3-3:兵士は兵士とだけ戦えばいいのに
3-3:兵士は兵士とだけ戦えばいいのに
二人は、焼け落ちた屋根の影に身を寄せ、しばらく砲撃が遠のくのを待った。
風向きが変わったのか、焦げた臭いに混じって湿った土の匂いが漂ってくる。
崩れた壁の隙間から見える空は、煙でくすんでほとんど色を失っていた。
静かな時間ではあったが、安らぎとは程遠い。
ただ次の破壊が来るまでの、短い猶予が与えられているだけだった。
その猶予は命を休ませるためではなく、命が次に壊されるまでの間隔を少しだけ引き延ばしているに過ぎない。
少年は膝を抱えるようにして座り込み、うつむいていた。
さっきまで見てきた光景が頭から離れないのだろう。
その痩せた肩は小刻みに揺れていたが、泣き声は漏らさなかった。
泣けば何かがこぼれてしまうと知っている子どものように、必死でこらえていた。
もう泣くことすら贅沢だと、どこかで覚えてしまった子どもの姿だった。
男は周囲の気配に意識を向けつつ、視界の端でその様子を見ていた。
本来なら、感傷に引きずられる場面ではない。
移動の機会を待ち、次のルートを選び、危険を排除する。
彼の頭が考えるべきことはそれだけのはずだった。
そうでなければ生き残れない。
そうやって、彼は長いあいだ自分を保ってきた。
やがて少年が、小さく口を開いた。
「……ねえ」
男は返事をしない。
だが少年は構わず、かすれた声を続けた。
「兵隊は、兵隊とだけ戦えばいいのに」
その言葉は、あまりに素朴で、あまりに鋭かった。
男の視線が、ほんのわずかに少年へ向く。
少年は顔を上げていなかった。
膝を抱えたまま、足元の瓦礫を見つめている。
独り言のようでもあり、誰かに聞かせたかった本音のようでもあった。
誰かが答えを持っているはずだと、まだどこかで信じている子どもの声だった。
「兵隊どうしが戦うなら、まだ分かるよ」
途切れ途切れに、少年は言う。
「でも、どうして家がなくなるの。どうして、お母さんたちが死ぬの。どうして、小さい子まで逃げなきゃいけないの」
男は答えられなかった。
答えなら、軍はいくらでも持っている。
戦略上必要な攻撃。
敵勢力の掃討。
巻き込まれたのは不運。
大局のための犠牲。
平和のための痛み。
そうした言葉を、彼はこれまで何度も聞いてきた。
聞くだけではない。
信じなくとも、使ってきた。
そういう言葉を盾にしなければ、引き金を引き続けることなどできなかったからだ。
だが今、目の前の少年に対して、そのどれひとつとして口に出すことができなかった。
それらは説明ではあっても、答えではない。
少なくとも、倒れた母親の横で肩を揺らしていた幼子には何の意味も持たない。
片腕のちぎれたぬいぐるみを抱いたまま、崩れた壁の下から伸びる手を見つめていた子どもにも。
血を流しながら布袋を抱えていた老人にも。
いまこの瞬間、湿った土の匂いと灰の中で息を潜めているこの少年にも。
兵士は兵士とだけ戦えばいいのに。
たったそれだけの言葉が、男の胸の内側に長く沈んでいたものを静かに掻き回した。
彼はこれまで、戦場を機能として見てきた。
地形。
目標。
排除対象。
生存率。
射線。
撤退経路。
そうやって整理し、削ぎ落とし、感情を排してきた。
でなければ戦い続けられなかったからだ。
一つひとつを人の顔として見てしまえば、足が止まる。
足が止まれば死ぬ。
だから切り離した。
目の前の泣き声と、自分の引き金を。
戦場の惨状と、自分の任務を。
そうして何とかここまで生き延びてきた。
だが、整理しきれないものが確かにあった。
命令の線引きの外側で、踏み潰される者たち。
誰の勝利にも数えられない死。
記録にも残らず、報告にもならず、ただ消えていく暮らし。
守るという言葉から最も遠い場所で、もっとも守られるべき人間が壊れていく現実。
彼は、それを知らなかったわけではない。
見ていなかったわけでもない。
ただ、見ないふりをしてきたのだ。
見れば手が止まる。
考えれば足が止まる。
足が止まれば死ぬ。
だから、見えないものとして処理してきた。
目の前の破壊を風景に変え、泣き声を雑音に変え、自分だけはそこから一歩引いた場所に立っているつもりでいた。
しかし今、その境界が少年の一言によって、ひび割れ始めていた。
「……知らない」
男はようやく、それだけを口にした。
自分でも驚くほど弱い声だった。
銃声の中でも掻き消えてしまいそうなほど頼りない、答えにならない答え。
だが、それが今の彼に言える唯一の本音だった。
少年がゆっくり顔を上げる。
その目に浮かんでいたのは責める色ではなかった。
怒りでも、恨みでもない。
ただ、どうしてなのか本当に分からない、という子どもの問いだった。
世界がこうなっている理由を、誰かが説明してくれると思っていた子どもの目だった。
男はその視線を受け止めきれず、崩れた通りの向こうを見た。
焼けた家々。
煙。
壊れた日常。
助けを待ちながら、助けられない人々。
何度も見てきたはずの光景。
だが今は、その一つひとつが妙に輪郭を持って迫ってくる。
これまでなら、それらは背景だった。
任務の障害でも、目的でもない、ただの風景だった。
前進の途中で通り過ぎる残骸の一部でしかなかった。
だが今は違った。
風景のはずのものが、一つひとつ重みを持って彼の前に現れている。
名もないまま消されていく命のかたちとして。
誰のための戦いなのか。
何を守るための戦争なのか。
守るという言葉を使うなら、なぜ守られるべき者たちが最初に壊れていくのか。
問いはまだ言葉になりきらなかった。
だが確実に、男の中で膨らみ始めていた。
長く蓋をしてきたものの奥で、鈍く、しかし否応なく。
遠くで再び爆発が起きる。
男は反射的に立ち上がり、少年の肩を引き寄せて壁際へ伏せさせた。
身体は、もう先に動いていた。
少年を守るように覆いかぶさった格好のまま、男は一瞬だけ息を止める。
爆風が通り過ぎ、破片の音がやがて収まっていく。
壁の向こうで何かが崩れ、灰が頭上に降りかかる。
それでも彼の腕は、少年を囲うように離れなかった。
その数秒のあいだに、自分が何をしたのかを悟ったとき、男の胸の奥で何かが静かに軋んだ。
守るつもりなどない。
そう思っていたはずだった。
そう決めてきたはずだった。
守ろうとすれば、いずれまた失う。
失えば、自分は壊れる。
だからもう二度と、そうしないと決めたはずだった。
だが彼の身体は、すでにその否定を裏切り始めていた。
理屈より早く。
命令より先に。
長いあいだ捨てたと思っていたものの方へ、確かに動き始めていた。




