第三話 鐘がために誰がなく(1)
人物紹介
橘夕:冷静沈着な転校生。ゾンビ化した人間にも動じず、暴力をふるうことも厭わない。
杉村明里:世話焼きの生徒会副会長。パニックになった皆をまとめる。
鳴海聡子:科学者タイプの変人。杉村の友人。
木中絵美:おっとり小動物系少女。小林日和良の友人。
浜型路子:長身巨体の寡黙な少女。何を考えているのかわからないが、危機的状態にあって、杉村と橘には協力的。
小林日和良:脱走系勝ち気少女。礼拝堂に捕らえられている。
哀川勇太朗:教師。小心者で皮肉屋だが、悪運と観察力に秀でている。
ミカエル寮の一階。その談話室に集まった一同は、異様な雰囲気にのまれていた。
皆が互いの体をつかむか、調度品に寄りかかるようにして自分の身をこわばせている。
口元は引き締められ、その眼は部屋の中央に座る少女に注がれていた。
「……それで、私はずっと見ていたのずっと」
少女はただ一人、話をしていた。
彼女自身―――松浪曜子が、体験した、惨劇の話を。
*
「何をしているのか、私の位置からは見えなかった。でも、ゆっくりと広場のブロックに染みが広がってった。
守衛のおじさんは、陸に上がった金魚みたいに口をパクパクさせていた。右手は首にまわされた手をはがそうと、左手は水の中を掻くように宙を切ってた。
一際大きな声が上がったの。首筋にかぶりついていた佐志場先生が、顔を挙げたわ。首筋の皮と、筋みたいなものを口にしながら。それがぶちぶちって、まるでゴム紐みたいに伸びて……」
淡々と話す曜子。その姿を、クリスティーナ・稲葉は複雑な表情でそれを見つめていた。
曜子が語る惨劇の時間。
クリスは教務棟の一階にいた。来る新学期の予習のために、教科書を片手に幾つかの質問をしにいっていたのだ。
悲鳴が聞こえてきたのは、その帰りだった。逃げまどう少女たちを見やりながらも、その原因を探るべく近づいたのは、生来の無謀な好奇心のせいというほかない。
その中で、放心状態の少女に気付けたのは、僥倖だったと言えるだろう。
「まっつん!」
赤い絨毯のように広がる血の海と、その中に横たわる幾人もの体。
声をあげた瞬間、凶行の立役者らしい立木がクリスにその視線を転じた。凶暴な光を宿した視線を。
攻撃的でありながら、虚無的にも思えるそのまなざしに、クリスは体が震えるのを感じた。
だがそんな惨状にも我を忘れずにいられたのは、その中に守るべき対象である曜子がいたからだ。
彼女を守らなければならないという義務感が、クリスを最善の方法へ突き動かした。
それからは糸が切れた人形のようになった曜子の手を取り、自分たちの寮まで走って逃げてきた。近くにあった建物の入口はすでに閉められかけていたのと、出来るだけ彼女が落ち着ける場所へ連れていくべきだという判断から、クリスは建物を外回りに、寮まで戻ってきていた。
「……お腹をかまれた人はね、管みたいなものが出ていた。きれいだった。色がね、ピンク色で、真っ赤な血があふれてくる中で、綺麗で、そう、まるで血のプールで洗ったばかりみたいで」
茫然自失の状態の曜子に、寮の皆は驚いていた。最初こそ困惑でしかなかった少女たちも、まもなく聞こえてきた放送によって混乱に至り、曜子からの詳しい話を聞くに従って、今は恐怖が浮んでいた。
彼女たちもようやく事態を把握してきたらしい。
話を聞く彼女らの顔に、最初会った余裕はなかった。
「私は、見ているだけだったの。警備の人たちが死んでいくのも、食べられちゃうのも……
食べ、た……うわああああああああああ!!!」
話を続けられたのは、そこまでだった。そこでそれまでため込んでいた感情の渦が一気に吐き出された。
髪の毛をかき乱しながら、眼の前に何かがいるかのように彼女は体を振り乱れる。
クリスはそんな彼女を必死に抱きしめながら、背中をさすってやる。
「大丈夫。大丈夫やから」
