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三国志別伝~果てなき東国からの親書と虞翻の計略 後編

士燮が小さくうなずいたのを見て、虞翻は、再び手をパンパンと叩いた。


するり、開けられたとびらから現れたのは、2人の赤子を抱えた男。 ・・・この男も、顔に入れ墨を入れ、髪を結って髷をつくってあった。


「この双子は、私とこの女の子供でしてな。 難生埋 と 日祈巫女 と名付けました。」


虞翻は、男子と女子・・・2人の赤子を指差しながら、ニヤリと笑う。


「ナンショウマイ・・・なるほど、『生き埋めにすることが難しい、太陽に祈るシャーマン』ということですな。」


士燮も、ニヤリと笑う。


なるほど皮肉屋の虞翻らしい命名である。


実は、東呉の先代当主である孫策が、揚州地域を攻めとる際に、琅邪郡出身の占道士、于吉を生き埋めにして殺している。


このことを皮肉りつつ、同じように孫策に攻められた地域で、生き埋めにされずに生き延びた太陽の巫女の子供たちということで、名前を付けたのであろう。


「そして、これが『太平清領道』です。」


さらに言葉を重ねる 虞翻は、白い絹に朱の罫を引いた書物を テーブルの上にポンっと投げた。


「ハハッ、偽書ですね。」


于吉が太上老君より授かったという『太平清領道』の書物。


そのようなものが存在するわけがない。


そもそも、張昭と孫権の神仙談義のいきさつを考えれば、太上老君などという仙人を、虞翻が信じているわけがないのだ。


さすがに、ここまで皮肉が効いた小道具を見せられると、士燮も苦笑しかできなかった。


「中身は、我が『易注』を元にした由緒正しき孟氏象数易の指南書でございます。」


偉そうで立派ことを言ってはいるが、要するにこの書物は、虞翻が書いた偽物というわけだ。


しかし、この時代、紙は貴重。


通常の書付けであれは、木片を削った物を繰り返し用いるし、豪商や、王侯のバックアップがなければ、書物を、紙を用いて書くようなことは無い。


ましてやここは辺境の地 交州である。


木札をヒモでつづった木冊として編纂するのが通常である。


つまり、この『太平清領道の偽書』が、ただの遊びで編されたものではないことは、分かる。


しかし、それが何を狙って作られたものか・・・ 士燮には、全く見当がつかなかった。


じっと、虞翻を見つめると、一度、目をつぶった後に、真面目な顔で口を開いた。


「実は、この親子を、彼らの生まれ故郷に返してやりたいのです。」


聞けば、この刺青をした女は、呉の東・・・海の向こうにある亶州から海を渡ってやって来たと言う。


当人は、交易の際に売り買いされる奴隷であったようだが、嵐にあって船が難破してしまえば、そのような身分など関係ない。


たどり着いた中国本土・・・厳虎の元で、シャーマンとして占いをして暮らしていたところ、巡りに巡って、虞翻の女となったというわけであった。


「まぁ、そういうわけで、情が移りましてな。なんとか、この()を故国に返してやりたい。安全に・・・。そのためには、船団が必要なのですよ。」


「しかし、交州には、そのような大規模な船団は、ございません。とても、虞翻殿のお役に立つことは・・・。」


士燮の言う通り、この地は、舟を用いて生計を立てる者は多けれど、遠洋に出るための大船は、士燮の持つ3隻だけ・・・それも、3隻とも、10年以上航海に出ていない お飾り・・・ いわば、見せかけの張子の虎である。


「いえいえ、舟はございまする。我が主の元に・・・。問題は、それを、東の海へ向かわせる方法ですな。」


そう言うと、虞翻は、目を細めその策を語り始めた。



結果的に、虞翻の申し出は、士燮の思惑にも合うものであった。


というのも、孫権の視先が、士燮の支配する交州ではなく、東の海に向くことは、彼にとって利益になるからである。


彼は、虞翻の策に乗り、孫権の東呉に対しての工作を始めることとなった。


舟の持ち主。 それは、虞翻の主・・・孫権である。


まずは、先ほど、赤子を抱えて現れた男。


この『男』と『太平清領道の偽書』を士燮が孫権へ献上する。


そうして、こう言わせるわけである。


「亶洲は、臨海郡の東南二千里にあり、土地に霜や雪がなく、草木も死なない。土地が肥沃で、魚肉も多い。土地に銅鉄があり、戦闘においてシカの角を矛として使い、摩礪青石で矢じりをつくる。蛮族であるが、勇猛な戦士が揃っている。」


