レディスパーダ 短編 私とやわらかな壁の話
痛かった。
叩かれた頭が痛かった。
叩かれた頬が痛かった。
叩かれた首が、背中が痛かった。
叩かれた手が痛かった。
叩かれた足が痛かった。
お前が悪いと、叩かれた心が痛かった。
痛くて泣くしかできない、叩かれていない両目が痛かった。
いつしかみんなと一緒にいられなくなった、どこにももって行きようのない
この気持ちがすべて痛かった。
「う、うぇぇ……うわーん!!」
泣くしかなかった。いつものように。
なぜ無力なのか知りようもない、無力な自分が、とても痛かった。
「なぜ、泣いているの」
泣きながら、ずっと歩き続けた。もう、どこを歩いているのかわからない、でも、ただ歩き続けた。そして疲れて座った。
座って泣いた。泣き続けた。
不意に声が聞こえて、暗い空間に光が灯った。
そこは不思議な場所だった。柔らかい白い光を放つ巨大な壁。そして、そこに青い何かが流れている。
それは、流れながら緩やかに発行している。
そこはとても明るい。
そして、その光が指し示す優しい場所に感じた。
「ええと、わたし」
「なぜ、あなたは、自分が出来損ないだって泣いているの」
なぜ声が知っているのかと不思議に思ったけど、大きく頷いた。
「みんなより、よくできているはずなのに。何にもできないって」
「何もできないの」
「ううん。でも、期待外れだって」
「それを観測させてくれる」
その言葉をうんと頷く。すっと手を広げると、足元の水たまりにその手をかざす。光を反射していた、水たまりは、いつしか曇天模様の天から落ちる雨の様子を映している。
これは、きょうの景色。
きょうは、ずっと泣きながら、曇り空から落ちる雨の様子だけを見ていた。
「これだけなのできることが。見たものを他の物に映すだけ。‡映写‡っていうの。でもこれだけなの」
静かに、その壁は何かを考えているようにわずかに発行していた。
「すごい。あなたはすごい」
その言葉にはっと顔を上げた。
「あなたの‡映写‡から。映像だけじゃない。感触を感じる。その水たまりの中。本当に雨が降っている
あなたは、確かに奇蹟を起こしている」
初めて褒められた。初めて認めてもらった。
忘れていた枯れたはずの涙が頬をつたった。 それは、びっくりするくらいにとても暖かい雫だった。
「こっちにおいで。あなたが、とても疲れている。分かるよ。ここは安全。
さあ、ここにおいで。疲れているのが見えるから」
立ち上がった。歩み寄って、そこに縋りついた。
それは、見た目に反してとても柔らかくて、
そして温かかった。
寄りかかり
縋りついた
その日は暖かなのベッドで、夜を明かした。
次の日、わたしは日が昇ってから宿舎に帰った。誰も文句なんて言わない。
みな、いないと思っている。
だからだろう。それから、頻繁に私は、あの柔らかい壁のところに行くようになった。
その日を境に、不思議と、皆が私を叩かなくなった。
柔らかい壁は、とてもやさしい。それが、当たり前の光景になりつつあった。
そんなある日だった。
「おい、お前……1号」
「な、なに?」
不意に、廊下で呼び止められた。†使役†の事象管理者だ。一番見込みが薄いと言われていたのに、つい先月、ついに奇蹟が発現した。残っている奇蹟の発現のない管理者候補はわたし一人になっていた。
イヤな言葉ならば、早く言えばいいのに。何も言わずにただ、こっちをじっと見ている。
「お前の使い道が決まったんだってよ」
「使い道? 」
にやっと馬鹿にするような笑み。叩かれる。一瞬身をすくめた。でも、手は飛んでこなかった。でも、笑みはどんどん深くなっている。
「ジョーカンドノに感謝するんだな。お前みたいな、生まれるべきではなかった出来損ないでも、只廃棄されることはなく、人類の役に立つっていうことを教えてくれたんだからな」
ジョーカンドノという言葉に、首をひねった。そこ反応に、†使役†は、一瞬イラっとした表情を浮かべた。
ただ、次に浮かんだ表情は、微かにこっちを憐れんでいるように見えた。
「カンシュ様からお話があるってよ。聞いてこいよ。お前にとって……いや、何でもない」
