行かない理由
灯と話してから、諒は二日ほど、同窓会の事をわざと考えないようにしていた。考えれば、胸の奥がざわつく。ざわついたまま仕事へ行けば、ロビーのガラスに映る自分の顔が少しだけ落ち着かなくなる。それが嫌で、諒はスマートフォンを触る回数そのものを減らした。
けれど、考えないからといって消える種類のものではなかった。夜勤の休憩時間、紙コップのコーヒーを前にすると、灯の言葉がふいに戻ってくる。
過去を確かめに行く人の顔で行かないで。
その一文だけが、ほかの会話の細部よりずっと鮮明に残っていた。諒はあの時、結局ちゃんとした返事をしなかった。だからいまも、自分が何をしようとしているのかを説明できない。
澪に会いたいのか。
高校時代の答え合わせをしたいのか。
結城や篠原を見て、自分の中のねじれをもう一度確かめたいのか。
どれも少しずつ違う気がしたし、どれも少しずつ当たっている気もした。
行きたい、と言うには、気持ちはもう少し濁っていた。
行きたくない、と言うには、心がまだ引かれすぎていた。
*
その週の金曜、ホテルでは地元の短大の同窓会が入っていた。
卒業十五周年だか何だかで、宴会場の前には、懐かしい顔ぶれがどうこう書かれた立て看板が置かれていた。幹事らしい女性たちが受付で名札を並べ、少し遅れてきた男が、まだ始まってないですか、と息を切らして入っていく。会場の扉が開くたびに、中から笑い声と皿の触れ合う音が漏れた。
諒はフロントからその様子を何度か見た。見たくて見ているわけではなかった。ただ目に入る位置にあるだけなのに、今はそういうものばかり妙に引っかかる。
同窓会というのは、もっと特別な空気をまとったものだと思っていた。
再会と、若さと、取り戻せない時間と、そういうものがむき出しで会場に充満するのだと、どこかで勝手に思い込んでいた。
けれど実際に見えるのは、遅刻してくる人間がいて、受付で会費の確認をする人間がいて、仕事の電話を廊下で済ませる人間がいて、トイレの場所を尋ねる人間がいる、ごく普通の集まりだった。
みんな笑っている。
でも、その笑いは昔の自分に戻っているというより、今の年齢のまま懐かしがっている笑い方に見えた。諒はそのことに、少しだけ気持ちを刺された。
自分だけが、同窓会というものに勝手に大きい意味を与えすぎているのかもしれない。
ほかの人間にとっては、昔の顔を見て、少し話して、またそれぞれの生活へ戻っていくための夜でしかないのかもしれない。そう思うと少し楽になりそうなのに、逆に苦しくもあった。
自分の中で二十年も膨らませてきたものが、ほかの誰かにとってはそんな程度のものだったらどうするのだろう。
澪にとっても。
結城にとっても。
篠原にとっても。
宴会が始まって一時間ほどした頃、年配の女性客がフロントへ来て、会場の集合写真はどこで撮るのがいいかしらと訊いてきた。諒は案内図を見せながら、宴会場前のロビーなら広さが取れます、と答えた。女性はにこにこと頷き、
「こういうの、やっぱり一度集まると楽しいものねえ」
と言った。
諒は、そうですね、と返した。それしか言えなかった。
女性はそのまま去っていったが、その“楽しいものねえ”という軽い一言が、妙にあとを引いた。
楽しい。
それだけのこととして、自分は高校時代を思い出せなくなっている。そこに最初から勝ち負けや分岐点の意味を乗せてしまう。その違いが、諒には効いた。
*
夜勤明けの帰り、諒は駅前のコンビニに寄って、灯に頼まれていた食パンを買った。
昼に近い時間で、店内には学校帰りの中学生が二人、アイスの棚の前でふざけあっている。レジに並びながら、諒はふと、自分が高校二年だった頃の冬を思い出した。あの頃もたぶん、こういうありふれた昼がずっと続いていたのだろう。進路の話をして、コンビニで肉まんを買って、結城の軽口に苛立って、澪のメールを待って、篠原の横顔に勝手な意味を見ていた。
いま思い返すとどれも決定的に見える。だがその最中には、ただの日常の断片だった。
諒は会計を済ませ、店を出た。空は薄曇りで、冬の陽はどこか頼りなかった。
