11話
しばらくすると、ポットでお湯を沸かす音が聞こえ、それだけでなんだか、指先に温度が戻っていく感じがした。
先ほどまで手を力いっぱいに握っていたらしく、私は指の緊張をほどきながら息をついた時、目の前に湯気の立った紅茶が置かれた。
「ありがとうございます」
私はそう伝え、ゆっくりと一口飲み、そして息を吐いた。
「……ラフィーナ様」
「はい」
「これから、一緒にいます。貴方を補佐していきます。ですから、ですから私の前では、無理せずに、嫌なことは……教えてください」
顔をゆっくりとあげてセオ様を見ると、セオ様は私に向かって微笑む。
その姿に、私は静かに呟いた。
「……セオ様を、困らせるわけには……いかないです」
私の言葉にセオ様は少し考えると口を開いた。
「レオナルド殿下のご婚約者であった頃、ラフィーナ様は常に頑張っていました。その姿は凛としていて真っすぐで。そんな貴方があの日、婚約破棄をされた瞬間を、私は止めることが出来なかった。私が行った時にはすでに貴方はおらず、レオナルド殿下からは婚約破棄は成立したと聞かされ、撤回を求めても受け入れてもらえませんでした」
あの日、セオ様は走ってきてくれた。きっとあの時、レオナルド殿下に私のことを話してくれたのだろう。
「私は自分が不甲斐なく……自分の無力さを感じました。殿下の傍にいても自分では殿下の心一つ変えられない。貴方様は、殿下には必要不可欠な存在であった。それなのに……私は、止められなかった」
セオ様はそこで一度言葉を切ると、どこかすっきりした表情で言葉を続ける。
「なので側近を辞しました。自分では殿下の心を変えられない。人間には適材適所というものがあります。まぁ、自分自身の努力不足でもありますが……国王陛下と話し合い、ここにいます。そこで一つラフィーナ様のお考えに訂正があります」
「え?」
一体なんだろうかと思っていると、セオ様は優しく微笑む。
「国王陛下は、立場上それを貴方には話せませんでしたが、大変、心を痛めておられました。そして、実の所かなり落ち込んでもおられました」
「落ち込む?」
「はい。婚約破棄前のことですがラフィーナ様が謁見した後など実は国王陛下はとても機嫌がよく、私にはもうすぐ可愛い娘が出来るのだと呟いておられました。なので、レオナルド殿下が婚約破棄を告げたのちに私がそれを報告へ行くと……かなり激高されて、止めるのが大変でした」
「は?」
突然の言葉に私が驚いていると、セオ様はその時の様子を話す。
「真剣を抜かれた時には、私は本当に心臓が止まるかと思いましたが、その後に、ラフィーナ様の幸せの為に話をしたいと伝え、納めてもらいました。そして国王陛下と話をし、この家をラフィーナ様の第二の人生の地にしてほしいと話し合ったのです。ラフィーナ様のことを考え国王陛下とここで小さな店でも開けるようにしたらどうかと……」
想像もしていなかった言葉の連続に私が目を丸くしていると、セオ様は店を見回しながら言った。
「先ほど、ラフィーナ様がレオナルド殿下に告げたことも、真実といえば真実です。ですが、国王陛下と私は……貴方様に健やかに、どうか笑顔で生きてほしいと思っています。まぁ、本当はどこかのんびりできる王城とは離れた場所という案もあったのですが、如何せん安全面が心配でして」
私はその話を聞いてセオ様を見つめて尋ねた。
「国王陛下は……婚約破棄した直後から事情を把握されていたのですよね……だけれど、婚約破棄が成立するまで、止められなかったのはなぜですか?」
「……国王陛下はラフィーナ様が相談に来られればすぐに動く準備をされていました。ですがいらっしゃらなかった。つまり……ラフィーナ様は婚約破棄したいと考えているのかもしれないと、国王陛下は思ったそうです」
そう言って微笑むセオ様を見つめて、私は無意識に涙がぽたりと零れ落ちた。
「私の意思を、尊重してくれようと、思ったのですね」
「ラフィーナ様……」
私は両手で顔を覆い、ゆっくりと呼吸を繰り返す。
「……国王陛下とセオ様は……私を、私を心配して、くれて……いたのですか?」
「当り前です。きっと、他にもたくさんの者が、貴方様を心配しています」
セオ様はそう言うと、静かに呟く。
「止められず、すみませんでした」
私は首を横に振る。
セオ様が悪いわけではない。
別に、婚約破棄は嫌ではなかった。
だけれども。だけれども、婚約破棄されたということがこれまでの自分のやってきた頑張りを全て否定されているような気がしたのは確かだった。
毎日、毎日、休む間もなく聖女として働き、眠る間を惜しんで、勉強をし、王国のためにと自分の意思を押し殺して、やりたいことなんて出来なかった。
そんな毎日は苦しく、食いしばって、自分は王妃になるのだからと自らを鼓舞した。
だけれど、不意に見えてしまうのだ。
自分に興味のなさそうなレオナルド殿下に愛されることはないだろうという現実が。
自分はこれからも日々を楽しみもなく忙殺されて生きていくのだろうと未来が。
それが婚約破棄で弾けて消えた。それは同時に私の頑張りも無意味になった瞬間だった。
心が、ぐちゃぐちゃにされたような気持ちになった。
だけれども心を保つために、自分に言い聞かせた。
婚約破棄されていいじゃないかと。自由に生きられるようになると。
これからはたくさん眠れるのだと。
美味しい物も食べるのだと。
嬉しいことばかりだ。
そう、そうだ。だけれど、じゃあ私がこれまで必死になって頑張ってきたことは?
