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ある老婆

作者: 神崎 創

 見渡す限り地獄絵図と化した街の真ん中で、僕は一人呆然と佇んでいた。

 あちこちからもうもうと立ち上る煙が空を黒く染める。

 昼だというのに地上は暗く、流れてきた煙のせいで視界が遮られている。

 うっすらと見えてくるのは、飛び散った建物の外壁やガラスの破片。

 路上にはそれらに混じって、何人もの人が倒れている。

 老若男女。中には幼い子もいるし、赤ちゃんを抱きかかえたままの女性の姿もある。

 ほとんどはもう、動かない。死んでいる。

 誰もがその場から逃げだそうとしているうちにやられたのだろう、身体を半分捻るようにして俯せている人が多い。

 そして――僕の足下。

 一人の老婆が仰向けでこときれている。

 大きく見開かれたままの両眼が虚空を睨み、何かを叫ぶようにして開いている口の端から、泡が溢れていた。よほど苦しかったのだと思う。直視に堪えない、苦悶の相。片手が何かを鷲づかみにするように硬直していた。

 大した外傷はない。

 何故なら、突然撒き散らされた毒ガスにやられたからだ。

 僕は幸いといっていいのかどうか、警備会社勤めで職場にいる最中だったから防毒マスクをもっている。それで毒ガスを吸い込まずに済んだ。外回りに出ていたら、命はなかったに違いない。

 少しの間、どうすることもできないまま、苦しげな老婆の顔をじっと見つめていた。

 眺めているうち、地獄の亡者のような彼女がだんだんと哀れに思えてきて、傍らに跪くと、その目を閉じさせてやった。

 僕は、ついさっき望まずして骸となり果てた、この老婆に見覚えがあった。

 あれは、二ヶ月ばかり前のことだったろうか。

 今まさに僕が立っている、この街のこの場所での、ほんの小さな出来事だった。


 

 その日、毒ガステロ訓練が実施された。

 自治体や警察に消防、その他多くの関係機関や企業が参加しての大規模なものだった。

 街の中心部は通行規制が布かれ、これでもかというくらい多数の警察車両や消防車、救急車がそこかしこに停まっている。

 僕の警備会社も参加することになり、僕は付近の警備と歩行者の誘導を命じられた。

 繁華街の通りの中央で毒ガスが撒かれた、という想定。

 一般市民全員が参加するわけじゃないから、勘違いして慌てる人がいないように説明したり、付近を通行する人が邪魔にならないように案内をしなければならない。

 訓練が開始され、僕は想定現場にほど近い交差点に立っていた。

 足下には、放水用の太いホースがはしっている。

 道行く人は歩きづらそうにしながらも、特に何も言わず跨いで通ってくれていた。

 すると。


「なによ、これ! 火事でもあったの!?」


 急に、そう叫ぶ声が聞こえてきた。

 一人の、背の低い老婆。

 行く手を遮るように布かれている放水用のホースの前で立ち止まっている。いかにも迷惑そうに、露骨に眉をしかめていた。

 僕はそちらの方へ近づいていって軽く頭を下げ


「現在、テロ対策訓練中です。ご迷惑をおかけします」


 と、言葉をかけた。

 途端にその老婆は僕に向かって


「テロ!? そんなもの、あるわけないでしょ! 何でこんなところでやるのよ! ああっもう、本当に邪魔ね! もう少し、考えて欲しいものだわ!」


 悪態をつきつき、よいしょとホースを跨いで行ってしまった。


「まったく。こんなものに税金を使うなんて、何を考えているのやら――」


 聞こえよがしにぶつぶつ言いながら。

 後に残された僕は、老婆の背を眺めつつ思った。


 ――こういうところだから、やるんだけどなぁ。テロをする人間だって、まさか山奥の誰もいないところは狙わないだろうに。


 その後も訓練は数時間続いたが、あからさまに文句を言ったのは例の老婆一人だった。

 腹は立たなかったが、どうにも腑に落ちない気持ちが残った。

 確かに、可能性からいえば、この街でテロ、それも毒ガスを使われたテロなんて、起こることはないかも知れない。ここは首都ではないからだ。

 だけど、絶対に起こらないなんて、誰が断言できるだろうと思う。

 げんに世界のとある地域にはびこるテロ組織は、敵対する国家の一つとしてこの国を挙げているのだから。やられないなんていう保証はどこにもない。

 そうして――その「まさか」は本当に起きてしまった。

 所属不明の航空機が領空を侵犯、スクランブル発進した航空自衛隊の追撃を振り切り、とうとう本土に到達した。この時点で政府から非常事態宣言が出されたが、街を歩いている多くの人は気付かなかっただろう。