震える体を抑え込み、やがて収まるのを待ってから、クリスは真剣な表情で一同に告げる。
「とりあえず、私らが話せることはそれだけ。……言っとくけど、本当のことやで。全部」
放送を聞いた時は半信半疑だった皆も松浪に、圧倒されていた。
だがその中で一人。ソファーに体を預けていた少女が立ち上がり、松浪に歩み寄る。
「ーーーどうもありがとう。松浪さん。つらかったわね」
そう言って彼女の顔に手を伸ばすのは、霧生詠だった。
*
霧生はそっと松浪のぐじゃぐじゃになった顔に手を伸ばすと、手にしたハンカチでその涙と鼻水を拭き取ってやる。
その光景を、皆が戸惑いの目でに見つめていた。霧生詠のその姿が、まるで子供を寝かしつける母のように慈愛を感じさせるものだったからだ。
「これでみんな、状況は理解したわね」
しかし喉から放たれたのは、先ほどの声とは打って変わった、つめたい声音だった。
「―――私たちは、これまでにない危険な状況にいるということを」
冷酷な事実を、彼女は明確にした。
寮の中で戸惑っている学生達を、纏め上げたのは意外なことにも霧生だった。
いち早く松浪とクリスの尋常でない様子を理解し、気だるい朝の時間を満喫していた寮生たちをロビーに呼び集めた。そうして半信半疑だった空気を引き締めるのに一役を買ってくれたのだ。
「ここまで彼女の話を聞いて、まだ信じられないという人はいる?いたら手を挙げて頂戴」
最年長とはいえ、普段の彼女の性格を見れば、協調性とは程遠いという印象をクリス自身は抱いていた。しかし眼の前で話を進めて行くのは、間違いなく頼れる最年長者だった。
「よろしい。とにかく、相手は立木先生だとか、知っている人だということは頭の片隅に置いた方がいいわね。何が来ても、決して寮の中には招き入れないこと。この方針に何か問題は?」
既に戸締り等のチェックは済ませてあった。後は玄関口だけだ。
「とにかく、私たちはこの建物の……」
ガラスが割れる音に、霧生の声は途切れさせられた。それから聞こえてきた短い悲鳴に、誰もが言葉を失った。
「何。今の音……?」
皆が顔を見合わせる中で、霧生は壁の向こうを睨みつけていた。その時に呟いた言葉を、クリスだけは聞いていた。
「ばか……」
音の発信源。それは隣の寮の方からだった。
*
学園は、死で包囲されていた。
山奥にひっそりと建てられた隔離施設のような学園。人の手が届かないそこは、人の助けが揚揚に入らない場所でもあった。
今そこは、人に襲いかかる食人鬼達が跋扈する場所となっていた。
むろん、逃げ出すための隙間はある。だが、迂闊に相手に出だしをすることができない現状だ。
もちろん、学園内に危険人物が現れたときというのマニュアルはあった。それに対応する方針も。
しかし未知の感染病にかかった既知の人間が、突然園内で殺戮を始めるなどという事態は常に想定外だ。
その危険人物が複数であり、彼らがまともな知性を持っていないとしたら。
それは最悪の事態に限りなく近い状況だろう。
しかもその中で、一人孤立した生徒がいたとしたら。
「小林さんは、間違いなく危険でしょうね」
眼の前で披露された橘夕の推論は、驚くべきものだった。
杉村明里は生唾を飲み込みながら、彼女の話を総合する。
感染者は、音に反応して動く。そしてもうすぐ鐘が鳴るから、礼拝堂で一同が会する。しかしその建物の中には、一人取り残された生徒がいる。彼女が危ない。
しかし、と何か明里は違和感を感じていた。喉の奥に小骨が刺さっているような、違和感。
「待つだわさ。その論法には間違いがある」
その疑問に答えたのは、鳴海聡子だった。
「たとえ音がしたとしても、別の音をよそでならしさえすればどうにかなる問題じゃないのさ、そんなのは。確かに一分間も鐘が鳴っていれば、連中も殆どが向こうに集まりだすのはわかるけど……」
そうだ、確かに。音に反応する、だから鐘が鳴る礼拝堂は危険だ、と断言してしまうのは間違いだ。
