「布を染めて遊んでいるだけの婚約者はいらない」と捨てられたので、侯爵家との“王家の青”の使用契約を終了しました。翌週、王女殿下の婚礼衣装を染めることになったのは私でした
「布を染めて遊んでいるだけの婚約者はいらない」
王立織物組合の春季展示会を終えた夜、ヴィクトル・ラネール侯爵令息は、招待客の前で私にそう告げた。
会場には、私が染めた青い布が何十枚も吊られていた。
濃紺、群青、朝空のような淡い青。
その中でも中央に飾られた一枚は、光の角度によって銀色を含んだ深い青に見える。
王都では、いつの頃からかそれを「王家の青」と呼ぶようになっていた。
「エリゼ。君は侯爵夫人になるというのに、いつまで職人の真似事を続けるつもりだ」
ヴィクトルの隣には、ロザリー伯爵令嬢がいた。
彼女は社交界でも評判の美人で、王都の流行にも詳しい。
「ロザリーなら、私の隣に立っても恥ずかしくない。君のように爪の間を染料で青くして夜会へ来たりもしない」
私は自分の指先を見た。
確かに、右手の人差し指に薄い青が残っていた。
今朝、最後の染め上がりを確認したときについたものだ。
「分かりました。婚約を解消いたします」
「……ずいぶんあっさりしているな」
「五年前の婚約契約書に従うだけです」
ヴィクトルが怪訝そうな顔をした。
「契約書?」
「婚約期間中、ラネール侯爵家には、セルヴァ工房が保有する染色法『蒼冠』の販売使用権を無償で貸与する、とあります」
私の実家、セルヴァ子爵家は大きな領地を持たない。
代わりに、祖母の代から染色工房を営んできた。
『蒼冠』は、亡くなった母と私が十年かけて完成させた青だ。
青鈴草から取った色を何度も重ね、最後に独自の仕上げを施す。
日光にさらしても褪せにくく、雨に濡れても色移りしにくい。
三年前、王宮の儀礼用垂れ幕に採用されてから注文が増えた。
ただ、子爵家の小さな工房だけでは販売網が足りなかった。
そこで婚約先のラネール侯爵家が卸売と商談を引き受け、私たちは製造を担当した。
ヴィクトルは肩をすくめた。
「それなら今後も続ければいい。商売と婚約は別だろう」
「契約では別ではありません」
私は覚えている条文をそのまま口にした。
「婚姻成立前にいずれかの当事者の意思で婚約が解消された場合、使用許諾はその日の終わりをもって終了する」
「そんな昔の一文を持ち出してどうする」
「昔といっても五年前です」
「染め方なら、うちの職人ももう知っている」
「そうですか」
それ以上は言わなかった。
方法を知っていることと、同じものを作れることは同じではない。
けれど、それを説明すれば、また私が自分の仕事を大げさに語っていると思われるだけだろう。
「本日分までに納品済みの品は、そのまま販売していただいて構いません。明日以降に新しく染める分については、『蒼冠』の名称と製法は使わないでください」
「好きにしろ」
ヴィクトルはそう言って、ロザリーを連れて去った。
人々の視線が痛かった。
その中で、一人だけ、展示された青い布を見ている男性がいた。
アドリアン・ベルク。
王室衣装局の監督官だ。
彼は私に近づくと、慰めの言葉ではなく、こう尋ねた。
「確認してもいいですか。使用許諾の原本は残っていますね?」
「はい。王立公証院にも写しがあります」
「なら、明日の朝、工房に伺っても?」
「契約の確認ですか?」
「それもあります」
彼は中央の青い布を見上げた。
「もう一つ、仕事の話があります」
翌朝。
私はいつも通り、夜明け前に工房へ入った。
婚約を解消された翌日くらい休めばいい、と父は言った。
でも、染料は私の事情に合わせて待ってくれない。
前日から浸していた糸を引き上げ、色を見る。
薄い。
もう一度、染液へ戻す。
染色は、決められた材料を混ぜれば終わる仕事ではない。
同じ畑で採れた青鈴草でも、雨の量で色が違う。
水温が二度違えば染まり方が変わる。
布の織り方によっても、色が入る速さが違う。
母はよく言っていた。
『レシピは道案内。最後に道を歩くのは人の目と手よ』
私はその言葉が好きだった。
八時になる少し前、アドリアンが工房へ来た。
王室衣装局の制服ではなく、地味な灰色の上着だった。
護衛も連れていない。
「早いですね」
「あなたに言われたくありません」
彼は私の手元の桶を見た。
「今のは何色になります?」
「あと二回染めれば、夕方の空くらいです」
「夕方にも色々あります」
「では、雨が降る直前の夕方」
アドリアンは少し笑った。
彼は、色の説明に数字だけを求めない珍しい役人だった。
初めて会ったのは二年前。
王宮用の垂れ幕を納めたとき、彼だけが布の表ではなく裏を見た。
『裏まで同じ色ですね』
その一言で、この人は分かっていると思った。
良い染めは、表面だけを濃くしても意味がない。
繊維の奥まで色が入っていなければ、時間が経つとむらになる。
「昨日の件ですが」