これと同時に、秦の時代、徐福が始皇帝に不老長寿の薬を捜すことを命じられ、子女を数千人を連れ亶洲に辿り着いた。その子孫が会稽郡に来て商いをしており、会稽の者が嵐に遭った時、亶洲に辿り着くことがあるという話も同時に奏上する。


蛮族の勇猛な戦士の情報、そして、神仙の住む島についての情報と、それを裏付ける書物『太平清領道の偽書』を献上して孫権の興味をひくわけだ。


ただし、このようなことで、そこへ向かう船団ができるとは、通常であれば、士燮も考えない。


しかし、虞翻の話を聞けば納得できるものがあった。


東呉の兵が、大きく損なわれていたのである。 先の夷陵の戦いにおいて・・・。



217年、蜀漢は、魏との漢中争奪戦に勝利した。


この勢いに乗った荊州の守将・関羽 率いる蜀漢軍が、魏の拠点である樊城を攻めたてた。


結果、樊城は孤立無援となり、事態は、魏王 曹操が関羽を恐れ、遷都を考えるほどになった。


しかしながら、この関羽の猛攻は、魏の蔣済による「樊城は、洪水のせいで劣勢なのであり、兵が戦さに敗れたわけではない。遷都は、国家の大計を損なう。孫権に長江以南の領有を認めることと引き換えに、関羽の背後を衝かせれば、彼は撤退せざるを得ないだろう。」という献策により退けられることになる。


蔣済の思惑通り、孫権は、大都督・陸遜に命じて関羽の後背を突き、その首は、魏に送られることとなったのだ。


しかし、話はここで終わらない。


222年、義弟・関羽の仇を取るとばかりに、今度は、蜀漢皇帝・劉備が、呉に攻め込んだ。


これが、いわゆる夷陵の戦いである。


東呉の陸遜は、妙計により、これを退けたものの、蜀の皇帝率いる大軍との交戦が行われれば、かなりの兵が失われるのは当然のことである。


この戦いにより、もともと多くなかった東呉の兵力が、さらに大きく減損することとなったのだ。



「つまり、孫権殿は、兵・・・蛮族だが、勇猛な戦士を求めるわけですな。」


士燮の言葉に、虞翻がうなずく。


「しかも、亶洲は、魏呉蜀・・・ どの国の版図でもござらぬ。 この場所を押さえることで、東呉の領地に奥行き・・・深みが出来ます。 恐らくですが、80%の程度の確率でしょうか・・・ 私は、出兵するのは、間違いと考えます。」