そう考えたところで、反論に同意する自分がかすかに喜んでいることにも明里は気づいていた。
「そうよ、先生が言っていたでしょう。決して外に出るなって。それに、あいつ等が礼拝堂の中に行くとも限らないでしょ。絶対そうだって」
「小林さんは、一人ぼっちで怖いかもしれないけど……今は私たちより安全だと思う」
別の女生徒達も、そう口添えしてきた。
そうだ。私たちは、そうあってほしいんだ。明里は思わず自分の足元に視線を落とした。
なぜならば、小林を危険だと認めることは、その先ーーー自分たちがどうすべきか、を考えることにもつながってしまうからだ。
だが橘はそんなこちらの葛藤などお構いなしに、容赦なく自身の意見を続ける。
「そうですね。紛らわしい言い方をしたのは謝ります。けど学園中に響くような音で、なおかつ長いスパン注意をひきつけられるのは、あれくらいのものでしょう。あちらの方へ向かっている何人かは、下手をすれば礼拝堂の中に入るかもしれない」
反論は想定していたのだろう。かもしれない、を強調する橘。
「しかしそもそも、普段の生活で、果たして殺人鬼どもがなにをしでかすか、自分たちを見逃してくれるかどうかなんていうリスクを天秤にかけたことはありますか?」
それを言われて、聡子も黙り込むしかない。
問題は危険の有無なのだ。これだけ状況が不透明な以上は、「安全」「危険」の二分法で、事態を簡単に断定することは出来ない。
もしもの話だ。と、明里も考えてしまう。
もしも連中があの建物の中に獲物がいると知ったなら。ドアは木製で、半分外れかかったようなぼろ。侵入を阻むには心もとない。蝶番だってさびが浮いていて、ドアを開けるたびにギシギシとなる。そうそう開けることは難しくないだろう。いや、だが、それでもわざわざ建物の奥にまで入り込んで地下に下りてくるということは、ありうるだろうか。あの建物を家捜しするほどの知恵が連中にあるのか?
「ところであそこには今、小林さん以外は誰もいないんですよね?」不意に橘が軽いトーンで確認してきた。
「うん。多分今は」木中絵美が答える。
「つまり、小林さんは状況を知らないまま一人取り残されてるんですよね」
呟くようにそう言い、ふと反論した少女の一人に視線を向けた。
「あなたなら、どうしますか」
「どうって……」
「そんな悩む必要はないんです。責めてるわけでも。思いついたまま、答えてください」
「そりゃ、状況も何もわからないのに誰か来たんなら……ええと」
そこではっとしたような顔になる。
「……大声をあげて、何があったのか、尋ねようとする」
橘が頷く。彼女が言わんとしていることが理解できて、皆がざわめく。
そうだ。普通ならそうするはずだ。
何かが起こっている、というのは分かっていても、危害を加える人間がいる、というところにまで彼女の想像が及ぶだろうか。否。積極的に情報を得るための行動に出るはずだ。
それが自ら死を招くことになるとは、知らずに。
「さて、もう一度聞きますが」夕のそれは、宣告だった。「小林さんが安全だといい張れる人は?」
*
「やっぱり私、ひよちゃんの所に行ってきます!」駆け出そうとした絵美の肩を、明里は反射的に掴む。
「だめよ!先生の指示に従って、それに……あなた一人の勝手を許すわけにはいかないわ」
「そんなの、関係ないでしょう!」
肩に掛けられた腕をはねのけようと木中も掴み、二人にらみ合う形になる。
木中といえば、普段は三人組の中でも抑え役の少女だ。その彼女の激しい一面を見て、明里も動揺する。だが、迂闊に事を起こせばさらなる惨事につながる。明里にはそんな予感があった。
現実にあの病気……あの状態の人間と組み合った自分ならわかる。連中は、本当に危険だ。あの凶暴性から発される力は、組みつく人間を容易に死に至らしめる。自分が助かったのは、あくまで幸運でしかないということは、彼女自身強く感じていた。
