全ての加護
一瞬だけ浮遊感があったが、それは消え去り、今はあれがキュッとなるような感覚を味わいながら、絶賛落下中だ。
これ、下が地面なら複雑骨折は間違いなしだ。海ならば、何とか耐えられそうだが、その後が厄介なことになる。
どちらにしろ碌な目には合わんな。腹をくくり、足元から来るべき衝撃に備えていた俺を待ち構えていたのは――夜の海だった。
着水地点の衝撃は何とか耐えたが、体が一気に海の中へ吸い込まれていく。
水中特有の体に纏わりつく水の抵抗力に加え、夜の闇が視界を支配していて、自分がどういった体勢になっているのか、水面がどっちにあるか判断できん。
元々俺の体は脂肪が少なく筋肉質なので水には浮きにくいのだ。それに加え背負い袋の荷物が浮力を奪ってくれる。
だが、俺は焦ることなく体の力を抜き、浮力に任せることにした。
そうすると、俺の体は背負い袋に引っ張られるように浮かび上がっていき、顔が水中から解放される。
「ぷはああああぁ。はあ、はあ、な、何とか上手くいったか」
海面にぷかぷかと浮いている背負い袋に掴まりながら、俺は新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込んでいる。
背負い袋は落下する直前までスペースに余裕があったのだが、今はパンパンに詰まっている。袋の口から中を覗き込むと、俺が召喚した醤油が容器ごと幾つも詰め込まれていた。
これは賭けだった。調味料は容器に入っている状態でも、中身だけでも呼び出すことができた。ならば、中身がほんの少しだけ残っている状態の容器も呼び出せるのではないかと。
落下中に抱え込んでいた袋に手を入れ、ペットボトルの容器にほんの少しだけ残っている醤油をイメージして、大量召喚したというわけだ。
ペットボトルには醤油が殆ど入っておらず、代わりに空気が詰まっている。つまり、簡易の浮袋となってくれた。
あとはこのまま陸地沿いに泳げばいいのだが……全身の力が入らない。この袋に掴まっているので精一杯だ。『不死身』か『どんな調味料も出せる能力』を使用した副作用なのかは不明だが、体力が回復するまで波に身を委ねるしかないようだ。
睡魔がかなり酷いな。加護を発動することにより、体力を消費すると考えたほうが良さそうだ。調味料の大量召喚に加え、死んだ体を再生したのだ。尋常ではないエネルギーを消耗してもおかしくない。
「やばいな。眠気が……」
このまま眠ることが危険なのは重々承知だが、何とか意識を保ったところで、体が言うことを聞かないのでは意味がない。
背負い袋にもう少し上半身を押し上げ、少し眠ることにしよう。落ちれば目が覚めるだろうし、いざとなっても不死身の体がある。
も、もう、限界だな……思考力も鈍ってきている……少し……眠らせて……。
瞼が鉛のように重くなってきた。抵抗する意思がぽっきりと折れて、俺は睡魔に身を任せた。
「えっ、死んでいるのかしら……」
「ああ、息をしていないな、可哀想に。わしと同年代ぐらいか」
「50過ぎで水死なんて。見たこともない服装だから、異国からの船にでも乗っていたのかもしれないわね」
ぼんやりとした意識の中、男女の声がする。
俺を水死体だと思い込んでいるのはどうでもいいが、一つ言っておきたいことがある。
「まだ30代だ」
「ひえうわああああっ!?」
勢いよく上半身を起こし、声の源へ顔を向けた。
見事なもみあげと顎髭が繋がっている、陽に焼けた顔の男が一人。その腕を掴んで驚いている、こちらも赤銅色の肌をした恰幅の良い女性が一人。
会話内容とこの状況から見て二人は夫婦なのだろう。大口を開けて俺を指差したまま、腰を抜かしている。驚かし過ぎたか。
「あ、あんた、今、息していなかったよな!」
ちょっと寝るつもりが永眠していたようだ。海上での爆睡注意だな。
「気のせいではないでしょうか」
見知らぬ相手なので、仕事モードの丁寧な話し方でいくか。
さっきの会話を思い出す限り、人の良い夫婦のようだからな。
