婚約を破棄された令嬢の窓辺に、太った伝書鳩が毎朝やってくる
「リネット、君との婚約を破棄したい」
ベルナール・レセル子爵令息は、よく晴れた午後にそう告げた。
王都でも評判の菓子店だった。
磨き上げられた窓から春の日差しが差し込み、卓上には二人分の紅茶と、苺を飾った小さなケーキが並んでいる。
婚約を破棄する話をするには、あまりにも甘い香りのする場所だった。
ベルナールの隣には、淡い桃色のドレスを着たクラリス・ドーヴィル男爵令嬢が座っている。
「破棄、でございますか」
リネットが確認すると、ベルナールは一瞬だけ言葉に詰まった。
「ああ。もちろん、正式な手続きについては両家で話し合う。私の側からの申し出なのだから、契約に定められた違約金も支払うつもりだ」
「承知いたしました」
リネットが答えると、ベルナールは拍子抜けしたような顔をした。
「理由を聞かないのか」
「すでに、クラリス様が隣にいらっしゃいますから」
クラリスが申し訳なさそうに目を伏せた。
けれど、その手はベルナールの腕へしっかりと添えられたままだった。
「クラリスは私を必要としてくれる」
ベルナールは言った。
「君には何の不満もない。だが、君は何でも一人でできるだろう。私がいなくても困らない」
リネットは、目の前の苺のケーキを見つめた。
ベルナールが苺を好むと言っていたから、この店を選んだのはリネットだった。
彼の誕生日も、母親の好きな花も、妹が苦手な食べ物も、屋敷で飼っている犬の名前も覚えていた。
一方で、ベルナールはリネットが何を好むのか、一度も尋ねたことがなかった。
「あなたなら、私の気持ちを理解してくれると思っていた」
ベルナールは安心したように続けた。
「クラリスを責めないでほしい。彼女は繊細なんだ」
「責めるつもりはございません」
それは本心だった。
誰を責めても、ベルナールが自分のことを見ていなかった事実は変わらない。
「それでは、今後のことは父を通してくださいませ」
リネットは席を立った。
「待ってくれ」
「まだ何か?」
「君は、もう少し怒ると思っていた」
「怒ってほしかったのですか」
「そういう意味ではない。ただ、あまりにも平然としているから」
ベルナールの顔には、どこか不満そうな色が浮かんでいた。
リネットは、自分のために泣いてほしかったのだろうか。
自分を失って取り乱す姿を見れば、彼は安心できたのだろうか。
「ベルナール様」
リネットは静かに言った。
「私は、あなたがいなくても生きていけます」
ベルナールの表情が固まった。
「ですが、それは、あなたを必要としていなかったという意味ではありません」
言うべきことは、それだけだった。
リネットは店を出ようとして、ふと足を止めた。
卓上には、まだ一口も食べていない苺のケーキが残っている。
「こちらは、持ち帰ります」
「え?」
「私が注文し、代金も支払いましたので」
店員に包んでもらったケーキを抱え、リネットは菓子店を出た。
外は、腹が立つほどよく晴れていた。
◇
二週間後、両家の間で婚約破棄の手続きが完了した。
ベルナール側からの一方的な申し出であり、リネットに落ち度はない。
レセル家からは契約どおりの違約金が支払われ、リネットの名誉を傷つけないための正式な謝罪状も出された。
ベルナールとクラリスが結婚を望むのであれば、それは二人の自由だった。
ただし、自分たちの恋を美しいものにするために、リネットを冷酷な元婚約者として扱うことは許さない。
父がそこだけは譲らなかったことを、リネットはありがたく思った。
手続きが終わると、リネットは王都を離れた。
向かったのは、母方の祖母が遺した田舎の家だった。
小高い丘の上に建つ、白い壁と青い屋根の小さな家。
庭には林檎の木が三本あり、裏手には古い鳩舎が残っている。
幼い頃、リネットは毎年夏になると、この家で祖母と過ごした。
祖母が亡くなってからは、長い間、誰も住んでいなかった。
庭には草が伸び、窓は埃で曇り、鳩舎の扉も錆びついていた。
それでも、リネットは王都の立派な屋敷より、この家を気に入っていた。
朝起きて窓を開ける。
庭の草を刈り、家具を磨く。
昼には村へ歩いていき、パンと牛乳を買う。
夜は暖炉のそばで本を読む。
