第四章 戦いに意義はあるのか−4−
移転暦二五年七月
七月一〇日
プロイデンに対する攻撃が始まった。最初に攻撃を始めたのはプロイデン沿岸沖三〇〇kmまで接近した独立遊撃部隊の二十二式巡航ミサイルによるものであった。ハンブレング、ブレーヘン、ケレンなど東部沿岸部にあるレーダーサイトや地方軍司令部などへの攻撃であった。独立遊撃部隊はその後も西進しながらフレンクフラト、ニュレンベリク、シュトックガルク、アーレンと中西部沿岸部をも攻撃していった。護衛についていた第四水雷戦隊はこの間に潜水艦を一二隻、水上艦艇(多くは駆逐艦以下の艦艇)二四隻を撃沈していた。
第一機動艦隊および第二機動艦隊は沿岸より四〇〇km沖からF−7戦闘攻撃機を発進させ、沿岸部より三〇〇km内陸部にあるレーダー施設や軍司令部を十九式空対地ミサイルによって航空攻撃していった。むろん、迎撃戦闘機も上がってきていたが、護衛についていたF−6戦闘機によってすべて撃墜していた。
独立遊撃艦隊はその後、一八〇度転進して沿岸部から一五〇kmまで接近し、さらに沿岸部から六〇〇km内陸部にあるレーダー施設や軍施設に攻撃を加えて行く。小規模な水上艦部隊が現れるが、すべて撃破しつつ会合点に向かった。会合点には海軍陸戦隊一個大隊を乗せた揚陸艦『鳳翔』および臨編第161軍先発部隊を乗せた輸送艦一〇隻が第三艦隊護衛の下終結していたのである。
そのころ、αポイント東方一〇〇kmでは第五一一および第五一二飛行隊、第五二一および第五二二飛行隊が第五四一飛行隊E-MRJ70AWACS<カラス一番>の下で航空戦を繰り広げていた。これまで決して先制攻撃をしなかった航空部隊がαポイントに襲い掛かったのである。とはいえ、この作戦の主目的はプロイデン側の航空戦力撃滅にあり、航空機や地上施設である滑走路およびその付帯施設の攻撃はするが、地上部隊に対しての攻撃は考慮されていなかったのである。
このαポイント攻撃作戦において撃破した航空機は戦闘機一二〇機を含めて総計四〇〇機に及んだといわれる。滑走路はクラスター爆弾により、完膚なきまで破壊され、爆撃機の多くは地上で撃破されたといわれる。地上部隊はどうしたかといえば、現地に留まっているが東進の気配はなく、本国に引き上げる様子も見せてはいなかった。ウランバート派遣軍司令官の上田中将は敵地上部隊に降伏を勧告しているが、それに対する返答はまだなかった。
上田中将にはこのαポイントに在る地上部隊を現地に留めておく必要があったのである。第161軍のハンブレング上陸作戦が終わり、周辺逝域の落ち着くまではこの部隊を引き上げさせるわけにはいかなかった。でなければ第161軍はハンブレングにおいて東西両方の敵と戦うことになるからである。
七月一八日、第161軍先遣部隊第五一一連隊および第五一二連隊がハンブレングに上陸、橋頭堡を築きつつあるころ、αポイントの一部部隊が引き返し始めたことを知らされた上田中将はやむを得ず爆撃を命ずることとなった。出撃したのは秋津島統合防衛軍所属部隊ではなく、第十航空団隷下の第一一三飛行隊であった。第一一三飛行隊F−2戦闘機第三小隊四機は移動を始めた部隊の司令部集団と思しき部隊への攻撃を敢行した。空対地ミサイルによる攻撃はその司令部集団と思しき部隊を壊滅させることになった。
翌二五日、エルヴィン・フォン・ロンデル将軍の名で休戦の連絡があった。上田は部下である西川仙一陸軍大佐を第十四師団隷下の一個中隊と派遣、部隊を現場にとどめることを条件に休戦を成立させたのである。
ハンブレングに上陸した第161軍司令官土橋勇逸中将は同地でももっとも海岸部にあるホテルを接収し、司令部を置いた。そして同地でももっとも高い二〇階建ての高層ビルの屋上にレーダー車両を配備し、東西五〇km、北一〇〇kmのレーダー監視網を形成させ、敵襲に備えることになった。むろん、これは現代戦に知識のある土田巌中佐の意見を入れたものであった。さらに同地の外れにあった空港を接収し、拡張工事を行う。長さを一〇〇〇m、幅二〇m延長し、長さ三〇〇〇m、幅六〇mの十分な滑走路を完成させたのである。
これ以降、最も重要な働きをした艦隊は第三艦隊と独立補給艦隊であった。彼らはロリアムンディ〜ウランバート〜ハンブレングの補給航路を確立させ、第161軍への補給を続けることとなった。なかでもこの時点で最新鋭艦を装備する第三艦隊の挙げた戦果はすばらしく、七月だけで二八隻の潜水艦を撃沈破していた。
七月中には第五十一航空艦隊の一部である、第五一一飛行隊(F−6戦闘機十二機)、第五二一飛行隊(F−7戦闘攻撃機十二機)、第五三一飛行隊(P4A対潜哨戒機四機)、第五四三飛行隊(E-MRJ70AWACS二機)、第五六一飛行隊(RF2戦術偵察機二機)、第五七一飛行隊(C−3輸送機四機)が進出完了している。
占領されたハンブレングはどのような状況であったかといえば、住民は落ち着いていたと言われている。このハンブレングは反ゲンディス党、反ガンダー色の強い地域であったとされていたからである。むろん、この地への上陸はそれがあったためであった。主席参謀大井大佐はこの情報が得られていたからこそ立案したものであろうと思われた。土橋中将はこの反ゲンディス党、反ガンダーの政治家を登用し、市政を行わせている。また、同市に第一級思想犯罪者収容所があると聞くと、土田中佐に調査を命じている。
なぜ反ゲンディス党、反ガンダー色の強いこの地域に第一級思想犯罪者収容所があったかというと、見せしめであったといえるだろう。この地への上陸に際して最も抵抗したのがゲンディス党親衛隊一個部隊であったことを考えれば、よくわかることであった。ハンブレング駐留一個師団は現在、西方のブレーヘンに近い平地において集結しているが、動きはなかった。
第161軍臨時司令部においてこれらのことを知った大井大佐は現市長たるグスタフ・ワイズナーに面談、かの収容所にかってのプロイデン議会議長ヨアヒム・シュレーヘンの存在を知ると収容所において当人と面談した。そして彼に反ゲンディス党、反ガンダーを旗印に軍民を率いて戦う意思はあるのか、と問うたのである。その意思を確認した大井は彼を解放し、自由の身とした。
第161軍がハンブレングに上陸してからは二度、プロイデン空軍の反撃があった。そのいずれもが戦闘機による攻撃であったが、一度は艦艇の対空ミサイルによって、一度は進出した、第五一一飛行隊、第五二一飛行隊によって撃退していた。ハンブレングに進出した航空隊の指揮官として秋津島統合防衛軍司令部参謀、今城健一中佐がハンブレング入りしていたが、彼は第五六一飛行隊のRF2戦術偵察機を一日に一度は飛ばし、敵軍の情報収集を続けていた。RF2戦術偵察機は秋津島統合防衛軍配備機の中では唯一、高度二万mを巡航できる機体であった。秋津島統合防衛軍に二機配備されていたが、その二機ともハンブレングに投入していたのである。
引越しで設定資料(地図とがペーパーに書いていたもの)が行方不明です。ちょいと話が飛んでいるかもしれません。