第三話 鐘がために誰がなく(3)
鐘の音が、鳴り響く。学園中で。
それはもちろん、体育館にいる面々のもとにも聞こえてきていた。
「みんな!落ち着いて!落ち着いて!」
杉村明里は、体育館に集まった面々の動揺を抑えるのに必死だった。
「とにかく、今は迂闊に外にでないこと。いいわね!」
舞台上から、明里は声を張り上げる。だがなかなか少女たちのざわめきは収まらない。
必死になだめながら、窓の外に不安な視線を向ける。
橘達はだいじょうぶだろうか。
とはいえ、三人なら。あちらにある体育倉庫に隠れる時間も十分にあるはずだ。
だが、もともと門の扉を、車を使って塞ぐ予定だった。そちらはどうする?そもそも、教師達がいない以上は、車で移動できない。果たして、外にでていいのか?
「ああくそ、無事でいてよ……」
杉村は祈るようにつぶやきながら、感染者達が歩いていくのをみていた。彼らの向かう先に、礼拝堂があると知りながら。
*
ガブリエル寮のロビー。
テーブルはひっくり返り、電灯は砕け、時計や置物は床に散乱していた。
荒れ果てていた部屋は、さしずめ中で小規模な嵐が起こった後のようだ。
だが現実はもっと凄惨だった。
誰もがカーテンで覆われ壁にもたれ掛かっていたそれに視線を向けようとはしない。先ほどまでさんざん暴れ回っていた一体だ。
ガブリエル寮に侵入した一体。それは居眠りしている生徒の一人の部屋に侵入し、その命を奪った。
大慌てで対処したものの、しかし間もなくやられたもう一人が起きだしてきて、戦場はロビーに移った。
そうして皆で死に物狂いになって攻め立て、殺した。頭を砕いて。
室内にいる全員の手は、すでに死に染まっていた。
皆がどこか疲れはてたような声で、地べたに座り込んでいる。
「どうしたらいい?」誰かがつぶやく。
先ほどまでの放送で、ここから一刻も逃げ出せると思ってた。腕がひどくだるい。
自分達が始末した、それらは、時間とともに存在感だけを増していく。
そうしてあの放送だ。脱出を先導すべき教職員達が、やられてしまった。
こうなってしまっては、どうすればいいのか。お手上げだ。
皆が経たり込むのも無理はない。ただただ全体の状況を話されるだけで、学園内のことはそんなにわかってはいないのだから。
状況もほとんどわからない。だが、危険だけは理解していた。隣の寮の人間も、皆が集まっていた。
先生達が、やられた。やられている。助けに行くべきなのか?だが、外は危険だと彼ら自身が言っていた。どうすればいい。どうすべきなんだ?
そんなことをはっきりと言い切れる人間など、どこにいる。
クリスは瞼を閉じて、ただただ呼吸し続ける。
*
しばらく、三人は耳を押さえていた。
びりびりと、鮮烈に鳴り響く鐘から伝わる振動を全身にぶつけられ、絵美はしばし身動きが取れなくなってしまった。
そうしてがんがんと音が頭の中で鳴り響く中で、肩を叩かれているのにやがて気づいた。日和良だ。
日和良が叫んでいる。転校生もだ。だが、何を言っているのかは聞こえない。
しかし窓から向こうを指差しているのを理解して、絵美も大きく頷いた。
「出るぞ」そうだ、ここから一刻も早く脱出しなければ。
腕を回す日和良に従い、絵美は急いで下に降りていった。
距離をとると、音は少しましになった。だが、逃げ出す前に外の様子を見なければ。真っ先に一階に飛び降りた絵美は、窓に飛びついて外を見る。雑木林に遮られて、向こうはよく見えない。だが、今のところ人影はない。
振り向き、日和良と橘に頷く。日和良も階段を飛び降りて、礼拝堂のドアから飛び出ようとする。
しかし、振り向いたそこでちょうど入り口の小階段の真下に、血痕がついているのが見えた。しまった。絵美は総毛立つ。
「だめ!」
