彼女達の帰還
彼が魔素に魘され続けて三週間。
黒から白に色を変えた自分の左手を見下ろして、なんて無力なんだろうと掌を握った回数は数えきれない。
――あの時。
グランドベルグの城が氷に閉ざされる直前、私は一瞬だけ意識を取り戻したランスと目が合ったのを覚えている。
それから感じた私の身体から魔力が急激に引き出されていく感覚。
正直言って、血の気が引くという表現を実際に身を以って知る日がくるとは思わなかった。
魔力が奪われていくことに対して恐怖を感じた訳ではない。
私の左手を黒く染めた魔素が、私の魔力とともに身体から引いていくその魔素の行き先が、彼の身体だと本能的に理解したから。
魔素は魔力によく似ているから、魔力のコントロールが私よりも遥かに上手い彼にとっては簡単なことだったのだろう。
水精霊を介して私と魔力制御回路が繋がった状態なら、私の身体から魔素を魔力ごと根こそぎ引き出すなんて彼には造作もないことで。
肌の色を取り戻していく私の左腕の代わりに黒く染まっていく彼の左腕が私の思考を止め、私は気付いたときには公爵家のベッドの上に寝かされていた。
魔素の種を封印したのは私だと噂する人間が真相を確かめに公爵家に押し掛けてきたり、水精霊が氷の封印魔法でグランドベルグを救ったのだと精霊信仰者達が騒いだりしていたが、それは違う。
魔力を引き出しながら、支援系属性の中でも防御と治癒に特化した私の魔力制御回路を使って術式を編み、精霊自身を構成している魔力を全て使用する勢いで封印魔法を発動させたのはランスで、あの瞬間、彼の想いのあまりの強さに私も精霊も抵抗できなかった。
ランスが私の身体に魔素が流れ込まないよう、魔素の種ごと精霊を葬り去りたいと願い、消滅までとはいかないものの、自分の身を犠牲に両者を封印してみせた。
それが真実であり、私に突き付けられた現実だ。
お義父様が王都中の医師や薬師を呼び、どのような治療を施しても彼は意識を取り戻さなかった。
医師達は彼のもはや人間の色とは思えない全身を見て逃げ出し、薬師達が苦し紛れに出してきた薬は彼自身が受け付けずに全て吐き出した。
ほぼ全身を魔素の黒に染めた状態でもランスの心臓が鼓動を止めていないのは、ランスに存在のほとんどを魔法に変換されて尚、まだ辛うじてランスに残っていた魔力で生き長らえている精霊と魔力制御回路が繋がっているからだろう。
人間でも高位魔力保持者の場合、魔力制御回路が正常に巡っている限りは、たとえ高濃度の魔素が体内にあっても生きていられることは、ゲームの他の攻略対象者が証明している。
私側から水精霊にアクセスできる回路は完全に封印魔法で凍結されているが、ランスのほうは魔法を発動させた都合上、水精霊とまだ繋がっている。
その状態ならば、精霊自身が自分も生きる為にランスの全身にも魔力を正常ルートで巡らせるはず。
あとは彼が自分の力で目覚めて、自身で魔素をコントロールしてくれれば助けられるかもしれないと、その一心でひたすら彼が飲み慣れていて唯一吐き出さない私の魔法薬を作っては口移しで何度も飲ませ続ける私に対して、魔素の見せる悪夢に連日魘されながらどんどん衰弱していく彼を前にしたお義父様が呟いた。
「いっそ一思いに死なせてやったほうが、ランスロットは楽になれるのではないか」
……ふざけるな。
私は気付いたときには、自分の右手をお父様の頬に叩きつけていた。
「ランスを死なせて、彼が苦しむ姿から解放されて楽になりたいのはお義父様のほうでしょう!? 一度も死んだことのない人間が、自分の都合で彼が生きることを勝手に諦めさせようとしないで!!」
ランスが公爵家に運ばれて三日目の夜、公爵家の当主であるお義父様に手を上げたことにより、戸惑いながらも私を拘束しようと動いた周りの騎士達まで激昂のまま殴り飛ばして、私の魔力の高まりに何事かと飛んできたザイレに頼んで、私は以前暮らしていた村の小さな家にランスを連れ帰った。
