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ヒロイン様にフラグが立たないその理由  作者: 逢月
第三章 アルヴァン・グランドベルグ
26/29

魔素が彼に見せた夢

 空から水滴が落ちてきた。

 雨が降ってきたのかと思って重たい瞼を開けると、リリアが泣いていた。

 泣きながら俺の右腕を抱えて、何度も何度も治癒魔法を使っていた。


 右手が酷く痛むのはどうしてだろう。

 身体が熱くてだるくて、目眩で意識が回る。


 ……ああ、そうか。

 こうも気分が悪いのは、此処は魔素の気配が濃いからだ。

 村にいたあの頃と同じ……いや、もっと濃いかもしれない。


 魔素の種は一刻も早く潰さないと。

 リリアが生きていられるように。俺がリリアと一緒に居られるように。

 だが、焦れば焦るほど、全身に力が入らなかった。


 この感覚には、何度も恐怖を覚えたことがある。

 身体が自由に動かせず、意識ばかりが遠のくこの感覚を最後に感じたときは、どうしても諦めたくなくて、俺は彼女の名前を呼んで、でも届かなくて。


 だけど、ほら、今は届いてくれた。

 リリアが俺の名前を呼び返してくれる声が聞こえる。

 ランス、と。リリアが十年越しでようやく呼んでくれた俺の愛称で。


 これで安心して眠れると、俺はゆっくりと目を閉じた。






 アスファルトの上を、冬が間近に迫った冷たい風が通り過ぎていった。

 どうしてこの場所にいるのか考えて、俺は考えること自体が馬鹿だったなと頭を振った。

 仕事の目途が付いたのが真夜中で、自分の車に後輩達を乗せて一人ずつ自宅に送っていった帰りじゃないか。


 腕時計を見ると針はもうすぐ二時の位置まで来ていた。

 気慣れたスーツのネクタイを緩めながら、アパートの階段を二階へと上がる。

 家の明かりは消えていて、あの不健康で昼夜逆転している妹がこんな時間に寝ているなんて珍しいなと思いつつ、玄関の扉を開けようとして――ふいに寒気がして、手を止めた。

 嫌な予感なんてくらいの生易しい感覚じゃない。

 この扉を開けたらもう戻れないような、そんな気がして戸惑う。


 理由を思い出そうとしても、黒い靄が邪魔して思考が纏まらなかった。

 しかし、止めていた手はいつしか誰かに操られるように玄関を開けて、二度と見たくもなかった光景を俺の視界に映して、俺に否応なく気付かせた。


「お兄ちゃん!! 助けて!!」


 見知らぬ男が、妹の上に跨っていた。

 妹の首筋に突き付けられていた包丁が、開いたカーテンの隙間から入り込んだ月明かりを反射して、俺へと向きを変える。

 その様をスローモーションのように見ながらグッと腹部に力を入れたのは、俺がこの先の運命を知っていたからだ。


 刹那に腹部に突き刺さる刃。

 刺された個所からすぐに刃は抜かれ、俺の腹と口から流れた鉄臭い液体がコンクリートの白い床を赤に染めた。

 それから連続して胸や腕を刺され、後退った俺は背後にあった柵をいとも簡単に乗り越えて階下に落ちていった。

 不快な浮遊感に目を瞑ろうとして、だが、最後に犯人の顔をもう一度しっかり見てやろうと思い直して顔を上げれば、真っ黒な氷でできた無表情が俺を見下ろしていた。


 ――予想していた衝撃はいつまで経っても来なかった。

 代わりにドプンと、水の音が聞こえた。

 それは暗くて冷たいアスファルトに俺が沈んていく音だった。


 視覚も聴覚も黒い水に侵されていく中、身体に絡んできた氷のような誰かの腕が、俺をもっと深い水の底へと引き摺り込んでいく。

 遠く薄らぐ昔の景色を眺めながら、俺は無意識に昔見た誰かと同じように掌を握り締めていた。

 もっと生きていたかったと、思いながら。






 暗闇を抜けた先、至近距離で目が合った存在は、現代日本には有り得ない紫色の瞳をしていた。

 恐る恐るといった手付きで小さくなった俺を抱き上げたその銀髪の男は表情を緊張で強張らせていたが、目尻には喜びがはっきりと滲み出ていて、俺は何がどうしたのかはわからないまま、とてつもなく複雑な気分になった。


「よく産まれてきてくれた。お前の名は、ランスロットだ。ランスロット・オルトランド……私の最愛の息子だ」


 記憶の何処かで聞き覚えのある台詞に対して、俺の未熟な声帯が発したのは、思い通りの否定の言葉ではなく、それに対する返事のような声で、男はより一層喜びを露わにした。


 とうとう感極まって涙を浮かべ始めた男に、一人のメイド服姿の女が話しかけた。

 ――女の顔は、真っ黒な氷でできていた。

 女は、男から俺を受け取ろうと腕を伸ばしてきた。


 俺を渡すな。殺される。


 俺が咄嗟に男の服を握り締めたのは、そんな強迫観念からだった。


「公爵様の服に皺ができてしまいますよ。さあ、こちらで世界樹の雫を飲みましょう」


 その女に諌められ、必死の抵抗も空しく、俺の身体は冷たい氷の腕の中へと移された。

 男はベッドの上にいる疲労困憊といった様子の綺麗な女性に声を掛けていて、氷の女の腕が、まるでこれから自分が行おうとしていることに対して恐怖でも抱いているかのように震えていたことに最後まで気付くことはなかった。


 部屋に用意された椅子に座った女が、俺の口元に苦い液体が入った瓶を押し当てた。

 焦っていたのか口の中に一気に注ぎ込まれた液体に酷い吐き気がして大部分を吐き出したが、やっと男が異変に振り返ったときには、すでに俺の意識は現実からは程遠い場所にあった。

