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ファンタジー

婚約を破棄された令嬢の窓辺に、太った伝書鳩が毎朝やってくる

作者: くるみ
掲載日:2026/07/31

「リネット、君との婚約を破棄したい」


ベルナール・レセル子爵令息は、よく晴れた午後にそう告げた。

王都でも評判の菓子店だった。

磨き上げられた窓から春の日差しが差し込み、卓上には二人分の紅茶と、苺を飾った小さなケーキが並んでいる。

婚約を破棄する話をするには、あまりにも甘い香りのする場所だった。


ベルナールの隣には、淡い桃色のドレスを着たクラリス・ドーヴィル男爵令嬢が座っている。


「破棄、でございますか」


リネットが確認すると、ベルナールは一瞬だけ言葉に詰まった。


「ああ。もちろん、正式な手続きについては両家で話し合う。私の側からの申し出なのだから、契約に定められた違約金も支払うつもりだ」


「承知いたしました」


リネットが答えると、ベルナールは拍子抜けしたような顔をした。


「理由を聞かないのか」


「すでに、クラリス様が隣にいらっしゃいますから」


クラリスが申し訳なさそうに目を伏せた。

けれど、その手はベルナールの腕へしっかりと添えられたままだった。


「クラリスは私を必要としてくれる」


ベルナールは言った。


「君には何の不満もない。だが、君は何でも一人でできるだろう。私がいなくても困らない」


リネットは、目の前の苺のケーキを見つめた。

ベルナールが苺を好むと言っていたから、この店を選んだのはリネットだった。

彼の誕生日も、母親の好きな花も、妹が苦手な食べ物も、屋敷で飼っている犬の名前も覚えていた。


一方で、ベルナールはリネットが何を好むのか、一度も尋ねたことがなかった。


「あなたなら、私の気持ちを理解してくれると思っていた」


ベルナールは安心したように続けた。


「クラリスを責めないでほしい。彼女は繊細なんだ」


「責めるつもりはございません」


それは本心だった。

誰を責めても、ベルナールが自分のことを見ていなかった事実は変わらない。


「それでは、今後のことは父を通してくださいませ」


リネットは席を立った。


「待ってくれ」


「まだ何か?」


「君は、もう少し怒ると思っていた」


「怒ってほしかったのですか」


「そういう意味ではない。ただ、あまりにも平然としているから」


ベルナールの顔には、どこか不満そうな色が浮かんでいた。

リネットは、自分のために泣いてほしかったのだろうか。

自分を失って取り乱す姿を見れば、彼は安心できたのだろうか。


「ベルナール様」


リネットは静かに言った。


「私は、あなたがいなくても生きていけます」


ベルナールの表情が固まった。


「ですが、それは、あなたを必要としていなかったという意味ではありません」


言うべきことは、それだけだった。

リネットは店を出ようとして、ふと足を止めた。


卓上には、まだ一口も食べていない苺のケーキが残っている。


「こちらは、持ち帰ります」


「え?」


「私が注文し、代金も支払いましたので」


店員に包んでもらったケーキを抱え、リネットは菓子店を出た。

外は、腹が立つほどよく晴れていた。



二週間後、両家の間で婚約破棄の手続きが完了した。


ベルナール側からの一方的な申し出であり、リネットに落ち度はない。

レセル家からは契約どおりの違約金が支払われ、リネットの名誉を傷つけないための正式な謝罪状も出された。

ベルナールとクラリスが結婚を望むのであれば、それは二人の自由だった。

ただし、自分たちの恋を美しいものにするために、リネットを冷酷な元婚約者として扱うことは許さない。


父がそこだけは譲らなかったことを、リネットはありがたく思った。


手続きが終わると、リネットは王都を離れた。

向かったのは、母方の祖母が遺した田舎の家だった。


小高い丘の上に建つ、白い壁と青い屋根の小さな家。

庭には林檎の木が三本あり、裏手には古い鳩舎が残っている。

幼い頃、リネットは毎年夏になると、この家で祖母と過ごした。

祖母が亡くなってからは、長い間、誰も住んでいなかった。

庭には草が伸び、窓は埃で曇り、鳩舎の扉も錆びついていた。

それでも、リネットは王都の立派な屋敷より、この家を気に入っていた。


朝起きて窓を開ける。

庭の草を刈り、家具を磨く。

昼には村へ歩いていき、パンと牛乳を買う。