誰かの好みに合わせて服を選ぶ必要もなければ、誰かの機嫌を損ねないように話題を探す必要もない。
リネットは少しずつ、幼い頃に好きだった家を取り戻していった。
壊れていた鳩舎も修理した。
雨戸を開き、床を掃除し、新しい藁を敷いた。
最後に、扉の上へ小さな鈴をつけた。
昔、祖母がつけてくれたものと同じ形だった。
風が吹くと、澄んだ音がする。
その音を聞いていると、ずっと昔の夏を思い出した。
「まるもちも、この音が好きだったわね」
リネットは誰もいない鳩舎へ向かってつぶやいた。
まるもちは、リネットが十歳の夏に拾った鳩だった。
大雨の翌朝、林檎の木の下で、ずぶ濡れになって震えていた。
まだうまく飛べない雛で、白い身体が丸々としていたため、リネットは「まるもち」と名づけた。
祖母と二人で餌を与え、鳩舎で育てた。
リネットが口笛を吹けば、どこにいても飛んできた。
ところが、夏の終わり。
王都へ帰る前日の朝に、まるもちは突然いなくなった。
祖母と一緒に何日も探したが、見つからなかった。
幼いリネットは、もう二度と会えないのだと思い、何日も泣いた。
懐かしく思いながら、リネットは昔と同じ短い口笛を吹いた。
鳩舎の鈴が、風に揺れて鳴った。
◇
婚約を破棄されてから、ひと月ほどが過ぎた朝だった。
リネットが朝食のパンへ林檎のジャムを塗っていると、窓の外から音がした。
こつん。
少し間を置いて、もう一度。
こつん、こつん。
顔を上げると、窓硝子の向こうに、一羽の鳩がいた。
灰色がかった白い羽。
丸い身体。
短い脚。
鳩は窓枠の上を左右に歩きながら、何度も硝子を嘴でつついた。
「入りたいの?」
リネットが窓を開けると、鳩は当然のように部屋へ入ってきた。
卓上へ降り立つと、すぐにリネットのパンを見た。
「これは私の朝食よ」
鳩は首を傾げた。
「そんな顔をしても駄目です」
今度は、反対側へ首を傾げた。
リネットが根負けして、パンをほんの少しちぎる。
鳩は勢いよく食べると、もっと欲しいと言うように近づいてきた。
「ずいぶん人に慣れているのね」
リネットは鳩の顔を見つめた。
右目の下に、薄い灰色の丸い模様がある。
胸の奥が、どくんと鳴った。
「まさか……」
鳩はパン屑を探している。
「まるもち?」
鳩の動きが止まった。
「まるもちなの?」
もう一度呼ぶと、鳩は翼を広げ、リネットの肩へ飛び乗った。
丸い頭を、何度もリネットの頬へ擦りつけてくる。
「本当に、まるもちなのね」
リネットは笑いながら、鳩を両手で包んだ。
昔より大きくなっている。
正確には、大きいというより太っていた。
けれど、目の下の模様も、呼べば頬へ頭を寄せてくる癖も、幼い頃のままだった。
「生きていたのね」
まるもちは、くるる、と喉を鳴らした。
よく見ると、脚には細い輪がついている。
そこには、王家の紋章が刻まれていた。
「あなた、王宮の鳩になったの?」
まるもちは答えず、再びパンへ顔を向けた。
その日はパンを半分食べると、まるもちは窓から飛び立った。
空を一度大きく回り、東の方角へ消えていく。
翌朝も、まるもちは来た。
その翌朝も来た。
一日目はパンを食べ、二日目は林檎をつつき、三日目にはリネットの膝の上で眠った。
そして四日目。
まるもちの脚に、小さな紙が結ばれていた。
『この鳩へ食事を与えている方へ。
親切にしていただき、ありがとうございます。
ただし、パンを与えすぎないでください。
最近、帰りが遅いうえに、以前より明らかに重くなりました。
王宮鳩舎係』
リネットは、まるもちを見た。
まるもちは何も知らない顔で、卓上のパン屑を拾っている。
「明らかに重くなったそうよ」
まるもちは胸を張った。
褒められたと思ったらしい。
リネットは紙の裏へ返事を書いた。
『王宮鳩舎係様へ。
この子は、私が幼い頃に育てた鳩です。
当時から、食べることが大好きでした。
パンは少ししか与えておりません。
重くなったのは、本人の責任だと思われます。
なお、名前は「まるもち」です。』
紙を脚へ結ぶと、まるもちは窓から飛び立った。
しかし、すぐに戻ってくる。
リネットの皿から最後のパン屑を一つ食べてから、今度こそ飛んでいった。
翌朝、返事が届いた。
『まるもちという名だったのですね。
王宮では、第七号と呼ばれていました。
