彼女が泣いた日
激しく窓を打ちつけていた雨が止んだ。
外が突然静かになりすぎて、私は嫌な予感とともにベッドから飛び起きた。
窓から見える空は明るく、村を長い間覆っていた黒い雲は跡形もなくなっていた。
魔素の種が消滅したのか、それとも何かに寄生して一時的な休眠期に入ったのか。
どちらにせよ、私が眠っている間に何かが変わったことは確かだった。
呆然と空を見上げた後、私は布団を蹴り上げて部屋から出た。
「お母様!! お父さんは!?」
ドアを開けた先に居たのは、母と公爵の二人だけで、父の姿もなければ、彼の姿もなかった。
神妙な面持ちの二人から答えを聞くのも待てず、家を飛び出そうとしたところで、公爵の落ち着いた声が私を止めた。
「君の父上は息子が迎えに行った。もうすぐこちらに帰ってくるようだから、君もここで待っていなさい」
玄関ドアを開け放った私の指先が無意識にピクリと動いた。
そう、ここは魔法がある世界だった。
落ち着け、大丈夫だ、と自分に言い聞かせ、自分がかけた魔法の気配を探す。
混乱していて忘れていたが、ちゃんと探せば自分の魔法の気配はすぐに見つかった。
彼と父にかけていた防御魔法のうち、父にかけたものはほとんど崩壊しかかっていたが、完全に消えていないということは、まだ父が生きている証拠でもあった。
二人にかけた防御魔法は、術者である私が生存しているうちは、単純に魔法が破られるか解いたのでなければ、魔法をかけた相手が死亡したときにだけ対象を失って消えるものだから。もちろん私から離れれば効果は薄れるが。
彼にかけてあった防御魔法も表面は何層か壊れているが、中は正常に作動している。
それは、彼も魔素の種に浸食された訳ではないという証で。
何度も夢にみていた最悪のエンディング――彼が自分の内側に魔素の種を引き入れ、やがて食い破られる未来は根本から回避できたのか。
少しだけ安心したが、何年もかけて強固に張り巡らせたはずの防御魔法が、そこまでダメージを受けているということは、それほどの戦いがあったということには変わりはない。
私は目を瞑って、必死で二人の無事を祈り続けた。
しばらくして魔法の気配が視認できそうなくらいには近くなり、でも二人の状態を確認するのが怖くて目を開けられなかった私の肩に、公爵と母がそっと手を置いてくれた。
「この歳であれだけ強固な防御魔法を構築できるとは、君は余程芯の強い人間で、彼らはとても君に愛された人間なのだろうな。ごらん、君のおかげで二人は生きて帰って来たよ」
「大丈夫よ、リリア。ちゃんと二人を出迎えてあげましょう?」
公爵と母の優しい声に、そっと目を開ければ――
眩しいくらいの太陽が降り注ぐ中、家に真っ直ぐ歩いて帰ってくる彼と、彼に背負われた父が笑っていた。
二人とも泥だらけでボロボロの姿だったけれど、私のことをしっかり見て、ちゃんと笑っていた。
せっかく玄関にいたのに、私はいつもどおりに出迎えることができなかった。
ただ、声も出せずに泣いてしまって。
そんな私の頭を帰ってきた二人が次々に撫でてくれたことが、涙が止まらなくなるほど嬉しかった。
泥だらけだった父は、公爵が水魔法で綺麗にしてくれた。
身動ぎするだけでも辛そうな父をベッドに横たえて、表面の傷は治癒魔法と魔法薬を使って何とか治していった。
傷の治りは当然ながら悪い。
……わかってはいた。もう父の身体が、魔法を奥まで通さないほど限界であることを。
でも、どうしてもできる限りは治しておきたかった。
「綺麗な金色の髪だね。夢が叶って良かったね、リリア」
父は私を見て優しく微笑む。
それがとても切なくて、私は涙を堪え続けるのが苦しかった。
「夢……だったのかな。こうなりたかったのは、それほど素敵な言葉で表すようなものではなかった気がするけれど」
「目標を持って何かを頑張ることは素敵なことだよ。次は、どんな夢にするんだい?」
夢――なんて考えたこともなかったから、しばらく考え込んでしまった。
にこにこと答えを待つ父に若干の気恥ずかしさを感じながら、私は口を開いた。
「……子どもを産んで、私も尊敬されるような親になりたいわ」
私の正直な答えに父は一瞬目を見開いた後、嬉しそうに笑った。
「孫が楽しみだね。でも、その前にそろそろランスロット君のことを名前で呼んであげたらどうかな?」
父のいろいろ含んだ視線に私は言葉を詰まらせてしまい、何とか言い訳を探して目線を虚空に彷徨わせた。
彼と出会ってもう十年になろうとしているが、実は私は彼の名前を一度も呼んだことがない。
いつも彼は私が呼びかける前に振り返るから「貴方」という代名詞でも不便はしなかったし、母と父に彼のことを聞くときも「彼は?」で通じていたし。ゲームの中のリリアのように、「お兄様」と実際に呼びかけたこともなかった。
名前を呼ばない理由は、最初にタイミングを逃したからというか、私の感情的な問題というか。