夜は暖炉のそばで本を読む。

誰かの好みに合わせて服を選ぶ必要もなければ、誰かの機嫌を損ねないように話題を探す必要もない。

リネットは少しずつ、幼い頃に好きだった家を取り戻していった。


壊れていた鳩舎も修理した。

雨戸を開き、床を掃除し、新しい藁を敷いた。

最後に、扉の上へ小さな鈴をつけた。

昔、祖母がつけてくれたものと同じ形だった。

風が吹くと、澄んだ音がする。

その音を聞いていると、ずっと昔の夏を思い出した。


「まるもちも、この音が好きだったわね」


リネットは誰もいない鳩舎へ向かってつぶやいた。


まるもちは、リネットが十歳の夏に拾った鳩だった。

大雨の翌朝、林檎の木の下で、ずぶ濡れになって震えていた。

まだうまく飛べない雛で、白い身体が丸々としていたため、リネットは「まるもち」と名づけた。

祖母と二人で餌を与え、鳩舎で育てた。

リネットが口笛を吹けば、どこにいても飛んできた。


ところが、夏の終わり。

王都へ帰る前日の朝に、まるもちは突然いなくなった。

祖母と一緒に何日も探したが、見つからなかった。

幼いリネットは、もう二度と会えないのだと思い、何日も泣いた。

懐かしく思いながら、リネットは昔と同じ短い口笛を吹いた。

鳩舎の鈴が、風に揺れて鳴った。



婚約を破棄されてから、ひと月ほどが過ぎた朝だった。

リネットが朝食のパンへ林檎のジャムを塗っていると、窓の外から音がした。


こつん。

少し間を置いて、もう一度。

こつん、こつん。

顔を上げると、窓硝子の向こうに、一羽の鳩がいた。


灰色がかった白い羽。

丸い身体。

短い脚。

鳩は窓枠の上を左右に歩きながら、何度も硝子を嘴でつついた。


「入りたいの?」


リネットが窓を開けると、鳩は当然のように部屋へ入ってきた。

卓上へ降り立つと、すぐにリネットのパンを見た。


「これは私の朝食よ」


鳩は首を傾げた。


「そんな顔をしても駄目です」


今度は、反対側へ首を傾げた。

リネットが根負けして、パンをほんの少しちぎる。

鳩は勢いよく食べると、もっと欲しいと言うように近づいてきた。


「ずいぶん人に慣れているのね」


リネットは鳩の顔を見つめた。

右目の下に、薄い灰色の丸い模様がある。

胸の奥が、どくんと鳴った。


「まさか……」


鳩はパン屑を探している。


「まるもち?」


鳩の動きが止まった。


「まるもちなの?」


もう一度呼ぶと、鳩は翼を広げ、リネットの肩へ飛び乗った。

丸い頭を、何度もリネットの頬へ擦りつけてくる。


「本当に、まるもちなのね」


リネットは笑いながら、鳩を両手で包んだ。

昔より大きくなっている。

正確には、大きいというより太っていた。

けれど、目の下の模様も、呼べば頬へ頭を寄せてくる癖も、幼い頃のままだった。


「生きていたのね」


まるもちは、くるる、と喉を鳴らした。

よく見ると、脚には細い輪がついている。

そこには、王家の紋章が刻まれていた。


「あなた、王宮の鳩になったの?」


まるもちは答えず、再びパンへ顔を向けた。

その日はパンを半分食べると、まるもちは窓から飛び立った。

空を一度大きく回り、東の方角へ消えていく。


翌朝も、まるもちは来た。

その翌朝も来た。

一日目はパンを食べ、二日目は林檎をつつき、三日目にはリネットの膝の上で眠った。


そして四日目。

まるもちの脚に、小さな紙が結ばれていた。


『この鳩へ食事を与えている方へ。

親切にしていただき、ありがとうございます。

ただし、パンを与えすぎないでください。

最近、帰りが遅いうえに、以前より明らかに重くなりました。

王宮鳩舎係』


リネットは、まるもちを見た。

まるもちは何も知らない顔で、卓上のパン屑を拾っている。


「明らかに重くなったそうよ」


まるもちは胸を張った。

褒められたと思ったらしい。


リネットは紙の裏へ返事を書いた。


『王宮鳩舎係様へ。

この子は、私が幼い頃に育てた鳩です。

当時から、食べることが大好きでした。

パンは少ししか与えておりません。

重くなったのは、本人の責任だと思われます。

なお、名前は「まるもち」です。』


紙を脚へ結ぶと、まるもちは窓から飛び立った。

しかし、すぐに戻ってくる。

リネットの皿から最後のパン屑を一つ食べてから、今度こそ飛んでいった。


翌朝、返事が届いた。


『まるもちという名だったのですね。

王宮では、第七号と呼ばれていました。

八年前、王都へ向かう郵便馬車の屋根に乗ってきたところを、王宮の鳩舎係が保護したそうです。