八年前、王都へ向かう郵便馬車の屋根に乗ってきたところを、王宮の鳩舎係が保護したそうです。
人を怖がらず、どれほど遠くへ放しても王宮へ帰ってくるため、伝書鳩として育てられました。
先月、街道の橋が壊れ、訓練経路が南側へ変更されました。
その途中で、昔暮らしていた家の近くを通ったのでしょう。
最近は訓練へ出すたび、途中で姿を消します。
八年たっても、最初の家を覚えていたようです。』
リネットは、何度も手紙を読み返した。
まるもちは、郵便馬車について王都まで行ってしまったらしい。
そして八年後、偶然、昔の家の近くを飛んだ。
修理された鳩舎。
扉の上で鳴る、昔と同じ鈴。
庭から聞こえた、リネットの口笛。
それらを見つけ、まるもちは迷わず戻ってきたのだ。
「帰る場所を、覚えていたのね」
まるもちは、リネットの膝の上で丸くなった。
その日から、まるもちは毎朝、王宮と田舎の家を往復するようになった。
そして脚には、必ず手紙が結ばれていた。
『今日の空は、そちらでも晴れていますか。』
『よく晴れています。
ただし、まるもちが窓辺の植木鉢を倒したため、部屋の中は土だらけです。』
『申し訳ありません。
王宮でも、昨日、花瓶を一つ割りました。
本人は反省していません。』
『こちらでも反省していません。眠っています。』
王宮鳩舎係は、名前を書かなかった。
リネットも、名前を書かなかった。
互いの顔も、年齢も、詳しい身分も知らないまま、二人はまるもちを通して手紙を交わした。
内容は、ほんのささいなことばかりだった。
林檎の花が咲いたこと。
王宮の池に、鴨の親子がやってきたこと。
リネットが焼いた菓子を、まるもちが盗んだこと。
鳩舎係が仕事中に眠ってしまい、まるもちに髪を引っ張られたこと。
ある朝には、こんな手紙が届いた。
『朝食は食べましたか。』
リネットは少し考えてから返した。
『食べました。どうして、そのようなことをお尋ねになるのですか。』
翌日の返事には、こう書かれていた。
『昨日のあなたの文字が、いつもより少し弱く見えたからです。
余計なことでしたら、すみません。』
その前日、父から手紙が届いていた。
ベルナールとクラリスの婚約が正式に決まり、近く王宮の祝宴で発表されるという知らせだった。
リネットは、自分では気にしていないつもりだった。
それでも、文字には表れていたらしい。
ベルナールは三年間、リネットが疲れていても、悲しんでいても気づかなかった。
顔も知らない手紙の相手は、紙に並んだ文字だけで気づいた。
リネットは、しばらく迷ってから返事を書いた。
『余計なことではありません。昨日は少しだけ、昔のことで落ち込んでいました。
けれど、朝食は食べました。林檎のジャムも、たくさん塗りました。』
次の日。
まるもちは、手紙と一緒に小さな包みを運んできた。
中には、王都で人気の店の砂糖菓子が一つ入っていた。
『林檎のジャムには負けるかもしれませんが、甘いものは気分を少しだけ助けます。
一つはあなたへ。もう一つは私の分でしたが、まるもちに奪われました。』
見ると、まるもちの嘴の周りに白い砂糖がついていた。
「あなたという子は」
叱られているのに、まるもちは嬉しそうに鳴いた。
リネットは笑った。
婚約を破棄されてから、これほど声を上げて笑ったのは初めてだった。
◇
手紙のやり取りが始まって、一か月が過ぎた頃。
二人は、名前だけを教え合うことになった。
『私は、リネットと申します。田舎で、庭の手入れをしながら暮らしています。』
返ってきた手紙には、「フィン」と書かれていた。
『私はフィンです。王宮で働きながら、鳩舎の管理を手伝っています。
本来の役目はほかにもありますが、鳩の世話をしているときが一番落ち着きます。』
リネットは、フィンが王宮に勤める若い役人か、騎士の一人なのだろうと思った。
筆跡は美しく、言葉遣いも丁寧だった。
けれど、偉そうなところは少しもない。
『王宮のお仕事は、大変ですか。』
『大変というより、自分で選べることが少ないのです。
起きる時間も、食べるものも、会う相手も、ほとんど決められています。』
『鳩のお世話は、ご自分で選ばれたのですか。』
『はい。ただ、最初は周囲に笑われました。
もっと立派な仕事をしろと言われました。』
