教師としての顔に、明里は改めて胸の奥が熱くなるのを感じた。
「……よかった。本当に、よかった」
明里は最初抱きつきたい欲求に駆られたが、お互いの服にこびりついた血が障壁となった。勿論そんな雰囲気ではないというのは分かっているのだが。他の人の目もあるし。などと考えているうちに、そんな明里が使い物にならないのを察したのか、寮から来た一人が柿谷に簡単に現状を伝えた。
「そうか。……すまない。俺たちが、至らないばっかりに」
弱弱しい声で、柿谷はそういう。
「何があった?」
突如問いかける浜形の声に、明里はぎょっとした。詰問するようなその声には、確かに怒りが滲んでいたからだ。
だがそれに答える柿谷の表情は、ひどく歪んでいた。まるで笑顔を作るのに少しずつ失敗した副笑いのように。
「お察しの通りだよ。一人捕まえている時に、感染していた先生がいて……それが、暴れ出した。他の皆で止めようとしたが、そのうちもう一人も出てきて……あとはめちゃくちゃだ」
浜形はその長いまつ毛を伏せて、首を振った。彼女なりに思うところがあるのだろう。
「そうだ、理事長は?窓から落ちたはずだが」
西浦が話を変えてきた。
そうだ、理事長ーーーその名前を出されて、明里は何とも言えない顔になった。
「両手両足を骨折しているようです。脈はありましたけど、意識はありません。一応西校舎の部屋に、運んで行きましたけど……」
職員室から落下したらしい彼女を見つけた時は、皆が驚いた。それが生きていたのだから、驚きは二倍だ。どうやら血のあとを見る限りでは、渡り廊下の屋根にぶつかったおかげらしい。
彼女の存在、生存こそが霧生を説得する材料になったのも確かだ。
とはいえ殆ど虫の息だったため、彼女が今後どうなるかは、見当もつかないのだが。
そうか、と返答した西浦の声は、感情を窺わせるものはなかった。
どういった経緯でそうなったのか。尋ねるべきか明里は迷った。しかし結局、続く言葉にその迷いは霧散して言ってしまった。
「とにかく、生徒はみんな一応外にいるんだな」はい、と明里は頷く。
「一度みんな集まったほうがいいでしょうね」西浦と柿谷はそう言って、重たげに腰を上げた。
「ところで、外部への連絡は……」明里がそうたずねると、二人億劫そうに首を振った。
「理事長がしたはずだ。……ヘリコプターなら、もう来るはずだがな」
そういってどんよりとした空を見上げる。近づく影はない。
「とにかく、われわれは一旦職員室に入って、放送を入れる。グラウンドは大丈夫だな」
「いえ、柿谷先生……大丈夫ですか?なんなら、放送は私たちが」
明里の提案に、柿谷たちは目をそらしながら首を振った。
「あまりおまえたちは中に入らない方がいい。先生たちに任しておけ」
「でも、噛まれた死んだ人間が、起き上がる可能性も……」
「その心配はない」
それは、明里がはじめてみる柿谷の顔だった。
まるで暗い井戸のそこのような、深く淀んだ視線を、彼女に寄越したのだ。
「死んだ全員の頭を、もう潰してある。……とにかく、グラウンドへ向かえ」
*
「生徒はみな、グラウンドへ集合するように。繰り返す。一度全員、グラウンドへ集合するように」
職員室から再び流れてきた教師たちの声。その事実に微かな安堵と希望を抱きながら、生徒たちはグラウンドへ集まった。
体育館にいた運動部の学生達、寮から出てきたものたち、校舎に隠れていた一年生たち。
それこそ五分とかからずに一同が解することになった。
みな不安なのだ。自分たちが置かれている状況も学園の全貌も何もわからない中で、学園の生徒たちは皆へたりこんでいた。放心したかのように中を見つめていたり、ぶつぶつと何かを呟き、体を縮めてふるえ、肩をよせあいながら、すすり泣く。