人を怖がらず、どれほど遠くへ放しても王宮へ帰ってくるため、伝書鳩として育てられました。

先月、街道の橋が壊れ、訓練経路が南側へ変更されました。

その途中で、昔暮らしていた家の近くを通ったのでしょう。

最近は訓練へ出すたび、途中で姿を消します。

八年たっても、最初の家を覚えていたようです。』


リネットは、何度も手紙を読み返した。

まるもちは、郵便馬車について王都まで行ってしまったらしい。

そして八年後、偶然、昔の家の近くを飛んだ。


修理された鳩舎。

扉の上で鳴る、昔と同じ鈴。

庭から聞こえた、リネットの口笛。

それらを見つけ、まるもちは迷わず戻ってきたのだ。


「帰る場所を、覚えていたのね」


まるもちは、リネットの膝の上で丸くなった。


その日から、まるもちは毎朝、王宮と田舎の家を往復するようになった。

そして脚には、必ず手紙が結ばれていた。


『今日の空は、そちらでも晴れていますか。』


『よく晴れています。

ただし、まるもちが窓辺の植木鉢を倒したため、部屋の中は土だらけです。』


『申し訳ありません。

王宮でも、昨日、花瓶を一つ割りました。

本人は反省していません。』


『こちらでも反省していません。眠っています。』


王宮鳩舎係は、名前を書かなかった。

リネットも、名前を書かなかった。

互いの顔も、年齢も、詳しい身分も知らないまま、二人はまるもちを通して手紙を交わした。


内容は、ほんのささいなことばかりだった。

林檎の花が咲いたこと。

王宮の池に、鴨の親子がやってきたこと。

リネットが焼いた菓子を、まるもちが盗んだこと。

鳩舎係が仕事中に眠ってしまい、まるもちに髪を引っ張られたこと。


ある朝には、こんな手紙が届いた。


『朝食は食べましたか。』


リネットは少し考えてから返した。


『食べました。どうして、そのようなことをお尋ねになるのですか。』


翌日の返事には、こう書かれていた。


『昨日のあなたの文字が、いつもより少し弱く見えたからです。

余計なことでしたら、すみません。』


その前日、父から手紙が届いていた。

ベルナールとクラリスの婚約が正式に決まり、近く王宮の祝宴で発表されるという知らせだった。

リネットは、自分では気にしていないつもりだった。

それでも、文字には表れていたらしい。


ベルナールは三年間、リネットが疲れていても、悲しんでいても気づかなかった。

顔も知らない手紙の相手は、紙に並んだ文字だけで気づいた。


リネットは、しばらく迷ってから返事を書いた。


『余計なことではありません。昨日は少しだけ、昔のことで落ち込んでいました。

けれど、朝食は食べました。林檎のジャムも、たくさん塗りました。』


次の日。

まるもちは、手紙と一緒に小さな包みを運んできた。

中には、王都で人気の店の砂糖菓子が一つ入っていた。


『林檎のジャムには負けるかもしれませんが、甘いものは気分を少しだけ助けます。

一つはあなたへ。もう一つは私の分でしたが、まるもちに奪われました。』


見ると、まるもちの嘴の周りに白い砂糖がついていた。


「あなたという子は」


叱られているのに、まるもちは嬉しそうに鳴いた。

リネットは笑った。


婚約を破棄されてから、これほど声を上げて笑ったのは初めてだった。



手紙のやり取りが始まって、一か月が過ぎた頃。

二人は、名前だけを教え合うことになった。


『私は、リネットと申します。田舎で、庭の手入れをしながら暮らしています。』


返ってきた手紙には、「フィン」と書かれていた。


『私はフィンです。王宮で働きながら、鳩舎の管理を手伝っています。

本来の役目はほかにもありますが、鳩の世話をしているときが一番落ち着きます。』


リネットは、フィンが王宮に勤める若い役人か、騎士の一人なのだろうと思った。

筆跡は美しく、言葉遣いも丁寧だった。

けれど、偉そうなところは少しもない。


『王宮のお仕事は、大変ですか。』


『大変というより、自分で選べることが少ないのです。

起きる時間も、食べるものも、会う相手も、ほとんど決められています。』


『鳩のお世話は、ご自分で選ばれたのですか。』


『はい。ただ、最初は周囲に笑われました。

もっと立派な仕事をしろと言われました。』


『生き物のお世話は、立派な仕事です。

少なくとも、まるもちは、あなたがいなければ困るでしょう。』


翌朝、返ってきた手紙には、一行だけ書かれていた。