だからこそ。だからこそ、掴んだ肩を握る力を緩める気はなかった。
「……二人とも、落ち着いてください。それよりも、もっといい解決案があります」
二人の視線がぶつかり合う中に、包丁の切っ先が差し込まれる。
「どうせなら、連中を全員で片づけてしまえばいい。今なら私たちは、数で連中より有利です。そうすれば、犠牲は最低限で済む」くるりと刃先を回転させながら、橘は平然とそう言ってのけた。
おどろくべき提案だろう。それが一介の女学生から出された提案としては。しかしもっとおどろくべきは、それを聞いて納得してしまった自分がいることだった。
生身のままあの暴れ来る力の奔流を浴びた身としては、その意見は果てしなく現実味を伴って感じられたからだ。
だが。それはあくまで自分にとっての話なのだ。
周りの少女たちが動揺しているのは、火を見るより明らかだった。その顔に恐怖の色を浮かべていない者はいない。彼女らに、はたして武器を持たせたとしても、何ができるだろうか。
「だめよ。彼らは一応、人間なのよ。それに、こっちは女がほとんどで……とにかく、それは無理よ」
その選択肢は、選べない。たとえ正当防衛だとしても、選ぶべきではない。
明里の良心、モラル、常識、理性……そうした諸々が統合されて、そう決断を下した。
そう否定した明里を橘はしばらく無表情で見つめていたが、「わかりました」とだけいって槍を肩にひっかけた。彼女もうすうす感づいてはいたらしい。この少女たちに戦闘能力などないということに。
数で勝っていても、精神的に勝てる気がしない。それは二人にとっては同意事項だった。
「だとしたら、別の案がやはり有効になりますね」
だしぬけに、そんな言葉が夕の口から飛び出してきた。明里は思わずそれに飛びつく。
「別の案?」
「誰も殺さず、誰も傷つかず。それが今求められている選択肢でしょう?」
「え、ええ。そうよ。あるの?そんな都合のいい案が」
「ひよちゃんは……助かるんですか?」
橘は一同の視線を真っ向から受け止めて、頷いた。
「あります。私たちがここに閉じ込められているっていうのならーーーそれを利用するだけです」
*
非常口に立って、木中絵美は大きく深呼吸をした。恐怖と緊張で、体が強張っているのだ。
それを見とめた鳴海が、背中をばしばしと叩いてきた。
「それじゃあ、気をつけてね。小林のばかにも、よろしくだわさ」固い笑顔でそう言われて、絵美もぎこちない笑顔を返す。そうだ、こんなところで立ち止まってはいけない。槍を握る手に力を込める。
私は一人じゃないのだから。そう思いながら、隣に立つ二人の少女を見つめる。
職員室に向かうメンバーとしては、自分の他には橘夕と、178cmの長身を誇る浜形路子が同行してくれることとなった。二人とも自ら志願してくれたのだ。
橘夕―――今日初めて会話することになって転入生のアイデア。突拍子もないように思えるそれは、ある意味一番理にかなっているということで、杉村や鳴海、他の学生達も納得してくれた。
無論、不満がある者もいただろう。だが全力で却下する程のものではないのだろう。大半は黙って首肯してくれた。
なんせこの作戦においてもっとも危険なのは、この三人なのだから。
日和良を助け出し、全員の無事を確保する。そのための第一段階として、三人は職員室まで向かわなければならない。
腕時計に目をやる。そろそろ時間だ。
「おーい!こっちよ!」「こっちにきなさい!」
来た。耳に飛び込んできたのは、予想通りの音。校舎のちょうど反対側で、杉村他の学生が、音を出して連中の注意を引きつけようとしてくれているのだ。
広場にいる連中の反応は存外素早く、そちらに動き出してくれた。
「……とにかく、連中と取っ組み合ったらアウトだわさ。正直、音だけでどうにかごまかせる相手だとも思えないし、気をつけて」
鳴海に肩を叩かれて、こくこくと何度も絵美は頷いた。大丈夫だ。頑張れ、私。