同時に、ドアが開かれた。外側から。
そこに立っていたのは紛れもなく、先ほどから二人をつけていた、隻腕の感染者だった。
それを見とめたと同時に、感染者は驚愕の表情を浮かべた日和良に迫った。
右肩に手がのばされる。のしかかるつもりだ。
しかし日和良は咄嗟に後ろに飛びずさる。
感染者の手は空を切り、そのままたたらを踏むような形になり、そのままあっさり床に倒れ込む。腕がないせいで、バランスが取れないのかもしれない。
「ど、どうしたらいいの!?」
日和良は焦りをふくんだ声で、長椅子を挟んで、うつ伏せになった感染者から目を離す。
「こ、これを!」絵美が駆け他その先にあったのは、倉庫から持ってきたバットだ。そうして拾い上げると、それを日和良に渡した。瞬間、感染者が弾かれたように日和良に跳びかかる。
「ひ……」
日和良は首筋にとっさに腕を差し込み、相手の顔を押しのけた。先ほどまでのろのろと歩いていたのと同一人物だと信じられないほどの剣幕で、何度も感染者はかみつこうとしてきた。
「くそ、こいつ。こいつ!」
絵美は立てかけてあった槍をつかみ、相手の頭を突き刺そうとする。だが、日和良ともみ合いになってひどくぶれるためねらいがつけられない。そのため、とっさに足に包丁を突き刺した。
丁度腱のあたりが切れたのだろう。がくん、と片足から一機に崩れる。咄嗟に日和良は相手を蹴りあげ、
その拘束から逃れる。相手の歯を床に散らばらせながら、相手の上半身をのけぞる。
そうして、今度はおもいっきりふりかぶる。体を竜巻みたいにねじらせる。
しかし瞬間、日和良の体に延ばされていた手が、絵美の足に伸びた。血の気が引いた。まだやる気だ。
思いがけない反撃に焦った絵美は、転倒してしまう。尻から落下したが、痛みが足からはしった。激痛。
相手と、眼が合う。まるで百年来の敵に出会ったかのように、その眼は憎悪に燃えているように、その時の絵美には見えた。
「その手ををを、離せえええええ!」
気合いの声を挙げながら、日和良はその力を説き放つ。
鳴り響いたのは、鈍い音。ぐき、ともぼき、とも様々なものが砕け、へし折れ、つぶれた音。半分開かれたドアから守衛は再び押し出され、小階段から転げ落ち、地面にたたきつけられる。
二人とも、へとへとだった。鐘の音は、いつの間にか止んでいた。荒い息使いだけが、堂内に響く。
「あ……あああ」
だが、相手はそれでもなお立ち上がる。が、ちょうどその寸前で再び崩れ落ちた。ぼきり、という音とともに。
そのまま相手は両足を動かすことなく、ただただ上半身をじたばたとさせるのみだ。
とどめを刺すか。日和良は一瞬絵美と視線を交わしてから、扉を押しのけ外に出ようとする。
「タイムアップだ」
橘が日和良の肩を掴み、そこでようやく絵美は感染者の向こうを見ることが出来た。
雑木林からは、すでに新たにニ体の感染者が来ていた。
橘は勢いよく、ドアを閉じた。
*
「まさか、私らが袋の鼠になるなんてね」
誰に聞こえるともなしに言ったであろう言葉だったが、日和良の呟きは三人の間に重い沈黙を落とした。
三人は、あれから堂内にそのまま立てこもることを選んだ。
もちろん、礼拝堂は基本的に煉瓦づくりでできてはいる物の、ドアは木製で、ガラスも多い。立てこもる場所としては不向きだ。
それでも大慌てで棚の中身などを掻き捨て、ドアの前に置いたり窓を塞げば、まだましに思えた。少なくとも耳に注意を向けない限りは。
裏手の部屋や懲罰室に逃げ込むか、という案が出されたが、どちらも逃げ場所が亡くなるということで却下された。その半面、入り込む場所は多いが堂内ならまだ走りまわる余裕もあるし、階上から階段を塞げば、また暫くは持ちこたえられる。