『生き物のお世話は、立派な仕事です。
少なくとも、まるもちは、あなたがいなければ困るでしょう。』
翌朝、返ってきた手紙には、一行だけ書かれていた。
『あなたにそう言っていただけると、なぜかとても安心します。』
その文字を読んだとき、リネットの胸が少しだけ温かくなった。
顔を知らない相手である。
声も知らない。
それでも毎朝、手紙が届くのが楽しみだった。
窓硝子をつつく音がすると、すぐに椅子から立ち上がった。
何度も手紙を読み返し、返事を書くときには、いつもより丁寧にペンを動かした。
ある日、フィンから尋ねられた。
『リネットは、これから何をしたいですか。』
リネットは、すぐには答えられなかった。
これまでは、ベルナールと結婚することが未来だった。
彼の妻になり、彼の家を守る。
それ以外の人生を、考えたことがなかった。
けれど今は、誰にも急かされず、庭で過ごす時間が好きだった。
村の子供たちへ本を読んでやる時間も、祖母が遺した家を少しずつ直すことも好きだった。
『この家を、誰でも休める場所にしたいです。
村には、旅人が安心して泊まれる宿がありません。
庭で採れた林檎を使って菓子を焼き、本を置いて、疲れた人が少し休んでから出発できる家にしたいと思います。
まだ、思いついたばかりですが。』
翌朝、フィンから長い手紙が届いた。
『とてもよい考えだと思います。
まるもちが毎日寄り道をして、満足そうに帰ってくるのを見ていると、そこはきっと、帰りたくなる場所なのだろうと思っていました。
人間にとっても、同じ場所になるはずです。宿が開いたら、私も客として訪れてよいでしょうか。』
『もちろんです。ただし、まるもちが壊した植木鉢の代金をいただきます。
まるもちには、支払う様子がありません。』
『では、私が働きます。林檎の収穫くらいはできます。』
リネットは、まだ会ったこともないフィンが、庭で林檎を拾う姿を想像した。
なぜか、その光景は少しおかしく、一方で二人並ぶ姿は自然に思えた。
◇
初夏になり、リネットのもとへ王宮から招待状が届いた。
王妃が主催する夜会への招待だった。
父からも、欠席すれば余計な憶測を呼ぶと説得された。
リネットは迷った末に、出席を決めた。
そのことをフィンへ知らせると、返事にはこう書かれていた。
『私も、その日は王宮におります。
会場でまるもちを見かけたら、後をついてきてください。』
夜会の日。
リネットは淡い若草色のドレスを選んだ。
以前なら、ベルナールが好む色を選んでいただろう。
けれど今日は、自分が着たいと思った色にした。
会場へ入ると、すぐにベルナールとクラリスの姿が目に入った。
二人は並んで、招待客へ挨拶をしている。
リネットに気づくと、ベルナールが近づいてきた。
「久しぶりだな、リネット」
「ご無沙汰しております」
「田舎で暮らしていると聞いた。寂しくはないか」
「毎日、楽しく過ごしています」
「強がらなくてもいい」
ベルナールは、リネットをいたわっているつもりらしい。
「君は昔から、弱いところを見せないからな。それでは、誰も君を助けてよいのか分からない」
以前なら、その言葉を真剣に受け止めただろう。
自分がもっと可愛らしく頼っていれば、婚約を破棄されなかったのだろうかと、考えたかもしれない。
けれど今は、素直に疑問だった。
「ベルナール様は、私が困っていないか、尋ねたことがございましたか」
ベルナールが黙った。
「私は、あなたを必要としていなかったのではありません」
リネットは続けた。
「必要とする機会を、いただけなかっただけです」
「私は、ただ――」
そのとき、一羽の鳩が勢いよく飛んできた。
まるもちは、ベルナールの頭へ着地した。
きれいに整えられた髪が、丸い腹の下で潰れる。
「何だ、この鳥は!」
ベルナールが手を振り回すと、まるもちはひらりと飛び上がった。
そのままクラリスの帽子から、飾りの苺を引き抜く。
食べようとして、偽物だと気づいたらしい。
不満そうに地面へ落とした。
周囲から、小さな笑い声が上がった。
「まるもち」
リネットが呼ぶと、まるもちは彼女の頭上を一周し、庭の奥へ飛んでいった。
数歩先で振り返り、また少し飛ぶ。
フィンの手紙を思い出した。
リネットは、まるもちの後を追った。
