夏の日の淡い想い出
微かな風に揺れるカーテンの隙間から、沈む前の最後の悪あがきのように太陽が照っている。既に放課から時間も経ち、空調機の恩恵も失われて久しいこの教室に残っているのは俺だけだ。時たま開け放たれた窓から生温い風が入り込み、カーテンを揺らしている。
殆どの生徒は、みんな部活に精を出しているか、帰路も半ばと言ったところだろう。外からは野球部であろうか、やや間延びした威勢のいい掛け声と、カーンという小気味良い音が交互に聞こえてくる。
それぞれが、かけがえのない青春を真っ当に謳歌している傍らで、俺は一人机にもたれながら、窓から見える夕暮れの空をぼんやりと眺めている。特に仲のいいという訳でもない同性のクラスメイトに、みんなでカラオケに行くから、と半ば強引に押し付けられた掃除当番の代わりを、特に予定もないからと引き受け、何を考えるでもなく淡々とこなし、あとは邪魔にならぬよう机に重ねた椅子たちを、元の位置に戻すだけだ。
…さっさと終わらせよう。そう思い、重ねられた机のひとつに手をかけた時、廊下の方から駆け足気味の足音が近づいてくるのが聞こえた。足音の主は教室の扉の前に立つと、そのまま勢いよく戸を開けた。
「あれ、まだ教室いたんだ。掃除当番だったっけ?」
活発そうな小麦色の肌に、日焼けからか少し色素の薄まったこげ茶の髪をポニーテールに纏めた少女が、人懐こい笑みを浮かべていた。
「いや、頼まれただけ。そっちこそ部活どした?」
「今日は顧問がいないから自主練。とはいえ、みんなやる気もあんまり無くて。だいぶ早いけど解散しちゃった。」
彼女が所属するテニス部は、言ってしまえば弱小チームだ。部員の士気も高くはなく、顧問の指導も割と緩い。気楽な雰囲気の元で楽しんでいるらしい。
「そか。忘れ物でもした?」
「そ、明日提出の課題あったじゃん?古文の。」
「あー、好きな短歌を選んで発表するやつ?」
言いながら自分の机にたどり着き、重ねられた椅子をよっこいしょと下ろし、ごそごそと中を漁り始めた。そういえばそんな課題が先週あたりに出ていた。とっくに終わらせていたけど、提出は明日だったか。完全に忘れていた。
「そーそー、それ。古文苦手だからさー、手付けてなかったんだよね。部活でその話になって、ハッて思い出して。あのプリント、机に入れっぱだったから。」
「思い出すの遅すぎだろ。明日までなのに間に合うか?」
「や、しょーじきやばい。持って帰って徹夜でやろーかなーって思ってたんだけど…」
彼女はそこで言葉を切り、机の中を漁る手を止めて改めてこちらに顔を向けた。
「ん?」
「キミさ、たしか文系の成績結構いい方だったよね。」
「まぁ、それなりには。」
「古文とかも分かる?」
「…まぁ、それなりには。」
「じゃ、手伝ってよ。ジュース奢るからさ!」
話の流れからこうなるのではないかと予想はついていた。これが理数科目だったら断るところだが、僕自身、古文は得意な方だ。短歌や句なども割と好きである。断る理由は、特にない。
「いいけど、丸写しは無理だぞ?被ったら流石にバレる。」
「分かってるよー。なんかいい短歌みつけて、意味とか解説?してくれたらそれでいいよ。」
「はいはい。図書室まだ空いてるはずだから、とりあえず歌集とか、本探すか。」
「まじで?おっしゃー!!ありがと。ほんとに助かります。」
「別にいいよ、帰ってもどうせいつも暇だし。」
…そう。帰ったところで、両親は共働きで帰りは遅い。1人で適当に食事を済ませ、風呂に入り、後は寝るまで余暇を過ごすだけだ。特に部活にも入っていないので、俺は慢性的に暇人である。
「そっか。そうなんだ。そういえばクラス一緒になって結構たつけど、キミと二人で話すことあんまなかったよね。」