「そ、そうか。まあ、息を吹き返したなら、良かったよ。まだ、無理はするんじゃないぞ。暫く寝ころんでいた方がいい。水をたらふく飲んでいるだろうからな」
「そうよ、そうよ。今は安静にしておくべきよ」
やはり、優しい方々のようだ。
あの曲者爺さんと違い芝居気も感じられず、挙動にも怪しいところは無い。異世界に来てやっと一息つけそうだな。
「体が頑丈なのだけが自慢なので、大丈夫です。それよりも、ここが何処か聞いても構いませんか?」
「ああ、それはいいんだが。本当に大丈夫か? 無理してないのか?」
「はい、心配していただき、ありがとうございます」
「そんなに丁寧に話されると照れるじゃねえか。そういうの慣れてなくてよ」
「ほんと、うちの漁村にはいないわよね」
髭の男が照れたように頭をぼりぼりと掻いている。隣で奥さんが口に手を当てて笑っているな。仲睦まじい姿に心が温かくなる。
「んじゃ、ここはだな、英雄の国トワソウの小さな漁村だ」
「お父ちゃん、小さな漁村なんて言ったら村長落ち込むわよ」
「そうだな。でも、小さいのは事実だから、しゃーないさ」
「違いないわね、あはははは」
女性が笑いながら旦那さんの背をバンバン叩いている。結構痛そうだ。
英雄の国トワソウか。もちろん、人生に置いて一度も聞いたことのない国名。英雄の国というぐらいだから英雄が起こした国なのだろう。
「英雄の国トワソウですか……生憎聞き覚えがありませんね……」
異世界なのだから知らなくて当然なのだが、如何にも一生懸命頭を捻って、考え込んでいる様に見えるような素振りをしてみる。
「あんた格好も妙だしな。やっぱ、異国の人なのかい?」
「そうなのでしょうね。数日前まで国の貿易船に同乗させてもらっていたのですが、大津波に呑み込まれ船が沈没して……日本という国をご存知ではありませんか」
「いいや、わしは知らんな。お母ちゃんは?」
「あたしも知らないわね」
二人とも同時に腕を組み、まるで計ったかのようなタイミングで首を傾げている。
「そうですか。一週間近く漂流していた記憶はあるのですが、そこからはさっぱりで」
「そうかぁ。苦労したんだな。安心してくれ。暫くはうちで療養すればいい。困った時はお互い様だ」
髭の旦那が破顔すると俺の肩に手を置いた。固い手の平が服の上からでもはっきりとわかる。仕事人の手だな。
「ありがたいですが、ご迷惑では?」
「そんなの気にしなさんな! 困った時はお互いさまだよ。あんた異国の人なんだろ。だったら、国の話でも聞かせておくれよ。この村は小さな酒場があるぐらいで娯楽に飢えているからね。異国の人なら大歓迎よ!」
豊満な胸をどんと叩いた奥さんは旦那さんと同じように、白い歯を見せて笑っている。
異世界転移の出だしは最悪だっただけに、人の優しさが身に沁みる。
俺は二人に連れられ、村の案内がてら家へ帰ることとなった。太陽の位置からまだ昼だと思うが、今日の漁は既に終わったらしい。
俺が転がっていた場所は砂浜の上だった。白くキメの細かい砂が一面に敷き詰められていて、ゴミが一つも転がっていない。日本なら大人気の海水浴スポットだろうな。
船が何隻か砂浜に上げられているが、俺なら三人が限度の小さな木製の船……というより、ボートだな。ここの漁師はこれで漁をしているのか。
砂浜より少しだけ小高い場所に、民家がちらほら見受けられるが、どれも簡素な造りをしている。木を平らに加工して屋台骨に貼り付けただけのような。
丸太を組み合わせただけのログハウス風の家も結構ある。石やレンガ造りの家はないようだ。木造建築が主流らしいな。
あの召喚された砦は石造りだったが、小さな村ではこういった家が主流なのだろう。
「お、なんだそのでっけえ兄ちゃんは」
「浜辺で倒れていてな。取り敢えず、うちに来てもらうことにした」
旦那さんに声を掛けてきたのは、顔中がしわくちゃの老人だ。体も痩せているのだが、そこは海の男。筋肉はしっかりと付いている。
驚いて開いた口には歯が少ししか残っていない。現代日本と違い、入れ歯もないのだろう。
「そうかそうか。なら、村長へ一応知らせておかんとな」
「お、そうだった。お母ちゃん頼んでいいか?」