そのまま帰るつもりで歩き始めたが、駅へ向かう人の流れを見ているうちに、なぜか足が少しだけ遠回りした。古本屋の前を通り、商店街のはずれを抜け、住宅街へ入る。目的があるわけではない。ただ、まっすぐ家へ帰る気になれなかった。
やがて諒は、小さな公園の脇で足を止めた。
名前も覚えていないその公園には、古びたベンチと、色の褪せた遊具があるだけだ。平日の昼で、人影はない。諒はベンチに腰を下ろし、買ったばかりの食パンの袋を脇に置いた。
ポケットからスマートフォンを出す。
諒はしばらく迷ってから、結城のトーク画面を開いた。
何人くらい来るの
打って、すぐには送らなかった。
そんなことを聞いてどうする。
参加人数を知ったところで、自分の迷いに決着がつくわけではない。
それでも、何か具体的な情報に触れたかった。漠然とした“同窓会”という塊ではなく、会場の規模や顔ぶれのほうへ気持ちを寄せれば、自分の中の大げさな意味づけが少しは薄まるかもしれないと思った。
送信すると、結城からの返事は意外と早かった。
たぶん五十人ちょい。思ったより集まった
お前のクラスの佐伯も来るってよ
佐伯。
あの、目立たないくせに、なぜか昔から人の話をよく覚えていた男。
今は書店をやっていると誰かから聞いた気がする。
派手な再会や答え合わせとは縁がなさそうな名前が、そこに混じっているだけで、同窓会が少しだけ現実の集まりに戻る。
諒は、
そうなんだ
とだけ返した。
数秒後、結城からまた来る。
来るなら早めに言えよ。名札の都合あるし。まあ、ギリでもどうにかするけど
その雑な親切が、結城らしかった。
諒は小さく息をついて画面を消した。
ギリでもどうにかする。
そういう逃げ道をいつも残してくれるから、結城は厄介なのだと思う。断ち切るでもなく、強く引くでもなく、少しだけ余白を置いて待つ。その余白が、諒みたいな人間にはいちばん効く。
*
家に戻ると、灯はまだ仕事から帰っていなかった。
静かなリビングに買ってきた食パンを置き、諒は一度もつけていないテレビの前に座る。部屋の中には、朝と同じように灯のノートや色見本が少しだけ散らばっていた。片づけようかと思って触れかけ、やめた。そこに手を入れるのは、何か違う気がした。
ダイニングテーブルの端に、小さな付箋が残っている。
そこに灯の字で、
サンプル返却 火曜
とだけ書いてあった。
その几帳面な字を見ているうちに、諒はふと思った。
灯はたぶん、同窓会へ行くかどうかという諒の迷いを、自分の人生の大きな出来事としては扱っていない。もちろん気にはしている。あの言い方をしたのだから。だが灯にとっては、サンプルの返却も、講座の課題も、明日の出勤も、同じくらい今の時間の中に置かれている。
過去の影に心が動くことと、今日の予定をちゃんと進めることが、同じ地面にある。
諒には、それができない。
昔の名前に触れた途端、いまの生活が少し薄くなる。
灯の言葉を借りるなら、“ここ”から少しずついなくなる。
それが嫌だった。
嫌だと思ったこと自体が、諒には少し意外だった。
これまでの諒は、自分の後悔を、どこか仕方のないものとして扱ってきた気がする。高校時代に取り逃がしたものが大きすぎたのだから、このくらい引きずるのも無理はない。そういう言い訳を、心のどこかでずっと使ってきた。
けれど最近になってようやく、その“仕方なさ”が、自分ひとりの中で完結していないことが見え始めている。灯がいる。仕事がある。いまの生活がある。そのすぐそばで、自分だけが二十年前へ引っ張られ続けることは、ただの個人的な感傷では済まない。
諒はソファから立ち上がり、窓際へ行った。夕方の街はもう薄暗く、向かいのマンションの窓に一つ二つ灯りがつき始めている。
同窓会へ行く。
その言葉はまだ、口に出すには早かった。けれど、行かないとも言えないところまで来ていることは、自分でわかった。
確かめたいのだ。
何を、と問われるとまだ曖昧だ。
澪がどんな顔をしているのか。
結城がどんなふうに笑うのか。
奈緒がどれほど普通の他人になっているのか。
そういう具体的なこともある。
でもたぶんそれ以上に、自分が二十年間抱え続けてきたものが、現実に触れた時にどんな音を立てるのか、それを一度知っておきたいのだと思った。