「そりゃそうだ。俺はそもそもあんまり社交的な方じゃないし。共通点もなかっただろ。」
「たしかに、友達めっちゃ少なそうだよね~。いつも一人でいることばっかだし。本読んでるか寝てるかで、話しかけづらい雰囲気だし。」
「一人が好きなんだよ、ほっとけ。」
軽口を言い合いながら、重ねられた椅子を下ろしていく。横目で見れば、彼女もそれを手伝ってくれていた。二人がかりでやると、あっという間に終わった。最後に残った机から椅子を下ろし、バッグを掛け直した彼女がこちらに振り向く。
「これでおしまい!荷物もって、いざ図書室へ!!」
「はいよ。手伝ってくれてありがとな。」
「時間がもったいないからね!」
そういうと、俺が荷物をまとめるや否や、教室を出ててずんずんと進んでいった。と思えば、出て少しした所で振り返り、こちらを待っている。後ろ手に戸を閉め、少し早歩きで横に並ぶと、再び歩き出した。
「案外、普通に話せるじゃん。なんで教室だとあんななの?」
横に並ぶと分かることだが、やはり女子だと歩幅が小さいらしい。同じ速度で歩いていても、向こうの方が忙しない。ほんの少しだけ速度を落とす。
「特に話す相手もいないからな。それに一人でいる方が楽だろ。気を使う必要もないし。」
「それはそうかもしれないけど、つまんなくないの?」
「そうでもない。いつだって誰にも邪魔されずに本が読める。好きな曲だって聴きっぱなしでいれる。」
「でもご飯くらい誰かと食べた方がおいしくない?」
「そうか?そもそも味は変わらないだろ。」
取り留めもない話をする内に、図書室の前に到着した。戸を開けると、無人だった。図書委員の姿すらない。とはいえ空調もついているし、離席しているだけなのだろう。歴史書や歌集などの棚から、適当に数冊の本を抜き取り、長机に座った。向かいの席に彼女がつく。
「はいセンセー、どの歌にすればいいですか!」
浅く腰掛け、これみよがしに背筋をのばし挙手をして、彼女が質問する。元々クラスでも明るく、友達も多いように見えたが、それも頷ける。
「いや、自分で選べよ・・・とりあえずどんなジャンルの歌なら興味ありそ?」
「んー、よくわかんない!!有名なのとかなにがあるの?」
「有名なのねー。『この世をば我が世とぞ思う望月の 欠けたることも なしと思えば』とか?」
「あー!!藤原なんとかさんの?日本史でやったよね!」
「藤原道長ね。覚えてたんだ。」
「そのくらい覚えてるよ!!あー、そういう五七五の後に七七がくるやつねー。」
「そういうこと。で、短歌って言っても本当に多いんだけど・・・。とりあえず百人一首でも見てみるか。」
「百人一首?カルタでもするの?」
「いやカルタでも使われてるけど。あれ短歌、読んでるの。で、これがその歌集。」
「えー、あれって短歌だったんだ・・・。」
短歌でなければなんだと思ったのだろう。カルタ用に作られた呪文か何かとでも思っていそうだ。渡した百人一首のページを捲り、一つ一つ歌を読んでみたり、気になったことを尋ねてくる。そんなことを繰り返しながら中程のページに差し掛かった時、彼女はふと指を止めた。
「ね、キミが選んだ歌ってなに?」
「俺が選んだのもそん中の・・・。ちょっとそれ貸して。」
彼女から本を受け取り、パラパラとページを捲っていく。そして後ろの方に目当ての歌を見つけ、ページを開いたまま彼女に向けた。
「これ。『長らえば またこのごろや しのばれん 憂しと見し世ぞ 今は恋しき 』朝臣の歌だな。」
「へー、意味は・・・。ふふ、キミらしいね。」
「なんだそれ。人に聞いてる場合かー?早く見つけないと図書室もしまっちまうぞ?」
「はいはーい。ちゃんと探しますよー。」