昨日以来会うカンシュ様は、いつも、わたしを見て、イライラしていた。でも、今日は違った。とても、嬉しそうに、そして、楽しそうにこちらを見下ろしていた。
「さて、今日は、お前が欲しくてほしくてたまらなかったものを2つやることにしよう」
いつものカンシュ様からは信じられないような声とその内容に驚いた。
「柔らかい壁様って、ジョーカンドノって名前なんですか?」
「ジョーカンドノ。そう呼ばれる慣れているけど。何かあったの」
私は、少し俯く。ほんのわずか沈黙が流れた。
「ジョーカンドノは、わたし達の生みの親だって聞きました」
それにジョーカンドノは応えない。
「今日。あたし、決めたんです。人類の為にこの命を捧げるって」
「……」
驚いたような反応。それでも続けた。
「この命。もらった命ならば、返すのがドオリって、教えられたんです。そのための名前ももらったんです。アッシャーナっていう名前。とっても、いい名前。
とても悪そうで。
バカな妄想もってそうで、
実は弱そうで。
頭の片隅にも残らなさそうな名前
だから決めました。
これから私は、魔王アッシャーナとなります」
「アッシャーナは、それでいいと思っているの。魔王。それが、何を意味するのかわかっているの」
「わ、わかっ わかってっています。
魔王は、人類に倒されるべき存在。わ、わたしが」
「あなたが倒されること。
それを成したものの行い。そのすべてが奇蹟の1ページになる。それは禁書庫に保管される。
そして、その奇蹟はいずれかの事象管理者により、世界に配分される。
そんなものになんてならなくていい」
心なしか怒っているように聞こえる。本当に心配してくれている。柔らかい壁のジョーカンドノはとてもやさしい。
「でも、思ったんです。あ、あなたは。
きっとジョーカンドノは、
そんな中でも、わたしを見てくれているって信じられるんです。
わ、わたし、だから、ジョーカンドノに最期を看取ってもらえるのならば、うれしいんです。
きょう、とっても満たされているんです。
ジョーカンドノは、わたしをわかってくれている。とっても心配してくれている
だ、だから怖くないんです。
わたしが、魔王になれば、ずっと見てもらえるって聞いたんです」
最後の方は、涙で霞んで、体は怖くてがくがくと震えている。でも、しっかりしないとと、涙が落ちないように空を見上げる。初めて、今日晴れ上がっていて、とても、夕焼がきれいだということに気がついた。
「見ていてほしいんです。最期まで。我儘です。」
「わかった。最後まで見ている。」
私の言葉に、ものすごく寂しそうにジョーカンドノは応えた。ゆっくりと、柔らかい壁が、動き始める。
「ジョーカンドノ。大きかったんだ」
ゆっくりと浮かび上がる。私は、無邪気に手を振った。
「わたし、無様に殺されてみせます! 魔王が、ざまあ見ろって、言われるように情けなく殺されてみせます。
だから、
だから、その様子を、見ていてください。見ていて、そして、私のことを忘れないでください。願います!強く願います!!
いえ、お願いします!
柔らかい壁のジョーカンドノ! 」
30年後
「……最後に思い出すのが、こんなことだなんて」
槍を杖代わりにめり込んだ壁から、自分の身を引きはがす。ダメージは考えないことにする。
でも、もうおしまい。
「……ごめんなさい。私は、人類の役に立ちませんでした」
目の前。人類の奇蹟が獣の手に落ちようとしている。本来、奇蹟を守っているはずの機構は、この獣には無力で、確たる効力を出すことはなかった。
私も、司書、写本士たちも、今まで、必死にこれに立ち向かった。でも、つい先日の混乱で、遂に戦えるのは……無力な私だけになってしまった。
そんななか、この獣は発生した。まるで、これを狙っていたかのように。
状況は不利なんてものじゃない。
でも、やるんだ。少しでもできることを。
そう思うと、体の震えは止まった。こちらが動いたことを察したのだろう。獣がこちらに向き直った。
「その奇蹟は。人類の奇蹟は。
お前が。……っ!
