「親切」とは
僕たちは「親切」を勘違いしている。けれど、そのまま生きているせいで、色々間違ったまま生活しているのではないだろうか?この文章から、考えて貰いたい。
一般的に親切とは、気兼ねすること、つまり、相手の行動や思考を予測して手助けしてあげることだと考えれられている。けれど、本当にそうだろうか。僕は疑問に思った。
例えば、家でスマートフォンをいじっている子供がいるとする。親はおそらく、何時間も行なっていたら叱るだろう。「〇〇、携帯触るのやめなさい。何時間やってるの。」みたいなことを言うだろう。実際、こういうことを言われ、素直に「やりすぎだな。」と思って止めることができればいいが、そこまで上手くはいかない場合が多い。「いつまでやってるの。私はあんたのため思って言ってるの。」ここで考えればわかることだが、確かにこれは相手の行動や思考を予測して手助けをしている。将来、彼が仕事をして普通に安定して収入を得て暮らすためには必要なことだから、みたいなことを考えての言葉だろう。
また、違う例を出そう。「アンパンマン」である。初版のアンパンマンでは、砂漠にいた死にそうな人にひもじそうであるため、顔のアンパンを割り助けて、また他のところにも行き、アンパンを割り助ける。そして、アンパンがもうすぐ尽きようとするまで、自分の身を犠牲にする。確かに、これは「すごい」ことだと感じる。主題歌にもあるようにアンパンマンは優しいから、つまり「親切」だからするのだろう、みたいな定説がある。
両者を見てわかることだが、相手を推し量って行動している。けれど、本当にそうだろうか。考えてみたい。前者は、表面的には相手のためと言っているけれど、実際、その子にとっては、どうだろうか。例えば、今ある緊急のクエストでクリアできないと友達について行けないだったり、やりたいことがないからやっているみたいなものを持っているかもしれない。後者は、確かに死にそうな人はひもじそうな様子を見せている、彼は「生と死」と隣あわせにいることだろう、そこでアンパンマンが来たなんてのは願ってもない話だ。けれど、考えてもらいたい。死にそうな人はどうしてここまで来たのか?引き返そうと思わなかったのか?もし、彼がここまで来るよりも前に引き返そうとしていたら、こんな羽目に合うことはなかったのかもしれない。つまり、両方共、自分で選んだ決断であったのだ。当たり前と言っちゃあ、当たり前である。
ここで、面白い例を出す、それは「BLEACH」だ。「BLEACH」の主人公、黒崎一護は人を助ける。どんな人でもだ。よくアニメを見ていると、思うのが女が多い。それは、見栄えが映えるとかいう作者さんの意図もあるかもだが、それは置いといて、彼はよく言う「ほっとけねぇだろ。」と。改めて、ここで今までの例を見渡して欲しい。全て、「親切」っていうのは、「ほっとけねぇ。」から行うものじゃないだろうか。
僕も思う、そう「ほっとけねぇ。」から助けるのだろう。「ほっとけねぇ。」その言葉は何処から、湧き出るのだろう。今まで言った「親切」である、という意見もあるかもだが、それは別に、もっと違う何かがあるだろうと思う。全てのヒーローにおいて、共通するのは、一人でなくて複数を助け、時には敵でさえ助ける者もいる、だから、見失いやすい物である。そこで、気づいて欲しい。これは、「自分でやりたいから、やっていること」ではないだろうか。
一度はこういう経験はないだろうか。部屋にある人形が横たわり床に落ちており、それがあまりに無惨であった。無視すればいいのに、何故か、手でその体についた埃をはらって助けようとし、そして、机の上に置き、何故か気が晴れ、嬉しいと思った。これも、一例である。
単純で「親切」は本来「やりたいから、やるもの」なのだ。君たちは、よく「親切」をした、よかった。と語るが、それは違う。相手の行動を先読みしてやる場合にしろ、どんな場合にしろ、やりたいからやるものである。ここで、勘違いしないで欲しい、やりたいから、やる。ことが出来ない人は「親切」ではないのか?実は、そんなことはない。
物語を作ろう。ある一人の少年がいました。彼は、いつも一人路地裏に座っていました。そんなある日、路地裏にある、サッカーボールを蹴っている少年を見かけ、勇気を貰いました。それ以来、彼の人生は好転していきました。
これは、サッカーボールを蹴る少年は、別に、路地裏に座っている少年のため思ってした行動でないにも関わらず、路地裏の少年は、「勇気を貰った。」のである。確かに、変だ。「親切」を思ってやったわけではないないのに、相手にとっては、「ありがとう」という気持ちを得る。ここで、熟考してもらいたい。これは、「親切」なのか。
私たちは、「親切」という一義的、表面的言葉にとらわれているだけではないだろうか。そして、気持ち良いと快楽を得ているだけで私たちが思っている、「親切」という言葉自体が空想で、「親切」というのは、存在しない。けれど、最初から誰もが持っており、やりたいことをやることで、関係しあう。それこれが、本来「親切」であるのだ。
私たちは、良くある言葉の表面的な意味に囚われ、そして、考え耽ることから逃げ、社会制度の元に食い下がる。しかし、実際、そういうところにこそ、本当に大切なものは存在する。要は、灯台下暗しなのだ。
ずっと、疑問に思ってたことを考えて解決しました。本当に、学校教育の弊害は恐ろしい。正直、洗脳授業ですから。まあ、実際、あまり深く考えずに、過ごしているから、楽しいのかもしれないですけれどね。ここで、予想できる反論を二つ蹴落としておく、まず、一つそもそも、一人でいて幸せな人はどうなるのですか?前提として、人と人の関係の世界の話だから、関係ない。次に、人と関係して、「やりたいからやる」が親切なら、悪党はどうなるんですか?悪ですよね。それは、確かにそうである。悪人にとっては、それが正義である。また、どちらが多人数かやその人の権力で正義は決まる。結果、今の世界となった訳で、その中にあるものこそが正義である。だから、そんな世界にある 「親切」は「親切」である。まあ、道徳っていう社会勉強から習う 筋道があって、その上に成り立つものだからさあ、「親切」ていうのは、そんな中でやりたいことって、自ずと決まってくるよね。親のしつけだったりで、当たり前を当たり前にできた後に広がる世界なんだよ。僕が思うに、これは僕たちが思っている「親切」 気兼ねの高次元にある「親切」なんだけどね。