なるほど、妙計である。


この船団が組まれた暁に、虞翻の女を、太陽に祈る巫女として、航行の安全のために乗り込ませることができるならば、故国である亶洲に、安全に彼女を送り込むことが出来る。


はてさて、この虞翻と士燮の計略の結果はどうであったか。


彼らの行動を記録した交州の資料は、すでに散逸しており詳細は不明であるが、どうやら、船を出すことには成功したようである。


というのも、三国正志 第47巻 呉書 呉主伝において、このように伝えられているからだ。


  229年、孫権は、将軍衛温と諸葛直に、兵1万人をあずけて

  渡航させ、夷洲および亶洲を求めさせた。

  亶洲は、海の向こうに在り、伝えられることには、秦の始皇帝が

  徐福に童男童女数千人を率いて渡海させ、蓬萊の神仙および

  仙薬を求めさせた神仙の住む地のことである。

  そこには数万の家があり、亶洲人は、時折り中国大陸の会稽に

  至って布などの商いをした。

  また、会稽の人間が海に出た時、嵐に遭って流移して

  亶洲に至る者もある。

  なお、衛温と諸葛直は、遠すぎる亶洲に至る事が出来ず、

  兵の大半を失い、夷州では、数千人を得て帰還した。


この史書によると、1万人の戦士を連れて、その兵の九割を疫病で失い、数千人の蛮族を得て帰るという、マイナスとしか言いようのない成果。


衛温と諸葛直の二人が、孫権によって獄に繋がれ、誅殺されたのは当然のことと言えよう。


士燮による 東呉の目先を 交州から逸らさせる 嫌がらせと、虞翻のちょっとした孫権への復讐の策(神仙談義を小バカにした罪に対し、神仙の住む東の国を求めさせ失敗させる)は、成功したと言っていいのかもしれない。


しかし、この結果を 虞翻と士燮の2人が見ることは、叶わなかったと思われる。


士燮は、黄武5年・・・226年に既に亡くなっており、虞翻についても、その7年後、嘉禾2年・・・233年に この世を去っていると書かれており、さらに、彼はついに交州より都に戻ることはなかったと 記録にあるからだ。


2人が、死後に 彼らの嫌う神仙の世界へと向かったかどうかは、我々には定かではないが、かの虞翻の女が その後 どのようになったのか。


これは、気になる所である。


実は これも行動を記録した資料が、ほぼ散逸しており、足取りを追うのが 非常に難しい。


しかし、その後の史書に、ほんのわずかではあるが、渡海した 彼女とその赤子の手がかりが 残っている。


それを、ここに紹介しておこう。


三国正志 第30巻 魏書 烏丸鮮卑東夷伝 倭人条・・・ 日本では、『魏志倭人伝』と通称されるこの書物に、このように伝えられる。


  倭国王は、元々は男であったが、争いが絶えぬため、

  女子を擁立し、女王とした。

  女王は、太陽に祈り神の言葉を伝えて、人心を掌握した。

  この女王が治める国の名を邪馬台国と呼ぶ。


  238年、女王の使者が、その手紙・・・親書を携え

  魏の皇帝 曹叡のもとに朝貢した。


※この時代、中国は三国に分かれ、正当性を争っている。

 現代でも、北京で開催されたオリンピックにおいて、

 女性テニス選手の人権問題などを理由に、各国首脳が

 出席を取りやめる中、大国では 唯一 出席した

 ロシア大統領を中国トップが異例の歓迎(13兆円ほど

 のロシア産の石油や天然ガスの大量購入を約束)をした。

 これは、出席をすることで、北京オリンピックを開催する

 中国を承認するという意味をもつ訪問であるからである。


 同様に、異民族である邪馬台国の朝貢は、魏帝国を

 正統なものと周囲の人間が認めたということを

 アピールするための重大なイベントであったのだ。


そうして『魏志倭人伝』は、記述をこのように続ける。


  皇帝 曹叡は、女王の手紙を大いに喜び、彼女に

  『親魏倭国王』の称号を与える旨を記した手紙と、

  金印・・・印綬を使いに持たした上、褒美の品を与え

  使者を女王へ送り返した。


  邪馬台国からの使者の名は、『ナンショウマイ』。


  魏の皇帝に 手紙を送った女王の名は、『ヒミコ』。



ものの本によると、三国志の著者である陳寿は、その記述において、使者の名を『難生埋』、女王の名を『日祈巫女』としたとされる。


しかし、南朝 宋の時代に皇帝の命を受けた裴松之によって、その漢字を それぞれ『難升米』および、『卑弥呼』と書き換えられたと言われている。


一説には、中華思想により、蛮族の人名には、蔑字を使うという 宋代の考え方が、不老不死を想像させる『使者 難生埋』や、太陽王をイメージさせる『女王 日祈巫女』の文字を 異民族に当てることを よしとしなかったことが、その理由であったと推測されているようだ。


それはさておき、魏の皇帝に手紙を送った 邪馬台国女王と その使者・・・ 彼らが、虞翻と 彼が愛した女性の間に生まれた 双子の赤子であったかのどうか。


それを裏付けるための十分な資料は、残念ながら未だ発見されていない。

13時の蛇足にて完結させます。

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