決断
耳を澄ますと大地を激しく打ち付ける音が、連続して響いてきている。
音源に目を向けると、道のかなり先に粉塵が上がっているのが見えるわね。更に目を凝らして見ると、かなり体の大きい馬二匹が……馬車を引いているのかしら。
「馬車みたいだけど、ちょっと速度ですぎじゃない?」
「そうやねえ。まるで――何かに追われているようやね」
「うわ、お馬さん前に牧場で見たよね!」
翔ちゃんのはしゃぎっぷりに和んでしまいそうになったけど、今は自重しないと駄目よ。どう見ても非常事態っぽいし、警戒していかないと。
「翔ちゃん、私が合図したらいつでも透明化できるように準備しておいてね」
今のところ状況が掴めない。警戒態勢を持続しながら、臨機応変に対応するしかない。
馬との距離が縮まるにつれて、私の中で警戒音がうるさいぐらいに鳴り響き始めている。
二頭立ての馬車は幌のついた木製の荷台を懸命になって引っ張っている。御者席には必死な表情で手綱を握っている、髭の生えた恰幅のいい男が一人。
荷台には矢が無数に突き刺さり、幌も何か所か切り刻まれている。あれって、確実に何者かに襲われた跡よね。
馬車の後ろからは、虎のようなヒョウのような、白と黒の稲妻が走ったような模様をした四足歩行の獣が三匹見える。そしてその背中に騎乗しているのが、黒い毛で全身を覆われているゴリラみたいな何か。
手にした棍棒や剣を振り上げて、追いかけているみたいね。
「こりゃあ、胡散臭い流れだねえ」
「翔ちゃん透明化しておいて。お婆ちゃん、私と草むらに伏せて身を隠しておきましょう」
ここはやり過ごすのが吉よね。異世界初日から厄介ごとに首を突っ込むのは無謀すぎる。あの馬車の人は可哀想だけど、こちらは家族の安全を最優先したい。
「お母さん! あの人たち悪者に追いかけられているよ! 助けないと可哀想だよ!」
「翔ちゃん、ここは我慢して。相手がどれぐらい強いのかもわからないのに、戦ったら危ないでしょ」
「でもでも! 困った人がいたら助けて上げないと! お母さんもお婆ちゃんもいつも言ってるよね!」
「そ、それは」
日頃の躾がこんなのところで足を引っ張るなんて。
確かに日本では困っている人がいたらできるだけ手を貸してあげなさい。と教育してきたけど、それは――
「翔や、それは出来る範囲での話だと言うていた筈やよ。翔は死ぬかもしれない相手と、危険だとわかっていて、大やお婆に戦えと言うのかい?」
お婆ちゃんは翔の目を見据えて、誤魔化すことなく、その言葉を口にした。
翔ちゃんはグッと唇を噛みしめて、今にも泣き出しそうな顔をしているわ。でも、そこで堪えて涙目で一度大きく頷くと、すっと姿が消えていった。
ごめんね、翔ちゃん。ここは辛抱して。
相手が一人でごろつきぐらいなら、武器を持っていたとしても軽く完封する自信はあるけど、巨大なネコ科の動物四匹に、ゴリラっぽい魔物が四体。
初戦の相手としては分が悪すぎる。
それにもし戦うとしたら本気で、殺す覚悟で挑まないといけない。こんな世界に来ておいて甘い考えだとは理解しているけど、翔ちゃんにそんな場面をできるだけ見せたくない。
お婆ちゃんと草原に身を伏せ、相手が通り過ぎるのを待っている。
「これはやばいかもしれんね。あれは追いつかれるよ」
小声でぼそっと呟いたお婆ちゃんに視線を向ける。
フードとガスマスクで隠された顔だが、唯一そこから覗く目が細く、鋭い光を放っていた。
久しぶりに見たわね、お婆ちゃんの本気モード。今では穏やかで優しい雰囲気の老婆を演じているが、本来うちのお婆ちゃんは――
「気合を入れな。巻き込まれるよ」
息を呑み接近する馬車を凝視していると、あと少しで私たちの前を通り過ぎる。そう思った直後、横並びになったゴリラ人間が振るった棍棒が車輪に命中した。
大きく車体を揺らし、馬車の片輪が無残にも破壊され、横倒しになった馬車が目の前を滑って、少し進んだ先で強引に停車させられたわ。
「馬さんがっ」
