手記5
ミッション系ということで、一応鳳凛でも聖書についての話を聞く時間がある。
私のところは実家が浄土真宗で、キリスト教についてはそんなに興味がなかったのだけど、宗教の授業時間は割と好きだ。うとうとしながら、たまに面白い話があると引き込まれてしまう。
彼の人が、罪人に対して石を投げる人々に「罪のないものだけが石を投げよ」と言い放った話だ。みんなはその言葉に胸を撃たれて、石を投げるものはいなくなったという。
というのは前置きだ。とか自分で云うのはいいんだろうか。
まあ私の話は長いとかまだるっこしいとかよく言われるし、いちいち断っておかないと分かりづらいだろう。
いや、霧生さんの演説なんかを聞いた限りでも、そう思う。できるだけ平易な言葉で、できるだけ人の胸の中にもともとある様な言葉で、人の心の奥底にまで染みいる言葉。そういう風に他人に伝えられる才能は、多分私にはない。寮での一幕では、それを強く思い知らされた。
あの時。あの人が、なんて言っていたか。私には今でもちょっとしか思い出せない。よくあんなにすらすらと、真の通った言葉を言い続けられるのかと、今なら思う。
けれども、それで充分だ。彼女の言葉は私たちの心に確かな光明を示してくれた気がするし、戦うのに必要な勇気と、怒りをくれた。
襲いかかってきた理不尽と、恐怖。
そうした状況に立ち向かうのに必要な力を与えてくれたのだ。
「自分を救えるのは、自分たちだけよ。貴方達は、墓場まで大人に連れて行ってもらうつもり?」
時には引きつけるよう、時には押しつけるよう、時には責め立てるよう、時には持ち上げるように。彼女は私たちに、なにをするべきかを問うた。問い続けた。
そうしていつの間にか、誰かが答えていた。「やろう」
疲れ果てていた体は、もう一度声を挙げて動き出そうとしていた。
だから私は、彼女を尊敬している。他の皆―――あの時寮にいた連中は、大体がそうだろう。
ただ、それでも考えてしまう。私があの時、石を投げたことを。
そうだ、石を投げたんだ。もっとも、私の場合は部屋にあったフクロウの時計だったけど。
あの日。死者がゾンビとなり、学内を徘徊しだしたとき。私たちの住居に襲いかかってきた時。
私たちは、それと戦うことを選んだ。
始まりはガラスの割れる音。同じ寮と言っても、普通の学校に比べて出入りの激しいうちの学校では、学年毎に部屋が区切られていない。基本ランダムに割り振られる。その分お互いに遠慮して、それなりに静かに夜は眠れるから、悪くはないやり方だと思う。
私の部屋は二階で、丁度音がした場所の右斜め上にあった。幸いにも投稿してきていた隣近所の部屋の人たちと何があったのか、とあれこれ話したりしていた中でのことで、みんな心底びっくりしていた。そんな中での突然の破砕音。みんなベッドの上で飛び上がっていた。
窓から下を見ると、何か血の跡や足跡らしきものが校舎の方に続くブロック道に伸びていた。間違いない、と私たちは大慌てで状況を確認しに向かったのだ。
下の階では他の生徒たちも大勢が問題の部屋の前に集まっていた。
クラス委員の雨宮さんがドアを叩いていた。しかし返事がないのにしびれを切らして、彼女はドアノブに手をかけた。ドアはあっさりと開き、ぎいい、と音を立てながらドアが開かれた。
途端に悲鳴が飛びかい、廊下はパニックになった。私もそれに従う形で廊下を押し流された。
本当にやばい、とわかったのは、ロビーについたあたり。開け放たれたドアから、ゾンビがゆっくり出てきた時だった。
皆が逃げ出したせいで私は見えなかったのだが、部屋の中央で見上さんの喉首にかぶりつくゾンビがいたのだという。
調子が悪かったとかでベッドで寝込んでいた二年の見上さんをどうやって嗅ぎつけたのかは知らないが、ゾンビはガラスを割って彼女の部屋へと侵入したのだという。不幸中の幸いだったのは、見上さんが襲われた時に頭を打って、喰われ始めた時にはすでに死んでいたという所だろう。彼女にとっても、私たちにとっても。
部屋を開けた途端、そんな相手が立ち上がってこちらに向かって来たとなれば皆が恐慌状態に陥ったのも頷ける話だ。
私たちは廊下を下がり、玄関に続くロビーへと逃げ出していた。どうすればいいのか分からずに、ただ必死に逃げまどう私たちの反対方向、玄関口からもどんどんと音がしてきて、本当に駄目かと思った。
「開けて!早く!」閉じられていた鍵を開けた向こうにいたのは、それが隣の寮の面子だった。
彼女たちはパニックになっている私たちを見まわした後、間もなく廊下からロビーへと到達してきたそれを見て、状況を理解したらしい。「そっち、反対側へまわって!」霧生さんが、ロビーにあった長テーブルの上のモノを手で振り払い、そのまま倒した。その意図を組んだクリスさんが反対側を持ち上げ、足を担ぐようにして、霧生さんと顔を見合わせた。
ああ、ともおお、ともつかない声を挙げるゾンビ。鼻先部分の皮膚が食われたせいか、真っ赤な人体組織が露出しているグロテスクなそれに向かって、二人は声を合わせて突進して行った。
部屋の壁にゾンビを思いっきり押しつけると、めき、と嫌な音がした。腕が折れた音だった。だが痛みにもだえる様など見せることなく、テーブルの端にいるクリスさんめがけて、必死に首をのばしていた。
だが届かない。ゾンビの拘束に成功していたのだ。それに気が付きゾンビは必死に逃れようとするが、続けてテーブルの端を押さえつけにきた四人がかりの圧力の前には敵わなかった。
「は、はやく。急いで!」霧生さんが、背後で立ち尽くす私たちに、声を挙げた。
一体何を?何を急げというのか?
