第1章 月下の予告状
しん、と静まり返った美術館は、まるで巨大な生き物の腹の中みたいだった。
ひんやりとした空気が肌を撫で、月明かりだけが天窓から差し込んで、床に長い影の帯を作っている。
俺、斧村影時――またの名を「影のファントム」。
日本じゃそこそこ名の知れた、いや、日本屈指の怪盗、なんて呼ばれたりもする。
まあ、呼ばれてるだけならタダだからな。
俺は今、その影の中を滑るように進んでいた。
しなやかな動きに特化したオーダーメイドの黒いスーツは、夜の闇に溶け込むようだ。
首元には、唯一の自己主張みたいに深紅のネクタイを締めている。
これは俺のトレードマークみたいなもんで、ある種の遊び心ってやつだ。
細身に見られることが多いが、この稼業、鍛えられた体幹と瞬発力は必須科目だ。
今夜の獲物は、不正蓄財で私腹を肥やす財閥のクソ当主がご自慢の「月光のダイヤ」。
その名の通り、月光を浴びると青白い光を放つとかいう代物らしいが、俺に言わせれば、そいつが放つべきは持ち主の「罪」の光だ。
「さて、ショータイムの始まりだ」
小さく呟き、最後のダンスフロア――特別展示室へと続く廊下へと足を踏み入れる。
赤い光の線が、まるで蜘蛛の巣みたいに張り巡らされている。
赤外線センサーってやつだ。
まあ、いつものお出迎えだな。
ふわりと身を翻し、床に手をついて低い姿勢から壁を蹴る。
アクロバティックな動きで、レーザーの網を一つ、また一つとかいくぐっていく。
監視カメラのレンズが鈍く光っているのが視界の端に入るが、そいつらの視線が追いつけない死角を、俺は正確に把握している。
俺の動きは、たぶん傍から見たら、重力を無視した影絵のダンスみたいに見えるだろう。
この美術館のセキュリティは、最新鋭だと聞いていた。
確かに、金はかかっている。
だが、金の使い方が素人だ。
最後の扉の前。
指紋認証システム、重量感知式の床、そしてここにも赤外線センサー。
三位一体の鉄壁の守りってわけか。
(チッ、ここのセキュリティ設計者は少々趣味が悪いな。だが、パズルは解くためにある)
こういうのは、解きごたえがあって嫌いじゃない。
まず、懐から取り出したのは、名刺サイズの薄いプレート。
自作の小型EMPだ。
これを認証システムの制御盤近くに滑り込ませ――指先で軽くタップ。
ピリッとした微かな放電音と共に、指紋認証のランプが一瞬またたいて沈黙する。
よし、第一関門突破。
次に、特殊合金製のワイヤーを天井の梁に射出し、体重をかけずにふわりと床を飛び越える。
重量感知センサーもこれでクリア。
最後に、サーマルカモフラージュ機能を備えた極薄のシートをマントのように翻して身に纏う。
これで赤外線センサーの目もごまかせる。
体温を完全に遮断するこのシートは、少しひんやりとして気持ちがいい。
手袋に包まれた指先で、そっと扉のノブに触れる。
鍵は複雑なピンシリンダー錠だったが、愛用のピックツールセットにかかれば、赤子の手をひねるより簡単だ。
カチリ、と小さな音を立てて、重厚な扉が静かに開いた。
月明かりが降り注ぐ特別展示室の中央。
そこに、お目当ての「月光のダイヤ」が鎮座していた。
周囲の喧騒を一切寄せ付けない、絶対的な存在感。
強化ガラスのケースの中で、それは妖しいまでに青白い光を内側から放っているように見える。
まるで生きているみたいだ。
ケースの傍らには、金縁のプレート。
そこには、所有者のものと思われる癖の強い筆跡で、こう刻まれていやがった。
「我が至宝に触れる者は破滅する」
(破滅、ね。面白い冗談だ。お前こそ、俺に暴かれて破滅するんだよ)
俺はプレートの言葉を鼻で笑い、ガラスケースに手を伸ばす。
特殊な吸盤をガラス面に吸着させ、寸分の狂いもなく持ち上げる。
神経を指先に集中させ、ダイヤの冷たい輝きにそっと触れようとした、その瞬間だった。
「お前の"罪"も、いただこうか」
ダイヤに指先が触れた、と思った。
刹那――。
世界が、光った。
いや、違う。
ダイヤが爆発的な光を放ったんだ。
目のくらむような、脳髄まで焼き尽くすかのような純白の閃光。
美術館の景色が、まるで古い映画のフィルムみたいにぐにゃりと歪み、引き伸ばされ、そして――真っ白な光の中に溶けて消えた。
意識が強制的にシャットダウンされる。
何も考えられない。
ただ、激しい浮遊感が全身を襲い、次の瞬間、硬い何かに叩きつけられる衝撃だけが、やけにリアルだった。
◇
一瞬ブラックアウトしかけた意識が、ゆっくりと浮上してくる。
ズキズキとした痛みをこめかみに感じながら目を開けると、そこは…………どこだ、ここ?