『あなたにそう言っていただけると、なぜかとても安心します。』


その文字を読んだとき、リネットの胸が少しだけ温かくなった。

顔を知らない相手である。

声も知らない。

それでも毎朝、手紙が届くのが楽しみだった。

窓硝子をつつく音がすると、すぐに椅子から立ち上がった。

何度も手紙を読み返し、返事を書くときには、いつもより丁寧にペンを動かした。


ある日、フィンから尋ねられた。


『リネットは、これから何をしたいですか。』


リネットは、すぐには答えられなかった。

これまでは、ベルナールと結婚することが未来だった。

彼の妻になり、彼の家を守る。

それ以外の人生を、考えたことがなかった。

けれど今は、誰にも急かされず、庭で過ごす時間が好きだった。

村の子供たちへ本を読んでやる時間も、祖母が遺した家を少しずつ直すことも好きだった。


『この家を、誰でも休める場所にしたいです。

村には、旅人が安心して泊まれる宿がありません。

庭で採れた林檎を使って菓子を焼き、本を置いて、疲れた人が少し休んでから出発できる家にしたいと思います。

まだ、思いついたばかりですが。』


翌朝、フィンから長い手紙が届いた。


『とてもよい考えだと思います。

まるもちが毎日寄り道をして、満足そうに帰ってくるのを見ていると、そこはきっと、帰りたくなる場所なのだろうと思っていました。

人間にとっても、同じ場所になるはずです。宿が開いたら、私も客として訪れてよいでしょうか。』


『もちろんです。ただし、まるもちが壊した植木鉢の代金をいただきます。

まるもちには、支払う様子がありません。』


『では、私が働きます。林檎の収穫くらいはできます。』


リネットは、まだ会ったこともないフィンが、庭で林檎を拾う姿を想像した。

なぜか、その光景は少しおかしく、一方で二人並ぶ姿は自然に思えた。



初夏になり、リネットのもとへ王宮から招待状が届いた。

王妃が主催する夜会への招待だった。

父からも、欠席すれば余計な憶測を呼ぶと説得された。

リネットは迷った末に、出席を決めた。

そのことをフィンへ知らせると、返事にはこう書かれていた。


『私も、その日は王宮におります。

会場でまるもちを見かけたら、後をついてきてください。』


夜会の日。

リネットは淡い若草色のドレスを選んだ。

以前なら、ベルナールが好む色を選んでいただろう。

けれど今日は、自分が着たいと思った色にした。


会場へ入ると、すぐにベルナールとクラリスの姿が目に入った。

二人は並んで、招待客へ挨拶をしている。

リネットに気づくと、ベルナールが近づいてきた。


「久しぶりだな、リネット」


「ご無沙汰しております」


「田舎で暮らしていると聞いた。寂しくはないか」


「毎日、楽しく過ごしています」


「強がらなくてもいい」


ベルナールは、リネットをいたわっているつもりらしい。


「君は昔から、弱いところを見せないからな。それでは、誰も君を助けてよいのか分からない」


以前なら、その言葉を真剣に受け止めただろう。

自分がもっと可愛らしく頼っていれば、婚約を破棄されなかったのだろうかと、考えたかもしれない。

けれど今は、素直に疑問だった。


「ベルナール様は、私が困っていないか、尋ねたことがございましたか」


ベルナールが黙った。


「私は、あなたを必要としていなかったのではありません」


リネットは続けた。


「必要とする機会を、いただけなかっただけです」


「私は、ただ――」


そのとき、一羽の鳩が勢いよく飛んできた。

まるもちは、ベルナールの頭へ着地した。

きれいに整えられた髪が、丸い腹の下で潰れる。


「何だ、この鳥は!」


ベルナールが手を振り回すと、まるもちはひらりと飛び上がった。

そのままクラリスの帽子から、飾りの苺を引き抜く。

食べようとして、偽物だと気づいたらしい。

不満そうに地面へ落とした。

周囲から、小さな笑い声が上がった。


「まるもち」


リネットが呼ぶと、まるもちは彼女の頭上を一周し、庭の奥へ飛んでいった。

数歩先で振り返り、また少し飛ぶ。


フィンの手紙を思い出した。

リネットは、まるもちの後を追った。

鳩は人混みを抜け、生垣に囲まれた小さな庭へ入っていく。

そこには、一人の青年が立っていた。


柔らかな灰金色の髪。

深い緑色の瞳。

白を基調とした礼装には、王族だけが身につけられる金の刺繍が施されている。


リネットは足を止めた。


青年の顔には見覚えがあった。

第二王子フィンレイ殿下。