鳩は人混みを抜け、生垣に囲まれた小さな庭へ入っていく。
そこには、一人の青年が立っていた。
柔らかな灰金色の髪。
深い緑色の瞳。
白を基調とした礼装には、王族だけが身につけられる金の刺繍が施されている。
リネットは足を止めた。
青年の顔には見覚えがあった。
第二王子フィンレイ殿下。
まるもちは、迷うことなく青年の肩へ止まった。
青年は、少し困ったように笑った。
「初めまして、リネット」
声を聞いたことはない。
それでも、その呼び方だけで分かった。
「……フィン?」
「はい」
フィンレイは、申し訳なさそうに頭を下げた。
「王宮で鳩舎の管理を手伝っている、フィンです」
「第二王子殿下ではなく?」
「それも、間違いではありません」
「本来の役目はほかにもあると、書いていらっしゃいましたね」
「嘘は書いていないつもりでした」
「身分を隠していたことも、嘘ではないと?」
フィンレイの笑みが消えた。
「申し訳ありません」
「なぜ、最初から教えてくださらなかったのですか」
「王子だと名乗れば、あなたは手紙の言葉を選んでしまうと思ったからです」
そのとおりだった。
第二王子へ送ると知っていれば、リネットは植木鉢の話も、婚約を破棄されて落ち込んだ話も書かなかった。
「あなたが、私をただのフィンとして扱ってくださることが嬉しかったのです」
フィンレイは、まっすぐリネットを見た。
「ですが、いつまでも隠して手紙を続けるのは、誠実ではないと思いました。直接、謝りたかったのです」
リネットはすぐには答えられなかった。
驚きもした。
騙されたようにも感じた。
それでも、彼が手紙の中で語ったことまで、すべて嘘だったとは思えなかった。
肩に乗るまるもちが、フィンレイの髪をつついた。
「まるもちは、最初から知っていたのですね」
「おそらく、何も考えていないと思います」
「そうでしょうか」
「今朝、私の朝食まで食べました」
リネットは、思わず笑った。
「それは、何も考えていないかもしれません」
フィンレイも、ほっとしたように笑った。
「少し、庭を歩いていただけますか」
彼が手を差し出した。
「手紙では何度も話しましたが、直接お話しするのは初めてですから」
リネットは、少し迷ってから、その手を取った。
「では、まず確認したいことがございます」
「何でしょう」
「植木鉢の代金は、いつ払っていただけますか」
フィンレイは真剣な顔で答えた。
「林檎の収穫期に、身体で働きます」
◇
フィンレイは、本当に林檎の収穫を手伝いに来た。
王族が田舎の小さな家へ来たことで、村は一時大騒ぎになった。
けれど本人は簡素な服へ着替えると、朝から籠を抱えて庭へ出た。
「殿下、その林檎はまだ青いです」
「では、こちらは?」
「虫が食べています」
「これは?」
「それは林檎ではありません」
フィンレイは手の中の梨を見つめた。
「思っていたより難しいですね」
「鳩のお世話のほうが向いていらっしゃいます」
木の下では、まるもちが落ちた林檎をつついている。
「まるもち。食べすぎよ」
声をかけると、まるもちは林檎を嘴で転がし、見つかっていないふりをした。
フィンレイは、それから何度もリネットの家を訪れた。
来られない日には、これまでどおり手紙を送った。
一緒に庭を歩き、本を読み、村の祭りへ出かけた。
フィンレイはリネットの望みを、王子の力ですぐに叶えようとはしなかった。
旅人のための宿を開きたいと聞くと、まず必要な椅子の数を一緒に数えた。
古い壁へ漆喰を塗り、壊れた戸棚を直し、庭の隅へ新しい鳩舎を作った。
やがて、青い屋根の家は、小さな宿として開かれた。
名前は、「ふたつの帰り道亭」。
まるもちに、二つの帰る場所があることから名づけた。
旅人は庭で採れた林檎の菓子を食べ、本棚に並ぶ本を読み、疲れが取れるまで休んだ。
窓辺には、いつもまるもちがいた。
ただし、客の朝食を狙うため、注意書きが必要だった。
『窓辺の鳩へ、パンを与えないでください。
本人は、すでに朝食を済ませています。』
その下には、フィンレイが書き加えた。
『本人は、まだ食べていないと主張しますが、嘘です。』
宿を開いて一年が過ぎた頃。
フィンレイは、リネットへ求婚することを決めた。
林檎の花が咲く季節だった。
彼は王都の職人へ頼み、小さな指輪を用意した。
