狩人たちの夜
夕暮れになり、晩餐会が始まった。
音頭を取るのは、アシバ家の頭領、ヴィセンテ。300年以上の歴史を持つ名家で、旗手を三期に渡って独占する、実質的なこの街の支配者だ。顎鬚をはやした壮年の男である。大ホールに集う人々は、アシバの郎党、そして支援者たち。螺鈿をほどこされた飾り天井はアシバの誇りで、少なからぬ人々が感嘆の年を込めて天井をみあげる。
乾杯の合図とともに、酒が振る舞われた。
みな、着飾っている。襟をつめた羅紗のダブレット、金糸を織り込んだ袖。真珠貝のカフス。仕立ての良いサブリースと薄衣のショール。裕福でない人々も、ここぞとばかりに一張羅を身に着けている。
その中にひとりだけ、あきらかに場違いな者がいた。
なめされた黒革の外套。目深に被された折鍔の狩猟帽。口元を覆う盖仮面。そのどれも土と血の匂いがした。何者なのか。みな、その男を遠巻きに見るばかりである。
誰かが言う。
「あの男が狩人か?」
「やはりあの噂は・・・」
人々の声が低くなる。
噂は誰もが知っていた。街に〈獣〉が出たという噂だ。内蔵を食い荒らされた死体が、街路に転がっていたという。
「しかし辺境領域から遠い、こんなところに、獣が?」
「ですが、去年、アラホマに獣が出たでしょう。あそこからここは200リーグも離れていない」
「信じられん、いくらなんでも・・・」
狩人は、何もせず壁際に立っているだけだ。給仕に飲み物を勧められても断っている。
「いいや、あれは悪質なデマさ」
憎々しげに、また誰かがいう。
「ベンド家の連中だろう。獣が出たという噂が広まれば、取引が滞る。それを狙って・・・」
人々のささやき声とともに、夜は更けていく。
いつの間にか、狩人が姿を消していることに、ほとんどの人が気づかなかった。
屋敷にある来客用の部屋を、狩人はあてがわれていた。
その部屋に戻っても、狩人はしばらく何もしなかった。無言で窓際に歩み寄り、街路を見下ろす。仮面も帽子もつけたままだ。外は静まり返っていた。酔漢や客引きの声もない。噂の真偽はどうあれ、人々は恐れているのだ。獣に襲われることを。
狩人が振り返った。
天蓋つきベッドの影で、何かが動いていた。
すばやく歩み寄って手を突き出し、甲高い悲鳴があがり、狩人の大きな手に掴まれ、影から引き釣り出される。小さな人影。
「離して!」
「何者だ?」
狩人は聞いた。
そこにいたのは、まだ若い娘だった。十代の前半、はちみつ色の巻毛をシニヨンにまとめ、ヴェールを垂らしたその姿は、小間使いにはみえなかった。
「ねえ、離してよ」
「名を聞いている」
狩人は顔を寄せ、娘の目をのぞきこんだ。
「お前は誰だ?」
「離してくれたら言うわ」
娘は、狩人を恐れることなく言った。狩人は無言で、娘を離した。
「すごい力」
娘は服を直しながら言った。「布地がよれちゃったわ」
「みたことのある顔だ」
狩人は言った。「頭領の娘だな?」
「そうよ」
狩人を見上げて、娘は言った。「ヴィセンテの長女、ミセラよ」
「なぜここにいる?」
娘は笑った。「狩人を見るのははじめて。ねえ、そのマスクの下は牙が生えてるんですって?」
「・・・」
狩人は無言で首を振った。
「本当?なら、見せられるでしょう? 仮面をとってみせて」
「俺は見世物なのか?」
狩人は言った。娘は肩をすくめ、おどけるように言った。
「ただの好奇心よ。ねえ、本当に獣が出たの? ここ100年間で、一度も獣は出ていないわ。この国にはね」
狩人は答えなかった。そのかわり、無言で鉄のマスクに手をかけ、それを外した。
驚きの声を、娘はあげた。
「意外と若いのね。それに・・・」
「俺は遊びに来たわけじゃない」
狩人はそう言うと、ふたたび仮面をつけた。「獣を狩るために来た」
「それって・・・」
そのとき、ドアがノックされた。
「申し訳ありません。狩人さま」
ドアのそとで家令の声がする。
「わが主がお呼びにございます」
娘は猫のように素早く動いて、ベッドの影に隠れていた。
マスク越しのくぐもった声で、狩人は答えた。
「今行く」
「俺は反対だ」
部屋に入る前から、その声は聞こえた。
「獣なんていない、あれはベンド家の陰謀に違いないんだ。兄さんにはわからないのか」