まるもちは、迷うことなく青年の肩へ止まった。


青年は、少し困ったように笑った。


「初めまして、リネット」


声を聞いたことはない。

それでも、その呼び方だけで分かった。


「……フィン?」


「はい」


フィンレイは、申し訳なさそうに頭を下げた。


「王宮で鳩舎の管理を手伝っている、フィンです」


「第二王子殿下ではなく?」


「それも、間違いではありません」


「本来の役目はほかにもあると、書いていらっしゃいましたね」


「嘘は書いていないつもりでした」


「身分を隠していたことも、嘘ではないと?」


フィンレイの笑みが消えた。


「申し訳ありません」


「なぜ、最初から教えてくださらなかったのですか」


「王子だと名乗れば、あなたは手紙の言葉を選んでしまうと思ったからです」


そのとおりだった。

第二王子へ送ると知っていれば、リネットは植木鉢の話も、婚約を破棄されて落ち込んだ話も書かなかった。


「あなたが、私をただのフィンとして扱ってくださることが嬉しかったのです」


フィンレイは、まっすぐリネットを見た。


「ですが、いつまでも隠して手紙を続けるのは、誠実ではないと思いました。直接、謝りたかったのです」


リネットはすぐには答えられなかった。

驚きもした。

騙されたようにも感じた。

それでも、彼が手紙の中で語ったことまで、すべて嘘だったとは思えなかった。

肩に乗るまるもちが、フィンレイの髪をつついた。


「まるもちは、最初から知っていたのですね」


「おそらく、何も考えていないと思います」


「そうでしょうか」


「今朝、私の朝食まで食べました」


リネットは、思わず笑った。


「それは、何も考えていないかもしれません」


フィンレイも、ほっとしたように笑った。


「少し、庭を歩いていただけますか」


彼が手を差し出した。


「手紙では何度も話しましたが、直接お話しするのは初めてですから」


リネットは、少し迷ってから、その手を取った。


「では、まず確認したいことがございます」


「何でしょう」


「植木鉢の代金は、いつ払っていただけますか」


フィンレイは真剣な顔で答えた。


「林檎の収穫期に、身体で働きます」



フィンレイは、本当に林檎の収穫を手伝いに来た。


王族が田舎の小さな家へ来たことで、村は一時大騒ぎになった。

けれど本人は簡素な服へ着替えると、朝から籠を抱えて庭へ出た。


「殿下、その林檎はまだ青いです」


「では、こちらは?」


「虫が食べています」


「これは?」


「それは林檎ではありません」


フィンレイは手の中の梨を見つめた。


「思っていたより難しいですね」


「鳩のお世話のほうが向いていらっしゃいます」


木の下では、まるもちが落ちた林檎をつついている。


「まるもち。食べすぎよ」


声をかけると、まるもちは林檎を嘴で転がし、見つかっていないふりをした。


フィンレイは、それから何度もリネットの家を訪れた。

来られない日には、これまでどおり手紙を送った。

一緒に庭を歩き、本を読み、村の祭りへ出かけた。


フィンレイはリネットの望みを、王子の力ですぐに叶えようとはしなかった。

旅人のための宿を開きたいと聞くと、まず必要な椅子の数を一緒に数えた。

古い壁へ漆喰を塗り、壊れた戸棚を直し、庭の隅へ新しい鳩舎を作った。

やがて、青い屋根の家は、小さな宿として開かれた。


名前は、「ふたつの帰り道亭」。


まるもちに、二つの帰る場所があることから名づけた。

旅人は庭で採れた林檎の菓子を食べ、本棚に並ぶ本を読み、疲れが取れるまで休んだ。

窓辺には、いつもまるもちがいた。

ただし、客の朝食を狙うため、注意書きが必要だった。


『窓辺の鳩へ、パンを与えないでください。

本人は、すでに朝食を済ませています。』


その下には、フィンレイが書き加えた。


『本人は、まだ食べていないと主張しますが、嘘です。』



宿を開いて一年が過ぎた頃。

フィンレイは、リネットへ求婚することを決めた。


林檎の花が咲く季節だった。

彼は王都の職人へ頼み、小さな指輪を用意した。

派手な宝石ではない。

林檎の葉をかたどった銀細工の中央に、淡い緑色の石がはめ込まれている。

指輪の箱には、小さな手紙を入れた。

何度も書き直した末に、ようやく決めた言葉だった。


その日、フィンレイは王宮の母の部屋を訪れていた。


「本当に決めたのね」


王妃は、息子を見て微笑んだ。


「はい」