人口密度は高いくせに役立たずばかりの王都に……ランスを殺そうとする場所なんかに留まる理由はない。
懐かしさすら感じほどに離れていた村は、そのままの形を残している私達の家以外は崩壊の跡がまだ生々しく残っているものの、人を狂わせるほど濃かった魔素の気配が一切消え、平和の象徴とされる青い鳥が空を自由に飛び、流れる水と風で揺れる葉が心地よい音を奏でる静かな場所になっていた。
私達がかつて魔素と命懸けで戦っていたその場所で私ができることは、今も昔も変わっていない。
防御魔法で彼が帰ってくる家を守り、治癒魔法で傷だらけになった彼を癒して、魔力を使い果たして疲れている彼の為に薬を作ること。
ランスと同じことを私はできない。
精霊の魔力制御回路はランスによって凍結されていて、そこを経由できなければランスの身体から私のほうに魔力ごと魔素を引き出すことができない。
魔素を浄化できるエリクシル剤は手に入らない。
お義父様が長年探し求めてやっと手に入った一本は、もうお母様に使った後だ。
この世界で唯一魔素に対抗できる魔法を持ったヒロインは使えない。
たとえ私達の事情を知ったところで、攻略対象者と遊び呆けていた今のあの子に直接的にランスを救える力はない。
あるいは、ザイレのときのようにヒロインが他に浄化魔法を発動したときにランスを飛び込ませることができたなら。
だが、ヒロインがエンディング近くまでイベントを進めていたアルヴァンの魔素の種は凍結していて、第二王子の魔素の種は開花が遅く設定されていて他のキャラが片付いた後にしかエンディングに辿り着けない仕様だ。
エレノアの時間魔術は最期の手段にしてほしいとザイレが会わせてくれなくて、他の攻略対象者をヒロインが攻略するまで待てる余裕は……ない。
誰にも頼ることができず、誰も彼を救うことができず、私に出来ることが限られているならば。
女神でも魔王でも何でも良い。この場所で起きた奇跡を、どうか私にもう一度。
ランスが見つけてくれたお母さんの形見を握り締め、ランスが学園でも肌身離さず着けていたお父さんの形見を手にとって――
「エリクシル剤を……エリクシル剤のようなものを作ったの。ザイレに攫われたときに教会で本を読んで作り方は知っていたから、本物を作る為の“女神の涙”はなかったけど、女神の力が宿ったものなら代わりになるかもしれないと思って……魔素の種が浄化された証の、あの宝珠を砕いたの」
目覚めたばかりのランスに対して、ベッドサイドでごちゃ混ぜの感情から途切れ途切れにこれまでの経緯を説明する私の話を、ランスは時折相槌を打ちながら急かさずに聞いてくれた。
「貴方に飲ませて良いものかわからなかったけど、もう衰弱しきって呻り声すら出さなくなった貴方に私はそれしかできなくて……。お母様に飲ませたあのエリクシル剤に宿った女神の力と同じくらいの気配は感じたから……いえ、これじゃ言い訳ね」
もしかしたら、私の作った薬でランスを殺してしまっていたかもしれない。
今更ながら震えてきた手を隠すように握り締めて、ちゃんと姿勢を正してランスに頭を下げた。
「効能もよくわからないものを貴方に飲ませてごめんなさい……貴方が大切にしていたお父さんの形見を砕いて、本当にごめんなさい。貴方を守れなくて――」
……ぽんっと頭に降ってきた手が優しく私の頭を撫でた。
まだまだ謝りたいことはたくさんあったのに、私は思わず唇を噛み締めて止まってしまった。
ベッドに横になったままの彼は筋力が衰えており、少し身動ぎするだけでも大変そうにしている。
そんな彼に気を遣わせて申し訳なくなったが、彼に「手」と言われて両手を差し出せば、硬い宝珠を何日も形振り構わず砕き続けた所為でボロボロになった私の手をランスは両手で包み込んで、逆に彼のほうが謝りながら目を伏せた。