しかしその判断も、今は正しかったのか定かではない。
やがて、窓の外を注意深く探っていた橘が、二人の元へ戻ってきた。
「残念ですが……」静かに告げた。「完全に囲まれたようです」
絵美は視線をその後ろに向ける。
ガラスにいつのまにか血の手形が張り付いた。べとりと。ガラスの向こうに、人だったモノがいた。
凶暴な視線が向けられた瞬間、二人は思わず長椅子の間に伏せる。
集まってきた感染者たちは礼拝堂に押し入ることはせずに、あくまで周辺にたむろっていた。どこか一か所から侵入してきた時には、どこか別の場所から逃げるという選択がとりずらくなっているのを三人は感じていた。
「まったく、ホント信じらんないわね」日和良が泣きごとを漏らす。
「あれが例の……感染病、新種の狂犬病って奴?」
「おそらくは。そんなとこでしょう」
日和良もすでに理解しているようだった。あれは、錯乱している人なんてものじゃない。アレは、もう生き物というものと違う。生き物は、あんな風に自分の苦痛に鈍感にはなれない。
全く別の何かだと。
「このままここに閉じこもっていられそう?」
聞こえるうめき声が、ふえ始めたているのに絵美は気づいた。二人も多分気付いている。橘は視線を外に向けてから、首を振った。
「上からでる方法は?どうかな」絵美も意見を出した。
「たぶん無理ね」窓からみた高さを思い出しながら言った。「骨が折れるわね。そのまんまの意味で」
橘は鼻で笑った。絵美も苦笑する。
「いっそ、鐘の中に隠れるって言うのはどう?」
「酸素が確保できるんなら、悪いアイデアじゃないでしょう」
加えて、鐘の留め具をはずす手段をすぐに見つけることができたら、だろう。とにかく、籠城するには厳しい。でも、笑えるのはいいことだと思う。
だが、そんな声を嗅ぎつけたかのように窓の外から唸り声が聞こえてきた。三人は思わず身を固くする。
今は相手を刺激しないことがなにより大事だ。そのことを思い知らされた三人は必死にかがみ込み、外から見られないようにその身を縮めた。
「助け、こないのかなあ」
「期待はしない方が良いでしょうね」
橘の言葉に、絵美も頷いた。それから自分たちの計画を説明し、本来なら体育倉庫に立てこもるはずだったことを話した。そして現在それがとん挫してしまったことを。
それから日和良は暫く顔を伏せてから、橘に訝しげな顔を向けた。
「……ねえ、なんで橘さんはわざわざ来てくれたの?」
「作戦を考えたのは、自分ですから」
橘はかすれた声でそう答えた。
「それだけ?本当に?わざわざ危険を冒して?」
「自分で決めたことですから」そう言って肩をすくめる。
どうやら、やはり橘と日和良の間に特別な関係はなかったらしい。もしかしたら、と思っていたのだが、つまりは本当に彼女は赤の他人を助けるためにここまで来てくれたということだ。
とんだお人好しだ。
「どっちにしても、不測の事態が起こったときニどうするかまで、シミュレートしていなかった自分の問題ですよ」
「ううん、でも、橘さんはすごいよ」絵美は、精一杯の力でほほえむ。「ありがとね」
「そうそう。まあ、此処までやってくれたらもう十分よ。あなたは、いざとなったら一人でも逃げてくれたらいい。絵美は私が担いでいくわ」
「待って!そんなの……大丈夫だよ。ちょっと捻挫したくらい」
日和良が青じんでいる場所をつつくと、とたんに絵美は顔をゆがめた。
「強がりすぎよ」
先ほどの転倒。その時に、自分は足をひねっていた。転び方が悪かったのだ。
いつもそうだった。仲間内では、いつも自分が運動面で足を引っ張る。絵美は自分の個性を呪った。
「でも、ひよちゃんまで、なんて……」
「あんた、誰のためにここまで来てくれたの?ていうか、友達でしょ。そこらへんは、いいっこなし」
