空の撮影者
拙い文字で「遺作」と書かれた紙切れで私はおじさんの死を知った
おじさん、と言っても叔父さんや伯父さんの類ではない
子供の頃に近所にいたおじさん、と言えば誰しも何かしら思い当たる人物がいるのではないか?ーーまぁ、イメージとしてはそのようなものだ
おじさんは自称カメラマンで、曰く「空の撮影者」らしい
首からウン十万もするぎらぎらと黒光りする重たいカメラを下げてフィールドワークへと赴く
こう言えば、聞こえはいいがハタから見ると全くもって変人である
なにせ「空」をテーマにしてるだけあっておじさんは上ばかり見て歩くし、時折感極まって立ち止まってしまい他の通行人に白い目で見られる等々、一緒にいて恥ずかしい思いをする事も多々だった
そんなおじさんだからやっぱり独り身で、もうずっと前に奥さんに愛想を尽かされて出て行かれ、今は時折会いに来てくれる息子が唯一の繋がりだと言うから子供ながらに哀れに思って私はそれからよくおじさんの所にいた
おじさんの訃報で想起したのだが、彼は空を見上げる時にーーと言うか、野外では私と会話する時以外、基本上しか見ていないーーぽかんと口を開けているので、私は「空から誰かが毒入りのスポイトをぷちゅと押してやってそのぽけっと開いた口に入れられないものかしら」と夢想していた
もう少しリアリティーを追求すれば、「その内排水溝だかに脚を落として頭を打つだろうな」が定番の所見だった
が、驚くべき事におじさんは病死でその最後は病院のベットの上に横たえられていたらしいのだから現実と言うものは想像を揶揄うように裏切るものだ
だが、一方でおじさんはその白い枠からもずっと空を見上げていたのは絶対の自信がある
通行人にぶつかる事もなくて安全だったのではないかと不躾ながらその四角い封筒の角を指の腹に感じながら思った
渡された白い封筒にはただ一言「遺作」とだけ書かれた長方形の紙が入っていた
それだけだ
遺作を指す作品もなければ、展示会の案内状らしきものもない
ただその白く味気もない紙切れにへにょへにょとした文字が2つだけのっている
何だこれは?遺作と言うからには私に何か見せたいものがあるんじゃないか?
結局、答えが分からないままに外套のポケットに突っ込んだまま3日が経過している
その間もやはりこの謎に関してばかり頭がいってしまって、これが私に自分の事を思い出して欲しいというおじさんのチンケな悪戯だったら、狙い通りだ
歩きながら、過去の記憶を辿り寄せている時にありがちな朧気な意識のまま空を見上げていると、どうも自分におじさんが憑依しているのではないかと笑えてくる
彼はどうして「空」なのだろうか?被写体をもっと様々な物へと目を向けないのか
ある時、おじさんはいつものように空を見上げると突然、ぽろぽろと泣き出した
「この胸を締め付ける苦しさを誰かに味わせてやりたい
共感して欲しい、痛み分けして欲しいんだ」
それが私の問いに対するおじさんの答えだった
空を見上げて、自分と同じようにこの恐ろしいまでに壮大な世界最大の芸術品に心を奪われて欲しい
この感情を知って欲しくて私は空を撮るのだと
おじさんは共感者が欲しかったのだろう
奥さんにも出ていかれてやっぱりちょっと寂しそうだった
そのくせ、一向にカメラから手を離さずに前なんか見ないで上ばかり見上げているのだからしようがない
「いつか目に物見せてやるぞ」と悪人面して恐ろしげに思える事を言うのだが、それがなんとも楽しげで悪戯を企む子供のようにわくわくとしていた
そんな風に空の写真ばかり追っているから、1人なのだろうと私が言っても知らんぷりだ
おじさんであって、中身は子供なのだ
だから私が彼の作品を少し見せてもらってそれに私が感動を覚えた時、私の顔をみて彼はその面を何とも嬉しそうににやにやと歪ませていたのはよく覚えている
だから、結局のところおじさんはおじさんなりに自分の人生を楽しんで送れたのだろう
そう言えばおじさんはこうも得意げに言っていた
「美術館なんかで狭い室内にぎゅうぎゅうに押し込まれるよりもこっちの方がいいぞ、なんて言ったってタダだしな…金持ちだろうが貧乏人だろうが平等に鑑賞できる素晴らしい作品だぞ、これは」
その言葉に何かの啓示が舞い降りた
ーーまさか、そんな図々しい事なのか?
ポケットから例の封筒を引き抜いて中の白い長方形を取り出す
目の前にそれを掲げてはっとする
……遺作というのは、まさかこの「空」の事を言っているのか?
今、私が見上げているこれを自分の作品なのだと主張しているのだろうか?誰しにも平等に存在するそれ自体を…まさか、そんな厚かましいにも程があるだろう
しかし、一度そう思えば、どうにもこの白い紙は題名のキャプションボードにしか見えなくなってくる
おじさんの例のにやりとした笑みが浮かんできた
してやったり、だ
私も彼の鉄面皮に苦笑を禁じ得ない
これは、父を亡くした私に対する彼なりの励ましのジョークなのかもしれない
彼の遺作は確かに美しかった
白い絵の具を水に溢したような雲がやがて厚みを持ってかたまり、そして西から東へと抜けていく
それらは日の光の陰陽でオレンジと紫に染まっていてこれが現実にある光景なのかと目を疑う程だった
まさに絵画の世界がそこにあって、人工的なビルとの対比で不気味なまでに壮大だった
なんでこの存在を忘れていたのだろうと思う程にそれは胸に重くのし掛かった
「卑怯だな」
あぁ、ほら晴天に雨だ