それが灯の言う“過去を確かめに行く人の顔”なのかどうかは、まだわからない。わからないままでも、どこかへ向かわなければいけない時がある。
玄関の鍵が回る音がした。灯が帰ってきたのだろう。
諒はその音を聞きながら、ポケットの中のスマートフォンを軽く握った。
まだ送らない。
けれど、送る文面はもう頭の中にある気がした。
玄関のドアが閉まる音は、夜になると昼より少しだけ硬く響く。
灯は「ただいま」と言いながら靴を脱ぎ、コートの前を外した。
外の空気がまだついているのか、部屋の中に冬の匂いがひとしきり流れ込む。諒は窓際から振り返り、「おかえり」と返した。声が自分でも思ったより自然に出たことに、少しだけ驚いた。
灯はトートバッグを椅子の背にかけ、すぐには座らなかった。
台所で手を洗い、冷蔵庫を開けて麦茶を取り出し、そのままコップ一杯を一気に飲む。喉が渇いていたのだろう。飲み終えて小さく息をつく、その一連の動きが妙に現実的で、諒はさっきまで頭の中に浮いていた考えごとが少しだけ床に降りるのを感じた。
「どうだった」
と諒は訊いた。
灯は振り向いて、ほんの少し目を丸くした。
今日はよく訊くね、という顔だった。だがそれを口には出さず、コップを流しに置いてから答える。
「まあまあ。先生が細かかった」
「厳しい?」
「厳しいっていうか、ちゃんと見てる。なんでここにこれ置くの、ってずっと聞かれる」
そう言って、灯は少しだけ笑った。
疲れているはずなのに、その笑いにはどこか手応えのようなものが混じっていた。
「でも、そのほうがいいの」
灯はコートを脱ぎながら続けた。
「何となくで作るより、理由がいるほうが」
理由。
その言葉が、諒には少し引っかかった。
自分はこの数日、同窓会へ行く理由ばかり考えていた気がする。いや、本当は逆かもしれない。理由を考えているふりをしながら、ただ気持ちの揺れを正当化しようとしていただけなのかもしれない。
灯はダイニングテーブルの上に講座の資料を広げ、何枚かを確認してから重ね直した。紙の端に色鉛筆で細い印がついている。今日の授業中に書き足したものだろう。諒はその手元を見ながら、ふと、灯はこうして毎回、自分が何を考え、何が足りなかったかを持ち帰っているのだと思った。うまくいかなかったところも、曖昧だったところも、そのままにしないで一度ちゃんと机の上へ並べる。
自分にはそれが、あまりにもない。
「お腹すいてる?」
灯が訊いた。
「少し」
灯は冷蔵庫を覗き込み、じゃあ簡単なのでいい、と独り言みたいに言って鍋を出した。諒は座ったままその背中を見ていたが、少ししてから立ち上がり、「何か手伝う」と声をかけた。
灯は振り向き、ほんのわずかに迷うような間を置いた。
「じゃあ、お椀出して」
それだけだった。
たいしたことではない。
けれど諒には、その“それだけ”が少しだけありがたかった。
棚からお椀を二つ出し、食卓へ並べる。灯は鍋に残っていた豚汁を温め直し、冷蔵庫の奥から小鉢を二つ出した。温める音、箸の触れる音、食器が木のテーブルに当たる音。生活はこういう小さな音でできているのだと、諒は今さらみたいに思う。
食事のあいだ、会話は多くなかった。
だが、気まずい沈黙とも少し違った。灯が講座で先生に言われたことを一つだけ話し、諒がホテルで地元の短大の同窓会があったと言う。灯は「へえ」と言い、諒は「年配の人のほうが、そういうの楽しそうだった」と続けた。
「若い頃のことを懐かしがるの?」
と灯が訊く。
諒は少し考えてから首を振った。
「懐かしがるっていうより……今の自分のまま話してる感じ」
「ふうん」
灯はそこで何か言いかけてやめ、豚汁の具を箸でつまんだ。
諒はその横顔を見ながら、ああ、この人はきっともう、自分の中で“昔”と“今”を別々にしないで持っているのだろうと思った。昔やりたかったことを今さら始めるのも、その延長なのかもしれない。高校時代や二十代の自分を取り戻すためではなく、その頃から好きだったものを、今の自分の手に乗せ直すために。諒はそれが少し羨ましかった。
食事を終えたあと、灯は食器を流しへ運びながら、不意に言った。
