左ひじ
「おはようございます」
朝、七時半。
駅のホームで、学生服の男子生徒に声をかける。
「あ、おはようございます…!」
にっこりと笑う学生の手には、白い杖。彼は、盲学校の生徒さんなのだ。
「はい、ひじ。ええとね…なんか出店が準備してるから、ちょっとだけ遠回りするね」
「わかりました…!」
左の肘に手が添えられたのを確認した後、一緒に歩き出す。
向かうのは、市営バスの乗り場だ。
「ちょっと雲が多いね。雨降るかな?」
「空気が少し湿っているので、可能性は高いですね…!」
「傘持ってきた?」
「僕、外は出歩かないんで必要なくて…!」
「あー、そうなんだ。私は出歩いてばっかだよ」
「僕は車で連れまわされてばっかです…!」
歩いて三分程度の距離を、話しながら歩いていく。
視線は…前方、時々、左右。
私には足元を睨みつけて歩く癖があるのだが…、二人で並んで歩く時は前方に注意するように心がけている。前を見て歩かない通行人が勢いよくぶつかってくる可能性は、ないとは言いきれない。猫背になりがちな私の背が伸びる、貴重な時間帯だ。
「はい、到着。じゃ、またね」
「ありがとうございます…!」
彼を初めて見かけたのは、入学式の朝だった。
遠く離れた地にある学校に通う事になった私は、始発電車に乗って二時間の距離を移動して電車を降り、終点の駅のホームで…白杖をつく彼の姿を見たのだ。
初めて声をかけた日は…いつだったのか、覚えてはいない。
いつもは誰かと一緒に歩く姿を横目に、私鉄沿線への乗り換えの為に移動するのだが…、その日は一人で杖をついているのを見かけて、少し気になった。終点の駅という事もあり、先を急ぐサラリーマンの数も多く…何となく心配になって。
―――あの、何か手伝います?
わりと身近に介助を必要とする知人がいたこともあり、声をかけることについて躊躇はしなかった。
いきなり手を取ったりするのはマナー違反だと知ってはいたので、右後ろのあたりから声をかけたところ…、学生さんはゆっくり立ち止まってこちらをふり返り、目を閉じたままにっこりと笑った。
―――あ、それでは左肘をお借りできますか…?
―――どこまで行けばいい?
―――市営バスターミナルの、六番乗り場までいいですか?うどん屋さんがあるところです…!
―――おだしの良いにおいがするところ?
―――そうです!多分僕のほかにも学生がいると思うので、わかるかと思います…!
ぶっきらぼうで優しくない私に対し…丁寧で穏やかな言葉を返す学生さんに、ずいぶん大人な対応をするんだなあという印象を持った。
―――ついたよ。一番後ろに並べばいい?
―――はい、あとは印があるので大丈夫です、ありがとうございます…!
―――いえいえ、じゃあね。
無駄なことは話さず…会話のキャッチボールはするけれども、決して盛り上がることはなく。
しかし、コミュニケーションとしては成り立っているような…不思議な、感覚。
何となく、また声をかけてもいいかなという気になって…毎朝ホームを見渡すようになった。
たまに誰かと一緒に歩いていることもあったが、ひとりでいる時は声をかけにいくようになった。
……私と彼の付き合いは、わりと長かったように思う。
ずいぶん長く関わったようにも思うが、回数で言えば…そうでもなかったのかもしれない。
声をかけはしたが、次の日の約束のようなものはしたことがない。
話をすればいつもの人だと認識はするが…名前は知らず、聞いたことも、聞かれた事もない。
当然連絡先なども一切知らないし、お互いにどこの誰だか、通っている学校すらわからない。
いつ頃から姿を見かけなくなったのかは…覚えていない。
色々と話したようにも思うが…ほとんど内容を覚えていない。
今でも…ひじをそっとお出しするたびに、あの学生さんを思い出す。
あの頃は、ボランティアだとか全然興味もなくて…知識もゼロで。
ごくごく普通の、気の利かない会話しかできなくて。
親切の押し売りになってはいなかっただろうか?
歩く速度は速すぎなかっただろうか?
話したエピソードはデリカシーに欠けてはいなかっただろうか?
過ぎ去った出来事を思い出してはクヨクヨして、今現在の行動を躊躇わせる一因になっている。
「すみません、もうすこしだけ、早めに歩いていただいても?」
ぼんやり昔を思い出していたら、お声がかかってしまった。
……いかんなあ、1つの事に集中できないのは、私の悪い癖だ。
「あ、ご、ごめんなさい!ちょっと昔を思い出しちゃって、ぼーっとしちゃって!!…あ、ここから階段になります、手すりは…はい、ここ!」
「昔…?」
「ああ…昔ね、ちょっと仲が良かった?人がね、目が見えなくてですね。ボチボチひじを貸してたんですよ、ええ」
「ああ…それで。そうですか、だから…歩きやすいんですね」
「…え?歩きにくいんじゃ?あ、次のステップの後でいったん踊り場です…三歩ぐらいでまた階段」
「ううん、すごく歩きやすいですよ。ただね、私がせっかちでね、すぐに早く歩こうとしちゃって…」
あの時、学生さんが何を思っていたかは…わからないけれど。
私の中には少しだけ、経験が蓄積されているらしい……?
「……きっとその学生さんも感謝してると思いますよ!その子の分もお礼を言わせてくださいな。ありがとうございました!」
「?? ありがとうございました!」
「いえいえ、アハハ、じゃあ、また」
改札口を出たところで待っていた息子さんにご婦人をお渡しし、頭を下げ下げ手を振った私は。
視線をやや下に向けつつ…、背中を丸めてバス乗り場に急ぐのだった。