詠み人知らず。
自分で作るには及ばないが、僕は割と詩というものが好きである。特に、口に出して読みたくなるような、気持ちのいい音律を持ったものがいい。まあ、好き嫌いは良し悪しとは別の評価軸だし、一般化して語れるものではないので置いておく。
さて。
音律を重視する詩といえば、短歌や俳句などの定型詩である。今回は俳句についての個人的なまとめである。初心者向けの本を読み漁ってなんとか飲み込めたルールともいう。
月並みな句、という言葉がある。要するに、凡庸で面白みがない句だというような意味合いであるらしい。僕はこれがどうもよくわからなかった。今は多分多少なりともわかったと思う。わかったんじゃないかなあ。まあ、そういうことである。
俳句とは五七五の十七音で綴られる詩である。文字数ではなく、口に出した時の音数でカウントする。一音二音程度の増減であれば、字余りや字足らずとして許容されている。詩であるので、必ずしも現実に即していなくてもいい。とはいえ、ある程度は見たままを語るものである。
技術的な話をすれば、後の五音を守って体言止めにするとすっきりまとまり易い。句の中で内容を分けるのであれば、一度。二つの物を並列するくらいにしておいた方が良い。あまり要素を増やすと詩意がぼやけるので季語は一つに絞る。季語を説明するだけの句にしてはいけない。
この季語を説明してはいけない、というのが中々曲者で、これは読書感想文ではあらすじを書いてはいけない、というようなものである。季語を説明する句は、一見綺麗にまとまっているように見えるのである。だが、それだけだ。季語というものの本質、役割を勘違いしている。これは俳句という、短くまとめるための技術の結集であり、約束事である。
すなわち、季語とは、わざわざ説明するまでもなく、皆同じイメージを共有しているよね、という前提で語られる言葉なのである。だから、季語とは説明する必要がないものだ。それをわざわざ説明するのは野暮であり、字数の無駄遣いなのである。いわゆる圧縮言語みたいなものかもしれない。
これを知った時、何故自分が俳句を作る方は向かないかわかった。いや、元々字数を削るのは苦手だし作るのは自由律詩の方がいいとは思っていたのだが。俳句は他者と感覚を共有できることを前提とした詩なのである。同じ情景に、同じ言葉に、共通のイメージを持つことを当然としている世界だから、説明を省いて短くまとめられる。だから、僕と本質的に相容れないのである。
まあ、詠んだ人と読んだ人のイメージがぴったり重なる必要はないし、そんなのは幻想である。わからなくていいや、とうっちゃれば、できるのかもしれない。けれど僕は、人が分かり合えるとは思わないし、言葉を尽くしても本質に限りなく迫った勘違いしかなれないとは思っているけれど、だから努力を放棄していいとは思わないのである。お互いを程よく勘違いするための努力はするべきだ。だから僕は説明したがりになってしまうのだが。
まあそれはともかく。
よっぽど頓珍漢な句でなければ、月並みな句と言われるのは概ね、季語の扱いを間違えた句のことのようだ。つまり、季語を説明している句か、てんこ盛りしている句なんかである。後は、気取りすぎているもの、自分の言葉で語っていないものも駄目らしい。この辺はトレンドかもしれないが。言文一致が大体なされている今、文語体はかえって面白いかもしれない。
ものすごく身も蓋もないことを言うと、別に良句を作る必要はない。第一は詩作を楽しむことである。ただ、良句と評価されて悪い気がする人は大抵いない。喜びはモチベーションに繋がる。作るのが楽しいに評価されて嬉しいが付けばより意欲がわく。意欲がわけば続けられる。だから研鑽が勧められるのである。別に自分が楽しいだけで続けられる、自家発電だけで賄える人は研鑽しなくてもいいのである。滅多にいないだろうが。
芸術と呼ばれる分野では特に、語りすぎ、説明しすぎは野暮と言われる。確かにくどいのかもしれない。わからないものより、ある程度わかるものを基準にして語るべきなのかもしれない。僕の思想には反しているが、人はわかりあえるはずだ、というのが一般的な見識である。僕は全くそう思っていないが、まあ、社会秩序を守る上で、皆がわかりあえる、似たような思想、思考形態を持っているとする方が都合がいい。レアケースまで全部想定するのは手間だし、コストがかかりすぎる。誤解を避けようとすれば、随分な説明コストがかかる。しかも完璧などない。切り捨てた方が早い。