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第三章 再び戦いへ−2−

移転暦二五年六月


 日本はその翌日、次のような書面をもって返答とした。

1.プロイデン国は先の海難事故における責任を認め、これまで日本国に与えた損害について謝罪し、賠償金を支払うこと

2.プロイデン国は先の文書を撤回し、軍事行動を収めた後に両国間における話し合いに応じること

3.回答期限は六月八日午前零時とする

4.返答無き場合およびプロイデン国から攻撃を受けた場合、日本国はプロイデン国に宣戦布告する


 ユラリア共和国は二日後に以下のような電文を発信している。

「我国は何人たりとも犯すことのできない国家であり、侵略を受けるいわれはない。プロイデンなる者は先の脅迫を罪と認め、ユラリア共和国に謝罪するべきである。武力においての侵略は最大の罪であり、ユラリア共和国はその排除のためには武力を用いて応じることになるだろう」


 この日本政府の対応の速さについては、過去の襲撃事件や西中海海戦においての事例から国内では開戦もやむなし、という方向に傾いていたためであるといえる。そして、この時初めて公表されたのが、これまで公表された以外のプロイデンが関与していると思われる事件と犠牲者であった。これによれば、少なくとも三十人が行方不明となっているということである。約二年前にユロリア帝国およびギロリア民国と接触すべく、向かった政府嘱託の外交要員(実体は外務省外郭団体職員であったという)が連絡を絶っているということであった。


 この件についてはユラリア共和国との国交開始において情報提供され、確実な情報ではないが、数名の死亡を疑わせる情報があり、現在確認中であるという。いずれも対プロイデン戦に巻き込まれた可能性が高いといわれていた。


 ともあれ、この返答を持って日本軍は警戒レベルを三に上げ、ロリアムンディ派遣軍にはさらにレベルを二に上げて即応体制をとることとなった。ちなみに警戒レベルは一〜五まであり、一は交戦中体制、二は交戦可能体制、三は即応体制、四は部内警備体制、五は平時体制である。具体的にいうと、一は言わずもがなで、二は全軍(予備役も含む)が三十分以内に移動が可能な状態、三は全軍が基地内待機、四は担当部署のみ基地内待機、五は通常態勢である。


 この時の統合幕僚本部の考えは、敵の攻撃を最小限に受け止め、その後の反撃で最大限の損害を与えることを考えていたようである。つまり、敵の初手は航空機による攻撃であり、それを航空集団による迎撃、ついで陸軍高射部隊による迎撃で凌げるだろう、というものであったかもしれない。そうなると、対空装備が問題となる。


 この時、ウランバート基地に展開していた航空戦力は、秋津島統合防衛軍航空集団隷下の第五一一および第五一二飛行隊(F−6戦闘機二四機)、第五二一および第五二二飛行隊(F−7戦闘攻撃機二四機)、第五三二および第五三四飛行隊(P4A対潜哨戒機八機)、第五四一および第五四三飛行隊(E-MRJ70AWACS四機)、第十航空団(在ロリアムンディ)隷下の第一一一飛行隊および第一一三飛行隊(F−2戦闘機二四機)であった。その他にF−7戦闘攻撃機一二機があるが、これは空母『しゅんよう』が運用するため、基地航空戦力からは外している。戦闘機が計七十二機の戦力であった。


 陸軍戦力は秋津島統合防衛軍陸軍第50師団および第51師団(二万人)、在ロリアムンディ第14師団(一万人)、ユラリア共和国軍四個師団(第3師団、第4師団、第8師団、第23師団五万人)であった。このうち、第50師団および第51師団、第14師団には二十式地対空ミサイル発射機が各八基、合計二十四基が装備されていたが、一度に発射できるのは百九十二発(一基八連装)であった。


 この戦力を見ても判るのであるが、秋津島統合防衛軍と本国軍の陸空部隊が初めて共に戦うことになる(海軍では一月の海戦において既に共に戦っていた)。問題は命令系統が異なることであり、そのあたりに不安を感じる軍人も多数いたようである。海空と違って陸戦は味方との連携が大事だからであろう。