派手な宝石ではない。
林檎の葉をかたどった銀細工の中央に、淡い緑色の石がはめ込まれている。
指輪の箱には、小さな手紙を入れた。
何度も書き直した末に、ようやく決めた言葉だった。
その日、フィンレイは王宮の母の部屋を訪れていた。
「本当に決めたのね」
王妃は、息子を見て微笑んだ。
「はい」
「王子妃になれば、あの方は今までどおり自由には暮らせないかもしれないわ」
「分かっています。だからこそ、私の望みだけで決めるつもりはありません」
フィンレイは、指輪の箱を握った。
「今日、すべて話します」
部屋の外には、王妃へ届け物に来ていたリネットがいた。
宿で使う菓子の一部を、王妃が気に入り、王宮へ届けることになったのだ。
侍女に案内され、扉の前で待っていたリネットの耳へ、フィンレイの声が届いた。
「もう、彼女へ手紙を送り続けるつもりはありません」
リネットの胸が、冷たくなった。
部屋の中では、フィンレイが続けていた。
「手紙だけの関係は、今日で終わりにします。これからは――」
その先は聞こえなかった。
別の侍女が廊下を通り、リネットへ声をかけたからだ。
「リネット様。こちらでお待ちくださいませ」
リネットは、扉から離れた。
手紙だけの関係は、今日で終わりにする。
フィンレイは王子である。
いつか、身分の釣り合う相手と結婚しなければならない。
それは、最初から分かっていたはずだった。
それでも、どこかで期待していた。
このまま手紙を続けられるのではないか。
青い屋根の家へ来てくれるのではないか。
自分の隣で、笑ってくれるのではないか。
けれど、王族には王族の事情がある。
彼は今日、それを伝えるつもりなのだ。
リネットは、フィンレイが自分を哀れんで、別れを言い出せずにいるのだと思った。
だから、自分から終わらせようと決めた。
◇
その日の午後。
フィンレイは、リネットを王宮の小さな庭へ呼び出した。
二人が初めて顔を合わせた場所だった。
林檎の花はないが、白い薔薇が咲いている。
フィンレイの上着の内側には、指輪の箱が入っていた。
「リネット。今日は、あなたに話したいことがあります」
「その前に、私から申し上げてもよろしいでしょうか」
リネットの声は、少し硬かった。
フィンレイは不安を覚えながらも、うなずいた。
「もちろんです」
「これまで、本当にありがとうございました」
リネットは頭を下げた。
「まるもちを通して手紙をいただけたことも、宿を手伝っていただけたことも、決して忘れません」
「なぜ、急にそのようなことを」
「もう、手紙は終わりにしましょう」
フィンレイの手が止まった。
「終わりに?」
「殿下には、殿下のお立場がございます」
リネットは、泣かないように微笑んだ。
「これ以上、私のために困る必要はございません」
「私は、困ってなど――」
「ご説明は不要です」
リネットは遮った。
もし、フィンレイの口からほかの女性と結婚すると聞けば、平静ではいられない気がした。
「私は十分に幸せでした。ですから、どうかお気になさらないでください」
フィンレイは、彼女の顔を見つめた。
リネットが王宮で暮らすことを望んでいないことは、知っていた。
以前、彼女は手紙に書いていた。
もう、自分の人生を誰かに決められたくない。
自分で選んだ家で、自分の好きな仕事をして暮らしたい。
だからフィンレイは、求婚することを迷っていた。
王子妃という立場を負わせることが、彼女の幸せを奪うのではないかと恐れていた。
そして今、リネットは関係を終わらせたいと言っている。
彼女は、王子との結婚を望んでいない。
フィンレイには、そう聞こえた。
上着の内側にある指輪が、急に重くなった。
ここで取り出せば、リネットを困らせるだけだ。
王子から求婚されれば、彼女は断ることさえ難しくなる。
「分かりました」
フィンレイは、ようやく答えた。
無理に笑おうとしたが、うまくいかなかった。
「あなたがそう望むのであれば」
リネットの顔が、一瞬だけ揺れた。
けれど、すぐに微笑んだ。
「今まで、ありがとうございました」
「こちらこそ」
二人は、何も言えないまま別れた。
その日から、まるもちが窓辺へ来ても、脚に手紙は結ばれていなかった。
◇
フィンレイは、指輪を王宮の机の引き出しへしまった。