アドリアンが革鞄から書類を出した。
「ラネール侯爵家は、来週の王女殿下の婚礼衣装用として、『蒼冠』の布を納める予定でした」
私は手を止めた。
王女殿下の婚礼衣装。
聞いていない。
「侯爵家からは、通常の卸売注文だと聞いていました」
「衣装局には『ラネール侯爵家独自の染色技術』として申請されています」
胸の奥が冷たくなった。
「私どもの工房名は?」
「ありません」
アドリアンは短く答えた。
私は驚いたが、不思議ではなかった。
これまで王宮との商談には、ほとんどヴィクトルが出ていた。
私は工房にいた方が役に立つと思っていたからだ。
展示会でも、ラネール侯爵家の札の下に布を並べることに疑問を持たなかった。
結婚すれば同じ家になる。
そう思っていた。
「今回の婚約解消で、使用許諾が終了したことは公証院でも確認しました」
アドリアンは続けた。
「ですから、衣装局としてはラネール侯爵家の納品予定をいったん停止します」
「私が止めたように見えますね」
「事実は逆です。契約を終わらせたのは婚約を解消した側でしょう」
それでも、私はすぐには喜べなかった。
王女殿下の婚礼は十日後。
衣装はほとんど完成していて、最後の上掛けだけが青い布を待っているらしい。
「代わりの布はありますか」
「あります。ただ、王女殿下は展示会で見た『蒼冠』を希望されています」
アドリアンは一枚の申請書を机に置いた。
「セルヴァ工房として、選定試験に参加しませんか」
「選定試験?」
「特例で三工房から布を募ります。明後日正午までに一反。色落ち、摩擦、光、縫製の試験をします」
「二日ですか」
「無理なら断ってください」
「無理とは言っていません」
口から先に出ていた。
アドリアンが笑う。
「そう言うと思いました」
「ずいぶん分かったような顔をしますね」
「二年見ていますから」
心臓が一度だけ強く鳴った。
私は聞こえなかったふりをして、申請書を受け取った。
二日間、工房は戦場になった。
父が染液を管理し、私は色を決める。
職人のマルタとイネスが布を返し、見習いが水を運ぶ。
最初の一反は失敗した。
予定より赤みが出た。
「これでも十分きれいですよ」
見習いが言ったが、私は首を振った。
「きれいかどうかではなく、王女殿下が選んだ青かどうかよ」
染め直す。
二反目は色はよかったが、端にわずかなむらが出た。
これも外した。
父が心配そうに時計を見る。
「あと六時間だ」
「分かってる」
三反目。
染液から布を引き上げた瞬間、工房の全員が黙った。
深い青。
暗いのに重くない。
光を受けると、布の谷だけが少し銀色に見える。
私は端を切り、水で強く洗った。
白い布を押し当てる。
色はつかない。
「これで行く」
誰からともなく拍手が起きた。
私はそのとき初めて、婚約を解消されてから笑った。
選定試験の日。
王室衣装局の中庭には、三つの工房の布が並んだ。
その向かい側に、ラネール侯爵家の名札があった。
私は思わずアドリアンを見る。
「参加するのですか?」
「『蒼冠』ではない新しい青として申請されました。応募資格を満たすので拒否はできません」
なるほど。
ヴィクトルは諦めていなかったらしい。
彼の隣には侯爵家の染色責任者がいた。
長年、私たちの工房から染液の濃縮液を受け取り、仕上がった布を検品してきた人だ。
ヴィクトルは私を見ると、低い声で言った。
「今からでも契約を結び直せば、恥をかかずに済む」
「誰がですか?」
「君だ」
「今日は布の試験です。話は結果のあとにしましょう」
最初は摩擦試験。
乾いた白布を一定の力で擦る。
私の布には、ほとんど色が移らなかった。
次は水。
最後は光。
強い魔光灯の下に布を置き、短時間で日光数か月分に相当する負荷をかける。
一時間後。
四枚の布が並べ直された。
私の青は、ほぼ変わらない。
別の二工房も、わずかに薄くなった程度だった。
ラネール侯爵家の布だけが、青から灰紫へ変わっていた。
ヴィクトルの顔がこわばる。
「試験がおかしい!」
衣装局の技官が首を振った。
「同条件です」
「同じ材料を使っているんだぞ!」
思わず、私は口を開いた。
「同じではありません」
ヴィクトルがこちらを見る。
「セルヴァ工房からお渡ししていたのは、染料だけではありません。最後の仕上げに使う媒染液も、季節ごとに配合を変えていました」
「そんな話は聞いていない」
「毎回、納品書に書いてあります」
「数字だけだっただろう!」
「その数字が仕事です」
会場が静かになった。
私は続けた。
「春と冬では水が違います。布の産地でも変えます。決まった処方を秘密にしていたのではありません。毎回、布を見て調整していたんです」
ヴィクトルは言葉を失った。
彼は私の仕事を見たことがなかった。
だから、完成した青だけを見て、同じ材料があれば同じものができると思ったのだろう。
私は少し前まで、そのことを悲しいと思っていた。
今は違う。