 どんな戦いでもそうであるが、重要な要素は補給であった。特に今回のように自国勢力圏から遠く離れて戦う場合、武器弾薬から燃料や食料までが補給の対象となるが、そのあたりはどうなっていたかというと、本国が担当することになっていた。それはなぜかといえば、秋津島よりは近いからである。この補給という概念は特に昭和の軍人たちに驚きを与えた作戦行動の一つであったといえる。


 むろん、昭和の戦いにおいても考えられてはいたが、現代日本軍との考え方が根本的に違っていたといえる。これまでの戦いにおいても秋津島統合防衛軍司令部、否、大井保大佐と土田巌中佐によるものではあるが、過剰ともいえる補給を行っていた。これまでの戦いにおいても補給部隊に対する護衛は最重要視されており、陸海空いずれの方法をとってもその部隊の護衛陣はかなり高い評価をされていたといえる。今回も例外ではなく、わざわざこのためにだけ一部隊を派遣していた。


 秋津島統合防衛軍において護衛専門部隊ともいえるのが第一二水雷戦隊であり、その能力は本国護衛艦隊に勝るとも言われていたという。第一二水雷戦隊は先ごろまで三隻によって編成されてはいたが、今では通常の駆逐隊と変わらない六隻となってもその重要性は変わってはいなかったといえるだろう。


 当面の間、ロリアムンディから西中海においては秋津島統合防衛軍第三水雷戦隊および第二四駆逐隊が担当、ロリアムンディから外洋は第一二水雷戦隊が担当していた。もっとも、第二独立艦隊がウランバートに進出してからは西中海では第一二水雷戦隊および第三艦隊が、ロリアムンディまでは本国海軍が担当することになる。陸路の輸送は今回はなく、空路の場合は本国空軍緊急展開部隊が担当する予定であった。


 もう一つ、これは作戦の基幹ともいえるのであるが、何処をもって終戦とするのか、ということが挙げられる。つまり、戦闘が何処まで進んだときに終戦とするかということである。日本政府および統合幕僚会議ではプロイデンが東進をしない、という確約を得た時点で終戦とすることが決められていた。しかし、秋津島統合防衛軍司令部では、プロイデンは降伏するまでは戦いをやめないであろう、という認識で一致していた。特に、司令部主席参謀大井保大佐、司令部参謀土田巌中佐、司令部参謀今城健一中佐らは自国の首都、つまり独裁者を処罰あるいは捕虜とするまで続くだろうという意見であった。


 今回、秋津島統合防衛軍派遣軍には司令部主席参謀である大井保大佐は近藤信竹中将の下に付く予定であったが、未だ同道していない。なぜかといえば、インペル海方面がきな臭いため、未だ秋津島に在った。司令部参謀でウランバートに入っているのは今城健一中佐および土田巌中佐であった。


 航空集団司令官となってから多少はましになったといえ、航空迎撃など経験していない南雲中将では心許ないとして、山本が派遣したものであった。また、秋津島統合防衛軍陸軍は16軍司令官土橋勇逸陸軍中将が指揮を取り、派遣軍総司令官として本国陸軍から派遣された上田昌良陸軍中将の指揮下において戦うことが決まっていた。むろん、参謀である土田巌中佐も既にウランバート入りしていた。上田昌良陸軍中将は二〇年前のゴリアス戦争の折に、上陸した二個師団のうちの一個中隊を率いて参戦した経歴を持ち、連隊司令部を包囲していた敵一個師団を自ら率いる中隊で撃退し、連隊司令部を救出したという武勲を挙げていたのである。今回の派遣軍総司令官というのはそれがあったためだろう、とは土田中佐が言ったことである。


体調壊してしまいました。更新にさらに間が空くかもしれません。読んでいただいてる方、気長にお待ちください。

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