第四章 戦いに意義はあるのか−1−
移転暦二五年六月
その日六月二四日、西中海北岸に沿って西南に向かっていた第二独立艦隊はユラリア共和国より八〇〇kmで敵のものと思われる電信を傍受した。そのとき、発信源は特定されたが、海岸よりの地上から発信されていた。艦隊は西中海岸より五〇km沖合いを海岸に沿って航行していたのである。これは艦隊司令官である草鹿龍之介中将が指示したもので、海岸に配されているであろう監視員を意識してのものであった。
つまり、こちらの位置が判明すれば敵艦隊がこちらに向かってくるであろう、という誘いでもあった。敵は空母の何たるかを理解していると思われた。一月の海戦で捕虜となった兵を祖国に帰していることから、彼らの口から何らかの情報が伝達されている可能性があった。ではあるが、戦艦の数では出撃したと思われる敵艦隊の一/六である。彼らが与しやすし、と考えてもおかしくないと思われていた。
この地において空母の有用性を理解し、運用している国は日本を除けばインペルのみであったといえる。フレンス皇国も有用性を理解してはいると思われるが、現在、空母の配備は禁止されていたのである。空母を購入したエリプト連合共和国にしてもパリエル国にしてもその有用性は完全には理解されていない、とされた。購入後の運用をみても疑問符の付くことばかりの情報が入ってきていたからである。転売あるいは廃艦もありえる状況だったのである。
インペル海でインペル軍と接触しているエンリア帝国ならまだしも、プロイデン国はこの年一月に初めて空母という艦種に触れていたため、その能力は完全には理解されていないと思われていた。ために草鹿司令官は本来であれば、空母の護衛のために空母の横に位置すべき戦艦二隻を前衛部隊として突出させる陣形、つまり、第三戦隊戦艦『榛名』『霧島』、第二十四駆逐隊二個分隊軽巡『敷波』『綾波』『朝霧』『夕霧』からなる輪形陣と第二航空戦隊原子力空母『長門』『陸奥』第五戦隊重巡『妙高』『羽黒』、第三水雷戦隊軽巡『川内』『舞風』『浦風』『初風』『浜風』『谷風』『萩風』、第二十四駆逐隊一個分隊軽巡『白雲』『天霧』、タンカーおよび輸送艦各二隻からなる輪形陣に分かれていた。とはいえ、敵の大型艦対艦ミサイルに対する防御は怠っていない。
翌二五日早朝、まず接触したのは潜水艦であった。第二十四駆逐隊二個分隊のうちの軽巡『敷波』が発見したもので、五分後には上空に在ったAM3対潜哨戒機の一番機が攻撃態勢に入っていた。が、草鹿司令官は攻撃命令を発しない。草鹿が攻撃を命じたのは敵潜水艦の発信が終わったことを確認してからであった。これは敵艦隊を誘うためのものであり、敵潜水艦は対潜魚雷により撃沈された。
その二時間後、二つの輪形陣の中間を旋回していたE−3A早期警戒管制機が南西より接近する艦隊を捉えた。ほぼ同じ時間、上空に在った二機のAM3対潜哨戒機が二隻の敵潜水艦を探知していた。草鹿はこの時点で戦闘準備を命じているが、戦闘機および戦闘攻撃機の空母からの発艦は未だ命じてはいない。僅かに両空母合わせて戦闘機八機が発艦したに過ぎない。また、敵潜水艦への攻撃すら命じていなかった。
双方の距離が三〇〇kmになったとき、草鹿は二つの輪形陣を前後に接近させている。その距離は僅かに五kmであった。敵艦隊は戦艦十二隻、重巡洋艦六隻、軽巡洋艦六隻、駆逐艦三六隻の合わせて六〇隻からなる艦隊であり、まさしく、キームから消えた艦隊であることが判明していた。双方の距離が二〇〇kmになったとき、敵艦隊から多数の炎と煙が確認された。上空のE−3A早期警戒管制機から一瞬の間をおいて、大型ミサイル確認、六四発が艦隊に向かう、との報告が入る。