捨てることはできなかった。
けれど、二度と取り出すこともないと思った。
指輪の箱に入れた手紙も、そのままにした。
『手紙だけの関係を、今日で終わりにしたいと思います。
これからは、同じ家から、毎朝あなたへ手紙を書かせてください。
あなたが疲れた日に帰ってこられる人になりたい。
嬉しい日には、一番に話したいと思ってもらえる人になりたい。
あなたの夢を叶えてあげるのではなく、隣で一緒に叶えたい。
私と結婚していただけますか。』
もう、渡すことのない言葉だった。
フィンレイは引き出しを閉め、鳩舎へ向かった。
まるもちは、止まり木の上で丸くなっていた。
「お前には、帰る場所が二つあってよいな」
フィンレイがつぶやくと、まるもちは片目だけを開けた。
「私には、一つもなくなった気がする」
まるもちは返事をしなかった。
フィンレイは、その頭を一度だけ撫で、鳩舎を出た。
翌朝。
机の引き出しが、わずかに開いていた。
指輪の箱が消えていた。
◇
リネットは、宿の窓辺でパンを焼いていた。
フィンレイと別れてから、一ヶ月が過ぎていた。
宿には客がいる。
仕事もある。
村の子供たちも遊びに来る。
以前と同じ生活へ戻っただけだった。
それなのに、朝になるたび、窓を見てしまう。
まるもちが来ても、脚に手紙がないことを確かめ、胸が沈む。
自分から終わりにしたのだから、仕方がない。
そう言い聞かせていた。
こつん、と窓が鳴った。
まるもちがいた。
「おはよう」
窓を開けると、まるもちは部屋へ入ってきた。
今日は、嘴に小さな箱のリボンをくわえている。
「何を持ってきたの?」
まるもちは、卓上へ箱を置いた。
深い緑色の布張りの箱。
蓋には、王家の紋章が小さく刻まれている。
「まるもち。これは、持ってきてはいけないものではないの?」
鳩は胸を張った。
絶対に、勝手に持ってきたものだ。
持ち主へ返さなければならない。
そう思いながら箱を手に取ると、蓋の隙間から小さな紙が出ていた。
そこには、リネットの名前が書かれている。
リネットは迷った末に、箱を開けた。
中には、林檎の葉をかたどった指輪。
そして、折り畳まれた手紙が入っていた。
『リネットへ。
手紙だけの関係を、今日で終わりにしたいと思います。
これからは、同じ家から、毎朝あなたへ手紙を書かせてください。』
リネットの指が止まった。
何度も、最初の二行を読み返す。
あの日、王妃の部屋の前で聞いた言葉。
手紙だけの関係を、今日で終わりにする。
フィンレイは、自分との関係を終わらせようとしていたのではない。
手紙だけでつながる関係を終わらせようとしていたのだ。
『あなたが疲れた日に帰ってこられる人になりたい。
嬉しい日には、一番に話したいと思ってもらえる人になりたい。
あなたの夢を叶えてあげるのではなく、隣で一緒に叶えたい。
私と結婚していただけますか。』
文字が、涙で滲んだ。
「私、何をしていたのかしら」
まるもちは首を傾げた。
「あなたの飼い主は、どうして何も言わなかったの」
言おうとしていたのだ。
自分が、先に別れを告げた。
説明も聞かず、言葉を遮った。
リネットはすぐに紙を取り出した。
震える手で、短い返事を書く。
『指輪を受け取りました。
今日の空は、こちらではよく晴れています。
殿下のいらっしゃる場所では、いかがですか。
今すぐあなたに会いたいです。』
紙をまるもちの脚へ結ぶ。
「お願い。今度は寄り道をしないで届けて」
まるもちは、卓上のパンを見た。
「帰ってきたら、好きなだけあげます」
まるもちは、すぐに窓から飛び立った。
◇
フィンレイは、王宮中を探していた。
指輪の箱がない。
侍従も侍女も知らないという。
最後に鳩舎へ向かうと、遠くの空から一羽の鳩が飛んできた。
「まるもち?」
鳩はフィンレイの肩へ着地した。
嘴の周りに、林檎のジャムがついている。
「お前、まさか」
脚には、小さな紙が結ばれていた。
フィンレイは、急いで紙を開いた。
一度読む。
もう一度読む。
「馬を用意してくれ」
近くにいた侍従が驚いた。
「殿下、これから会議が」
「兄上には、人生で最も重要な用事ができたと伝えてくれ」
「どちらへ?」
フィンレイは、すでに走り出していた。
「青い屋根の家だ」
◇