見ようとしなかった人に、見えなかっただけだ。
試験結果は、その日のうちに決まった。
王女殿下の婚礼衣装に選ばれたのは、セルヴァ工房の布だった。
王室衣装局との契約書には、こう書かれていた。
『製造者 セルヴァ染色工房』
『主任染色師 エリゼ・セルヴァ』
自分の名前が、最初からそこにあった。
ただそれだけのことなのに、署名するとき手が少し震えた。
「大丈夫ですか」
隣にいたアドリアンが聞いた。
「はい」
「昨日までの契約書では、ラネール侯爵家の名前しかなかったので」
「気づいていたんですね」
「仕事ですから」
彼は一拍置いた。
「でも、気になっていたのは仕事だけではありません」
私はペンを落としかけた。
「こういうときに言うことですか?」
「今なら、あなたの契約相手ではなくなるので」
王室衣装局と工房の契約締結は終わった。
確かに、彼の監督対象から私は外れる。
「ずいぶん慎重ですね」
「あなたが契約書をよく読む人だと知っていますから」
笑ってしまった。
ラネール侯爵家には、別の処分も下った。
『蒼冠』を自家独自の技術として王室衣装局へ申請していたため、虚偽表示として婚礼関連の入札資格を一年間停止された。
侯爵家そのものが傾いたわけではない。
他の織物も扱っているし、一年後には再び申請できる。
ただし、少なくとも「エリゼがいなくても同じ青を売れる」という前提で組んでいた今年の計画は、すべて見直すことになった。
ヴィクトルからは二度、手紙が来た。
一通目には、商売だけでも元に戻したいと書かれていた。
私は通常の卸売価格表を送った。
無償使用は婚約者への条件だった。
今はただの取引先候補だ。
二通目には、婚約解消を急ぎすぎたかもしれないと書かれていた。
そちらには返事をしなかった。
王女殿下の婚礼の日。
私は工房の仲間たちと、沿道から馬車を見送った。
白い婚礼衣装の上に、深い青の上掛け。
朝の光を受けて、青の中に銀色が走る。
周囲から歓声が上がった。
「きれい……」
隣でマルタが泣いていた。
「泣くなら工房で泣いてください。染液に入ったら困ります」
「エリゼ様も泣いてます」
頬に触れると、本当に濡れていた。
その日の夕方、工房へ戻ると、入口にアドリアンが立っていた。
手には布ではなく、小さな箱を持っている。
「検品ですか?」
「今日は休みです」
「では何を?」
「菓子です」
箱を開けると、青い砂糖をまぶした焼き菓子が入っていた。
「王都で今日だけ売っているそうです。“王女の青”だとか」
「私の青より少し明るいですね」
「そこを指摘します?」
「染色師なので」
アドリアンは笑った。
「では、専門家として一緒に確認してもらえますか」
「味を?」
「夕焼けも」
私は首をかしげた。
彼は少しだけ緊張した顔で続けた。
「あなたは色を見るとき、よく空に例えるでしょう。だから、仕事ではなく、あなたが好きな夕焼けを一緒に見たい」
今度は、私が黙る番だった。
役に立つから必要だと言われたことはある。
きれいな青を作れるから、契約したいと言われたこともある。
でも、何も作らない時間を一緒に過ごしたいと言われたのは初めてだった。
「今日は染料の話をしませんよ」
「努力します」
「布も見ません」
「かなり難しい」
「では不合格です」
「再試験をお願いします」
私は笑った。
「一回だけですよ」
「厳しいな」
「審査は公平であるべきですから」
それから一年。
セルヴァ工房は、以前より少しだけ大きくなった。
王宮だけでなく、劇場や商会からも直接注文が来るようになった。
私はすべての布の端に、小さく工房名を織り込むことにした。
誰の仕事か分からない布を、もう作りたくなかったからだ。
ヴィクトルの家とも、一度だけ取引をした。
正規の価格で。
正規の契約で。
納品書には、セルヴァ工房の名前を入れた。
それで十分だった。
そして今日。
私は新しい布の試作品を、工房の窓辺で広げている。
隣にはアドリアンがいる。
婚約指輪を渡されたのは昨日だ。
返事はまだしていない。
「ずいぶん待たせますね」
「大事な契約なので」
「契約なのか……」
「冗談です」
私は笑って、青い布の上に左手を置いた。
指輪の石は無色だった。
『色はあなたが決めるだろうから』
そう言って、彼が選んだものだ。
私はその考え方が好きだった。
誰かが決めた色に、自分を染める必要はない。
自分の名前で作り、自分の目で選び、自分の手で色を重ねる。
「返事は?」
アドリアンがもう一度聞く。
「はい」
「どちらの?」
「そこまで契約書みたいに確認します?」
「あなた相手なら必要です」
私は彼の手を取った。
窓の外では、日が沈み始めている。
雨の前でも、王宮の垂れ幕でも、婚礼衣装でもない青。
まだ名前のない青が、空に広がっていた。
明日、工房でその色を作ってみようと思う。
今度は誰かの家のためではなく。
私自身の名前で。




