第三章 再び戦いへ−4−
移転暦二五年六月
六月一三日
この日も朝から雨が降っていた。秋津島統合防衛軍航空集団所属の第五四一飛行隊一番機のE-MRJ70AWACS<カラス一番>は警戒任務について四時間が経過していた。あと一時間ほどで二番機と交代予定であった。索敵担当官のレーダースコープに多数の光点が表れたのはそんな時間帯であった。光点は二つのグループに分かれていた。近いほうの編隊は六〇機、遠いほうも同じ六〇機であった。
遠いほうの光点は前回と同じ光点であったが、近いほうは光点が大きい。大型機のようであった。指揮官である淵田美津夫大佐は関係各部局に連絡を入れさせ、機位を東南に取らせた。やがて味方航空機の光点が一二個現れる。第十航空団隷下の第一一三飛行隊F−2戦闘機一二機であった。それからの敵の行動は前回と違っていた。近いほうの編隊からミサイルと思しき光点が分離したのである。
直ちに広域ジャミングを命じた淵田であったが、そのミサイルはまるで意思を持つかのように飛行進路を帰ることはなく、港に向かっていく。自身のマイクを取って淵田は迎撃部隊に警告を発した。迎撃部隊の指揮官である本間幸一少佐は部下の二個小隊八機にたちにミサイル迎撃を命ずることとなる。それに対して八機は射程に入るや各機六発の十式空対空ミサイルを発射する。
それ程にそのミサイルは大きかったのである。さらに距離が詰まると、各機一発のサイドワインダーを発射する。ミサイルは全基撃破されたが、二個小隊は対空兵装を撃ち尽くしてしまうことになった。遠いほうの敵編隊は各機二発の空対空ミサイルと思しきミサイルを発射するが、これは<カラス一番>によって無効化された。空対空ミサイルを有しているのは四機のみ、しかも全弾命中させたとしても二四機しか撃墜することはできない。それはその通りになるが、残る三二機とはドッグファイト(空中戦)を挑むしか第一一三飛行隊には手段が残されていないように思われたが、この危機を救ったのは『しゅんよう』艦載機のF−7戦闘攻撃機四機であった。
第三艦隊指揮官の松山晴彦少将は敵艦現る、の報によって緊急発艦させたF−7戦闘攻撃機八機のうち四機を淵田の要請に対して援護に向かわせたのである。淵田は敵の大型ミサイルが発射された時点で、空軍の不利を悟り、ちょうど管制下に入った海軍航空隊に援軍を要請していたのである。松山少将は敵艦がP4A対潜哨戒機の攻撃により、部隊の上げた航空機の内四機が余剰部隊となったことから<カラス一番>の指揮下に入れたのである。
敵機はすべて撃墜破されたころ、洋上でも戦闘は終了していた。やはり前回よりは少ないが、現れた四隻のプロイデン軽巡を撃沈したのはP4A対潜哨戒機ではなく、『しゅんよう』搭載のF−7戦闘攻撃機であったのだ。なぜなら、P4A対潜哨戒機は探知された敵潜水艦四隻の追尾攻撃にかかりきりであったからである。ともあれ、戦闘は終了していた。きわどいものではあったが、今回も被害は出さずに済んでいた。
しかし、日本軍が見落としていたことがあった。それは敵潜水艦が一六隻だけであるという、情報であったといえる。この時、P4A対潜哨戒機および対潜哨戒ヘリ、そして護衛艦が接触した潜水艦は一六隻、そのうち、もっともウランバート沖近くにいた六隻は撃沈されていた。ではあるが、彼らが見逃していた潜水艦が六隻いたのである。以前にも触れたγー500型潜水艦が探知網から漏れていたのである。
ウランバート港南西沖三〇kmにはモンゴレイドという大小一二の島からなる諸島があった。最大で周囲一五km、最小で周囲三kmというものであった。そのうちのいくつかには灯台が設置されてはいたが、すべてが無人島であった。それらの島に上陸したプロイデン軍陸軍特殊部隊は少なかったが、一個中隊を数えていた。彼らは潜水艦から陸揚げした中型ミサイルを設置していたのである。その数八基であった。
その夜、秋津島統合防衛軍から派遣されていた六人の将官のうち、旧海軍関係者の五人、海軍次官近藤信竹中将、海軍作戦本部長宇垣纏中将、航空集団司令官南雲忠一中将、重巡艦隊司令官阿部弘毅中将、水雷部隊司令官栗田健男中将は今後の行動についての打ち合わせのため、海軍司令部に程近い将校用の会議室にいた。この建物は陸海空高級将校(主に将官や佐官)の連絡のための施設である。
そもそもが軍内部において交流のない軍人たちの集まりといえるのが、今回のユラリア共和国派遣軍の特徴である。ために、この建物(元はユラリア共和国海軍総司令部であったという五階建てビル)を部隊内情報交換および将兵の交流の場、と定めたのが派遣軍総司令官たる上田昌良陸軍中将であったのだ。将官だけではなく、佐官の情報交換の場でもある。何事もなければ普段は朝一番で連絡会議のようなものが行われるが、この時は南雲中将が声を掛け、五人が集まっていたのである。
話題は航空戦力についてであった。前回はともかく、今回はぎりぎりのところでの勝利であったから、南雲としても不安を覚えていたのかもしれない。もし、プロイデン側が、今日のような戦術を百五十機、二百機単位で実行すれば現有戦力では防ぎきれないと思ったのであろう。ましてや、ユラリア共和国に対する面子もある。むざむざと攻撃を受けて被害が出れば、日本はユラリア共和国の信頼を失いかねないからである。むろん、これは南雲の意見というよりは参謀の今城健一中佐の意見であるというこは近藤中将や宇垣中将、阿部中将、栗田中将もわかっていただろう。
この場の総意としてできるだけ早い時期に第二独立艦隊のウランバート進出を上申することで一致したのは五人とも海軍軍人だからであろう。来週になれば、港湾の拡張工事は半分ほどが完成するだろうからそのときをもって、というのが近藤中将の意見であり、残る四人もそれに合意した。しばらく雑談後、宇垣中将は席を立ち手洗いに向かった。
その数分後のことであった。空襲警報が鳴り響いたかと思うと、爆発音があたりに響き渡り、何事か、と窓に向かった近藤や南雲、阿部、栗田ら四人が見たのは、自分たちのいるビルに向かってくる一発のミサイルであった。ミサイルはビルの最上階に命中し、海側に面した三階までを破壊したのである。時に移転暦二五年六月一三日二一時三二分であった。