残照
夢の中で蝉の鳴き声に混じってピアノの音がかすかに聞こえる。
津久井啓一郎は手を伸ばすと、ソファーベットの脇のデジタル時計を眠い目で確認した。表示は午前八時半だった。越してきて二日目の朝だったが、カーテンの隙間から洩れる夏の日射しは、室内を明るくしていた。
起き上がって、冷蔵庫からスポーツドリンクを取り出すと、喉へ流し込んだ。カーテンの隙間から外を覗く。ピアノは燐家から聞こえてくる。2階建ての洋館で、建物の敷地に緑が繁っている。
昼の弁当を買うつもりでアパートを出た。隣の洋館を改めて外から眺めると、かなり古い造りと思える外観をしていた。三角屋根の正面の二階には出窓があった。建主の好みがあらわれた意匠だろう。
啓一郎が立ち止まって洋館を眺めていると、その出窓に人影がうつった。白いブラウス姿の若い女性が窓を少し開けて、こちらを見ている。髪を後ろで束ねている。二十代前半だろう、と啓一郎は見当をつけた。少しして女性は窓を離れたので、啓一郎もその場を離れた。
啓一郎は、午後になってゼミの論文の中間報告のために、同じ区内にある大学におもむいた。演習室へ入ると、先に来ていた北岡信二が軽く手をあげた。
「どうだ、新しい住まいは?」
「なかなかいい。新築の匂いがするよ」
「あのあたりは、静かな環境だ」
北岡は地元の在住だった。
「隣にピアノを弾く女性が住んでいる。わりと美人だ」
「隣?」
「ああ、古そうな洋館だ」
「三角屋根の家か?」
「そうだ」
啓一郎が言うと、北岡は少し考えるような表情をして、
「あそこは誰も住んでいないはずだ。古い建物なんで区の登録文化財の指定をうけてる」
と、答えた。
別の日、啓一郎は区役所へ電話を掛けた。登録文化財の建物について訊きたい、と案内の女性に言うと、お待ちください、と言って生涯学習支援室、地域文化課という担当に電話をつないでくれた。
応対してくれた男性は田村と名乗った。啓一郎は三角屋根の洋館の隣のアパートに入居したことを話し、洋館のことについて教えて欲しいと話した。
「三角屋根の洋館ですね。あれは昭和十年頃の建築で、当時の建築雑誌にも掲載された有名な建物なんですよ。そうです、区の登録文化財に指定しています」
「誰も住んでいないんですか?」
「そうです。もともとは若宮さんという大学教授をなさっていた方の一家の住居でしたが、その方のお嬢さんが太平洋戦争中に結核で亡くなられて、残ったご両親も昭和四十年代に他界されてからは無人になったんですが、遠縁の方がしばらく居住してました。その方から区が建物を委譲されて、現在は無人になっています。区としては建物を修繕して一般公開する予定です」
「そのお嬢さんという人はピアノは弾いていましたか?」
田村という職員は笑って、
「さあ、そこまではわかりません。けれど一階の洋室にアップライトのピアノはありましたね。年に何度か建物の現状把握の為にうちの職員が訪ねてます」
電話を切った啓一郎は洋館を窓から眺めた。ちょうどこちらのアパートに面した洋館の一階の窓には、ちらちらと人影が動いていた。
啓一郎はアパートを出ると、洋館の正面の門の前へ歩いた。鍵は開いていた。敷地へ足を踏み入れた。
門から数歩歩いただけなのに、不思議なことに森閑とした樹木の茂みに閉ざされた空間は異質な空気の匂いがした。躊躇もあった。だが啓一郎の好奇心は抑えきれなかった。ふと啓一郎が気がつくと、玄関の扉が開いて、あの女性が佇んでいた。女性が口をひらいた。
「隣に越して来た方ね」
啓一郎は、尋ねた。
「あなたは若宮さんですか?」
女性はうなずき、さあ、どうぞと行って啓一郎を招き入れた。建物の中に入ると、調度も古い時代のもので、女性はソファーを啓一郎にすすめた。
この洋館は異なる過去に存在している。啓一郎はそう確信した。ショパンだろうか、女性はピアノの前に座ると、巧みに弾き始めた。啓一郎は窓から差す陽に気がついた。夏の太陽はすでに沈みつつあったが空は茜色の輝きをとどめていた。
外の通りを隊列を組んで銃を抱えた日本兵が軍靴の靴音を響かせて行進していた。昭和の時間は黎明から混沌とした経過を迎えたところだった。