食堂にいた職員たちは、幸いにもことなきを得たらしい。何が何だかよくわからないまま厨房に籠っていたということで、今はとにかく困惑した顔で居心地悪そうに固まっている。
そんな中にあって、小林日和良はできるだけ堂々とたちふるまっていた。
だめだ。今へたり込んだら、崩れる。日和良は体のそこから沸き上がってきそうなものを必死に押しとどめながら、必死に胸を張る。
あれから、感染者を処理していく様子を、脱出した一同は眺めていた。
礼拝堂から出てきた感染者の足をすくい、押さえつけ、動かなくなるまで何度も何度も殴打する。脳漿が
目を覆いたくなるような光景だったが、
その後全ての「対処」が終わる頃に放送が流れると、橘と絵美はそれぞれ手当を受けに行った。
まあ絵美以外はぴんぴんしていたのだが。橘など、自分から率先してそそくさと保健室に向かったほどだ。
そんなわけで彼女らは不在だが、話していたことは後で説明すればいい。
日和良は響と二人で、所在なくグラウンドに島を作っていた。
「なあ、ひよ」
「何?」
響は日和良と目を合わさずに前を向いたまま、罰が悪そうに尋ねた。
「あのときさ。絶対だめだって思った時。私が来る、とか思ってたか?」
響と絵美と日和良。三人は無二の親友だ。この学園を逃げ出すための。
ただ、響にも絵美にも秘密はある。だから響が時折一人何処ともなくぶらつく癖があることを、日和良と絵美は受け入れていた。さっきだってそうだ。彼女はなぜだか体育館のさらに向こうにある、道場のあたりにいたらしい。そのことについても特に詮索するつもりは日和良にはなかった。
「もしもこなくっても、仕方ない、とは思ってたわ」日和良は正直なところを口にした。
響は鼻先をかきながら、ふうん、と何気ない声を出した。その何とも言えない顔を見て、日和良は少し小声で呟いた。
「ありがと」
「……ああ」
短いやり取り。けれど、それだけで二人には通じていた。そんな感覚を、日和良は覚えた。
「一応言い訳しとくとな。武器を探してたんだよ」
「武器?」
「理事長の家だよ」
道場より向こうには、教務員達の住居スペースがある。その中でも理事長の屋敷は、もっとも巨大な建物だ。確かに、あそこなら何かあるかもしれないが。
そんな風に互いの反応を窺うように話をしているうちに、教員達がグラウンドに現れた。
血まみれの風体を見て一瞬皆がざわつきはしたが、柿谷が話しだすと皆彼の言葉を全身で聞こうとした。
それは、学園が始まって以来最も静かな集会だった。
内容は、学園の現状と今後について。
学内で、感染病らしきものが発生したこと。その特徴と、感染方法について。
職員の大半が死んだこと。生徒の死者については、まだ数えきれていないこと。
外部との連絡方法が失われたこと。
学園が孤立状態にあること。
皆が断片的に理解していたことを、柿谷は皆の間で断定していった。
その中で外部と連絡が取れないことをきくと、一部の生徒たちはざわついたが、すぐにため息とともに黙り込んだ。とにかく、みんな疲れていた。それは不安に怯えること、どうすべきか考えることにであり、結局うつむいて座り込んだ。
無味乾燥な、業務的な言葉が並べられていく中で、柿谷は、最後にこう締めくくった。
「おそらく、今の状況は誰もが想像したことがないくらい……危険だ。どうするべきか、何をすべきか。俺にも答えはない。ただ、自分の命が危険だと思ったら、必要なことをしてくれ。これは、お願いだ」
それは果たして、教師としての立場で許される発言だったかはわからない。だが確かな胸の内を聞いた生徒には、その言葉が持つ熱は確かに感じられた。
そう言って皆の顔を見渡すと、戻ってくるまでは杉村の指示に従って学園から動かないように、と言って締めくくった。
*
その後、日和良は体育館でうつらうつらしていた。