「王子妃になれば、あの方は今までどおり自由には暮らせないかもしれないわ」


「分かっています。だからこそ、私の望みだけで決めるつもりはありません」


フィンレイは、指輪の箱を握った。


「今日、すべて話します」


部屋の外には、王妃へ届け物に来ていたリネットがいた。

宿で使う菓子の一部を、王妃が気に入り、王宮へ届けることになったのだ。

侍女に案内され、扉の前で待っていたリネットの耳へ、フィンレイの声が届いた。


「もう、彼女へ手紙を送り続けるつもりはありません」


リネットの胸が、冷たくなった。

部屋の中では、フィンレイが続けていた。


「手紙だけの関係は、今日で終わりにします。これからは――」


その先は聞こえなかった。

別の侍女が廊下を通り、リネットへ声をかけたからだ。


「リネット様。こちらでお待ちくださいませ」


リネットは、扉から離れた。


手紙だけの関係は、今日で終わりにする。

フィンレイは王子である。

いつか、身分の釣り合う相手と結婚しなければならない。

それは、最初から分かっていたはずだった。


それでも、どこかで期待していた。

このまま手紙を続けられるのではないか。

青い屋根の家へ来てくれるのではないか。

自分の隣で、笑ってくれるのではないか。

けれど、王族には王族の事情がある。

彼は今日、それを伝えるつもりなのだ。


リネットは、フィンレイが自分を哀れんで、別れを言い出せずにいるのだと思った。

だから、自分から終わらせようと決めた。



その日の午後。


フィンレイは、リネットを王宮の小さな庭へ呼び出した。

二人が初めて顔を合わせた場所だった。

林檎の花はないが、白い薔薇が咲いている。

フィンレイの上着の内側には、指輪の箱が入っていた。


「リネット。今日は、あなたに話したいことがあります」


「その前に、私から申し上げてもよろしいでしょうか」


リネットの声は、少し硬かった。

フィンレイは不安を覚えながらも、うなずいた。


「もちろんです」


「これまで、本当にありがとうございました」


リネットは頭を下げた。


「まるもちを通して手紙をいただけたことも、宿を手伝っていただけたことも、決して忘れません」


「なぜ、急にそのようなことを」


「もう、手紙は終わりにしましょう」


フィンレイの手が止まった。


「終わりに?」


「殿下には、殿下のお立場がございます」


リネットは、泣かないように微笑んだ。


「これ以上、私のために困る必要はございません」


「私は、困ってなど――」


「ご説明は不要です」


リネットは遮った。

もし、フィンレイの口からほかの女性と結婚すると聞けば、平静ではいられない気がした。


「私は十分に幸せでした。ですから、どうかお気になさらないでください」


フィンレイは、彼女の顔を見つめた。

リネットが王宮で暮らすことを望んでいないことは、知っていた。

以前、彼女は手紙に書いていた。


もう、自分の人生を誰かに決められたくない。

自分で選んだ家で、自分の好きな仕事をして暮らしたい。


だからフィンレイは、求婚することを迷っていた。

王子妃という立場を負わせることが、彼女の幸せを奪うのではないかと恐れていた。

そして今、リネットは関係を終わらせたいと言っている。


彼女は、王子との結婚を望んでいない。

フィンレイには、そう聞こえた。


上着の内側にある指輪が、急に重くなった。

ここで取り出せば、リネットを困らせるだけだ。

王子から求婚されれば、彼女は断ることさえ難しくなる。


「分かりました」


フィンレイは、ようやく答えた。

無理に笑おうとしたが、うまくいかなかった。


「あなたがそう望むのであれば」


リネットの顔が、一瞬だけ揺れた。

けれど、すぐに微笑んだ。


「今まで、ありがとうございました」


「こちらこそ」


二人は、何も言えないまま別れた。

その日から、まるもちが窓辺へ来ても、脚に手紙は結ばれていなかった。



フィンレイは、指輪を王宮の机の引き出しへしまった。

捨てることはできなかった。

けれど、二度と取り出すこともないと思った。


指輪の箱に入れた手紙も、そのままにした。


『手紙だけの関係を、今日で終わりにしたいと思います。

これからは、同じ家から、毎朝あなたへ手紙を書かせてください。

あなたが疲れた日に帰ってこられる人になりたい。

嬉しい日には、一番に話したいと思ってもらえる人になりたい。

あなたの夢を叶えてあげるのではなく、隣で一緒に叶えたい。