 その航空機は僕のいる街の上空まで来たとき、数発の弾頭を投下するなり自分から三十階建ての高層ビルに突っ込んで爆発、四散した。自爆テロ、みたいなつもりだったのかも知れない。

 街に落とされた弾頭は大爆発こそしなかったものの、着弾すると無色透明のガスを広範囲に放出した。

 近くにいた人達は次々と苦しんで倒れ、警察が出動してきて避難を呼びかけたときにはもう遅かった。

 中心部に毒ガスが蔓延し、駆けつけた警察官や救急隊員ですらも犠牲になった人がたくさんいるようだった。そういう姿格好で倒れている人を何人も僕は見た。

 ほんの二ヶ月前、訓練をしたはずなのに。

 そこに警察官や消防士や救急救命士も大勢参加していたはずなのに。

 結局、何の役にも立っていない。

 本気で仕掛けてくる連中を相手に、形ばかりの訓練など意味がないのだ。

 それもさることながら――僕は横たわる老婆に、心の内で呼びかけた。


(おばあさん、あなたはこの街でテロなんてあるわけない、と言いました。でも、どうでしたか? こうして実際にテロが起きて、そのためにあなたは命を落としたんです。わかりますか?)


 せめて命を取り留めたならば、この老婆は理解してくれていただろうか。

 突然命を奪われた老婆のことを、平和ボケ呼ばわりするつもりはない。

 でも、自分だけは大丈夫だって、平穏の日常にあぐらをかいていなかったとはいえないんじゃないだろうか。そうでなかったら、あのとき、あんなことは言わなかったように思う。

 誰だって、平和を望む。それは人間として当たり前の心。

 でも、自分が何もしなければ平和でいられるなんていうのは間違っている。 

 そう。

 絶対の安全や平和なんて、この世の中にはない。

 平穏な毎日は当たり前なんかじゃない。

 自分達だけが何も起こらないだなんて、思ってはいけない。信じちゃいけない。

 こちらが何もしなくても、こちらを攻撃してやろうと狙っている勢力がこの地球上にはいるのだから。

 違った思想や考え方の人々を殺せばいいと信じている、頭の狂った人間が、世界のあちこちにたくさんいるのだ。彼等から攻撃されないでいたいなら、彼等に同調して狂うしかない。

 狂うのが嫌だったらどうすればいいのか。

 ――答えは一つしかないように思う。


「おい、高野! 警察から避難命令だ! とりあえずは俺達も逃げるぞ! うかうかしていたら、防毒マスクの浄化機能が切れちまう!」

「あ、はい!」


 背後から、先輩の声がした。

 彼もまた、頑丈な防毒マスクで顔全体を覆っている。

 辛うじて僕達が助かっているのはこの防毒マスク、もとい「備え」があったればこそだ。

 万が一に対する「備え」以外に、身を守る術なんてありはしない。

 黒煙と毒ガスと、そして死に支配された街の中で独り、僕はそんなことを考えていた。

戦争や人殺しは嫌いです。

同時に、平和ボケという言葉も嫌いです。

しかし、この日常が当たり前だと思う考え方も同じように嫌いです。

つかみとり、守ってこその平和だと思います。

ではどうすればいいのか、というところまでこの作品は及んでいません。


作中の老婆のモチーフとなった人は実在します。

実際のテロ想定訓練中、作中のような言葉を吐きました。

上手く言えませんけど、自分だけが、自分のいるところだけが大丈夫だって安易に考えるような人が一人でも減って、平和とはいったいどういうことだろうって一生懸命に考える人が一人でも増えることが大事かなっていう気がします。


お目通しくださりありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 短い尺の中で難しい主題に踏み込んだ表現で記述されるのは、かなり勇気の要ることだったのではないかと拝察いたします。この作品のように読者に疑問を投げ掛けるタイプの作品は特に難しいと思います。敢…
2016/04/12 22:02 退会済み
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