彼女が恐れること
ちょうど前世では昼食頃にあたるこの時間。
一日二食が常識のこの世界で、アフターヌーンティにしてはまだ早いこの時間帯は、カフェの中はとても静かだ。
このような時間にカフェに来る生徒はほとんどおらず、貴族は様式美というやつなのかアフターヌーンティにちょうど良い時間帯というものに拘るから、暗黙の了解で貴族専用と化している学園内のカフェの二階席は、私達二人以外に誰もいなかった。
ランスがせっせと私が寮で作ってきたポトフやサンドイッチなどを口に運ぶ様子を見ながら、紅茶を一口。
この時間は学園内のカフェも寮の食堂もお茶会的なメニューばかりなので、本格的に食事をしたいならば自分で作るしかなく、確認してみたらあっさりカフェへの飲食物の持ち込みが許可されたとはいえ、こんな時間に堂々とひたすら食べる生徒も、学園内で態々自分で料理する生徒も稀で。
最初はカフェのスタッフに何事かと遠巻きに見られることもあったが、最近は慣れたのか、どうにもランスが大食漢で私が苦労性の妻ということで生温かく片付けられている様子だ。
そっとしておいてくれるのは有り難いが、一日三食がこちらの世界でも習慣になっている私達にその視線は若干居た堪れない。
……いや、ランスが居た堪れそうにしていたのは最初だけで、今は完全にマイウェイだけど。
「そんなに急いで食べなくても、まだ次の授業まで時間はあるでしょう?」
「時間うんぬんじゃなくて、空腹に耐えきれなくて。今日は朝から実技ばっかだからさ」
「戦闘系の授業ばかりとるからよ」
「本当にリリアには感謝してるって。成長期を舐めてたわ」
合間で喋りながらも食事の手を緩める気配がないランスに紅茶を注ぎ直してあげると、空いた片手をひょいと挙げただけの礼が返ってきた。
授業選択の用紙を基礎科目以外はほぼ戦闘系の授業でびっしり埋めようとしたランスを見兼ね、昼あたりの授業一コマ分に問答無用で私が横線を引かなければ、今頃空腹で倒れていたのではないだろうかこの旦那様は。
この世界は前世と同じく一週間は七日だが、学生は週末二日間は完全に休みになっている。
一ヶ月は四週間で、一年は十二カ月。
学園の授業は前期と後期ともに四カ月間で構成されており、間に夏休みと冬休み兼春休みが二カ月ずつ挟まれている。
後期はクリスマスにあたる女神の降臨祭の前日から新年明け数日まで特別休暇があるが、前期は夏休みまでノンストップだ。
だから、普通の生徒は前期にはあまり授業を詰め込まない。
特に一年目の前期なんてまずは仲間作りに奔走するもので、まともに授業を受ける人はほとんどいないのに、ランスは授業をギリギリまで詰め込んだあげく、反抗期だとかで人脈を広げるのを極力避けている。
まあ、何だかんだでお人好しのランスが他人を避けようとして避けられるのも、他の人間が他の多数に集中しているこの時期だけだと私は思っているが。
「リリアは? 午後は貴族のお姉様方とお茶会か?」
ふとランスが食事の手を止めて私に聞いてきた。
どこか心配そうな顔は私が人付き合いが苦手なことを理解してくれているからだと思うと、少し安心して笑みが零れた。
「今日は断ったわ。誘われたら三回に一回程度は行くようにしている感じかしら。レイスリーネ様が気にかけて誘ってくださるけど、私は流行やらどの男の人が格好良いだのって話にはあまり興味がないし、居ても気を遣わせているような気がするし」
それに何と言うか話していることが若いのよね、と付け足せば、ランスも同意を返してきた。
この時期の男の子には男の子なりのいろいろがあるらしい。
「また娼館にでも誘われたの?」
「毎晩のように誘われるんだよ。可愛い奥さんがいるから行かないって何度も断っているのに……アイツら若いよな。特にアルヴァンなんて頻繁に俺に声をかけてくるし、毎晩そんな奴らと寮を抜け出してるし」
「あのアルヴァンが?」
「そう。ゲームの中では戦闘馬鹿で硬派だったあのアルヴァンが。何だか娼館に知り合いの女がいて融通が利くんだって。ゲームと現実のギャップが激しくて、俺はアイツとは一向に仲良くなれそうにない」
本気で嫌そうにしているランスが溜息を吐いた。
ゲームではアルヴァン・グランドベルグにそのような行動はなかった。
連日の娼館通いなんてこの国の第二王子ならともかく、アルヴァンは女には一切媚を売らない硬派キャラで、娼婦なんて視界にも入れなさそうな人物だったのに……。
「……まさか転生者?」
声を潜めて聞いた私にランスは首を横に振った。