「……ごめん。もう俺は大丈夫だから。ちゃんとお前が俺を救ってくれたから……だから、そんな風に泣くなよ。今の俺、身体に力が入らなさ過ぎて、お前を抱き締めてやることもできないんだからさ」
ううん、貴方は謝らなくて良いの。
そもそも悪いのは、独占欲と嫉妬のあまりヒロインばかり気にして、貴方に向けられた敵意に気付かなかった私なのだから。
私が続けたかったその言葉は、声にならなかった。
ランスに握られて初めて自分の指先が冷え切っていたことに気付く。
泣いているつもりはなかったのに、私の頬を伝っていつの間にか涙が床に零れていた。
「俺、夢の中で父さんに会ったんだ。父さんが家に帰れって、帰り道を教えてくれた。きっとお前が泣いてるから、早く帰れってことだったんだろうな」
さすが父さんの形見の宝珠で作った薬の力だ、とランスは微笑んだ。
「って、ああ、もう。さらに泣くなよ。父さんとリリアを泣かせないって約束したんだから……ちゃんと俺が幸せにするって宣言したのに全然駄目だな、俺。ほら、早く泣き止めって。今も父さんがどっかで見てるぞ。次に会ったときに俺が絶対に怒られるから。な?」
二度と聞けないかもしれないと思っていた彼の声が、二度と触れてくれることはないかもしれないと思っていた彼の手が、とても温かく私に向けられている。
私が次々と溢れてくる涙を堪えきれなくて両手で顔を覆ったら、ランスは困り顔でまた私の頭に手を乗せて、私が泣き止むまでずっと撫で続けてくれた。
そうして、私達の酷い悪夢のような現実は終わりを告げたように見えたが。
ランスがようやく家の周囲くらいならばゆっくり歩き回ることができるまでに回復した日のこと、少し暑いくらいの日差しの下、川辺の木陰でウトウトとしていた私を幼い頃から何度も見ていた夢が襲った。
防御魔法に突き刺さる魔素の根。貫かれる私と彼。
久しぶりに見た最悪のエンディングに目を覚ますと、隣りで本を読んでいたランスと目が合った。
同じように魔素の毒を経験したランスにはもうバレている。
魔素に侵されているときに見る夢が、必ず現実味を帯びた悪夢であることが。
王都の騒々しさが嘘のような静かな時間が流れるこの村の中、束の間の平和に浸って、二人で気付かない振りをし続けるのはこれ以上無理だとランスの瞳が言っていた。
そのまま見詰め合っていたら、毎日お義父様からの謝罪品を届けがてら私達の様子を見に来ていたザイレが珍しく手紙を持って現れた。
私達の間に漂う空気を物珍しげに一瞥した後、ザイレは私のほうへ手紙を差し出した。
「アルヴァン・グランドベルグが罪の塔に幽閉されることになった。規則で本人から手紙を預かってきた」
罪の塔とは、複雑な防御魔法が幾重にも張られた貴族専用の牢の通称だ。
対高位魔力保持者用といっても過言ではないほど堅牢に作られた塔は解錠するのも一苦労で、収容された者は一生出ることが叶わず、そこで己の身が朽ち果てるのを待つだけだと言われている。
罪の塔行きが決定した者は、女神信仰の「罪人にも慈悲を与えよ」という教えにより、収容前日にたった一人にだけ手紙を送ることが許される。
そんな大事な手紙を私に送る意味がわからないと受け取った瞬間に地面に叩きつけて思い切り踏みつけてやったら、お人好しのランスにそれはさすがに可哀想だと止められた。
仕方なく開封した私の名で宛てられた手紙には、謝罪の言葉とともにランスを攫った真相が記されていた。