「……そうね。よく考えると、エリクシル剤は私が飲んだ訳ではないし、私が高価な薬の対価にオルトランド公爵家の養女にならなきゃいけない理由はなくなったのよね。もう兄にならないのなら、そろそろ名前を呼んでもいいのかしら」
「おい。何、真剣に考え込んでんだよ。なかなか名前で呼ばないなと思っていたら、そんなことを考えていたのか」
不機嫌さを装いながらもどこか隠し切れていないトーンの声が聞こえて振り向けば、着替え終わった彼がちょうどドアを開けて入ってきた。
私と同じようにベッド脇の床にドサリと座った彼を見て、ふと思う。
「そういえば、私、貴方に自己紹介されたこともなかったのよね」
「ランスロット・オルトランドです、よろしくお願いしますー!!」
投げやり気味に差し出された彼の手を、父の苦笑まじりの視線に何となく促されて取る。
途端に私は引き寄せられ、彼に抱きしめられた。
「そんな訳で、リリアのことはちゃんと俺が幸せにするから、父さんは心配しないでいいからな」
「うん、頼んだよ。僕とリーナの可愛い一人娘なんだから、あまり泣かせないでね?」
「わかってる。リリアは意地っ張りだから、俺がたくさん甘やかすよ」
「あの、待ってよ。何だか意気投合しているところ悪いけれど、私はこれまでの人生も十分幸せだったから、これ以上甘やかさなくても、心配してくれなくても大丈夫よ」
私が呟けば、二人とも顔を見合わせて「ほら、こういうところが」と頷き合っていた。
不本意だとも思うが、否定もしきれなくてムッとしていたら、父にまた頭を撫でられた。
腕を動かすのも辛いのに、ゆっくりと何度も。
「……ランスロット君。フィリアさんと、オルトランド公爵様を呼んでもらえるかな」
父の静かな声にもう最期は近いと悟る。
彼は私をそっと放してから、両親を呼びに行った。
頭の上から滑り落ちてきた父の手を握る。
成長したはずなのに、まだまだ父のこの手には叶わないなと感じた。
そのまま無言で父の手を握っていたら、彼が両親を連れて入ってきた。
彼は再度私のそばに座り、母と公爵は少し部屋に入ったところで足を止めて貴族らしい礼をした。
「オルトランド公爵様。このような辺境まで僕の家族を助けに来ていただいて、ありがとうございました」
「貴殿の家族は、私の家族でもある。貴殿の大切な娘を、私も命をかけて守ると誓おう。どうか、安らかに」
「フィリアさん。僕は、今も世界で三番目に貴女のことを愛しています。貴女はこの数年、何もできないと悔やんでいたけど……リリアをこんなに立派に教育してくれて、僕にとってはとても素晴らしい母親です。これからも、リリアをよろしくお願いします。そして、どうかこれからは、一番愛した人と幸せになってください」
「はい……今までリーナさんの居場所を貸していただいて、ありがとうございました」
父の言葉に泣き崩れた母は、公爵に肩を抱かれて部屋の外に出て行った。
公爵に目配せされて彼も出て行ってしまい、部屋に残されたのは、私と父の二人で。
「……お父さん。お母様は、どうして三番目なの?」
「一番目はリーナで、二番目はリリアだからだよ」
「今でも、ちゃんとお母さんが一番なの?」
「もちろんだよ。……僕はね、フィリアさんと初めて会ったとき、フィリアさんが感謝してくれたような善意ではなくて、打算があって彼女を助けたんだ。あんなに魔力が高い息子を育てている彼女なら、僕の魔力が安定しない娘もちゃんと育ててくれるかもしれないって。次の日に事情を話したら、そんな僕でも彼女は三番目に愛する努力をしてくれるって。一緒に子どもたちのために幸せな家庭をつくろうって。でも、その所為でリリアは家出してしまって……本当にあのときは焦ったよ」
「ごめんなさい……」
「リリアが謝ることは何もないよ」
「……ううん。私はお父さんを守れなかった。お母さんも、私の所為で……」
「違うよ。僕がずっと家族と一緒にいられないのも、僕が弱かった所為だ。リーナが魔物に襲われたのも、僕が森でちゃんと守れなかったからで、リリアの所為じゃない」
「でも、私が魔力をちゃんと扱えていれば……私がもっと早くに前世の記憶を思い出していれば、お母さんは私のために危険な場所に薬草を取りに行って、魔物に襲われずに済んだのに」
「ちゃんと聞いて、僕の可愛い娘。君の所為じゃないんだ」
「だって……」
「いいかい? 僕は、リリアが生きていてくれて嬉しい。人を支えることができる魔法を使えるようになってくれて誇らしい。……ランスロット君と幸せにね。僕はこれからも君達のことを……ちょっと遠くはなるけど、リーナときっと綺麗な場所で見守っているから」
「……私が生きているのは当然よ。お母さんとお父さんが、命がけで守ってくれたんだから」
「僕は守れたのかな?」
「たくさん守ってもらったわ。お父さんが私の父親で本当に良かったと思うくらい」
「……そっか。ありがとう、リリア……」
「私のほうこそ……っ、……ありがとう……お父さん」
父は、最期にいつものように微笑んで――眠るように息を引き取った。
力を失ったまだ温かい大きな掌の上に、それから私の涙は絶えず零れていった。