そう言って、日和良は二人に快活な笑顔を見せる。
「と、いうわけだから。友達じゃない、んでしょ。私と、アナタは。適当に隙をみて、行ってくれたらいいわ」
互いに面識のない少女。橘夕。なぜだか知らないけど、わざわざこんなところにまで来てくれた。どれだけ感謝すればいいのか、絵美には見当もつかない。でも、ここまでだ。彼女までこれ以上危険にさらすのは、確かにお門違いだろう。
「……気に食わないな」だが、当の本人だけはそう思わなかったらしい。
「え?」
「そういう安っぽい友情物語は、気に食わないと言っているんですよ」
言い放たれた理屈になっていない、むき出しの感情に一瞬日和良は面喰う。
「じゃあ、お願いよ。私たちのじゃまをしないで」
「断る。頼みを聞く筋合いもない。……あなた達は勘違いをしている」
先ほどまでよりも、室内の温度が下がる様な冷たい視線を、橘は二人に向けた。
「もう一度言います。私は、自分がそうすべきだと思ったことを信じているだけです。他人の指図は受けないし、聞きたくもない頼みを聞くつもりもない」
軽蔑するかのような目で、冷たく言い放つ。
けれども、そんな姿に一層絵美は橘への信頼を覚える。
あくまで自分が選んだことを強調するその姿は、自分の責任をあくまで自分で引き受けるという覚悟にほかならない。
それは、昨日見た人形じみた印象とはそれは別の姿だった。冷たい雰囲気の中にも、どこか不器用にでもひたむきに自体に取り組もうとしている。絵美はそれを少し信頼することにした。
「まったく……好きにしなさい」
そう言ってため息をつく日和良の顔は、少しだけうれしそうだった。
状況は良くなっていない。けれども、心の中の何かがスッとしたのは確かだった。
*
「てか十中八九、その感染者が原因じゃないの。死亡フラグがビンビンね……」
職員棟で一体何があったのか。そんな日和良の呟きに思い当たる節があった絵美は、自分たちが見たことを話した。
「ていうか、あの理事長も……どうかしてるわね」
「うん……」
それ以外に感想などないのだろう。彼女はそれから天を仰いで、ため息をついた。
みんなそうだ。絵美だって、理事長の行為には言葉もない。
「でも」
不意に自分の口から洩れた言葉に、絵美は驚く。でも?何が言いたいんだ、私は。
「私は、もっと……他の先生達がそれに従ってる方が、怖かった」
そう。そうだ。自然とこぼれおちた言葉に、絵美は腑に落ちた。
自分の中にあったもやもや。吐き出したい、何かの正体に。
「みんな、分かってたと思うの。間違っているはずだって。そうすべきじゃないんじゃないかって。目とか態度で分かったもん。不本意なのが。それでも、従った。理事長が言う、人道的な対応とかに」
最初の言葉がきっかけだった。そこからは、流れるように口が言葉を紡いでいた。
絵美の中でよどんでいた、様々な思いをのせて。
「……人の命がかかっているとか、皆が危険にさらされているとか。いろんなものが天秤に掛けられたはずなのに。それでも、どうしてそっちを選んだんだろう。どうして、誰も違うって言えなかったんだろう。私はそれが、……怖いよ」
三人の間に、沈黙が落ちる。
日和良はしばらく明後日の方向を見ていた。橘は聞こえないような体で、窓の外の様子を窺っている。
そうして間もなく、日和良はそっと言葉をかきいだくように吐き出し始めた。
「……でもたぶん、それって、いつも見てきた私たちの先生の姿と同じだと思う」
それは絵美にも予想外の言葉だった。
*
橘は、面白そうに二人の会話を聞いている。
「だって、そうは思わない?結局みんなが何をしたか、何をしなかったかを考えたら、話は単純じゃない。皆がしなかったのは、自分で決めること。つまり、責任をとるようなことをしたがらなかったってことじゃない?大人って、みんな責任をとりたがらないものでしょう」