「今日さ」
諒はソファへ戻りかけていた足を止めた。
灯は蛇口をひねりながら、こちらを見ないまま続ける。
「講座で先生が言ってたの。空間って、その場に何を置くかより、何を見せるかで印象変わるけど、同じくらい“何を見ないで通り過ぎさせるか”も大事だって」
諒は意味がわからず、「うん」とだけ返した。
灯は水を止め、布巾で手を拭いてから、ようやくこちらを見た。
「全部に意味を持たせると、逆に何も見えなくなるんだって」
その一言が、妙に静かに胸へ入ってきた。
灯はそこで話を終えるつもりだったのかもしれない。
だが諒のほうが勝手に、その言葉を別のところへつなげてしまう。全部に意味を持たせる。自分はまさにそれを、高校時代のことに対してずっとしてきたのではないか。澪も、奈緒も、結城も、あの冬も、全部を人生の決定点みたいに大きくし続けてきた。
「……全部に意味を持たせると、逆に何も見えなくなる」
諒はゆっくり繰り返した。
灯は少しだけ肩をすくめる。
「講座の話だからね」
「うん」
「でも、そういうことってあるでしょ」
それ以上は言わない。
灯はまた流しへ向き直り、洗い物を始めた。
諒はその背中を見ていたが、何か礼を言うのも違う気がして、ただ「洗うよ」とだけ言った。
「いいよ、いいよ」
と灯は答えた。
その言い方に、少しだけいつもの夫婦らしさが戻っていた。諒は曖昧に笑って、ソファへ戻った。
だが座っても、さっきの言葉が頭から離れない。全部に意味を持たせると、逆に何も見えなくなる。
諒はスマートフォンを取り出した。
同窓会は、自分の中にあるみたいな巨大な何かではない。ただの会場、ただの時間、ただの集まり。
そうかもしれない。
なのに、そこへ行けば自分の中で何かが大きく動く気がする。その差が、諒にはずっと怖かった。
だが、その“怖さ”を理由に、また見ないふりをして通り過ぎるのか。それで本当に、今ここに戻ってこられるのか。
灯の言葉があっても、まだ確信は持てなかった。それでも、少なくとも、行かない理由は少しずつ痩せてきていた。
諒は結城とのトーク画面を開いた。指がしばらく止まる。
ここで送れば、もう完全に後戻りできないわけではない。結城ならギリギリでもどうにかするし、直前で断ることもたぶんできる。
でも、送らない限り、自分はずっと“まだ決めていない人”の場所にいられる。それが、これまでの諒にはいちばん居心地のいい場所だった。
決めない。
保留する。
先送りする。
そのあいだだけ、自分は失敗していないことにできるから。諒はそのことに、今さらみたいに気づいた。高校時代もそうだったのかもしれない。
澪を失ったのは、何か劇的な裏切りをしたからではなく、決めないでいるうちに、目の前の誰かを不安にさせ続けたからだ。
いまここでも同じことをしようとしている。同窓会へ行くかどうかでさえ。その事実が、諒には小さく、しかしはっきりと効いた。
画面の入力欄に、短く打ち込む。
行く
それだけでは少しぶっきらぼうすぎる気がして、諒は一度消した。
そして打ち直す。
出る。まだ間に合うなら名札入れといて
送信ボタンを押した瞬間、心臓が一度だけ深く鳴った。大した文章ではない。たった一行だ。なのに、その一行で自分の中の何かが少し動いた気がした。
結城からの返事は、いつものように早かった。
了解
やっぱ来ると思った
諒は少しだけ苦笑した。
やっぱ来ると思った。
その言い方の雑さに救われるところもあるし、腹が立つところもある。それが残酷な時もあるし、助かる時もある。
諒はスマートフォンを伏せた。胸のざわつきはまだ消えない。むしろ少し増したかもしれない。
でも、さっきまでのざわつきとは種類が違う気がした。先送りの中で膨らむ不安ではなく、何かに向かっている時の不安。そういうものに、ほんの少しだけ変わっている。
台所では、灯が食器を洗い終えたらしく、水の音が止んだ。諒は顔を上げて、その背中を見る。いま、過去のために決めたのか、現在のために決めたのか、自分でもまだよくわからない。それでも、少なくとも決めないままでいることはやめた。そのことだけは、たぶん小さいけれど確かな違いだった。