彼女は再び本と向き合うと、またゆっくりとページを捲る作業に入っていった。もう特に質問も無いのか、それからはこれといって話しかけられるということもなく、ただぺらりぺらりという紙の音が耳に心地良く響いた。時よりふーんとか、ほー、といった声も聞こえてくる。空調も効いており非常に快適な空間だ。だんだんと瞼が重くなる。
「おーい、図書室閉めるって、起きて。」
肩を揺すられ、目を開く。靄がかった思考がだんだんとはっきりしてくる。どうやら、眠ってしまっていたらしい。時計を見れば、下校時刻まであと二分もない。
「あーその、ごめん。結構寝てたようで。」
「や、そんな気にしないで。割と付き合わせちゃったわけだし、歌もちゃんと見つかったからさ。」
「さよか。大して助けになれなくて申し訳ない。」
「そんなことないよ。一人じゃそれこそ一晩は掛かってた。ホントに助かったよ、ありがとう。」
なんてことはないただのお礼なのだが、何故か少しこそばゆく、小っ恥ずかしい。きっと最近、家族以外とあまり会話することがなかったせいなのだろう。誰かに礼を言われることも随分久しぶりに感じる。だからに違いない。
「あ、あぁ。いいって、気にすんな。」
少しばかり早口になってしまった。この空気はなんとなくまずい。俺は務めて自然な流れで話題を変えた。
「それで、結局どの歌選んだの?」
「んー、それは秘密。どうせ明日の発表でわかるし、いいでしょ!」
「秘密って・・・。まぁいいや。じゃ、そろそろ帰るか。」
言いながら本を元の棚に戻し、鞄を肩にかける。彼女はとうに帰り支度を済ませたようで、入口横のカウンターに腰掛けていた。
「ほーい!帰り自転車だったよね?もう遅いし、近いから乗せてってよ。」
「・・・は?いや・・・まぁ、いいけど。少し歩いてからな。補導はされたくない。」
「ほんとに?やったー!流石にほら、友達はみんな帰っちゃったし。一人は危ないっしょ?」
「まぁ、確かにな。街灯もあんまない田舎道だし。」
日は既にとっぷり沈んでいた。この高校が位置しているのは駅や繁華街から少し離れた、田畑が広がる郊外だ。特別治安が悪いという訳ではないが、確かに明かりも少ない夜道を一人で帰るには心細かろう。連だって階段を降り、とりとめのない話をしながら駐輪場へと向かう。そして手前で一度別れ、俺は二列目の端に停められた我が愛車を引っ張り出し、彼女と合流すべく校門に進む。彼女は、門の横にある明かりの下にいた。
「お待たせ。じゃ、行きますか。」
「うん!角曲がったら乗せてねー。」
「はいよ。」
門から続く坂道を下り、角を曲がる。ここまで来れば教師の目に留まることもそうそうないだろう。暗いし、止められでもしない限り個人を判別することも難しいはずだ。
「ん、乗れよ。家は駅方面?」
「よっと。・・・そだよ、そこずーっと行ってコンビニのとこで左に曲がって、少し行った先を右。」
「曲がるとき教えてな。」
「はーい!さぁ行けー!」
荷台に横乗りし、右肩に手をかけてきた。腰に手を回されなかったことに、どこかホッとした。ふと、汗臭くないだろうか、など益体もないことを考える。単に足に使われているだけだ。気にする必要なんてどこにもないだろう。しょうもない考えを棄て、蹴るようにペダルを漕ぎ出した。走り出しこそ少しふらついたものの、ある程度進むと安定する。まだ熱気を持っているが、日が暮れ、涼しくなってきた風が心地よい。微かに聞こえる虫の声も、不思議と風情を感じる。一応、コケた時のことを考えてゆったりとした速度で漕いでいく。
「涼しいね。あたしも自転車で来ようかなー。」
「距離的に多分許可降りないだろ。」