責任。彼女の口から発せられた、自然でありながら重い言葉に、絵美は一瞬困惑する。
「この学園だって、そうでしょう。子供のすることに責任がとれないって、何をしでかすかわからない子供を、人の目にさらしたくないって。そう言う風に、臭いものに蓋をするのが、大人じゃない」
日和良は、遠い目を見せた。
「……わかってるでしょ。私たちには。良心のこと。子供のためだとか、将来のためだとか言ってるけど、本当は自分達の手を放れて、勝手なことをされるのが怖いだけなんだって。だから、ひもをつけて檻に入れて、何もしないように管理しようとする」
両親の話をされて、絵美の胸に痛むものがあった。厳しいけれど、愛情の深い両親。
そう思っていた時期もあった。でも、それが自分たちの体面を考えただけのことなんじゃないかって疑い始めたのはいつからだったか。
「先生達だってそうでしょ。絶対に体罰なんてしないし、後でおかしないちゃもんをつけられたり、不公平が生まれないようにあんまり生徒と触れ合ったりしなかった。規律や決まり事を作って、距離を置いていた。でもそれって、自分たちもまた何か子供に対しての責任を放棄しているだけじゃない。責任から逃げようとしているだけでしょ」
絵美は思い出す。悲鳴が聞こえてきた時のこと。逃げまどう人々。死んでも、歩き回る何か。そうして、怯えきった顔の大人たち。
「私たちが教え込まれていることはね。結局、何かをしろってことじゃない。何かをするなってことだけなのよ。そして、同じことを先生達も身につけて行ってしまっていた」
何をどうすればいいのか。私たちには何もわからなかった。ただただみんな逃げまどい不安におびえ、足を震わせ体を寄せ合うだけだった。
「だから、みんな、怖いのよ。何かを押しつけられたり、背負うことが。だから、そうやって……結局、何もしない。先送りする。選択しないことを、選択する。
それが……私たちの……周りにいた、大人なんだ」
彼女にしかない絶望と、誰もが抱く失望。見えない闇の奥、こんがらがった思考の糸。そうしたものが混
ぜ合わされた、日和良にしか吐き出せない言葉。
「……まあ、何も見ていない私が全部言うのもなんか違う気がするけどね。ごめん、やっぱ話し半分にしておいて」
そう言って後ろ頭をかく。たまに真面目な顔で真面目な話をすると、彼女はよくこういう顔をする。やはり彼女も、何かを恐れているのかもしれない。
「でも、みんな無事だといいけれど」
そんな風にしめくくると、日和良は笑った。「絵美は優しいね」
そうだろうか。血に濡れた床に視線を落としながら、絵美は苦笑した。
*
そんな沈黙も、長くは続かなかった。
「……ねえ。提案があるんだけど」日和良が、声をひそめながら言った・
「何をする気ですか?」橘はかすれ気味の声で、そう答えた。
「助けを呼びましょう―――あの鐘を、もう一度鳴らして」
堂内に、沈黙が一瞬満ちた。
「馬鹿な!自殺行為だ」
予想外の言葉に、橘の言葉も荒げられた。
突然の提案。面喰ったのは、橘だけではない。絵美も同じだった。
「いいえ、本気よ。今問題なのは、私たちが此処に取り残されていることを皆が知らないことよ。絵美を抱えては、私たちだけじゃあ逃げれないのに。だったら、たとえ感染者たちが侵入してくるとしても、助けは呼ばないといけない。どうせ時間の問題よ。やるんなら、こっちからやったほうがいいわ」
彼女は一体何を言っているのか。絵美が混乱する一方で、橘は冷静に反論を加える。
「なんとか今こうして隠れているから連中も入っては来ていませんが、今度刺激したらどうなるか分かったもんじゃない。それに奴らに堂内にこられたら……おしまいだ」