お前ごときが手にかけていいものじゃない!
手を放せ」
奇蹟の書架に手をかけた獣に、啖呵を切る。この疲労困憊、満身創痍の細い体から、一体どこから声が出たのだと驚いた。そして、同時に、とても楽しく感じる。
「ここが、約束の場所。この雑魚魔王が、無様に惨めに情けなく死ぬための場所。ジョーカンドノ、我無力さをご照覧あれ! 」
獣がこちらに向き直る。それに対して、槍を手に駆ける。初撃にすべてをかける。あの司書騎士のように真似て見せる。
「くらえ!」
槍を投げる。その槍は、あっさりとはじかれる。それに、訝し気に感じながら、ほんのわずか足りな時間だけ、獣は気を取られた。次の瞬間、その腕の付け根に槍が生れる。黒い血がまるで噴水のように噴き出した。
獣が驚き、はじいたものを見ると、それは、いつの間にかきれいに磨いた鉄の盾になっていた。
「‡映写‡には、こんな使い方もある。どう?おどろ……」
私が、勝ち誇った煽りを上げるよりも、怒り狂った獣が、わたしを吹き飛ばす方が早かった。
再び、同じ場所に叩きつけられる。
とがった壁で肺が一時ダメージを受けて、ごぼっと、口から、血の塊が馬鹿みたいに大きく育った胸に落ちた。追撃と言わんばかりに、尾撃が、わたしを地に伏せさせる。
「あっ……、あがぁ」
何処か何かが折れた音が聞こえた。それが、自らの右手だと気が付くのに時間がかかった。獣の怒りの息遣いが聞こえ、獣の足が頭に乗るのを感じた。
ゆっくりと体重がかけられる。頭の中で、ミシミシと音が聞こえる様な気がする。
それが聞こえなくなったとき、私は死ぬのだろう。でも、最期まで諦めない。それは、彼に教えてもらったこと。
例え、それが使命だとしても、変えることのできない未来だとしても
無様に情けなく足掻く。まだ、あきらめない。
「見てくれている人がいるんだ。
泣くものか」
声にならない声を出す。少し力が湧く。でも、奇蹟なんて起きるわけがない。
なぜなら、私は管理者じゃないから。そう、奇蹟なんて起きない。
でも、奇跡は起きる。
「ああ、見ている。だから、泣くな。弱虫最弱魔王」
懐かしい声が聞こえた。次の瞬間頭を押さえていたものがきれいさっぱりになくなった。
「ずいぶんとひどくやられたな。雇い主殿」
全身が痛い。でも、20年ぶりに聞く声。安心する。その声に、自由になった頭をゆっくりと上げた。その視線の先、体表の多くを失って、槍に貫かれた獣の姿が見える。
これは、彼の御業。顔を見上げることなんてできない。だって。
「ミト」
「ああ、じっとしていろ。すぐに終わらせる。来い」
槍が、ミトの手に納まる。
「大丈夫だ。心配を掛けたな。雇い主。頑張った」
髪を撫でる感触。ほっとした感触。
「遅い……遅いよ。ミト。」
嬉しさで涙が零れた。20年ぶりの再会。でも、ミトは全然年老いてなくて。すっと、右手に持った槍と構えた。指の軌跡がわたしには見ることもできない文字の軌跡をたどる。
あの時の。ミトだ。あの時――一緒に逝けなかった。
「さて、すこし、静かになってもらうか。雇い主。この名に覚えはあるか?我が名は……■■■■■。
そして、今の名は、わが友コペルニクスの命名。ふふ。この名で戦うのは久しぶりと、いったところか。
魔王アッシャーナ」
「は、はい!」
すっと、槍を正眼に構え、相手にくらいつこうとしている、ミトが見えた。でも、その瞳は、愛しき誰かをハグしに行こうかというほど。楽しさを見せていた。そう、かれは、楽しんでいた。対して我はどうだ?地に伏し、自らの無力の炎に抱かれている。
でも、だからこそ、彼を縛る理由などあるはずもなかった。
「聞きたかったことがあったが。今日は終いだ。