 助けて、と呟いた声は、意味の通らない子供の弱々しい一泣きとなって消えていった。






 再び長い眠りから覚めた直後、目に飛び込んできたのは、今まさに俺に振り下ろされようとしている黒い氷のナイフだった。


 ……また俺は殺されるのか。


 このときばかりは最初から諦めて目を瞑ったが、次に聞こえてきたのは俺の肉が抉られる音ではなく、くぐもった女性の声だった。

 見覚えのある綺麗な女性は、俺を温かく包み込んだ状態で肩から血を流しながら、ぎこちなく微笑んだ。


「貴方は私達の可愛い息子よ。大きく育って、誰よりも幸せになってね」


 今生の別れを覚悟したような母らしき女性のその言葉。

 以前も涙が出そうになったのを覚えている。


 “幸せになれ”なんて。

 前世でも言われたことはなかったし、前世では特に目的も目標もなく生きていたから、心の底から幸せになりたいと思ったこともなかった。


 生きることを諦めないで。どんなことがあっても生きて、貴方は幸せになりなさい。


 そう、親不孝なことに前世に残してきた母親にも言われているような気がした。

 そして、俺は死んで初めて自覚した。

 俺が死の間際、もっと生きていたかったと思った理由は――こんな悲惨な最期ではなく、誰よりも幸せな最期を迎えたかったから。


 急に心臓が熱くなって、頭が真っ白になって、俺は爆発しそうな何かを堪え切れずに叫んだ。


 それが俺が初めて魔法を使った瞬間だった。

 俺の魔力で具現化した鋭利な氷の刃は、ナイフを持った黒尽くめの暗殺者に襲いかかって胴体を真っ二つに斬り裂いた。

 切り口から噴水のように吹き出した黒い血を見詰めながら、俺は初めて人を殺した恐怖なのか安堵なのかわからない感情に流されて、ひたすら母に抱かれて泣いていた。






 ――悪夢はまだ続く。


 初めて通ったオルトランド公爵領の街道。

 ドルグラベアに襲われて、護衛の騎士達が死んでいった。

 こうなることを知っていて黙っていた俺の所為で。


 辿り着いた辺境の村。

 流行病で、父さんと母さんが死んでいった。

 自分とリリアが助かる為にこの場所に固執した俺の所為で。


 エリクシル剤が届いた後。

 母さんが目覚めた後、リリアが死んでいた。

 魔素中毒に気付かなかった俺の所為で。


 何度も過去に戻ってはやり直し。

 その繰り返しの中、俺は誰も救えず、誰かを殺して、時には殺されながら、暗くて寒い闇の中を何日も彷徨い歩いた。

 何度目が覚めようと眠ろうと、実際にあった過去にも、一歩間違えば有り得た過去にも、苦しめられて。




 気付いたときには、俺は墓標が並んだ丘に立っていた。

 目の前には魔素の種を全身で押さえつけている父さんが立っていて、次はコレなのかと頭の隅で鬱々としながら、俺は魔力制御回路を解放して、魔力を外に向かって放出した。

 俺が魔素の種の宿主になるか、それとも父さんごと魔素の種を消滅させるか。

 そのときにはもう、この場面がどちらにせよ狂った過去になることは間違いないと心の何処かで理解している自分がいた。


 あのときと同じように魔力を全力でコントロールして、魔法を放って、反動で倒れる。

 魔法を放った後の結果は見ていない。見なくてもわかった。

 俺の身体に魔素の気配はない。

 どうせ俺は自分の魔法で父さんを殺してしまったんだろう?


 それでも必ず家には連れて帰らなければと俺が父さんのところへ向かう為に起き上がろうとしたとき、俺の顔に影が差した。

 また氷の顔をした誰かが俺を殺すのだろうかと見上げると、俺の傍には傷一つない父さんがしゃがみ込んでいた。

 父さんはいつも通りに優しく笑って、リリアが待つ家の方向を指差した。


「君が帰る場所は僕の家だよ。僕のところじゃない」


 え……?


 それは此処で言われた台詞じゃない。

 そう言おうとした俺の頭を父さんは子供の頃のように撫でて、笑顔を浮かべたまま、淡い光となって消えていった。

 温かく撫でられた感覚を俺に残して父さんが消えた後、まるで俺がちゃんと帰れるようにと父さんが示してくれた方向から、眩しいくらいの太陽の光が俺の視界いっぱいに広がっていった。






 久しぶりに俺が本当に目を覚ましたその場所は、金色に綺麗で、柔らかくて、懐かしい匂いがした。

 父さんと暮らしたこの家は、今もリリアの防御魔法に守られていて、匂いも景色も何も変わってはいなかった。

 俺は重だるい腕を動かして、身体の上に散らばっていた太陽とよく似た色の一房を手にとって口付けた。


「……おはよう、俺の可愛い奥さん」


 俺の掠れた声は、俺の胸の上に顔を伏せていたリリアに今度もちゃんと届いたようで、彼女はやつれた肩を盛大に飛び跳ねさせて起き上がった。

 リリアは翡翠色の大きな瞳から零れ落ちる涙を隠しもせず、俺の顔を何度も瞬きを繰り返して見詰め返した。

 表情を驚きから怒り、怒りから安堵、安堵から後悔へと変えた末、最終的には夢の中の父さんと似た優しい笑みでリリアは微笑んだ。


「おはよう、私の素敵な旦那様。……起きるのが遅いわ」


 俺に文句を言うその声も、俺の好きな彼女のトーンで。

 俺は細くなった身体を無性に抱き締めて、どうしようもなく愛していると伝えたくなった。

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