二隻の重巡洋艦、否、「くまの」型イージス護衛艦は先頭のミサイルとの距離が四〇kmになったとき、対空ミサイルを合わせて六四発発射する。そのとき、敵潜水艦からのレーダー波を確認、との報告がCICから入る。参謀長と顔を見合わせた草鹿は頷いた。敵の発射したミサイルがすべて撃破されるのを確認すると、潜水艦に対する攻撃を命じた。
出撃前に秋津島統合防衛軍主席参謀である大井保大佐が草鹿に、かのフレンス皇国の艦対艦ミサイルもそうであるが、プロイデンの長射程ミサイルにおいてもミサイル自身のレーダーが作動するのは二〇〜四〇kmの間だと考えられる。それまでは標的の艦に近い他の艦のレーダーの反射波をたどってくると思われる。フレンス皇国の場合、それは潜水艦であった。プロイデンでも同様と思われる。潜水艦を近づけないことが長距離ミサイルの接近防止の一つかもしれません、と言ったものである。
敵艦隊との距離が六〇kmになったとき。草鹿は重巡六隻、軽巡六隻に対する攻撃を命じている。戦艦に対する対艦ミサイル攻撃は効果が薄いことを草鹿は知っていたのである。駆逐隊軽巡「たかなみ」型護衛艦から発射された十九式対艦ミサイルは敵重巡六隻および軽巡六隻に命中、重巡一隻および軽巡四隻は轟沈する。その他の艦はいずれも大破の被害を与えた。さらに、突撃してきた駆逐艦二四隻に対する攻撃をも行っていた。むろん、敵戦艦および重巡からのミサイル攻撃は行われていたが、すべて撃破されていた。
敵戦艦群との距離が四万mになったとき、戦艦『榛名』『霧島』の六〇口径三六cm砲が発砲を始める。新たに開発された六〇口径三六cm砲は高精度の二三式射撃装置との組み合わせでも、一斉射目からはさすがに命中弾は出ないが、至近弾を出す。二三式射撃装置はこれまでとは違い、発射最終段階においてレーダーとの組み合わせにより、一〇mmまで一mm単位で微調整するため、命中精度は格段に向上している。、三斉射目には命中弾を出した。
一時間後、敵戦艦群は三隻が沈没、三隻が大破漂流中であった。一列縦隊であった敵一番艦および二番艦はいずれも艦橋に近い二番砲塔基部に命中弾を受け、三六cm砲弾はバイタルパート内で炸裂、弾薬庫の砲弾が誘爆して、轟沈している。三番艦は煙突基部に飛び込んだ三六cm砲弾が、機関室を破壊し漂流、四番艦は後部第三主砲塔に命中し、弾薬庫の弾薬を誘爆させ、やはり轟沈していた。五番艦および六番艦は艦後尾に命中弾を受け、推進機軸が破損、漂流中であった。これはいずれの砲弾も垂直に近い角度で命中していたためであろうと思われた。
この時戦艦『榛名』『霧島』を中心とした部隊は敵艦隊との距離を四万mに保ちつつ同抗、艦砲射撃を行っていた。一月の第一次西中海海戦で敵戦艦の主砲射程距離が最大で三万m、有効射程二万二千mと推測されていたからである。しかし、敵六番艦を撃破するころには『榛名』『霧島』は敵艦との距離は四万mに保つのが難しくなっていた。結果的に円を描くような航路を取ることになり、徐々に距離が詰まってきていたのである。そして両艦とも数発の至近弾を浴びることとなり、小破する。ついに草鹿は対艦ミサイル攻撃を命じ、速力に勝る『榛名』『霧島』を中心とした部隊は敵艦隊から離れつつミサイルを発射する。このミサイル攻撃は適戦艦を撃沈するためのものではなく、少しでも損害を与えることを目的としていた。だが、このミサイル攻撃は意外な効果を発することとなる。