あの後。柿谷たちは、外部に直接助けを求めに行った。無事だった食堂のおばさんや職員さんは、彼らの自宅が心配だということと、地元の人の協力が必要だろうという利害の一致を見て、同乗していった。
つまり教職員一同が車に乗りこみ、携帯で連絡が通じるところまで行って助けを呼びに行くことが決められた。
その間、学園に取り残されることとなる生徒たちは一か所に集まることとなった。
外部からの警戒や、学内の安全の調査をまかされた一部の生徒以外は、体育館の中に押し込められる形になった。
まさしく普段の避難訓練などの体と同じではあったが、一同の様子は段違いだ。笑い声もなく、一同がひ
そひそと眉根を詰めながら話しているばかりだ。
それでも、一応食堂のおばさん達が拵えてきたおにぎりを食べたおかげで、まだましになった方だと言える。泣き声を発していた生徒は疲れて眠ってしまっている。監督役として残された哀川も壁にもたれて口を開けて眠ってしまっているのはどうかと思うが。皆が彼の顔を軽蔑の色で見るのも無理からぬことだ。
日和良その中に押し込められ、三角座りでしばし体を休めていた。他の皆に比べれば、日和良が暴れまわった時間は長くない。だがそれでも、一瞬の選択が生死を分かつ状況にあって、神経が擦り減らないほどタフではない。
とはいえようやく、学園は静かになった。生者も死者も自ら動くつもりがなければ、こんなものだろう。
響はあのあと車を動かせる人間として、霧生に引っ張られていった。門のところで防波堤代わりに使うらしい。絵美や橘は結局そのまま体育館に来ても合流することはなかった。怪我の度合いはひどくないはずだが、彼女らも休んでいるのかもしれない。どんなに感謝してもし足りないが、彼女らの方が疲れているだろう。少し時間をおいてから改めて話そう。
そのため、今日和良は一人になってしまった。
互いの無事を喜び合う、という気分でもないが、何か話し合っていないとひどく落ち着かない。そんな気分だったから、出口のところに見知った相手を見つけて、日和良の意識は覚醒した。人の波をかき分け、お目当ての相手に声をかける。
「あら、小林さん。無事だったなんて、相変わらずゴキブリ並の生命力ですわね」
「あんたって……」名雲文香から帰ってきたいつもの憎まれ口に、日和良は思わず閉口してしまった。
とはいえ、いつものようにやり返してやろうという気力はない。
響から大体の事情は聞いていたためだ。
響達が事態を把握したのは鳴海聡子が、道場に皆を取りまとめに来てくれたときらしい。その時響は困惑しながらも、絵美や自分を助けるために動こうとしていたという。
そして最終的に響が車で駆けつけようとした時に、道場にいた名雲は提案をしてきたのだという。
「おそらく追い詰められているとしたら、彼女らは上の階にいるでしょう。着地できるように、マットを縛り付けたほうがいいですわ」
まあその後しっかりと「なんとかと煙は高いところが好きなのでしょう?」とかいうあたりは、さすがだが、ともかくその読みがあったおかげで、なんとかこうして無事に生き残ることができたのは確かだった。
彼女には思うところがないでもないが、感謝をしないでいるほどには恩知らずではいられなかった。
「ありがとね。……正直、やばかったわ」
「別に、感謝されるようなことはしていませんわ。おわかりでしょう。実際に貴方のために動いたのは、誰なのかくらい」
「いや、まあこれは私なりのけじめというか、そういうあれだから。独り言だから」
ふん、と腕を組みながら名雲は鼻息を漏らす。
「まあ、もしも感謝を形にしたいというなら。自分ができることをすることですわ。人の役に立つようなことを、ね」
「うん。そうする」
素直に頷いて見せた日和良に苦々しげな表情を見せた後で、名雲はそっぽを向いてしまった。