私と結婚していただけますか。』


もう、渡すことのない言葉だった。

フィンレイは引き出しを閉め、鳩舎へ向かった。

まるもちは、止まり木の上で丸くなっていた。


「お前には、帰る場所が二つあってよいな」


フィンレイがつぶやくと、まるもちは片目だけを開けた。


「私には、一つもなくなった気がする」


まるもちは返事をしなかった。

フィンレイは、その頭を一度だけ撫で、鳩舎を出た。


翌朝。


机の引き出しが、わずかに開いていた。

指輪の箱が消えていた。



リネットは、宿の窓辺でパンを焼いていた。

フィンレイと別れてから、一ヶ月が過ぎていた。


宿には客がいる。

仕事もある。

村の子供たちも遊びに来る。

以前と同じ生活へ戻っただけだった。


それなのに、朝になるたび、窓を見てしまう。

まるもちが来ても、脚に手紙がないことを確かめ、胸が沈む。

自分から終わりにしたのだから、仕方がない。

そう言い聞かせていた。


こつん、と窓が鳴った。

まるもちがいた。


「おはよう」


窓を開けると、まるもちは部屋へ入ってきた。

今日は、嘴に小さな箱のリボンをくわえている。


「何を持ってきたの?」


まるもちは、卓上へ箱を置いた。

深い緑色の布張りの箱。

蓋には、王家の紋章が小さく刻まれている。


「まるもち。これは、持ってきてはいけないものではないの?」


鳩は胸を張った。

絶対に、勝手に持ってきたものだ。

持ち主へ返さなければならない。

そう思いながら箱を手に取ると、蓋の隙間から小さな紙が出ていた。


そこには、リネットの名前が書かれている。


リネットは迷った末に、箱を開けた。

中には、林檎の葉をかたどった指輪。

そして、折り畳まれた手紙が入っていた。


『リネットへ。

手紙だけの関係を、今日で終わりにしたいと思います。

これからは、同じ家から、毎朝あなたへ手紙を書かせてください。』


リネットの指が止まった。

何度も、最初の二行を読み返す。


あの日、王妃の部屋の前で聞いた言葉。

手紙だけの関係を、今日で終わりにする。

フィンレイは、自分との関係を終わらせようとしていたのではない。

手紙だけでつながる関係を終わらせようとしていたのだ。


『あなたが疲れた日に帰ってこられる人になりたい。

嬉しい日には、一番に話したいと思ってもらえる人になりたい。

あなたの夢を叶えてあげるのではなく、隣で一緒に叶えたい。

私と結婚していただけますか。』


文字が、涙で滲んだ。


「私、何をしていたのかしら」


まるもちは首を傾げた。


「あなたの飼い主は、どうして何も言わなかったの」


言おうとしていたのだ。

自分が、先に別れを告げた。

説明も聞かず、言葉を遮った。


リネットはすぐに紙を取り出した。

震える手で、短い返事を書く。


『指輪を受け取りました。

今日の空は、こちらではよく晴れています。

殿下のいらっしゃる場所では、いかがですか。

今すぐあなたに会いたいです。』


紙をまるもちの脚へ結ぶ。


「お願い。今度は寄り道をしないで届けて」


まるもちは、卓上のパンを見た。


「帰ってきたら、好きなだけあげます」


まるもちは、すぐに窓から飛び立った。



フィンレイは、王宮中を探していた。


指輪の箱がない。

侍従も侍女も知らないという。

最後に鳩舎へ向かうと、遠くの空から一羽の鳩が飛んできた。


「まるもち?」


鳩はフィンレイの肩へ着地した。

嘴の周りに、林檎のジャムがついている。


「お前、まさか」


脚には、小さな紙が結ばれていた。

フィンレイは、急いで紙を開いた。


一度読む。

もう一度読む。


「馬を用意してくれ」


近くにいた侍従が驚いた。


「殿下、これから会議が」


「兄上には、人生で最も重要な用事ができたと伝えてくれ」


「どちらへ?」


フィンレイは、すでに走り出していた。


「青い屋根の家だ」



夕方。

リネットは、宿の庭でフィンレイを待っていた。

何度も門の方角を見た。

まるもちは、約束どおりパンをもらい、窓辺で満足そうに眠っている。


やがて、街道の向こうから馬が現れた。

フィンレイは宿の前で馬を降りると、息を切らして庭へ入ってきた。


「リネット」


「フィンレイ様」


二人はしばらく、何も言えずに向かい合った。

先に口を開いたのは、フィンレイだった。


「指輪は」


リネットは、手の中の箱を見せた。


「まるもちが持ってきました」