夕方。
リネットは、宿の庭でフィンレイを待っていた。
何度も門の方角を見た。
まるもちは、約束どおりパンをもらい、窓辺で満足そうに眠っている。
やがて、街道の向こうから馬が現れた。
フィンレイは宿の前で馬を降りると、息を切らして庭へ入ってきた。
「リネット」
「フィンレイ様」
二人はしばらく、何も言えずに向かい合った。
先に口を開いたのは、フィンレイだった。
「指輪は」
リネットは、手の中の箱を見せた。
「まるもちが持ってきました」
「やはり、あいつが」
窓辺を見ると、まるもちは目を閉じたまま、聞こえないふりをしていた。
「申し訳ありません」
リネットは頭を下げた。
「私は、あなたのお話を最後まで聞きませんでした」
「いえ。私も、もっと早く気持ちを伝えるべきでした」
「王妃様のお部屋の前で、聞いてしまったのです。手紙を終わりにすると」
「その後を聞かなかったのですね」
「はい」
「私は、あなたが王子との結婚を望んでいないのだと思いました」
「私は、あなたがほかの方と結婚するのだと思いました」
二人は顔を見合わせた。
あまりにも見事に、互いが互いの言葉を誤解していた。
フィンレイが、小さく笑った。
「まるもちだけが、分かっていたのでしょうか」
「何も考えずに、きれいな箱を盗んだだけかもしれません」
「その可能性のほうが高いですね」
それでも、まるもちが指輪を運ばなければ、二人は別れたままだった。
フィンレイは、リネットの前へ片膝をついた。
今度は、誰にも遮られない。
手紙でもない。
「リネット」
彼は、まっすぐに彼女を見上げた。
「あなたが疲れた日に、帰ってこられる人になりたい」
手紙に書かれていた言葉だった。
けれど、本人の声で聞くと、胸の奥へまっすぐに届いた。
「嬉しい日には、一番に話したいと思ってもらえる人になりたい。あなたの夢を叶えてあげるのではなく、隣で一緒に叶えていきたい」
フィンレイは、リネットの手を取った。
「私と結婚していただけますか」
リネットは微笑んだ。
「喜んで」
フィンレイは、リネットの指へ指輪を通した。
「あなたを愛しています」
リネットは、少しだけ頬を赤くした。
「私も、あなたを愛しています」
その瞬間、まるもちが飛んできた。
二人の間へ無理やり割って入り、リネットの肩へ止まる。
自分がすべてを整えたと言いたげに、胸を大きく膨らませている。
「まるもちにも、お礼を言わなければなりませんね」
フィンレイが言った。
「何が欲しい?」
まるもちは、窓辺に置かれたパンを見た。
「今日はもう、駄目です」
リネットが即答した。
まるもちは不満そうに鳴いた。
◇
結婚後も、リネットとフィンレイは、王宮と青い屋根の家を行き来して暮らした。
リネットは王子妃となったが、宿を閉じなかった。
フィンレイも王族としての仕事を続けながら、時々宿を手伝った。
二人は、同じ屋根の下でも手紙を書いた。
朝、寝室の端から端まで。
昼、庭から書斎まで。
夜、隣の椅子から隣の椅子まで。
まるもちは一通運ぶたび、褒美としてパン屑を要求した。
ある朝。
リネットのもとへ、短い手紙が届いた。
『今日の空は、こちらでは青いです。
そちらでは、どうですか。』
窓の向こうを見ると、フィンレイは庭に立ち、こちらを見上げていた。
二人の間には、ほんの数メートルしかない。
リネットは返事を書いた。
『こちらでも青いです。
ただし、まるもちが私の朝食を食べました。』
八年前。
幼いリネットが助けた、小さな鳩。
まるもちは、最初に自分を温めてくれた手も、安心して眠った鳩舎も、ずっと忘れなかった。
遠い王宮から戻ってきて、一人の青年と、たくさんの手紙を連れてきた。
帰る場所を二つ持つ、欲張りな鳩は、リネットにも二つの帰る場所をくれた。
愛する人が待つ場所と。
愛する人と、一緒に帰る場所を。
「まるもち」
リネットが呼ぶと、鳩は期待に満ちた目で振り返った。
「パンは、もうありません」
まるもちは、明らかに不満そうな声で鳴いた。
その直後、フィンレイの朝食を狙って庭へ飛び立つ。
青い空の下、丸い身体がゆっくりと遠ざかっていく。
けれど二人は、もう心配しなかった。
まるもちは必ず帰ってくる。
大切な人のいる場所を、決して忘れない鳩なのだから。