まず長々と、グランドベルグを加護する水精霊が魔素に侵されて弱ってきているため、水属性の魔力を捧げ続ける必要があること、オルトランド公爵家は第一子が必ず水属性を宿した男児が産まれる家系だということ、水属性の高位魔力保持者の血をグランドベルグに取り込むことができたなら、将来的にグランドベルグはもっと繁栄していくだろうと考えていたが、誰でも良いから孕ませてもらおうと自分の息が掛かった娼館に誘ってもランスは応じず、夏休みに私達が新婚旅行に行くことを知って、私にグランドベルグが喉から手が出るほど欲している水属性を受け継いだ男児を先に身籠られては計画が台無しだと強行に及んだこと、そしてそれらの犯行は全て自分の独断で行ったものだということが書かれていた。
私達は実際まだ子供をつくる気はなかったのだが、この世界の常識では新婚旅行と言えば子づくりで、若くして力ある貴族の夫の子を身籠った娘は有能な女性と評価され、在学中でも妊娠がわかれば学園を中退していくことはよくあることだ。
子供の存在を何だと思っているのだと憤ったが、今はそれ以上にこの文章、最初の一行から本気の謝罪で私に宛てられたものではないことは一目瞭然で非常にイラついた。
これは罪人の書いた手紙の内容を黙って確認するだろう国王や国の幹部に向けて書かれた文章であり、グランドベルグは今回の誘拐騒動に関して国として関与していないから、最愛の姉である女王は見逃してくれという懇願の手紙だ。
偽装のためか私に向けて書かれていたのは、最後の四行のみ。
ランスに睡眠薬と媚薬を盛って連れ去ろうとしたが抵抗され、ようやく国に連れ帰ったは良いものの、ランスがグランドベルグが用意した美女達には目もくれず、あげくの果てに水精霊の真名を知っていて契約に持ち込んでまで拒否したことは予想外で、私には本当に申し訳ないことをしたと。
何が申し訳ないことをしただともう一度手紙を地面に投げつけて散々に踏みつけてやったが、隣りで一緒に手紙の文字を追っていたランスは今度は止めなかった。
「リリア」
粉々に破り捨てようとしたところでランスから声が掛かり、やっぱり止めるのかと振り返れば、彼は眉間に皺を寄せて額を押さえていた。
「どうしたの?」
「目が覚めてから、ときどき耳鳴りがするんだ。ガンガン……カンカン……ピキンって」
「……何の音?」
「精霊が封印魔法を破ろうとする音」
ランスから苦笑いとともに伝えられたのは、現実のような悪夢の再来の予感だった。
それも有って無いような予想よりもずっと早い警鐘は、彼にとっては非常に不快な音として既に付き纏っていたもので。
遅かれ早かれ、こうなることはわかっていた。
ランスの回復と同時に、彼と魔力制御回路が繋がっている精霊が力を取り戻さない訳がない。
ランスがまともに動けないうちはどうすることもできなくて、この平和な村に留まっていただけのこと。
この程度の魔素ならば今の私達には容易く排除できるものだが、ランスはそれでは駄目だと徐に立ち上がった。
私は覚悟を伝えるようにランスの目を真っ直ぐ見詰め、確認する。
「グランドベルグの魔素の種を潰すのね?」
ランスが目覚めた日から、どうすれば魔素に侵された精霊と契約で繋がっている彼を本当の意味で救えるのかと考えていた。
だから私に迷いはなく、彼も即座に頷いた。
「水精霊が俺じゃなくお前のほうに手を出し始めたなら、いつまでも此処でゆっくり療養している訳にはいかなくなった。グランドベルグには滅びてもらう。それでいいな?」
ランスのこれは確認ではなく、決定だ。
もしもヒロインやアルヴァンが、私達がザイレに使ってしまったものと同じ効果のある魔道具を見つけることができたなら、グランドベルグは滅びないのではないか。
魔道具を先に使用してグランドベルグに滅びる道しか残せなかったことに少しでも罪悪感を抱き、そんな風に考えたこともあった私達が甘かった。
貴族の世界は甘くはないとアルヴァン自身が教えてくれたのだ。
私達が生きる為に「仕方がない」の一言で国を一つ終わらせてしまおう。
私達のやり取りを静観していたザイレの指が鳴る。
平和な景色は一変して、ゲームのメイン舞台の喧騒の中に私達は再び足を踏み入れた。