しかし、これはこれで彼女らしいとも思う。お互いに生き方や信条は違うし、これで決定的に仲良くなる、というのも何か違うのだろう。
ほんと、あんたって……。日和良は苦笑いしながら、その場を辞そうとした。
「……何かしら?」
窓の外がにわかに騒がしくなってきたのは、ちょうどそのときだった。
*
体育館の外側でたむろっていた生徒たちが騒ぎ出し、声を上げながら走りだしていた。
「どうしたんです?」体育館の中にいた一人が、格子越しに一階に残った生徒に声をかける。
「一年が……バスに乗っていたらしい一年が、やってきたらしいの!」
バス。それはつまり、もうひとつ学園へと走り出したバスのことか。そして、病院へと引き返したはずの。
上げられた大声を聞き取り、そのことを理解した大勢の人間が、体育館を飛び出していた。
日和良は名雲の顔を見返すと、「ちょっと、私も見てくるわ」と行って出た。
彼女は困惑しながらも気をつけて」という声をかけてくれた。名雲は自分の職務、周囲を警戒することを止める気はないらしい。
律義な少女に頭が下がる思いになりながら、日和良は走る人々の後ろについて行った。
そうしてたどり着いた校門の前では、野次馬が山をなしていた。
バスが入ってくる時にぶつかったらしい片側の門はひしゃげ、その空白を埋めるために車が一台寄せられていた。
現在唯一の出入り口となる正門の守り役を任された、砂野はその車体の上に片膝を立てて座り、弓を構えながら道の向こうに視線を走らせている。
一同の視線の先に、日和良は目をこらした。
鳳凛のブレザーをきた少女が、確かにこちらに向かってよたよたとおぼつかない足取りで向かって来ていた。
ただ、疲れ果てているせいかうつむいていて、その顔色までは判別不可能だった。
「生きているって、本当なの?」近くにいた少女に声をかける。
「さっき、声を挙げてました。手も振り返してたし……」
砂野に視線をよこすと、彼女もこくこくと頷いた。とはいえ、皆が半信半疑なのは確かだろう。
もしも感染した人間だったなら。そう考えれば、皆が二の足を踏むのも無理からぬことだろう。
日和良は再び、少女に視線の照準を合わせ、考えを巡らせる。。
それに、不可解なこともある。
バスに乗っていたはずだという少女。誰か顔見知りの生徒がそう言ったのだろう。それはいい。
だがだとしたら、なぜ彼女はこんなところにいるのか。
いくつも疑問符が浮かび上がりながらも、皆が少女に視線を注ぐ。
そうしてあと少しで校門にたどりつく、というそこで足をつまづかせる。倒れ込んだ少女に、日和良は思わず駆け寄っていた。
「大丈夫?返事を、返事をして!」
しかし手を伸ばす前に、日和良は体に視線を走らせる。なぜか薄く黒ずんだ顔に、体の所々に見える擦り傷。片方の靴は脱げて、足には血が滲んだハンカチが巻いてあった。が、傷は浅い。
今のところ、噛まれたような傷は見えない。
日和良は意を決して、少女に手を伸ばし、うつ伏せになった体をひっくり返そうとする。
だがその瞬間、伸ばした右手を強い力で捕まれた。引き離そうと一瞬腕を引いたとたん、少女の口が開いた。
「お願い……お願いです」
それは必死の懇願だった。その目には確かな理性があった。掴まれた腕への力が失われていくのを感じて、あわてて日和良は少女を抱える。
「生きてる!生きてるわ!」
日和良が声を挙げると、それまで様子をうかがっていた少女たちも駆け寄ってきた。
「大丈夫。もう、大丈夫だから」
少女をあやし、安心させようとする言葉。
だが日和良の耳が、少女の願いを聞き取った。
「行かないと。早く、行かないと……」
熱病に浮かされたように上気した顔で、彼女は告げた。
「助けて。みんなを……」
太陽が傾きはじめた時間。
誰かが選択を突きつける。