低い声がそれに答えて何か言った。しばしの間があり、やがてドアを乱暴にあけて、ひとりの男が飛び出してきた。まだ若く、麦わら色の髪を短く刈った男だ。その男は狩人を見てぎょっと目を向き、ついで苦々しげに舌打ちして、足音も高くその場を去っていった。
「入りたまえ」
空いたままのドアの向こうから、落ち着いた声。
狩人は部屋に入った。さほど広くもなく、落ち着いた調度の部屋だった。窓を背に、黒檀の机にかけている壮年の男。
「弟は、君を呼んだことを快く思っていないようだ」
アシバの頭領、ヴィセンテはそう言った。「彼に同意するものもたくさんいる。みな、獣が街に現れるなど、信じていない。いや、信じたくはないのだ」
ヴィセンテは嘆息し、狩人を見上げた。
「私は若い頃、東方にいた。ここよりずっと霧の近くだ。君も知っているだろう。あちらでは獣の被害は日常的だった。誰もが怯えて暮らしていた。私もみたことがある。私の従者のひとりが・・・殺された。私の目の前でだ。彼がいなかったら、殺されていたのは私の方だったかもしれない」
ヴィセンテは腕を組み、狩人を見ていった。「率直に聞こう。獣はこの街にいると思うか」
狩人は、しばらく黙っていた。ゆっくりとマスクを外し、つぶやくように言った。
「俺の仕事は獣を狩ることです。獣は・・・どこにでもいます」
ヴィセンテは腕を組んだまま、ふたたび嘆息した。
「狩人、君の名は何という」
「・・・ベルクです。閣下」
「ひとつ聞きたい。獣は、どこから来るのかね?」
「獣については・・・我々も、わかっていることは多くないのです」
狩人は答えた。「体内に入った因子が発芽することで、人が獣になります。この因子がどこからくるか、どのような条件で発芽するか。工房の連中が長いこと研究していますが、いまだわかっていません」
ヴィセンテは黙っていた。狩人は続けた。「この街で起こっている事例は、比較的ありふれたものです。因子が発芽した人間は、少しずつ獣に変わります。自覚症状がある場合も、ない場合もある。だが、はじめは普通の人間と区別がつかない。だが夜になると、突然、凶暴性を発揮する。こうした状況が何週間か、長ければ何ヶ月も続く。やがて・・・」
「もういい」
ヴィセンテは手を振って、黙らせた。「そうなってしまったら、打つ手はないのだろう?つまり、殺す以外の、という意味だが」
狩人は肯いた。外したマスクを、再びつけて。「狩人はみな、顔を隠します。因子を獣から取り入れないためです。それでも、完璧ではない」
ドアの外が騒がしくなった。
狩人が振り返った。ヴィセンテが声をあげた。「何事だ?」
「申し上げます」
家令が、ドアを細く開けて、
「お知らせしたいことが」
獣が出た。
その報告は貧民街を巡回する夜警から上がってきた。その地域は、以前に獣が出たとされる地域と重なっていた。
「以前と同じく、損壊した遺体とのことです」
家令の声は低く、わずかに震えていた。「目撃者はいないようです・・・元々、あのあたりは治安も悪く、死体も珍しくはないのですが」
「見過ごすわけにはいかん」
ヴィセンテは立ち上がった。「ベルクくん、行ってくれるか」
狩人は肯いた。そうして夜が暮れつつある街路、夜警に案内されてたどり着いたそこは、汚物の散乱する路地の一角。傾いたあばら家が肩を寄せ合う、どの街にもある貧民街の風景だった。
死体は、ぼろをまとった老人だった。このあたりでは珍しくもない、物乞いそのものの風体だ。顔面を強い力で殴られ、目鼻もそれとわからぬほど潰されている。さらに、腹部をなにかでひきさかれ、内蔵を引きずりだされていた。血と、汚物の匂いが強く鼻をついた。
周囲には誰もいない。このあたりの住民も、ここまで案内してきた夜警さえ、恐怖のあまり遠巻きに見ている。狩人はじっとその死体を見下ろした。おかしな話だ、と彼は思った。この死体のどこにも、獣の匂いがしみついていない。
「か、狩人どの」
「獣じゃない」
狩人は吐き捨てた。「人間だ。これをやったのは」
「と、というのは?」
「獣の仕業に見せかけている。だが雑な仕事だ。一時しのぎの目くらましにすぎない」
だが、なぜ?
狩人は自問した。そしてなんのために?
