メビウスの輪
あと何日だろうか。それを過ぎたら、彼女とは二度と逢えなくなってしまう……私はそう思って、焦っていた。そのことを考えると、中国語の参考書も頭に入らないぐらいだが、そうも言っていられない。私は大学を休学し、中国へ留学することが決まっていた。
彼女のことを知ったのは、二週間ぐらい前だろうか。大学のカフェテリアで、私は一人でランチの定食を食べていた。隣のテーブルに、私と同じように、一人で食べている女子がいた。普通ならただそれだけで、別に何とも思わないのだが、私は何か気になり、時々、彼女の様子を見ていた。髪が短く、こざっぱりしていて、白いデニムをはいている。本を片手に、スープを飲み、サンドイッチを口に押し込んでいた。別に、そんな子はいくらでもいるのだ。私もスカート姿ではあるが、そこそこ品よく見えると思ってはいる。ただ、彼女は何かが違っていた。彼女は一度私の視線に気づき、目が合ったが、私の方が反らしてしまった。その時は、それで終わり。
家に帰って、寝る時になって、昼の彼女のことを思い出した。誰だろう。知っている人ではない。同じ学年だろうか。なぜ気になるんんだろう。印象がいいからか。自分もあんな感じになりたいと思っているのだろうか。顔立ちは品よく見えるが、とりたてて美人というわけでもない。
次の日は逢えなかった。でもその次の日、同じカフェテリアで、また隣のテーブルになっていた。でも、彼女は女友達を連れていて、その人との話に夢中だった。私は一人だったが、彼女のことばかり見ていた。笑顔が素敵な人だと思った。少し首を傾げるような仕草も、かわいらしいと思った。彼女の友達がうらやましい。きっと素敵な話をしているんだ。彼女と何度か目が合ったが、そのたびに私は目を反らしていた。やはり他人なので、はっきり目を合わせるつもりはなかった。
だんだん、彼女のことを考える時間が増えていった。といっても誰だか分からないので、頭の中で、彼女と歩いたり、一緒に座っていたりする。ふと、自分は何をしているんだろうと思った。まさか一目見ただけで、同性を好きになってしまったのだろうか。思えば、私には好きな人がいなかった。友達はだいたい好きな男の子がいたり、既につきあっていたりするが、私には何もない。
「奈々美は勉強ばっかりしているから、そういうのに関心なくなっちゃったんだよ」
そんな風に言われるが、勉強ばっかりしているわけでもない。
また二日ほど経ち、また彼女と隣のテーブルになった。彼女は一人だったが、今度は私の方に友達二人がいた。
「あー難しい。数字が出てくるともうダメだよ」
「数式入れないと、レポート再提出だぞ」
「奈々美はいいなあ。もうすぐ留学でしょ?」
「中国語は難しいよ。漢字がダメ過ぎ」
「私も漢字は苦手。よく中国なんかに留学する気になるよね。旅行なら全然いいんだけど」
「うん、父親も中国にいるしね。身近ではあるんだよ」
父は日本のメーカーの、大連の支社にいる。私の留学先も大連だ。現地では学生の寮に入るが、何かあれば父に頼れる。そう困ったことにはならないはずだ。
隣のテーブルを時々見ると、彼女が私の方を見ていた。でも、私と同じように、目を合わせると反らしてしまう。同じことを考えているんだろうか、と一瞬思う。
「おい奈々美、聞いてんのか?」
「へ?」
「あーもう、頭が中国行っちゃってる」
彼女は食べ終わり、席を立って出て行った。あとを追いたいけれど、友達を置いていくわけにもいかない。
せめて名前を知りたい。私は大学の構内を歩き回って、彼女がいないかどうか探し回った。といっても休み時間だから、人通りも多いし、それに学部すら知らなければ、広いキャンパスの中で見つけるのも困難だ。でも、逢ってどうするのだろう。それを考えると、歩き回る足が止まりかける。中央棟の大きなホールに出た。ふと、エレベーターを見ると、彼女が乗っているのが見えた。扉が閉まりつつある。私はエレベーターの方に走っていったが、扉が閉まった。すぐに動き始める。エレベーターにはガラス窓があり、彼女の姿が見えた。一瞬だったが彼女も私に気づいていたのが分かった。エレベーターの前で表示を見る。何階で止まるんだろう。全部で十四階。最初は五階に止まった。私は夢中で近くの非常階段に飛び込んで、駆け上っていった。そして五階のエレベーターホールの前に出る。誰もいなかった。私はしばらく息を切らせた。慌てすぎだ。最初に止まったところで降りるとは限らないし、降りても私を待ってるなんてことないのに。私はため息をついた。窓があり、中央棟のホールのガラス屋根を見下ろせる。私は窓から下を見て驚いた。ガラス屋根の下に彼女の姿が見えた。誰かを探している。きっと私だ。彼女も私に逢いたがっている。それは確信だった。私は慌てて階段を降りていった。
