第五章 戦争が終われど-4-
プライベートでいろいろありました。とりあえず完結に向けてゆっくりですが、続けていきたいと思います。
移転暦二五年一一月
この月に入ってすぐ、日本国空軍第十航空団(在ロリアムンディ)隷下の第一一一飛行隊および第一一三飛行隊(F−2戦闘機二十四機)による首都ベルランへの航空攻撃が行われた。爆撃目標はプロイデン軍総司令部、同陸軍総司令部、同空軍総司令部、同海軍総司令部、SS軍総司令部、軍需工場、周辺のレーダーなどの軍事施設であった。
これに先立つ前、独立機動艦隊の全艦載機をもって大陸横断鉄道の重要拠点に対する空爆が行われており、プロイデンへの石油資源流入は完全に停止、また、貯蓄分の燃料なども消費されており、継戦能力の大幅な低下が確認されていたのである。だからこそ、降伏勧告の前に壊滅的な打撃を与えておこうとする作戦であったといえる。
この爆撃は一〇日の間に延べ四度実施され、軍事施設は壊滅したことを確認した日本政府は降伏勧告を行った。しかし、ガンダー総統からは何の返答もなく、政治的解決をすることができないでいた。そのため、戦闘状態は継続され、ついにはガンダー総統の居住すると思われていた総統府への空爆が検討されることになった。これは秋津島統合防衛軍司令部参謀たちにとっては予想されていたことであっただろう。
もっとも、地上作戦はというと命令系統が破壊されたことによって急速に進捗することとなった。この月半ばにはエーリッヒ・ゲルナー少将指揮下の一個師団が首都ベルランへの無血入城に成功し、遅れること四日でエルヴィン・フォン・ロンデル大将指揮下の一個機甲師団もベルラン入りを果たすことに成功する。彼等がまず成したことはガンダー総統の逮捕であったが、彼の姿は何処にも確認することができなかった。ついで手を着けたのがゲンディス党員の逮捕と親ガンダー派の政治家や軍人の逮捕であった。この時点においてヨアヒム・シュレーヘン元国会議長は戦闘停止をプロイデン軍に呼びかけていた。
ここにおいて日本および秋津島統合防衛軍の四ヶ月続いた対プロイデン戦争は終結することとなった。とはいえ、根本的な問題が解決されていなかった。ガンダー総統は何処に消えたのか、ということである。彼と彼直属のSS部隊が忽然と消えていたのである。後の調査において彼らが西方に向かったことが判明するが、それはまた別の話である。
余談ではあるが、新生プロイデン軍内にはG機関という部署が設けられ、その任務はガンダー総統の捜索であり、規模は最大で五千人にも及んだとされる。
ともあれ、ヨアヒム・シュレーヘン元国会議長とエルヴィン・フォン・ロンデル大将そしてエーリッヒ・ゲルナー少将はベルラン入りした上田昌良陸軍中将との間で話し合いが持たれ、国内の治安回復、軍の一部解体、西方四国に展開するSS部隊の逮捕拘束、一年以内の選挙、同議会開設、早期の実務会議開催、日本軍による北部国境警護などが決定されていった。
結果として、エルヴィン・フォン・ロンデル大将指揮下の一個機甲部隊を中心とした部隊が国内の治安維持および残余のSS部隊の逮捕拘束に当たることとなり、エーリッヒ・ゲルナー中将(野戦任官であるが昇進)の一個機甲師団および二個師団が西方四国に展開中のSS部隊の逮捕拘束に向かうこととなる。ゲルナー中将の部隊には鈴木浩二中佐を第十四師団隷下の一個大隊とともに同行することとなった。この鈴木浩二中佐は秋津島統合防衛軍参謀の土田巌中佐の一期先輩に当たる。
第一四師団はといえば、抽出した一個大隊以外のすべての部隊を旧ギロリア民国北部へと進撃していた。これは北方のユロリア帝国の南進を警戒してのものであった。今次の戦争については当然ながらかの国も知っていると思われ、混乱に乗じての侵略を危惧していたのが日本政府であったからである。実を言えば、この戦争が始まってすぐに旧ギロリア民国代表と名乗る人物と接触しており、それはギロリア民国の再建についての対話であったとされる。
ここで問題となるのがゲンディス党要人およびガンダー総統の行方であるのは当然であっただろう。しかし、彼らの行方はようとして知れず、西方に向かった痕跡があるだけであったという。ガンダー総統を含め、党の主だった高官および軍高官数十名が忽然と消えたのである。西方に向かったとされるのは総統専用飛行場周辺の住民がすべて殺戮されており、目撃者がいないためとされていたからであった。
ともあれ、会議においては西方四国における治安回復が急務とされ、エーリッヒ・ゲルナー中将指揮下の部隊の派遣が急務とされ、監視部隊として鈴木浩二中佐を第十四師団隷下の一個大隊の長として早急に派遣することとなった。
日本政府は忽然と消えたガンダー総統やゲンディス党、その他の人物の捜索拘束にはあまり力を入れることはなく、新生プロイデン国にすべてを委ねることにしていた。むろん、情報提供は続けられることとなっていた。その日本政府が唯一、力を入れたのは新生プロイデンの内政に間してであったといわれる。また、西方四国からの旧プロイデン軍の放逐には力を注ぐこととなった。
後世においてこの対プロイデン戦争の勝利者は誰か、という論議は成されたことはない。それはだれの目にも明らかであったからである。ただ、それが原因で後にこの星全域を巻き込んだ戦争が起こった、とする説に反対する者はいない。
プロイデン国内の戦闘が終結したことで戦いの焦点は西方四国のリトロリア共和国、トルメロリア共和国、アルバロリア共和国、トリコロリア共和国へと移って行くこととなった。これらの国では未だ旧プロイデン軍(その多くはSS部隊であった)との戦闘が続いていたのである。彼等は半ば盗賊とも言える集団と化しており、もはや軍として組織だった集団ではなかったとされる。
このころ、西中海方面の偵察衛星はどうなっていたかといえば、機能していなかったのである。対プロイデン戦争が始まってすぐに機器の故障によるものか不調になっていたのであるが、戦争終結時点ではまったくコントロールが効かず、情報の入手が不可能となっていたとされる。そのため、戦術偵察機や電子作戦機に頼らざるを得なくなっていた。そのため、忽然と消えたガンダー総統やゲンディス党、軍高官についての情報は得られていなかったとされる。