そんな絵美にはお構いなく、ポーカーフェイスを保っている二人は、窓から隠していた体を起こした。
「行きますよ」橘が非常口のドアを開けた。
*
非常口から出て、三人は会談を駆け下りた。
作戦通り、あたりに人気はない。少しだけ胸の重しがとれたような感覚を覚えながら、絵美は二人の間を小走りに走る。
遠周りではあるが、渡り廊下を大きく迂回するようにして、一度体育倉庫へ向かう。これは、まず逃げ遅れて隠れた人間がいないかどうかを確認するためだ。
「誰か。誰か、いないか!」
周囲に感染者の気配がないのを確認してから、声を上げた。
しかし反応がないこと確認すると、三人はすぐさまそこを後にする。
移動にはそれなりの注意を払った。連中には見つからないように、出来るだけ此方を向いていないタイミングや見えない角度からの移動を心がけて、刺激することを避けた。
その結果、三人は感染者と遭遇することなく無事教務棟にまでたどり着くことが出来た。
それから非常階段まで歩く。浮き足立っているといっても、さすがに大人だ。こちらに襲いかかってくる感染者の姿は見えただろうし、一階はすでに封鎖されているだろう。そう判断すれば、一番入りやすいのはここだった。斜めに向かい合う形になっているため
非常階段を駆け上がり、絵美は大急ぎで二階のドアを叩こうとして、聞こえてきたうめき声にぎょっとする。
「た、橘さん!」
絵美は上ずった声を挙げてしまう。
階段の上、高所に、感染者の一体が陣取っていた。
「……そううまくはいかないか」
階段には果たして、警備員の一人がいた。ちょうど階段の三階のあたりにいるのをみれば、どうやら階段を上る知能はあるらしい。近くで見るその威容に絵美は息をのんだ。
片腕は肘のあたり千切れかけて、腕の内部が露出している。おそらく噛み千切られたのだろう、いつとれてもおかしくないようにぶらぶらと揺れている。だが恐ろしいのはその顔だ。上唇がはぎ取られ、真っ赤な歯茎が常時のぞいている。そうして滴る血を見せつけるようにして、此方に向かってくる。
「先生!誰か!あけて、あけてください」
焦る思いと共にドアを必死に叩く。だが、反応はない。迷っているのか、それとも誰もいないのか。いずれにせよ、感染者が迫ってきているのは確かだった。もう少しで、相手の間合いに入る。
いっそ下がるべきか。絵美は逡巡する。
体重、体格共に此方よりはるかに大きい。そのうえで高さを伴ってのしかかられれば。そこまでの想像で、絵美は身震いしそうになる。
悪い予想は当たった。ほとんど階段から踏み外すような形で、相手は飛びかかってきた。
「失礼!」
橘が此方の体を抱きよせるようにして、相手との衝突を交わさせてくれた。感染者はたたらを踏むようにして、階段の手すりにその顎をしたたか打ちつける。手すりに抱きつく形になった。
「浜形さん!」
「……!」
言われるが早いか、下段にいた浜形が階段を駆け上がり、感染者の体を蹴りあげた。そのままずるずると相手は重心を手すりの向こうに移動させる。
やったか。
その一瞬、感染者は絵美と眼があった。そうして突如信じられない勢いで手を伸ばし、此方の袖口を掴んできた。
*
まずい。一瞬で絵美の頭から血の気が失せた。このままだと、一緒に引きずり降とされる。
引き寄せられる感覚。しかし抱きとめていた橘が、腕を振り上げたかと思うと、その感覚が消え失せた。ボトリ、と後には絵美をつかんでいる腕だけが残り、踏み段に落ちた、。
感染者の腕を叩ッ斬り、自らの命を救ったそれが何なのか、絵美は見とめる。
「……護身用です」ぶっきらぼうに、橘は呟く。
信じられない大きさの湾曲したそのナイフ。それを呆気にとられたように絵美と浜形は見つめる。
橘はそそくさとナイフの血を落として、太ももにつけてあった鞘におさめた。こんなものを持ち歩いているこの娘は、いったい何者なのか?