翔ちゃんの驚く声が微かに聞こえたけど、今は答えて上げる余裕はない。
御者の男性は道を転がり続け、街道沿いの木の根元にぶつかり体が止まっている。何とか体を起こそうとしているようだけど、衝撃と揺れで三半規管がやられているわね。あれじゃ、当分まともに動けないわ。
馬は今の衝撃で馬車から解放されたらしく、猛スピードで遠ざかっている。
「お父さん、どこ、お父さんっ!」
悲壮な声を出して、馬車から這いずり出てきたのは一人の少女。青を基調としたワンピースで大きなリボンが肩口と腰についていて可愛らしいわ。金髪のツインテールって漫画の世界だけかと思っていたけど、さすが異世界ね。
翔ちゃんより、少し幼いぐらいか同年代に見えるわ。
ゴリラ人間は馬車を取り囲み、巨大な稲妻模様猫から降りている。猫は大人しく、その場に座っているわね。躾が行き届いているみたい。
ゴリラ人間の一人はおっちゃんの方へ。残り二匹はニヤついた顔で、涙で顔を濡らし怯えている少女の元へ向かっている。
「ひうっ……い、いや、助けてぇ、誰か助け」
「母さん、母さんっ! このままじゃ、あの子死んじゃうよっ」
泣きじゃくる少女にゆっくりと近づいているのは、相手の恐怖心を煽って楽しんでいるつもりなのかしらね。
ゴリラ人間が錆びた剣を振り上げ、それを少女の体へと叩きつけ――
「させるわけないでしょっ!」
飛び出した私の飛び蹴りが、ゴリラ人間の右後頭部にクリーンヒットする。頭が九十度以上横に傾き、曲がり過ぎた首から鮮血が噴き出しているけど、着地と同時に脇腹にも渾身の正拳突きを叩き込んでおく。
力を失ったゴリラ人間が地面へと崩れ落ちた。たぶん、やれたと思うけど異世界の生物がどれ程の耐久力なのかもわからない。念の為に脇腹にも止めの一撃を入れておいた。
「やれやれ、やはりやってしまいおったか」
ため息を吐きながら、お婆ちゃんも草原から歩み出てきている。
「翔ちゃんの前で少女が殺されるところを見せるわけにもいかないでしょ。情操教育に良くないもの。お嬢ちゃんは馬車に隠れていてね」
翔ちゃんには曲がって育ってほしくないもの。
怯えている少女にウィンクを一つすると、ニッコリと微笑んで見せる。少女は少しだけ安心したようで、小さく頷くと四つん這いのまま馬車へ戻っていった。
さーて、呆気にとられているゴリラ人間をさっさと片付けてしまいましょうか。私の攻撃が通用するとわかった今、遠慮は無用よ。
残りの二体がターゲットを私たちに替えたようで、お婆ちゃんにゴリラ人間が二体。
「キーキキキッキッ!」
猿みたいな声ね。それが命令で全長が私の身長と同程度ある稲妻模様猫が私に歩み寄ってきた。自分たちはどう見ても楽そうな相手であるお婆ちゃんを狙い、稲妻模様猫を私に当てる。知恵が回るみたいね。
「キッキキキッキーキッキ! キキ、キーキキッキ、キーキッ」
んー、加護に気を付けろって言っているのね。あと、そこの女は傷つけるなですって。私をお持ち帰りしてナニするつもりなのかしら。
見た目に反して、本当にお利口さんみたい。この世界には加護が一般にも認識されていて、お婆ちゃんのような老女でも何かしらの加護があるかも知れないと警戒している。
しかし、便利ね『言語理解』って加護。化け物の言葉ですら理解可能とは。
私をお婆ちゃんに向かわせないように、稲妻模様猫が割り込んでいる。猫って躾が難しいのに、見事なものね。
私が手をあぐねている間に、棍棒を持った方がお婆ちゃんに飛びかかっている。
「お婆ちゃん、危ない!」
翔ちゃんの悲壮な叫び声がするわ。
ゴリラ人間が宙を走るように飛び、歪な形をした樹の塊がお婆ちゃんの頭頂部を弾けさせようと唸りを上げ――ゴリラ人間ごときりもみ回転で後方へと飛んでいく。
「えっ」
翔ちゃんには何が起こったのか理解できてないみたいね。
「キュキキキッ?」
槍を持ったゴリラ人間も戸惑っているわ。あの一瞬で右上段回し蹴りを、棍棒を持つ腕に叩き込まれ、威力を逸らされ体勢が崩れたところに、相手の流れてしまった攻撃の威力を増長させるように肩口へ二発目の蹴り。