「そうよ、だから助けを呼ぶのよ。音を出して、ね」
「お陀仏して、奴らの仲間になってでも他の皆を呼び寄せたいと?いかれてる。そもそも、助けなんてきませんよ。どうせ」
「違うわ。助けは、来る。今は、皆動けないだけよ」
そうだろうか。絵美にもそれは疑問だった。最初に東校舎に言った時に、みんなから向けられた視線。彼女たちに、自分の命を預けていいものなのか、日和良見たいには思えなかった。
「違わない。貴方は、美しい自己犠牲とやらをやりたいだけだ」
橘は力を込めて、日和良の鼻先に人差し指を突き付ける。
「どうせ、他の感染者たちも引きつけようとか、皆の安全を確保しようとか、そんな思惑もあるんじゃないんですか?……私たちを、そんなきれいごとに巻き込まないでください。それこそ、貴方だって理事長と変わらない」
私たち、の部分を強調して橘は告げる。絵美も、不安げな視線を向ける。
「……ごめん。二人を危険にさらすのは、違うわよね」
流石にその言葉は答えたのか、日和良は再び顔を俯けしゃがみこんだ。
それを見てほっとしたのか、
「大体、私たち二人しか此処まで来てないんですよ。それで一体どうやって、皆が助けに来てくれるなんて信じられるんです。大体の人間は、煽られる葉っぱみたいにふらふらしてるだけだ」
そう吐き捨てる。
「でも、私は全ての人がそうだとは思わない。皆、どこかで持っているはずよ。立ち向かう―――勇気ってやつを」
はっきりと切り捨てるその言葉に、橘は呆気にとられたようだ。
「人間は、いつまでもおびえ続けていられるほどに弱いものじゃない。
きっと待っているわ。自分が、立ち向かえるその時を。
どこかで、誰かが、火をつけたら。何かをきっかけにして、眼を覚ましたら。皆、分かってくれるはずよ。自分が、何をすべきなのか。私は、そう信じてる」
真っ直ぐにそう見据えながら、言い放つ日和良。絵美は思わず笑ってしまう。
そうだ。これが彼女だった。
絶望を飲み込み、後悔を背負い、敵意にさらされながら。それでもあきらめず、へこたれず、そして誰かを信じられる。
そんな彼女だからこそ、自分はこれまで一緒に来たのだ。彼女の向かう先に何があるのか、それが知りたかった。
だが、それとこれとは橘にとっては別の話だ。どんな反応をするのか、絵美は様子を窺う。
彼女の瞳を、橘は目を眇めながら見つめる。
「……あなたは、」
彼女の言葉は耳障りな音によって中断させられる。
暴力的に、窓に何かが叩きつけられる音。絵美は唾を飲み込みながら、その音の場所に目を向ける。
万美だった。首筋からもはや白い骨を露出させながら、棚の隙間、窓の向こうから此方を睨みつけていた。いや、窓に張り付いているといった方がいい。右の頬に流れる血をまるでなすりつけているように、窓にべったりと張り付いていた。
いや、違う。あれは、むりやり押し込まれている。
そう理解した瞬間、ぴしりと窓に亀裂が走った。
思わず、三人は腰を浮かした。
不意に、うめき声が大きくなる。西側。続いて北側。そして入り口側。
四方八方から聞こえてきた。逃げ場はない。まるで獲物
恐怖から、思わず日和良は耳をふさぐ。
恐怖心が、自分の心を支配していた。怖い。誰か助けて。
しかし、その手を
思わずステンドグラスを仰ぎ見た。円形の小さな、しかし確かな神の光。
神様、助けて。
祈りの答えは、すぐ隣から聞こえてきた。ガラスの割れる音ともに。
堰を切ったように、反対側のガラスも破られてきた。感染者たちが、教会の中になだれ込む。
「……きやがった」
窓が割れる。ドアが破られる。
絵美は思い知る。
死者たちに、生者に与える慈悲などないということを。