「おい。大丈夫か!」ようやく、ドアの向こうから声が聞こえてきた。
「早く、あけてください!早く!」絵美も思わずドアに拳を叩きつける。一瞬湧きあがった疑念は即座に霧散した。とにかく、安全な場所に行きたかった。
「ま、待ってろよ。大丈夫だ!」
どこか声を絞ったような音がドアの向こうから発せられ、まもなく鍵が開けられる音がした。
ほっと息をつくと同時に、絵美は自分が言うべきことを思い出した。「ありがとう、橘さん」
ぎこちなく笑う彼女に、どういたしまして、と答える橘の声は、何処か恥ずかしそうだった。
*
「あなた達は、なんてことをしているんですか!?」
職員室に入って最初に掛けられた言葉は、叱責の言葉だった。
「放送が聞こえなかったんですか!外は危険だと、決して校舎から出ないようにと言ったでしょう!どういうつもりですか!」
室内は騒然としていた。
とにかく、職員室まで来い。
建物の中に大慌てで滑り込んだ三人は、へたり込む間もなく教師の二人にそう声をかけられた。
廊下には結構な数の学生が逃げ込んでいた。すでに一階に逃げ込んでいた生徒は二階に避難していたらしい。幾つかの教室が開けられて、皆体を寄せ合い震えていた。何をしに来たのか。皆は無事なのか。そんな疑問をはらんだ視線を受けながら、三階まで上がる。
そうして開け放たれたドアから睨みつける理事長の下に、三人ははせ参じたのだった。
「そうですね。すいせん。もっとも、きちんと責任を持って監督してくれる人間がいない割には、よくやった方だと思います」
そう言って、橘はぎろりと室内を見渡す。皆視線を逸らした。
「私が言いたいのは、そんなことじゃ……」
「くだらない話は、やめておきましょう。時間がないんです」
それでもなお噛みつこうとする理事長を、橘はぴしゃりと跳ねのけた。大人顔負けの度胸とは、よくいったものだった。
橘は教職員達を見まわしながら、尋ねる。
「誰か怪我は?」
「していない」柿谷の顔が、訝しげになる。「それが何か?」
「いえ、連中に噛まれると、同じ症状を発症する可能性があるみたいです」
「やはり、そう思うか。そうじゃないかと……まあ、大丈夫だよ、こっちは」
一瞬教員たちが意味ありげな目配せをしたのを不審に思ったが、橘はそれで納得していた。
「わかりました」
絵美は一瞬あちらの校舎で実際に感染者が出たことを伝えるべきか逡巡したが、浜形の強い視線が突き刺さっているのを感じて止めた。
生徒に死者が出たという話は、迂闊にしない方がいい。それが来る前に皆で為された合意だったからだ。
「警察のほうに連絡は」
「いれてある。しかし、来るまではまだかかる。だから、それまではとにかく我慢をして……」
絵美は禿頭の教頭に語りかけた。
「礼拝堂に一人取り残されてるんです」
それから、小林日和良がどういった経緯で礼拝堂に取り残される様になったのかを伝えた。
途中で生活指導の教師を睨みつけると、彼もその事実を認めた。
「ええ。まあ。それは、あの時が一番適切な処置でした」
教頭は神妙な顔で話を聞いていたが、助けを求めるように理事長を見つめた。
「そう。それなら安全でしょう。彼らは今のところ、あそこまで向かっていないわ。人がいる建物の周りをうろうろしているだけだもの」
「先生達は、あの人たちがただ錯乱している、と思っているんですか?本当に?」
絵美の口から思わずそんな疑問が飛び出していた。
しかしそんな問いかけにも、理事長は鉄面皮のまま、さらりと応答して見せる。
「ええそうよ。噂の病気……病人である彼らに対して、危害を此方から加えることは許しません」
嘘っぱちだ。絵美は他の大人たちの顔を見て、それが建前でしかないことを理解した。
そして同時に、彼らに任せておけないという思いを一層強くした。
「連中は、音に反応する習性がある。気付いていましたか」
不意に橘がそう言ってきた。理事長は困惑顔だったが、しかし教師の何人かは、ああ、と何かひらめくような顔をした。
「そう言われると、確かに。そうとしか思えない場面が……」
「ならもうすぐ鐘が鳴ったら、どうなるかお分かりですね」
「……まさか」
教員たちが色めき立つ。それくらいの想像力はあるはずだ。
「し、しかし……そうか、いや確かに。だがその場合は……」
柿谷がそう答えようとするのを、橘は手で制した。
「言いたいのはそれじゃありません。これはチャンスなんです」
橘が力強くそう言い放つ。そうだ。たたみかけるなら、今だ。
「校内にいる感染者たちが、一か所に集まる。それも、学園の敷地の片隅に。これを利用しない手はないでしょう」
「ま、まさか彼らに対して暴力を使う気なの!そんなことは決して……」
余計な口を挟もうとする理事長を制しようと絵美が口を開いたタイミングで、バシンという音が部屋に響く。
浜形が、机を叩いたらしい。黙っていろ、とでも言いたげに顎をしゃくる。
「……いつの世も、危ない連中をどうするかは決まっています。そんな連中は牢獄に閉じこめてしまえばいい」
再び話しだした橘が、不敵な顔で告げた。
「―――奴らが礼拝堂に集まっているうちに、脱出するんです。生徒と、教職員全員で」
学園をまるごと感染者の檻にしてしまう。
それが橘夕の提示する、「作戦」だった。
また夕ちゃんのドヤ顔で次回に続きます。