「まぁ、そうなんだよねー。いっそのこと毎日乗せてくんない?」
「馬鹿言え。毎日部活終わるまで待ってられるか。」
「あはは。それもそっかー。」
「・・・偶になら別にいいけどな。」
「えー?なんてー?」
「何でもねーよ、舌噛むなよ。」
思わず口にしていた言葉に自分でも驚く。全くもって俺らしくもない。こういう状況に慣れてないから、きっとこの空気に当てられているだけだ。幸い、彼女にも聞こえてなかったようなので安心した。指示に従いながら何度か右左折をし、しばらく行くと彼女から止まるように声がかかった。
「ここまででいーよー!ちょっとそこ寄って。」
バス停横のちょっとした空き地に、かなり古びた、待合所であろう錆びたベンチが置かれた空間があった。傍らには自動販売機が並んでいる。彼女は荷台から軽やかに飛び降りると、自販機の方へに駆けて行った。俺は自転車をベンチの横に停め、腰を下ろす。ベンチが少しきしんだ。深く座り直し、背もたれに体重を預けぼんやりと空を眺める。少しすると、僅かな揺れとともに、ベンチがもう一度小さくきしみをあげた。
「はい、お疲れ様。あと、送ってくれてありがと。」
そう言いながら、冷えた缶コーラを投げよこした。慌てて少し不格好に受け取り、プルタブを立てる。一口飲むと、運動で火照った体に、冷たさと炭酸の爽やかな刺激が染み渡った。
「おう、ご馳走さん。」
彼女は隣で、同じように缶のサイダーを飲んでいた。ゆっくりと、一口飲む度に目を閉じているのが少し微笑ましい。
「やー、自転車だと楽だね。お言葉に甘えて、また偶にお願いしよっかな。」
・・・心臓が大きく跳ねた。どうやらしっかりと聞こえていたようだ。飲んでいたコーラを少しむせる。笑いながら大丈夫?と問う声が、やたらと近く感じた。顔が熱い。
「ふふ、聞こえてないと思ってた?」
「そりゃそうだろ。なんてー?とか言ってたし。」
「や、気のせいかなーとも思って。でもやっぱり、気のせいじゃなかったみたいだね。」
「・・・なかなかいい性格してんのな。」
「そうだよー?知らなかった?」
「知ってたら変だろ。大して話したこともなかったのに。」
そう。クラスが一緒となって数ヶ月が経ったとはいえ、彼女と直接こうやって話すことなどなかったはずだ。だからこそ何故、彼女がここまで親しげに接してくれているのかが、俺には分からないでいた。
「そう?あたしは知ってたよ。キミが割と優しくて、意外と面倒見がいい人だってこと。」
「ん??いや、何のこと・・・。」
「ひーみーつ。そのうち教えてあげるよ。多分ね!」
「・・・さいですか。」
彼女と居ると何故だか調子が狂う。三分の一ほど残っていた、少し炭酸の抜けたコーラを、顔に帯びた熱と共に一気に喉の奥に流し込んだ。逆流して来そうになる炭酸を、気合でのみ飲む。
「あ、飲み終わった?じゃ、そろそろ帰るねー。」
そう言って立ち上がり、バッグを背負い直した彼女がくるりと振り返る。
「じゃーね!また明日!」
それだけ言うと、彼女はまた小走りで駆けて行った。なんともまぁ、忙しない奴である。途端にどっと疲れが押し寄せ、ずり落ちる様にベンチに大きくもたれ掛かる。座っていただけなのに、自転車を漕いでいた時よりも鼓動が激しかった。帰り際に見せた彼女の笑顔が、やけにくっきりと脳裏に張り付いていた。結露に濡れ、まだ少し冷たい缶を頬に押し付け、どうにか気持ちを落ち着かせ、俺も帰路についた。そこから朝になるまでの記憶は、どこかぼんやりとしていた。
翌日、予定通り古文の授業で短歌の発表が行われた。俺は、予定通り朝臣の歌を読み上げ、解説と理由を簡潔に述べた。
しばらくすると、彼女の番が回ってきた。彼女が選んでいたのは、参議等が詠んだ、恋の歌だった。