誰かが声を上げた。ほうけたような声だ。「あれを見ろ」
狩人と夜警も、つられて顔をあげた。家々の屋根のむこう、西の空が妙に明るい。とっくに日は落ちているというのに。
「火事だ」
それはずっと前から仕組まれていた。街の西でぼや騒ぎが起きるのも。夜警がそちらに気を取られ、屋敷の警護が手薄になるのも。
闇に紛れ、数十人の男たちが、武器を手にヴィセンテの屋敷に忍び寄っていた。作戦は迅速に行われた。
「シド、貴様か」
ヴィセンテは言った。
シドと呼ばれた白髪の男は、鼻を鳴らして言った。「騒ぎになればなるほど良いと思ったが、予想以上だったな」
「獣が出たという噂を流し、死体を転がす。街が浮き立った隙を狙う」
忌々し気に、ヴィセンテは舌打ちする。「結局、弟が正しかったか」
「お前がシタデルに狩人を要請したときは笑ったよ。おかげで我々の動きは誰にも気づかれなかった。ここまでうまくいくとは、考えてもいなかった」
「だろうな」
ヴィセンテは薄く笑った。「それに、まさか本当に、獣が出るとも思ってはいなかったんだろう?」
シドは答えなかった。その代わり剣を突き出した。
「終わりましたね、シドさま」
顎髭の男が言った。「主だったアシバのものは、もう生きてはいません」
「まだだ」
シドは答えた。血だまりに沈んだヴィセンテの死体を、足蹴にする。
「ヴィセンテの娘がまだどこかにいる。若い娘だが見過ごせん。探し出せ」
「承知いたしました」
だが、男たちは驚いたように手を止めた。
開いたままの戸口に立ちふさがるように、狩人が立っていた。
「お前が狩人か」
シドは、嘲るように言った。「お前の仕事は終わった。この街に獣はいない。さっさと帰るんだな」
狩人は答えなかった。無言のまま、そこに立っている。庇の下の両眼は、床に伏したヴィセンテの死体に注がれていた。
「おい、どけ」
男たちのひとりが、狩人を押しのけようとした。とたんに悲鳴が上がり、その男は倒れ込んだ。腕が、ありえない方向に曲がっている。
「な、なに・・・」
狩人は腰から獲物を外した。黒ずんだ、巨大な鉈である。通常の刀剣とは違う。それは獣を狩るための武器であった。
「きさまっ、何を」
「なんのつもりだ?」
シドは言ったが、声が震えていた。「狩人は、人との争いには関わらない。そう定められているはずだが」
「どけ」
狩人は言った。腹を震わす唸り声だった。
「そこに獣がいる」
誰もが目を疑った。ヴィセンテの死体が、立ち上がっていた。
いやそれはもはやヴィセンテではなかった。人の形をしているが、人ではない。全身に黒い剛毛が生えている。耳が手のひらより大きい。口が、耳の下まで裂けている。歯は、大人の指よりも大きい、牙だった。
吠えた。体全体がバネのように弾けた。
シドの喉元に、牙が突き刺さった。悲鳴が上がることもなかった。首と胴体がちぎれ、頭が吹き飛んで、窓を突き破って夜の街に消えた。
「ひいいっ」
男がうめく。「化け物・・・」
言葉は途切れた。長い爪の一撃を食らって、男の顔面がえぐられた。
なんという速さか。ほんの数秒で、三人の男が肉塊へと姿を変えた。狩人が鉈の柄を握りしめた。獣がこちらを向いた。
飛んだ。
突進してきた獣が、巨体を本棚にめり込ませていた。書棚の本がちぎれ、白い紙が部屋に舞い散った。そして狩人は、天井に張り付いてそれを見下ろしていた。獣は、狩人の動きについてこれず見失っていた。
予測できたことではあった。霧に近い東方に何年もいれば、因子を受けても不思議ではない。因子は体内で何年も潜伏する。繰り返し見てきた。人が獣に変わる。そうしてどれだけ多くの人が、脅かされるのか。
だから、獣は狩らなければならない。
「やめて!」
若い娘の声・・・その声は、狩人には届かなかった。
脊椎。
あらゆる動物と変わらず、獣もまた首を落とされれば死ぬ。狩人は天井を蹴った。重力に引かれその体は加速し、断頭台となって獣の首を一撃で断ち割った。
簡潔にまとめられた報告書を一読し、マイスターは問いかけた。
「それで」
「獣を始末したあと、多少の混乱があったようです」
人形が答えた。「領収であるヴィセンテとベンド家のシドが死んだことで、権力の空白が生まれました。街を支配するための権力抗争が二週間ほど続き、現在では平民の男が臨時の旗手を担いでいるようです。ヴィセンテの生き残りは都市を離れ他国に亡命したようです」
「ヴィセンテの娘もか?」肯いた
「彼女の所在は報告に上がっていません」
人形は言った。「死んだとの確認も取れていません。また、ハンター・ベルクが彼女を手近な要塞まで連れて行った、という報告もあるようです。これもまだ未確認です」
マイスター・グローテは肯いた。「ベルクの怪我は軽いのだろう?」
「はい」
「ならば、次の任務に回したまえ」