「任せておきな。お父ちゃんは、客人を家でちゃんと寝かせておきなよ」
奥さんは嫌な顔一つせずに、大きく手を振って去っていった。
それから、何人もの村人にあったのだが、俺の姿を見て一度驚き、事情を知って心配をするの繰り返しだ。気持ちの良い村だ。
村民を見て、気になったのは体格と身長ぐらいだろうか。男性も女性も驚くほど背が低く、何と言うかずんぐりむっくりしている。有り体に言えば、背が低く太めの人が多いのだ。
男でも150前後、女性は130ぐらいが平均ではないだろうか。あと、男性がことごとく毛深い。髭が濃く、腕毛も相当なものだ。
俺を襲ってきた一行は全員、普通の人間のように見えたというのに。
「失礼かもしれませんが、皆さんは人間ではないのでしょうか?」
「おう、それも知らんのか。俺たちは土精人。土を愛し、土の加護を与えられた一族だ」
成程。異世界特有の種族ということか。
昔読んだファンタジー小説のイメージだとドワーフに近い。ただ、土精人なのに漁師なのかと、突っ込みそうになった。
その疑問が顔に出ていたのだろう、旦那さんは言葉を続けた。
「元々、うちの種族は魔物の国の山に住んでいたのだが、最近あの国が物騒なことになってきてな。この人間の国へ一族総出で移り住んだ。農作物も碌に育たない環境だというのに、更に国が荒れては死を待つのみだからな」
内乱が起こって国から逃げ出した難民のようなものか。
「海からしか逃げる道がなくて、何かと海について学んでいるうちに、すっかり海に魅了されて、この国に着いてからはずっと漁師をやっている」
土精人だから鉱山仕事しなければならない、等という決まり事は無いな。全く別の業種に転職して上手くいった人なんて腐るほどいる。
「よし、着いたぞ!」
他の家より一回り大きな民家に到着すると、片開きの扉を開け放ち旦那さんが大声を張り上げる。
「暫くの間、お世話になります」
「いいってことよ。子供もいない、寂しい夫婦生活だったからな。同居人が増えて、こちらが礼を言いたいぐらいだ。腹減っているだろ! 俺が何か作ってやるから、座って……おう、そうだ。この家の裏手に井戸があるから、そこで水浴びをしてきな。海水につかって気持ち悪いだろ。体を拭く布は、そこの棚にあるぞ。服は……俺のは無理だよな」
ここで俺が何かを作るというのは失礼だな。
有難くご相伴にあずかるとしよう。では、水浴びさせてもらうとするか。
さっきから体に服が貼りついて気持ち悪かったから丁度いい。海水ってどうしてこんなに、べたつくのだろう。
「服は水で洗って干させてもらいますよ。暫くは布だけを巻く格好になりますが。では、井戸使わせてもらいます」
「あいよー」
家の裏手は木の柵で囲まれていて、井戸の脇には水を浴びるスペースが設置されている。
この木の柵、この村人には丁度いい高さなのだろうが、俺にとってはちょっと低すぎるな。何とか下半身が隠れるので、まだマシか。
全ての服を脱ぎ捨て海水を洗い流すと、さっと身体を拭いた後に布を腰に巻く。着ていた黒スーツも水洗いをしておく。防刃性能のある特注のスーツなのに洗濯機でOKという性能に、感謝しておかないといけない。
「ふぅぅぅ、さっぱりした」
体も頭もすっきりした。ようやく、異世界でのスタートが切れた気がする。
これから何があるかは未知数だが、色々楽しませてもらおう。
まずは、この村での生活を思う存分満喫するぞ。未だに加護の力も全て確かめたわけじゃない。加護の発動条件やその能力の確認も重要だ。
「おーい、客人よ! 飯ができたぞ!」
俺は濡れたスーツを物干し竿らしき場所に引っかけ、家へと舞い戻った。
ちなみに翌朝、未だに使用されていなかった加護『便通が良くなる』が発動したことを述べておこう。
少々強引ですが、選ばれた全能力を使いました!
次はもう一人の女性の話です。
纏めて予約投稿していますので、この時点ではどのような評価になっているのか不明ですので、期待と不安が入り混じっています。
ご応募していただいた読者の皆様、本当にありがとうございました。