それを最初に理解したのは、坂上さんからだった。彼女は、死んだ見上さんの一番の友達だったという。
悲鳴を上げ、ただ涙を流していた彼女は、地面に落ちていたコーヒーカップを持ち上げた。
ひっひっと、えづくようにしながら、そのカップを、投げつけた。
カップはゾンビの頭にぶつかると、鈍い音を建てた。
一瞬うめくような声を上げたが、やはりゾンビはそんなの屁でもないとばかりに、手足を動かしていた。クリスさんと霧生さんが歯を一層食いしばっていた。
坂上さんはそれを見て、何かが切れたようだった。顔が憤怒に歪み、指先にまで力がこもる。
みんな黙っていた。坂上さんの迫力に押されていた。
だから今度は、もっと大きいものを思いっきり花瓶を振りかぶると、ゾンビめがけて投擲したのだ。私は思わず目をそむけた。鈍い音がした。恐る恐る見ると、当たった額がへこみ、血がぼたぼたと漏れ出した。
坂上さんは肩を震わせながら、それを見つめる。ざまあみろ、とでも言いたげに。
だがゾンビはまだ死んでいなかった
皆動けなかった。時が止まったように、茫然としていた。
「駄目……長くは、持たないわ」
慌てて近くにいた泉さんが霧生さんの体を支えていた。だがそれがずっと持たないのは、みんな分かっていた。
坂上さんは次に投げつけるものを探していたが、やがて周りで立ち尽くしている皆に気がついたようだった。
「何してるの」
鼻水交じりでの問いかけは、疑問の体をなしていなかった。それは問い詰めるような物言いで、
「で、でも……」でも、何だろう。分からない。多分私でも、それしか言えないということは分かる。
坂上さんは目を見開き息を荒げながら、私たちの方をみた。みんな、とっさに目をそらしたと思う。
「あれが、人間なの。……人間に、見えるの!」
問いただされた子は、首を横に振った。いや、違う。化け物だ。「化け物よ。そうでしょ」
坂上さんは、ゾンビ以外の一切の敵が停止したような部屋の中で、みんなを見渡した。
「やって。……やるのよ!」
一喝した彼女の声に、皆が体をすくませた。だが恐怖におびえながら、恫喝に怯みながら近くに落ちているものを手に取っていた。お互いを窺いあうようにしながら、母親に叱りつけられる子供のように。
やがて一人が、お皿を投げた。いかにもへっぴり腰で投げたお皿は、テーブル部分に当たって、割れることもなく床に落ちた。
坂上さんと、それから皆に責められるような視線が彼女に突き刺さる。その空気に耐えられないように別の一人がコップを投げた。頭に当たり、ゾンビの呻き声が一瞬乱れる。
そうしていつの間にか流れが出来た。
拘束されたゾンビの顔の横には右腕の第一関節から先が此方に伸びていて、下手をすれば掴まれる恐れがあった。
だからみんな、決して近寄ろうとはしなかった。掴まれたくない。それに触りたくもない。
攻撃手段は、自然と遠くからになる。
だからみんな、投げていた。いつの間にか、皆が一斉に。手当たりしだい、何でも。
それでもゾンビは死ななかった。呻き、歯をむき、動こうとしていた。
私も、それに従っていた。熱に浮かされたように、部屋の隅に置いてあったフクロウの時計を手に取ったのだ。
そうして、投げつけた。血だらけの、ゾンビの顔めがけておもいっきり。
的当てゲーム。ゲームだったと思う。みんな、当てることだけを考えた。
みんな興奮していた。死ね。死ね。死ね。みんなそう口走っていた。
「死ね」
私もだった。
ゾンビは、いつの間にか動かなくなっていた。私たちはそれにも気づかず、手当たり次第に投げつけていた。
ようやくクリスさんと霧生さんがテーブルから手を離した。力一杯押しつけすぎて、手のひらは青じんでいた。
皆の息遣いだけが聞こえた。床に死体が転がった。
死体だった。
私たちが殺した、死体だった。
こうしてわたしたち十五人程は、加害者になったのだ。最初にゾンビを片づけた人間として。
イエスキリストの話を思い出す。
あのとき彼はなにを言っていたか。「自分に罪のない人間だけが、石を投げよ」
罪のない人なんていない。そうして誰一人として罪人に石を投げつけるモノはいなくなったという。
でも、違う。それじゃあみんな、どうして最初石を投げようとしたんだ、当たり前みたいに。
今なら分かる気がする。彼の人が言ったことが正しかったから、みんなはやめたんじゃない。
みんな、最初に投げる人になりたくなかったから、投げなかったんだ。最初に石を投げる一人に。
多分。誰か一人でも投げていたら、きっと話は変わっていただろう。
その中に、無思慮な者がいれば。罪の被害にあったものがいれば。罪の被害者を心の底から悼む者がいれば。
みんな、もう一度投げ始めたはずだ。罪人に石を。彼の人も俯き、静かに立ち去っていただろう。
それじゃあ、石を投げた私たちの隣。頭上。はるか遠くに。今でも。
彼の人はいるのだろうか。見守ってくれているのだろうか。
それとも。
―――早乙女切乃