「その素振りはないな。大体、アルヴァンが転生者だったら、きっとグランドベルグは今も普通に貿易しているだろう?」
「そうでしょうけど……」
ランスの言う通り、グランドベルグの魔素の種は転生者なら一番対処がしやすいタイプだった。
公けにはされていないが、グランドベルグはある特殊な魔道具に閉じ込めた水精霊の力で保っている国である。
砂漠にありながら首都が水の都と言われているのもその水精霊のおかげだが、今はその精霊を閉じ込めている魔道具が魔素の種に侵され、本来なら魔族と同じように周囲の空気から魔力を集めて自分のものにしていた水精霊は、逆に力を吸われ、身体を魔素に浸されて瀕死の状態になっている。
アルヴァンが転生者ならば、水精霊が魔素に完全に侵される前に魔道具を壊して、解放してしまえばいい話だったのだ。
魔道具に閉じ込められて身動きがとれない状態でさえなければ、精霊は存在自体が高位魔力保持状態だから、おとなしく魔力を吸われることも魔素に侵されることもなかった。
代わりに魔素の種が何を浸食したかは想像できないが、少なくとも水精霊が生み出す魔力が籠もった水さえ確保できれば、グランドベルグは現在の産業を維持できたから、今のように輸出制限をかけなくても良かったはずだ。
今、恐らくグランドベルグは、この世界で最もヒロイン次第で命運が分かれる国と言っても過言ではないくらいの状態になっている。
グランドベルグの近年の輸出入状況を見ると、他国に悟らせないよう必死で実情を隠しているからどれほどかはわからないが、ゲーム通りの水不足状態になっているようだった。
グランドベルグの王が代替わりしたあたり――アルヴァンの姉が王位を継いだ後くらいからは、それが顕著にわかる。
若くして王位を継いだ艶めかしい美貌の女王様は、今や我儘放題の高飛車な愚王と名高く、他国から需要があることに調子に乗って、物の値段を釣り上げて輸出量を減らしている。
実情を知っている私達から見れば、輸出量を減らしているのではなく、まるで減らさなければ追いつかないことを勘付かせないようにする動きだ。
グランドベルグ産の酒の味が落ちたという話や、武器や防具の強度が落ちたという噂も、ゲーム通り、この国でもよく囁かれていた。
魔力の籠もった水が手に入らず、間者を秘密裏に各国に送り込んで普通の水を運び込んで生産している職人が出てきている所為だ。
有数のリゾート地である首都への観光客の受け入れを数年前からストップしている本当の理由が、たしかに魔素の種が近い所為で海にいる魔物が活性化した為もあるが、水精霊が力を失いかけているせいで、水が不足している現状を外の人間に見せないようにする為でもあるならば、グランドベルグはもう運命通りの手段では救えないところまで来ていると考えて良い。
グランドベルグを唯一救えるヒロインが、もう現状ではキーアイテムが手に入らないアルヴァンのトゥルーエンドを諦めて、早々にグッドエンドを選択してアルヴァンと結ばれてくれれば、あるいは瀕死の状態からでも水精霊は持ち直すことはできるのかもしれないが、ギリギリまで落ちた国力の回復には相当な年月が必要だろう。
身体に入り込んでしまった魔素は種を浄化したからといってすぐに消えるものではないから、アルヴァンがハッピーエンドやグッドエンドでは自ら手に入れていた魔道具“魔力源泉”が使えなくなった今、最悪、水精霊の自然回復が間に合わない場合は、たとえ今エンディングを迎えても、国が完全に崩壊するのが数年後から十数年後になったくらいの差しかないのかもしれない。
グランドベルグは、かつては精霊王とまで呼ばれていた精霊を独占したことで、他の精霊達からは忌避され、大地を守るといわれる精霊の加護のない場所だ。
たった一人の精霊に国の産業まで依存し、建国から短期間で大国と取引できるまでに利益を上げ続けた島国にはもう、女神の力を得たことで精霊に愛される体質を持ったヒロインを手に入れて、再び見放された大地に精霊を呼び戻す以外には、崩壊する未来しか残されていないことになる。
ヒロインが水精霊の魔素まで浄化できるのなら話は別だが、浄化魔法は扱いが難しく、ゲームの中でヒロインは魔素の種以外に浄化魔法を発動できたことはなかった。
訓練次第ではできないこともなさそうだが、今のヒロインを見ている限り、私はそれも非常に難しいように思う。
「……イベントか?」
ランスがいち早く階下から聞こえてきた声に反応し、階段辺りを警戒し始めた。