「待って……今行くから」
彼女に聞こえるはずもないが、そう言って、慌てて降りていったが、もうすぐ二階というところで階段から足を踏み外して転倒した。
「いたたたた……」
周囲の人が心配して駆け寄ってくる。
「大丈夫ですか?」
「いえ、あの、だ、大丈夫……大丈夫です」
足を打ったぐらいで、立つことも歩くこともできるが、すぐには走れず、階段をゆっくり降りて、一階のホールに出たら彼女はもういなかった。私は泣きそうになっていたし、実際家に帰って自分の部屋で泣いた。逢いたくて、話がしたくて、これはもう好きになったんだと思った。
それから出逢えないまま何日か過ぎ、この大学に通うのもあと数日。私は昼にまた一人でカフェテリアに行った。すると、いつも座っているテーブル席に、彼女の姿が見えた。今日、彼女は一人だった。私の胸が高鳴る。やっと二人で逢える。席まで遠いので、彼女はまだ私に気がつかない。私は駆けていって、すぐにでも彼女の隣に座って、声をかけたかった。でもカフェテリアだし、表向き、彼女に逢うのが目的というわけではないし、とりあえずランチを取ってくることにした。自販機で食券を買い、トレーを持って進んでいく。食券を渡す。
「あれ? ……Bランチなくなってる。待っててねー、すぐ作るから」
職員にそんなことを言われて気が気ではない。私は彼女のいる方を伺ったが、柱だの人だのがじゃまでよく見えない。作り置きがなくなってしまい作っている。揚げ物など選ぶのではなかった。時間にして二、三分だったろうが、それはもう長く感じた。そして揚げ物のおかずの皿と、ご飯と味噌汁をトレーに乗せ、やっと先へ進める。紙コップを機械にセットし、ボタンを押してお茶を注ぐ。しかし、お茶が止まらなかった。
「え? どうなってんの?」
お茶は紙コップからあふれていた。慌てて周囲を見回すと、近くを通りかかった職員が気づいた。
「あらあら、またそれ壊れちゃったよ」
そして職員は、お茶があふれているまま、紙コップを無理に取ろうとした。
「あちちっ!」
そう言ってコップを飛ばしてしまい。中身のお茶が置いてある私のトレーの上にぶちまけられてしまった。
「ありゃまあっ! ご、ごめんなさいっ! すぐ取り替えますから」
そう言って急いでトレーごと持って行ってしまった。
「え、え、そんな……」
もう、すぐにでもあの席に行けると思っていたのに、またランチをもらうところからやり直しだなんて。私は顔から血の気が引いてくる。嫌な予感がしてきた。
今度は割と早くランチがトレーに用意され、私はお茶も取らずに席の方に急いだ。
彼女はもういなかった。悔しいやら憎らしいやら情けないやらで、私のトレーを持つ手がふるえていた。
駅前に、小さな占い館があって、私はそこにいた。普通でないことが起きているが、それが何だか分からない。
占い師である老婆は、さっきからタロットカードの一枚を見つめている。大きな水車のような絵が描いてある。
「運命の輪……あなたのその人は、強い運命で結ばれている。でも、逢えないのだね?」
「はい、何かタイミングが悪いとか、邪魔が入るとかで、どうしても、口をきくこともできないんです」
「それは、メビウスの輪だね」
「メビウスの輪って……あの、表と裏がない……」
「そう、メビウスの帯とも言う。帯を裏返しにねじってつなげた輪だ。あなたは表、その人は裏にいる。同じ世界の、すぐ近くにいるけれども、絶対に交われない。そういう関係にある相手が、誰にもあって、普通は関われないから全く気がつかないけれど、あなたはたまたま気づいてしまった」
「では、どうすれば……」
「メビウスの輪を考えてごらん。離れていけば、ずっと離れていけば、いずれ交われる位置まで近づいて、きっと逢える」
説得力があるような、でも本気にはできないような言葉だった。離れていくって、確かにもうすぐ中国へは行くけれど、それではもうそれきりのような気がする。
この大学最後の日。もっとも休学だからまた来るだろうけど、もう彼女のいる時には来ないだろうと思う、同じ三年なら、もう卒業している。占い師には強い運命とか言われたけれど、一度も口もきいていないのでは、きっと忘れてしまうと思った。