魔王区 禁書保管庫 司書騎士 ミトラティン。古の約定にて人類を守らん」
その言葉に私が返せる言葉は一つだけ。それをしりながら、彼はいい放った。彼に、わたしが告げられる命令なんて一つしかない。
でも、
「ミトラティン……
我を助けよ。その全てをもって
……我を助けよ」
「……いいだろう。魔王の言とあれば。
さあ来い、獣ども。
貴様たちが記憶えているのならば……
踊ろうか」
「(感嘆の言葉)まるで、戦友が交わす言葉。それは、決してロマンティックでは……ない。ただ、それはとても、心地いい。
そう。今はその通り」
死角から女性の声が聞こえた。でも、その声の正体も分からないままに、私の意識はただ堕ちるままに落ちていった。
でも、ただ、わかっている。次は、彼の声が、きっと、わたしを目覚めさせてくれる。
私は、その時を待っているだけでいい。
数十分後
「うっ……」
嫌な夢だった。久しぶりに見るイヤな夢。鮮明だけど内容なんて思い出したくもない。
「ジョーカンドノ。イヤです!行かないで!!」
制止するように、空に突き出した手。何も掴むことなんてないって知っていたのに。シーツを掴み、半身を起こす。
「痛っ!」
空に上した手。それには、相手の付けた打撃の痕が生々しく身にあった。ただそれを眺める。
短く長い時間。やがて、自然に……己の両瞼より、ゆっくりと、ただ、じわっと涙があふれた。
わかっている。私が無力だっていうこと。
だから、私は、魔王程度しか使い道なんてなかった。
「入るぞ」
思考が自虐的になっていたその時だった。不意にドアが叩かれる。
「いいわ。どうぞ」
不躾にと言っても仕方のないことか。そこには、両手に抱えきれないほどの食事を持っている彼の顔が見えた。不意にその光景が懐かしく感じる。
相手は笑いだした私をただ見ているだけで何も手を出す気はなかったようだった。
「久しぶりなのに。そうね。20年ぶりなのに変わっていない」
「ああ、そうだな。……」
その私の意。それは、わずかにでも彼に伝わっていたのだろうか。かれは、それを介することなく、手が迫ってくる。
何もできないとわかっていることと、何もできないかもしれないには、おおきなちがいがある。この場での私は……前者にあたる。
「うが……うん」
口を開き、知性とは程遠い声を上げ、それを口にする。口の中に残るのは、確かに甘味である。だが、それは、……。
「最弱魔王。どうだ?」
彼が口に含ませたもの。ゆっくりと嚥下させて、その残滓をただ舌に追う。それは儚く、そして、初々しい。氷のようで、ただ消える雫のよう。嚥下に残ったそれを追う。
「おいしいです。」
「……今のお前には貴重なものだ。じっくりと味わえ。
痛みの残るところはあるか?」
「う、うう。
ミ ト……痛いです。
すべてが悲鳴を上げているんです。
どうして」
広げた手、偶然かもしれない。でも、出会えた。
「……なんで?」
「――会いたがっていた。お前に」
視線が右に移っていく。そこにあった。
黒くてヒビのように波打っている刀身。
それは、あのころとは、似ても似つかないその姿。細く、尖り、そして、
「じょ――ジョーカンドノ!」
折れそうな、一振りで壊れそうな、そんな威姿。
「……魔王」
声が聞こえる。だから、そうだからこそ。
「うう、ジョーカンドノ!」
自らの身、それすらいらないように抱きしめた。
慟哭。それが、只届けて言う。
「アッシャーナ……哭いているの?
大丈夫だよ。
アッシャーナは」
その声が耳朶を打った。痛い。痛くて、苦しぃ、孤独で、無力で、虐げられて……
そんなことを、自覚している、自分がとても嫌いで、とてもイヤで、
ただ、惨めだった。