ちょうど私達がいるカフェの扉が開く音とともに聞こえ始めたのは、ヒロインが誰かに話しかける声だった。
普段よりも高めの声に浮かぶ色は、例えるなら満開の桜のようなピンク色。
本気で周囲に花でも撒き散らしていそうなハイテンションの、とても甘い声だ。
ランスは学園に入学してから、攻略対象者達をあっちにこっちにと追いかけているヒロインとの接触をひたすら避けている。
私もランスとヒロインのイベントを起こさせる気はないので、もちろん全面協力して接触をさせないようにしていた。
いつでも逃げられるよう近くの窓が開いていることを再確認した上で、さらに声を潜めて耳を澄ませる。
相手の声は聞き取りづらいが、ヒロインの受け答えから察するに第二王子とのイベントだ。
「この会話の流れは『陽だまりの王子様』かしら?」
「だろうな。テラス席に行くみたいだ」
「それなら私達が此処にいても問題ないわね」
「……で、お前は何をメモしてるんだ?」
「ヒロインのイベント消化状況」
制服の内ポケットからそろそろ手に馴染んできた手帳を取り出して書き込んでいたら、ランスがひょいと私の手元を覗き込んできた。
「うわ、なんだこの第二王子のイベントの消化率。まだ入学式から二週間しか経ってないのに、春に起こせる日常系イベントほとんど終わってるし」
「第二王子だけじゃないわ。アルヴァンのほうもこんなものよ。あの子、ゲームじゃないから一日の行動制限がないことを良いことに、暇な時間に尽くイベントを起こしているの。一年目の前期は、第二王子とアルヴァンをメインに攻略するつもりのようね」
書き込みが終わった手帳を見せると、ランスは長くて綺麗な指先でパラパラと数ページ捲り、私に微妙な視線を返してきた。
「この情報量……まさかお前、空き時間にヒロインのストーカーでもしているのか?」
否定はできないけど思いっきりその表現は不本意だと顔に出したら、ランスに頭を小突かれた。
「何するのよ。貴方とヒロインの接触を徹底回避する為に手伝うって言ってあったでしょう?」
「危険なことはしないって約束だろう。あのヒロインはともかく、第二王子とアルヴァンならお前の気配に気付いていない訳がないだろう?」
「基本的には次のイベントを予測して先回りしているんだから大丈夫よ。元々その場所にいたのは私で、あの子達は後から来て勝手にイチャイチャしていくの。私のほうが意図的じゃなかったら、非常に迷惑な話よね」
「お前なぁ……あーもう。とりあえず、もっとこっちに来い。そこだと第二王子の視界に入りかねない」
ランスは頭を抱えた後、私を子供のように抱き上げて自分の膝の上に乗せた。
私を抱き締めながら此処からは見えないテラス席を睨みつける横顔は、見惚れるくらい真剣そのものだ。
ふわりと入ってきた窓からの風に、銀色の髪が私の頬を掠めて揺れる。
この距離が私にとってどれだけ大切なものなのかを、きっとランスは私ほど重要に思っていない。
「俺とヒロインとのイベントは、まず中庭で物理的に俺がヒロインに接触しなければ始まらないんだから、お前はそこまで警戒しなくて大丈夫だって。俺は中庭には絶対に近づかないし、ヒロインに偶然会っても全力で逃げる。せっかくの学園生活なんだから、お前もやりたいことをちゃんとやれよ?」
拗ねたような表情で私を見詰める沈んだ眼差しは、私が前期の授業を基礎科目以外とっていないことに責任を感じてのことなのだろう。
私が前期に必要最低限しか授業をとらなかった理由は、ランスの為ではなく、私自身の為なのに。
不機嫌に結んだランスの唇に、手近にあったクッキーを押し付ける。
さして抵抗もなくランスはパクリとそれを口に含んで咀嚼した。
ムッとしながらもほんの僅か彼の表情が緩んだのが、クッキーに練り込んだランスの好きなプリムラアイリスという花のジャムの所為だと私しか知らないことに優越感を覚える。
「……貴方を失うかもしれない要素が一つでもあるなら、今のうちに検証して潰しておきたいのよ。ヒロインと同じ空間にいることで貴方の精神面に何かが作用する危険性も否定できないじゃない。それが私のやりたいことなんだから、気にしないで」
「気にしなくても心配す、んぐ」
再び開いたランスの口にもう一つクッキーを放り込んで、窓の外から聞こえてくる会話に耳を澄ます。
相手に何の脈絡もない話題を振り、予定調和の質問を引き出して、最高好感度の選択肢を甘ったるく伝えるヒロインの声が、陽だまりの中でやけに耳触りな音で弾んでいた。