夕刻。きれいな夕焼けだった。友達数名とキャンパスの出口に向かいながら、次に帰国した時に集まる約束もする。でもここで集まるわけではないので、彼女とはきっともう逢えない。
バス停に、バスが止まっている。その後ろの方の窓に、彼女の姿が見えた。私は、友達を放って思わず走っていた。でも、バスは扉を閉め、ゆっくり動き出していた。私は彼女のいる前で立ち止まった。まだ乗り込むこともできたかもしれない。でも、このバスは私が乗るバスではないのだ。
彼女も私に気づいた。窓を挟んで、その距離は数メートル。彼女は微笑んで、私に手を振った。私は涙ぐんで手を振り返す。彼女の口が動いた。聞こえないけれど、何て言ってるか分かった。
「また明日ね」
私には、明日はない。
「さようなら」
私はそう言った。しばらくして、友達が追いついてきた。私は慌てて涙を拭く。
「どうしたの? 急に?」
「いや、ちょっと知ってる人がいて……」
それ以上は何も聞かれなかった。私は一人別れて帰り、家に帰って泣きじゃくった。
新しい日々が始まった。大連に行くなり、大陸のスケールに圧倒された。とにかく広場から公園から恐ろしく広い。日本にいること自体が、ひどくスケールの小さいことのように感じた。そして、彼女のことを思い出すことも、まずなかった。慣れない中国語を必死に身につけようとする毎日、同じ留学生の友達が何人かはできた。日本人ばかりではない。勉強も忙しい。
留学生活を満喫してはいたが、特定の好きな人というのは特にできなかった。あるイタリア人の男子留学生とデートをして、観光用の水路のある町をゴンドラで進んだりして、彼はかなりその気だったが、私はそうでもなかった。景色はきれいだと思ったが、彼に特別な魅力は感じなかった。彼はやがて違う女子と付き合いだした。
部屋に一人でいる時、ほんのたまに、彼女を思い出す。遠い昔の想い出のようだった。その時は、逢いたいとか、切ないとか思うし、涙が出たりもするけれど、お互いもう違う世界で生き始めているのだから、後ろを向くのもばかばかしい。
父には時々会う。車で食事に連れてってもらったりする。父は運転中も時々スマートフォンを見ていたりして危ない。いや、それより、誰かと親密にメールで会話をしているようだった。母とだろうか。いや、そんな感じではない。態度で何となく分かってしまう。ただ、問いつめる気はない。私ももう子供ではないからだ。
半年経って一度日本に帰国したが、家に帰って家族に会い、あとは数人の友達に会うぐらいだった。もちろん、彼女に逢うために大学に行く気などはない。
そして一年が経ち、大連の大学に編入して、こちらで卒業してそのまま就職することにした。父の影響で、私もメーカーを目指していたが、日本の製造業はかなり弱ってきていて、こちらで就職した方がいいと思われたから。父もそれには賛成した。私は中国の中堅メーカーに採用となった。
仕事は忙しく、日本に帰る暇もない。帰る気もあまりなかった。父は時々帰っている。勤め先では、機械の設計をしていたが、そこに組み込むソフトウエアはインドで作られている。現地の人を指導するため、インドのムンバイに駐在することになってしまった。今度は文化も違うので、全く慣れない。やっと慣れた頃に、勤め先がフランスの会社に買収されてしまった。私はインドからフランスに移ることになった。
フランスは住みにくかった。さすがに会社を辞めて日本に帰って就職しようと思ったが、イギリスのメーカーから声がかかった。インドのソフトウエアメーカーの人が、イギリスの会社に移っていて、その人が私を引き抜いたのだ。私はフランスよりましだろうと思い、イギリスの会社に勤め始めた。
しかし、給料は不満だったし、業績も思わしくなかった。何よりもメーカーの技術力が低く、競争力も下がってきていた。私はまた転職した。アメリカの会社を選び、ニューヨークに住んだ。その後、ロサンゼルスの支社に飛んだが、ここで母親の体調が思わしくなく、今すぐにどうなるというものでもないが、私は母の近くにいようと、アメリカの会社を辞めて、日本に帰ってきた。
私が大連に留学してから、十年が経っていた。私の年齢は三十を過ぎた。海外経験も多かった私は、すぐに就職できた。
実家に住んで、そこから勤め先へ通うようになった。母の体調が悪い日は、昼食を作って置いておき、夕方も早くに帰る。いつも悪いというわけではないので、それは助かっている。