さっきまでの美術館特有の、消毒液と古い絵の具が混じったような匂いじゃない。
もっとこう、清浄で、どこか甘い花の香りが漂っている。
床はひんやりとした石畳。
磨き上げられているのか、鈍い光を反射していた。
そして何より度肝を抜かれたのは、天井だ。
「……星空、だと?」
見上げると、そこには夜空が広がっていた。
それも、都会では絶対に見られないような、無数の星がダイヤモンドみたいにきらめく、完璧な星空。
建物の中にいるはずなのに、だ。
荘厳、という言葉がこれほど似合う場所もそうそうないだろう。
「誘拐……にしては手が込みすぎている。幻覚か?」
俺はゆっくりと身を起こし、周囲を警戒する。
スーツは埃っぽくなっていたが、破れはない。
怪盗道具も無事だ。
だが、状況がまったく読めない。
その時だった。
「あ! 目が覚めましたか!」
鈴を転がすような、やけに甲高い声。
視線を向けると、数メートル先の宙に、ふわりと浮かんでいる人影が見えた。
逆光で最初はよく見えなかったが、目を凝らすと、それは…………少女?
腰まで届きそうな長い銀髪は、まるで星の光をそのまま編み込んだみたいにキラキラと輝いている。
大きな青紫色の瞳は、吸い込まれそうなほど澄んでいた。
年は……十六、七くらいか?
小柄で華奢な体躯を包むのは、星と月の刺繍が施された、白と青を基調とした巫女服みたいなドレスだ。
彼女の周りには、小さな星の飾りがいくつか、衛星みたいにゆらゆらと漂っている。
…………ファンタジーかよ。
「やっと来てくれました! 地球で最高の怪盗さん! わたくし、この世界を管理する女神、ミーアと申します!」
少女――ミーアと名乗ったそいつは、パッと花が咲くような笑顔を向けて、勢いよくお辞儀…………しようとしたんだろうな。
空中でバランスを崩して、くるりんと一回転しそうになり、慌てて手足をバタつかせている。
見てるこっちがヒヤヒヤするぜ。
「女神……ねぇ」
俺はとりあえず無表情をキープしたまま、そのポンコツそうな女神様とやらを観察する。
どう見ても、美術館の警備員より頼りなさそうだ。
「えへへ、ちょっとドジっちゃいました。あの、あの、まずは歓迎の聖水をどうぞ!」
ミーアはそう言うと、何もない空間から、ぽんっ、と可愛らしい効果音でもつきそうな勢いでティーセット一式を取り出した。
…………マジックか? いや、この雰囲気はそれとは違う何かだ。
彼女は慣れない手つきでティーカップに琥珀色の液体を注ぎ、「はい、どうぞ!」と俺に差し出そうとした。
その時だ。
ガシャーン!
「ひゃっ!?」
見事なまでに手を滑らせ、カップは俺の足元で見事に砕け散った。
甘い香りの液体が、俺のスーツの裾を濡らす。
あーあ。
「ご、ごご、ごめんなさいぃぃ! これはその、清めの聖水なので、別に汚れたわけではないというか……ええと、その、すぐに綺麗にしますから!」
ミーアは顔を真っ赤にして、再び何やら呪文のようなものをブツブツと唱え始めた。
すると、彼女の手の中に現れたのは…………どう見ても使い古したボロボロの雑巾だった。
いや、それ、どこから出したんだよ。
「…………説明を続けてくれ、女神殿。それと、その雑巾はしまっていい」
俺はできるだけ冷静なトーンで促す。
ため息が出そうになるのを、ぐっとこらえた。
「は、はいぃ! 申し訳ありません!」
ミーアは雑巾をシュンと消し(本当にどこにやったんだ?)、顔を赤らめたままコホンと咳払いをした。
「えっとですね、この世界は『エルディア』と申します。実はですね、影時様と同じように、地球から何人かの方々がこちらに召喚されておりまして……その方々を、わたくしたちは『チート能力者』と呼んでおりますの」
チート能力者? なんだそりゃ、ラノベかよ。
「彼らはですね、魔王という悪い存在を倒すために召喚されたのですが……その魔王を倒した後も、なぜか地球にお戻りにならなくて……。それどころか、強力なチート能力を良いことに、エルディアのあちこちで……その、ちょっと、いえ、かなり、我が物顔で……」
説明の途中で空中浮遊のコントロールが甘くなったのか、ミーアはふらふらと高度が下がって、ドンッ、と可愛らしい音と共に尻もちをつきそうになった。
「とにかく! 彼らの強力なチート能力をどうにかして無効化しないと、元の世界にはお返しできないのです! もう、ミーア、本当に困っちゃいます!」
ぷんすか怒ったような顔をするが、正直、迫力は皆無だ。
むしろ、小動物の威嚇みたいで、ちょっと和む。
…………いや、和んでる場合じゃない。
(なるほどな。魔王だのチート能力者だの……こいつの言葉が真実なら、俺はとんでもない場所に放り込まれたことになる)
俺はミーアのドジっぷりに内心でツッコミを入れつつも、彼女の瞳が妙に真剣なこと、そして語られる状況の異常さに、これが現実である可能性を徐々に受け入れ始めていた。
同時に、一つの疑念が頭をもたげる。
(この女神、本当に全てを話しているのか? 何か重要なことを見落としているか、あるいは、意図的に隠しているような……そんな気もするな)
俺の怪盗としての勘が、そう告げていた。
目の前の女神は、嘘をつくタイプには見えないが、騙されやすいタイプには見える。
ミーアは、俺のそんな心中を見透かすこともなく、意を決したように、キラキラした瞳で俺をまっすぐに見つめてきた。
その小さな唇が、期待を込めて震えている。
「そこで! あなた様のお力が必要なのです!」
彼女の言葉は、神殿の高い天井に、やけにクリアに響き渡った。