第三章 再び戦いへ−3−
移転暦二五年六月
六月二日午前一二時
第五四三飛行隊一番機<ふくろう一番>のE-MRJ70AWACSはウランバート北西一二〇km、高度八〇〇〇m上空に在った。その背中に背負った大型のレーダーレドームはゆっくりと回転していた。その機内、索敵担当席の係員、かって戦艦『大和』の対空機銃員であった村山幸男飛曹長は自分の目の前にあるスクリーンに光点が多数表示されたのを確認してから定められたキーを叩きながら声を上げる。
「中佐、敵編隊捕捉、機数一〇〇機、距離四〇〇、進路南東、高度八〇〇〇、速度九〇〇、このままでは当機と衝突コースに入ります!」
その彼に答えたのは当機の最高指揮官である板谷茂中佐であった。
「直ちに関係各部署に連絡、当機はコースを南東に取る。接触を続けよ」
その情報は直ちにウランバート港近くにある海軍司令部、基地航空隊司令部(秋津島統合防衛軍)、陸軍司令部、航空隊司令部(本国空軍)に送られた。待機していた第十航空団の第一一一飛行隊全機が緊急発進してゆく。その部隊を誘導するのは板谷茂中佐指揮のE-MRJ70AWACSである。今次作戦では航空管制は秋津島統合防衛軍の第五四一および第五四三飛行隊の担当とされていた。
板谷茂少佐(当時)といえば、真珠湾奇襲攻撃時に淵田美津夫中佐の信号弾見落としやその最後は帝国陸軍による誤射で戦死するという話が伝わってはいたが、この地に現れて以来十九式戦闘機およびFG−4戦闘機による制空隊指揮官として活躍していた。フレンス皇国戦で負傷、戦闘機には乗れなくなったが、航空管制隊に移籍し、その能力を開花させていた。ちなみに、管制部隊指揮官は淵田美津夫大佐であり、今次作戦にも第五四一飛行隊一番機の指揮官として参加している。
実をいうと、ここに今次作戦のうちの航空戦に不安を抱くものが日本空軍側に多いのである。原因は言葉である。よく知られているように陸海空航空管制は一部を除いてすべて英語で行われていたのが本国軍である。しかし、昭和の太平洋戦争時代、英語は適性語として使用を禁止されていた。ゆえにこの地に現れた軍人たちは英語を使えなかった。若い世代では徐々に浸透しているようであるが、軍務において使うことはまずなかった。この地に現れても言葉は通じるため、なおさらであった。
秋津島統合防衛軍内では旧来の軍用語が使われている。そのため、航空管制などで本国軍とは違う部分もある。その代表が航空管制であった。今次作戦においても事前に打ち合わせはされていたが、当初、第十航空団のパイロットたちは困惑していたという。それがため、両部隊の共用は避ける方向での航空運用が実施されていた。これは戦いにおいては戦力の集中運用、という基本的なことができないという問題点を表すことになる。
これらの問題をいち早く見抜いていた人物がいた。秋津島統合防衛軍航空集団参謀として移動してきた今城健一中佐である。彼は大井保大佐を通して山本五十六大将および南雲忠一中将に意見具申を行い、了承を得るや手を打っていたのである。それは部隊の再編であった。それは第五四飛行隊総数八機の内、第五四一および第五四三飛行隊に若い搭乗員を集め、本国で用いられている交信をマスターさせたのである。むろん、板谷茂もその一人であった。
その頃、洋上哨戒に出ていたP4A対潜哨戒機四機の内の一機、ウランバート沖一〇〇km、最西方面を担当していた四番機が敵性潜水艦反応複数を探知していた。彼らが探知していたのは二〇隻の潜水艦のうちの四隻であった。彼らは先に洋上哨戒に上がっていた僚機と交代したばかりであった。さらに、洋上ではかなりの雨が降っていたために彼らは敵水上艦艇を捉えるのが遅れたのである。彼らが見逃した敵艦艇は僅かに八隻、しかし、その八隻はミサイル発射という貴重な時間を得ることとなった。
P4A対潜哨戒機が敵艦艇を捉えたのは艦対地ミサイルを発射した瞬間であった。ミサイル発射後の敵艦艇に向けて、否、プロイデン艦艇を最初に攻撃したのは彼らであった。敵艦艇がミサイル発射した時、それを探知した瞬間に関係各部局に通報すると同時にそのP4A対潜哨戒機は空対艦ミサイルを発射する。そう、この戦いにおいて最初にプロイデン軍に損害を与えたのは予想に反してP4A対潜哨戒機であった。
この発射後のミサイルを探知したのはウランバート港にいた第三艦隊すべての艦であったが、イージス護衛艦『きぬがさ』が最も早く動いた。『きぬがさ』は敵潜水艦発見の報を得て港を出ようとしていた第三艦隊の先頭にいたからであった。『きぬがさ』のイージスシステムは発射された敵ミサイル一六発にロックオンしており、他の艦は攻撃を見送ることになっていた。ミサイルとの距離が四〇kmになったとき、十九式対空ミサイルが発射され、すべてが撃破された。
この同時刻、ユラリア共和国国境より一〇〇km離れた地点、その上空では第一一一飛行隊が一〇〇機の敵航空機との戦闘に入っていた。先に攻撃を仕掛けたのは第一一一飛行隊のF−2戦闘機であった。各機四発の二十式空対空ミサイルを発射したのである。それは六〇kmもの射程を誇る長距離対空ミサイルであった。この攻撃により四八機の敵機が撃墜された。敵編隊は混乱しているようで編隊がばらばらになる。
さらに距離が二〇kmになってからは各機二発の十式空対空ミサイルが発射された。その頃になって敵機からもミサイルが発射された。敵機の内、一二機でまとまっていた編隊から最初にミサイルが発射されたのである。遅れて他の敵機からもミサイルが発射された。十二機のF−2戦闘機は散開する。しかし、対空ミサイルと思われる敵のそれは<ふくろう一番>の広域ジャミングを受け、無効化されていた。そしてF−2戦闘機の放った十式空対空ミサイルは二十四機の敵機を撃墜する。
残った二八機の敵機はさらに接近し、再びミサイルを発射する。一瞬の間をおいて<ふくろう一番>からレーダー波なし、という警告が入る。と同時にフレアを放ちつつ対赤外線ミサイル行動に入るF−2戦闘機部隊。敵ミサイルはやはり赤外線ミサイルだったようでフレアに惑わされて爆発する。一二機のうち敵機から一番離れた位置にいた第二小隊四機が各機二発の十式空対空ミサイルを発射、八機を撃墜する。残る敵機は翼を翻して引き上げて行った。
こうして対プロイデン最初の戦闘は終わることとなった。敵戦闘機八〇機撃墜、軽巡洋艦六隻撃沈、二隻大破、潜水艦八隻撃沈、捕虜八〇〇人という戦果を挙げ、被害は皆無という圧勝であった。むろん、第三艦隊および第14師団による周辺域調査も行われている。また、機体および遺体の回収も行われていた。
その後、一週間は何事もなく過ぎていった。αポイント(国境より五〇〇km地点の敵基地を指す)の敵地上部隊は動くことはなかった。しかし、電波傍受および偵察衛星による偵察においては敵航空兵力がさらに増強されていることが確認され、地上部隊もかなり増員されているようであった。
しかし、この後、対応の遅れから悲劇を招くこととなった。