「うぅ……」
「ラフィーナ様?」
「私」
「はい」
「私、これまで……頑張ってきたんです」
「はい」
「私には帰る家なんてなかったから、帰る場所なんてなかったから、自分の今いる居場所を守るために。聖女候補になって必死に、必死に頑張って聖女になって、それで婚約が決められて、王妃教育も始まって、たくさん、たくさんたくさんやらなくちゃいけないことも覚えなくちゃいけないこともあって、それを、毎日毎日毎日繰り返して、自分の楽しみなんてない毎日を必死になって生きてきたんです」
吐露するように、私は言葉を続けた。
「婚約破棄された瞬間、私はこれで解放されるのだと言う気持ちと、それとあぁこれまでの自分が生きてきた、頑張って来た時間は、何だったんだろうって、ずっと、ずっと思っていて、だけどそれを言葉になんて出来なくて……夜になるたびに、暗闇に落ちる度に思うんです……私って、本当に、役立たずなんじゃないかって」
自分の心の奥底に、ずっと抱いていた思い。
「こんな私は誰にも本当は必要なんてされなくて、私なんて……いなくなったほうが、本当は、本当はいいんじゃないかって」
暗い、暗い、聖女の頃は決して抱くことさえ許されなかった感情。
だけれど、何かが自分の中で弾けてしまってからはずっと心の奥底で渦巻くのだ。
その瞬間、セオ様が私の強く握っていた拳に手を重ねた。
「ラフィーナ様……」
「セオ……様?」
顔をあげると、セオ様が、苦しそうに悲しそうに、私を見つめ、そして言った。
「過去を変えることは、自分には、出来ません。でも、ですが、未来を歩むことは出来ます」
その言葉に私は、自分がずっと後ろ向きでいたことに気が付いた。
前を向いているつもりだったけれど心の奥底ではずっと、引き摺っていた。
「ラフィーナ様には、この家があります。私はずっとラフィーナ様の傍にいます。毎日ラフィーナ様が喜んでくれるように、笑顔でいてくれるように、美味しい物も作りますし、困っていることがあれば微力ですがお手伝いさせてください」
「セオ様……どうして、どうしてです? そんな私のことは罪の意識にかられる必要はありませんわ」
セオ様にそんなに良くしてもらうなんて、私にはそんな立場ではない。
婚約破棄についても後ろめたく思う必要などないのだ。セオ様は自らの仕事を全うしていたし、セオ様のせいなんてことはない。
セオ様は私のことをじっと見つめた後に、首を横に振ると笑顔を浮かべた。
「私はラフィーナ様に笑っていてほしい。……ただそれだけです」
「セオ様……」
私はセオ様の優しい笑顔に涙が止まると、そんな私の頭を優しくセオ様は撫で、それから言った。
「涙が止まってよかった。……ラフィーナ様が生きてくれていること、ここにいてくれること、私にとっては嬉しいことです。気持ちを話してくれてありがとうございます。いつでも話を聞きますから、ですから、思いつめないでください」
「……はい」
少し気持ちが軽くなる。私はじっとセオ様を見つめると何故かセオ様は恥ずかしそうに視線を反らしてから言った。
「すみません。その、遅くなりましたが、帰ります。長居してしまってすみません……では、戸締りをしっかりとしてくださいね。失礼します」
「あ、はい」
そういうとセオ様は足早に扉から出て行ってしまった。
私はゆっくりと閉まって行く扉を見つめ、それから立ち上がると扉の鍵へと手をかける。
鍵をかける前、私は先程のセオ様の言葉を思い出し、心が静かに音を立てたようなそんな感覚がした。
扉の鍵をかけるけれど、もう少し、セオ様と一緒にいたかったなと、静かに思った。
7月も半ばを過ぎましたね。この前新しい年が始まったと思ったのになぁ(/ω\)
 





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