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「唯、教授!」
莉子は俺の背後に視線を移した途端、満面の笑みで本を持ったままの右手を振った。
「見てみて、全訳源氏物語! 懐かしいよね」
そこで気付いたんだろう、いや俺気付いてなかったんだけど。
「涼介くん、もう本から手を離して大丈夫よ?」
莉子が不思議そうに俺を見上げて、左手を小さく動かしてやっと俺も気付いた。
「あ」
慌てて莉子から手を離して、同時に半身後ろに下がる。
「ありがとう」
ふわりと笑うと、本を手に坂口と教授の方に歩いていく。
その後姿を見ていたら、いつの間にか慶太が隣に立っていて。
「――落ちちゃったんじゃない?」
くすくすと腹黒微笑を浮かべて、少し低い目線から俺を見た。
落ちた? 何に。
そう頭の中で答えているのに、口からその言葉が出てこない。
落ちた? 莉子に?
何も言わない俺に、慶太は莉子たちに聞こえないような小声で話を続ける。
「クラス、盛り上がってたよー。涼介と修平と莉子さんの三角関係話で」
修平。
その名前を聞いて、思わず眉を顰める。
「しかし、莉子さんも鈍い人だよね。無邪気は人を振り回す、一番厄介な相手だと思うけど」
「……何が、言いたいんだよ」
視線の先では、莉子と教授たちが面白そうに源氏物語の本を見ていて。
そこから目を反らさないまま、慶太の言葉に答える。
「深入りすると、痛手を被るよって言ってんの。本気じゃないんだから、もう止めとけば?」
「……お前がけしかけたようなもんじゃなかったっけ?」
俺の知らないところで、メアド聞いたり大学院押しかけたり。
「まぁね、受験ストレスの解消にはなりました。でも、莉子さん思った以上に天然だからさ」
確かに、すげぇ天然。
普通の女だったら、あそこまでされたら少しは期待しないか?
もしかして、好かれてる? みたいに。
ここまで来ると、わざと気付かない振りしてるんじゃないかって思っちまう。
そうじゃないんだろうけど。
「……天然だからなんだよ」
俺に落とす事はできないってことか?
慶太は自意識過剰と呟きながら、首を振った。
「涼介がはまるって言ってんの」
「はぁ?」
莉子に? 俺が?
「ありえない」
「って言える?」
くすくす笑い出した慶太が、何を指してそう言ってるのか分かるだけにムッと口を噤む。
「修平とのやり取り見て、莉子さん連れ出しちゃうのに?」
そこまで言った時、のほほんとした声が図書室に響いた。
「莉子さん、ここにいる?」
ドアに、修平の姿。
「わぁ、修平くん! どうしたのその格好」
格好の方にすぐ頭が行く莉子が、なんというか莉子らしい。
修平を見る莉子の顔が、満面の笑みを零す。
その笑顔に相好を崩す修平は、バスケのユニフォームを着ていた。
「これから部活のパフォーマンス試合やるんだけど、莉子さん見に来てくれる?」
「部活?」
とてとて、なんて擬音がつくような歩き方で修平に近づくと、莉子は首を小さく傾げた。
癖らしい。
修平は莉子の頭でも撫でちゃうんじゃないかと思うくらい、幸せそうに笑ってる。
「うん、バスケ」
「似合うね、ユニフォーム」
「ていうか、あんた凄い筋肉ねぇ。バランスいいわ~、眼福眼福」
いつの間にか近寄っていた坂口が、修平の腕を人差し指でつつきながらにやりと笑う。
「なんか目付きがやらしいよ、坂口。でも、ホントいい身体してんなぁ」
教授まで腕をつつき始めて、三島も触ってみ? と促した。
「……っ」
「どうしたの、涼介」
動き出そうとした身体を、慶太に止められる。
「本気じゃないんでしょ?」
「……うるさいな」
なんか修平と莉子が一緒にいるのはいらいらするんだから、仕方ないだろ。
「あのね」
無言で睨み返すと、肩を竦めた慶太と目が合った。
「修平が本気っぽいから、遊びなら止めなって言ってんの。涼介も本気なら止めないけど、どっち?」
「は? 本気?」
こんな短期間で、本気で落ちるものか?
俺の疑問に気付いたように、慶太は少し目を細めた。
「時間じゃないと思うよ、こーいうのって。涼介には難しいか」
「どーいう意味だよ」
呆れたような顔に言い返すと、慶太は肩を竦めてそーいう意味と呟く。
「追いかけられてばかりでちゃんと恋愛と向き合ってこなかった涼介には、難しいって言ったんだよ。本気じゃないなら、修平の邪魔しちゃ駄目だよ」
そう言い捨てて俺を見上げる慶太は、なぜか底冷えするような色をその目に浮かべていた。