行き場を失った振り下ろしの威力は回転力を増し、相手の体が宙を舞い、くるくると円を描き地面へ頭から墜落した。
「相変わらずえぐいわね……合気道と空手のミックスだったかしら」
「全盛期に比べればかなり重いが、まあ、それなりには動く様だのう」
20歳若返ったお婆ちゃんを初めから私は心配していなかった。
あの人は私の空手の師匠であり、知りうる限りでは最強の女格闘家だから。一応空手の師範代を名乗ってはいたけど、あらゆる格闘技に加えスポーツの要素も取り込んだ化け物だもの。
得意技は蹴り技で、あの脚捌きを見切れる人なんて一握りだったわね、懐かしい。私はお婆ちゃんが襲われた時に全く心配していなかった。
だって足を悪くするまでは、何処かの警備会社の捕縛術の指導も受け持っていたぐらいの実力者だもの。
私が翔ちゃんと同じぐらいの歳だった頃、この人には絶対に逆らわないでおこうと心に誓ったぐらい怖かったのを今でも覚えているわ。
「さてと、さっさとケリをつけさせてもらおうかねぇ」
お婆ちゃんが一歩、無造作に進んだけで最後のゴリラ人間が怯えて後退っている。稲妻模様猫もお婆ちゃんの異様さにようやく気付いたようで、獣の本能なのだろうか背を丸めて警戒はしているようだが、逃げる一歩手前ね。
見た目は凶悪そうだけど、躾が出来るぐらいだから頭が良くて大人しい生き物なのかもしれない。
「キーキキッ、キキキキ、キ、キィー?」
私がゴリラ人間語で降伏を促すと、眼球が飛び出るぐらいに目を見開きこちらを凝視しているわ。さすがに、向こうの言葉を話すとは思ってもいなかったみたい。
辺りをキョロキョロと見回し、逃げ道を模索しているようだけど逃がさないわよ。
えっ、首元を探ると小さな笛を取り出して、口にくわえた?
「ピーーーーーッ!」
脳を貫くような甲高い音が周囲に響き渡る。
何か精神に影響する道具なのかと身構えたけど、体に違和感はない。いったい何なの。
「あれは、呼魔の笛! 見知らぬ方、ここから急いで逃げてください!」
突然大声を上げたのは、木に背を預け荒い呼吸を繰り返している、男性だった。
「どういうことですか?」
お婆ちゃんがこの騒ぎに乗じて逃げ出そうとした、ゴリラ人間の足関節を破壊したのを目の隅で確認しながら、男性に質問をする。
「あれは黒猿魔の上位種や群れのリーダーに知らせる為の笛です!」
黒猿魔ってのは、ゴリラ人間の事よね。あれの仲間が来るってことか。
あら、大きなニャンコ達は既に逃げているわね。
「貴方たちは名のあるハンターなのでしょうが、下手したから数十体の黒猿魔が現れるかもしれません。それにボス黒猿魔が来たら……」
想像するだけでも恐怖を感じるレベルなのね。顔面を蒼白にした男性が小刻みに震えている。
「お父さん! おとおおおさああんっ!」
「おおっ、カナリアよ! 良く、生き延びてくれた!」
男性の胸に飛び込んできた少女を強く抱きしめて、涙を流す二人を見つめながら、私は大きく息を吐いた。
「助けてもらっておきながら、こんなことまで頼むのは忍びないが……どうか、この子を連れて逃げてくれないか! 報酬はあの馬車にある金貨を持って行ってくれ! 私が何とか時間を稼ぐから、この通りだ!」
「お父さんを置いていくなんて、絶対にダメえええっ! 私も、私も一緒にいる!」
初めて会った私たちに頭を下げ、子供を助けてくれと懇願する男性。そして、泣きじゃくる娘。私は、本当に何てことをしたの……。
「いやよ」
「えっ!? た、頼む、どうにか、娘だけでも!」
「嫌よ。子供だけ残して死ぬなんて絶対に許さないわ。ここまできたら、二人とも助けるわ!」
それは二人の親子に向けた言葉じゃない。あの時の自分に向けた言葉。
こうなったら二人とも助けて見せるわ。それがどれだけ無謀であっても!
予約投稿をいじっていたらミスして、本日三話目の更新となりました!
何やっているのでしょうか……たぶん明日の更新はお休みです。