ある休日の昼下がり、息抜きに街へ出て、一人外食をしていた。カフェテリア方式のオープンカフェだったが、建物の広場に面しているので、外の喧噪からは少し隔離される。テーブルも広くてのんびりする。
私はバゲットランチを口に運んで、ぼんやりしていた。そういえば大学時代のカフェテリアに似てると思った。そして何か、大事なことを忘れている気がした。
「ここ、相席、いいですか?」
ふいに、女性の声でそんなことを言われた。確かに私は四人掛けの丸いテーブルを一人で使っていたし、カフェテリアだから相席を求められてもおかしくない。他のテーブルも埋まっている。
「どうぞ」
その女性はトレーを置いて、私の対面に座った。そして、私達は同時に気づき、しばらく見つめ合った。
あの人だ……間違いない。逢いたくても逢えなかった彼女だ。そして、相手もそれに気づいている。彼女は微笑した。
「あのう……どこかで」
私も微笑を返す。
「ええ……逢いましたよね。いいえ、逢えなかった。K大学のキャンパスで」
「そうそう、カフェテリアにいましたよね……ここのような」
私はうなずいた。彼女はややうつむき、軽いため息をついた。
「あのう、今、何をされてますか?」
私は彼女に訊いた。
「普通に働いています。勤め先、実はこの近くなんですが、この辺りは都会でも雰囲気がいいので……あなたは? 確か……すぐいなくなりましたよね?」
「留学したんです。中国へ。卒業してもずっと海外で働いていて、先日帰ってきました」
「中国から?」
「いいえ……インドに行って、フランス、イギリスに行ってアメリカ……そう、地球一周してます」
「ええ? すごい!」
「流されてるだけかも」
私達は笑った。
「そういえば、お互い名前も知らないね。私は山脇夏帆って言います。よろしく」
「私は、菊野奈々美。こちらこそよろしく」
私は思い出していた。あの頃、切実に逢いたがったこと。彼女はもちろん、もっと子供っぽかった。かわいらしくもあった。今は落ちついた女性になっている。でも、あの頃と変わらないと、私には感じられた。最後の日、バスの中から手を振った彼女。ガラスに隔てられた向こう。今、隔てるものは何もない。私は涙が出そうになる。もちろん、涙なんか出して相手を困らせるのは嫌だ。
私達はしばらく黙っていた。彼女が先に口を開く。
「あの時……とても話がしたくて、なぜだろう……いなくなったあとでも、たまに思い出したりして」
「私もそう……それで……」
あの占いのことを、言っていいものだろうか。
「それで?」
「あの……山脇さん、今結婚してますか?」
彼女は笑顔で少し驚く。
「えっ? 唐突に……してないよ。相手もいない」
「同じだ……私も、縁がないっていうか……」
誰かを好きになりかかっても、彼女のことを思い出したりしていた。私はうつむいてしまう。言いにくいけれど、伝えたい。いや、伝えてはいけないのかもしれない。彼女は自分を、そんな風に思ってはいないのかもしれない。私は顔を上げて、彼女を見つめる。
「最後の、前の日に、占いでみてもらったんです。私達は強い運命で結ばれている。でも、メビウスの輪の関係。同じ場所にいても裏と表。だから決して逢えないのだと。でもあなたから遠くに行けば逢えるようになるって……そう、私は地球を一周したんだ。あなたに逢うためというわけではないけれど、でもこれがメビウスの輪の、裏から表に来たことであれば、それで、私達は今逢えているのかも……」
彼女はうなずいた。
「実は、私……あなたがいなくなった時、私に逢うために、どこか遠くに行ったんじゃないかって思って。勝手にそう思っただけなんだ。でも、そういうことなのかも……」
私達は食べ終わっていた。彼女はゆっくり立ち上がる。
「少し、歩かない?」
「うん、いいよ」
私達はトレーを片づけ、街の中を歩く。彼女は人通りのない路地へ進み、そして、おもむろに私を抱きしめた。彼女は泣いていた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……こうせずにはいられない……好きになってしまって、ずっと、ずっと逢いたくて私は……」
私も、彼女を腕に抱く。
「もう大丈夫。同じ場所にいるんだよ。これからは、ずっと一緒にいよう」
彼女は、私にもたれてうなずいた。
あとになって、地球を一周している人なんていくらでもいるから、メビウスの輪の反対側になってしまう関係なんてありえないと笑い合った。
でも私達は、メビウスの輪の話を信じている。
(終わり)