「やはり、あいつが」


窓辺を見ると、まるもちは目を閉じたまま、聞こえないふりをしていた。


「申し訳ありません」


リネットは頭を下げた。


「私は、あなたのお話を最後まで聞きませんでした」


「いえ。私も、もっと早く気持ちを伝えるべきでした」


「王妃様のお部屋の前で、聞いてしまったのです。手紙を終わりにすると」


「その後を聞かなかったのですね」


「はい」


「私は、あなたが王子との結婚を望んでいないのだと思いました」


「私は、あなたがほかの方と結婚するのだと思いました」


二人は顔を見合わせた。

あまりにも見事に、互いが互いの言葉を誤解していた。

フィンレイが、小さく笑った。


「まるもちだけが、分かっていたのでしょうか」


「何も考えずに、きれいな箱を盗んだだけかもしれません」


「その可能性のほうが高いですね」


それでも、まるもちが指輪を運ばなければ、二人は別れたままだった。

フィンレイは、リネットの前へ片膝をついた。

今度は、誰にも遮られない。

手紙でもない。


「リネット」


彼は、まっすぐに彼女を見上げた。


「あなたが疲れた日に、帰ってこられる人になりたい」


手紙に書かれていた言葉だった。

けれど、本人の声で聞くと、胸の奥へまっすぐに届いた。


「嬉しい日には、一番に話したいと思ってもらえる人になりたい。あなたの夢を叶えてあげるのではなく、隣で一緒に叶えていきたい」


フィンレイは、リネットの手を取った。


「私と結婚していただけますか」


リネットは微笑んだ。


「喜んで」


フィンレイは、リネットの指へ指輪を通した。


「あなたを愛しています」


リネットは、少しだけ頬を赤くした。


「私も、あなたを愛しています」


その瞬間、まるもちが飛んできた。

二人の間へ無理やり割って入り、リネットの肩へ止まる。

自分がすべてを整えたと言いたげに、胸を大きく膨らませている。


「まるもちにも、お礼を言わなければなりませんね」


フィンレイが言った。


「何が欲しい?」


まるもちは、窓辺に置かれたパンを見た。


「今日はもう、駄目です」


リネットが即答した。

まるもちは不満そうに鳴いた。



結婚後も、リネットとフィンレイは、王宮と青い屋根の家を行き来して暮らした。


リネットは王子妃となったが、宿を閉じなかった。

フィンレイも王族としての仕事を続けながら、時々宿を手伝った。

二人は、同じ屋根の下でも手紙を書いた。


朝、寝室の端から端まで。

昼、庭から書斎まで。

夜、隣の椅子から隣の椅子まで。

まるもちは一通運ぶたび、褒美としてパン屑を要求した。


ある朝。

リネットのもとへ、短い手紙が届いた。


『今日の空は、こちらでは青いです。

そちらでは、どうですか。』


窓の向こうを見ると、フィンレイは庭に立ち、こちらを見上げていた。

二人の間には、ほんの数メートルしかない。

リネットは返事を書いた。


『こちらでも青いです。

ただし、まるもちが私の朝食を食べました。』


八年前。


幼いリネットが助けた、小さな鳩。

まるもちは、最初に自分を温めてくれた手も、安心して眠った鳩舎も、ずっと忘れなかった。

遠い王宮から戻ってきて、一人の青年と、たくさんの手紙を連れてきた。

帰る場所を二つ持つ、欲張りな鳩は、リネットにも二つの帰る場所をくれた。


愛する人が待つ場所と。

愛する人と、一緒に帰る場所を。


「まるもち」


リネットが呼ぶと、鳩は期待に満ちた目で振り返った。


「パンは、もうありません」


まるもちは、明らかに不満そうな声で鳴いた。

その直後、フィンレイの朝食を狙って庭へ飛び立つ。

青い空の下、丸い身体がゆっくりと遠ざかっていく。


けれど二人は、もう心配しなかった。


まるもちは必ず帰ってくる。

大切な人のいる場所を、決して忘れない鳩なのだから。

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― 新着の感想 ―
切ないエンドになりかけて胸がキュウ~ってなったけど、良かった良かった
凄く…いい空気
「まるもち」という名前で、この鳩のふかふかした感じとかが想像つく素敵な名前なのですが、やはり西洋をイメージした世界観の物語で「もち」というのはどうかなぁと最初思いました。 食べてるのもパンばかりだし、…
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